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by vMUGIv
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カテゴリ:コト( 16 )

お東騒動 その10

<聖護院別邸事件 幡新編>

昭和51年(1976)幡新守也(グアム島残留日本兵横井庄一の妻の兄)は
四男暢道に融資した3千万円が返済されなかったため、
聖護院別邸・大谷専修学院の学生寮『修練舎』・宗務総長役宅の3点を差し押さえる。
当時宗務総長役宅には嶺藤総長が住んでいた。
聖護院別邸は別の債権者福田アツシ〔外字〕にも差し押さえられていたため、
二重に差し押さえられたことになる。


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自称:哲学者・著述業 幡新守也(グアム島残留日本兵横井庄一の妻の兄)

昭和50年(1975)頃、
最初にやってきたんが武内孝麿ちゅうて武内克麿(四男暢道側近の僧侶)の弟。
四男暢道の使い走りをしとった男やねえ。
それから克麿、続いて四男暢道が顔を見せるようになって、
1億5千万円ほど貸してほしいと頼んできた。
「なんでそないに金が要るんや」と聞いたら、こない言うのよ。
「長男光紹と二男暢順にそれぞれ暴力団がついて
東本願寺の財産を食い物にしようとしとる。
この二人を切らんことには東本願寺はダメになってしまう。
そこで自分たちもその筋に頼んで二人の悪行の数々を調べさせているが、
その資料を手に入れるには1億5千万円ほどの金を渡さにゃならん」と言うわけですよ。
ヤクザに金を払ろて長男と二男に関する情報を取ろうちゅうわけやな。
実はこれ嘘やったことが後でわかったんやが、その当時はわからんわねえ。
そこでワシは「なんであんたらの兄弟喧嘩に金を払わにゃならんのや」
言うて断ったんですよ。

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ところが四男暢道らは「その筋に金を渡す期限が迫ってきた。
払えないと東本願寺はいよいよ食い物にされてしまう」とうろたえた。
そこで幡新は場つなぎにと言って3千万円を貸す。
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この3千万円は手形を取っただけで担保も取らずに貸したんですがね、
「どないして返すんや」と聞いたら、こないなこと言うんですよ。
「智子裏方が地方を回って合力をやる、そしたら10億やそこらの金はすぐ集まる」
ちゅうんですよ。
えらい調子のええ話やったけど、それっきりですわな。
裏方が合力をやったという話も聞かんし、金も返しにけえへん。
そうこうしてるうちに年が明けて、例の手形乱発事件ですがな。

その直後やったと思うなあ、聖護院別邸を買うてくれと言うてきたんは。
「何を言うとるんか。まず前の3千万円を返すのが筋とちゃうか。
第一ワシにはちゃんとした家があるのに、なんで聖護院別邸を買わなならんのや」
ちゅうたんですわ。そしたら「3千万円の代わりには
烏丸の大谷大学の近くに200坪ほどの更地があるさかい、ひとつ見に行きましょ」
言うんで、行ってみたんですわ。そしたらこれが更地と全然違いますのやがな。
「こんなところ、学生が下宿みたいにして住んどるし、使い物にならん。
登記費用だけでも馬鹿にならん。割にあわん」と言うたんですよ。
(これは学生寮『修練舎』のことである)
「では、その登記費用の代わりに」て持ち出したんが、宗務総長役宅。
「これならいくら嶺藤総長が反対しても、
いざとなれば法主が嶺藤をクビにしてしまえば使い物になる」ちゅうわけですわ。
それで前に貸した3千万円については
『修練舎』に宗務総長役宅をプラスすることで話がついたんで、
また聖護院別邸を買うてくれちゅう話になったわけ。
それで不動産の専門家に鑑定してもろたら、
まあ3億ぐらいなら損はせえへんやろと皆が言う。
ほんまは5億円ぐらいはするやろが、人間は住んでるし(四男暢道一家のこと)、
所有権を移転するとなればどうせ争いになるから、そのぶん条件が悪いと言う。
それでまあ、鑑定より少しはずんで3億5千万円出しましょということになったんですよ。
この時は法主・裏方・四男暢道と3人で聖護院別邸で話をした。
裏方は「この子が育った『対嵐坊』も人手に渡ってしまいましたが、
またこの子が住んでる家が人様の手に渡るというのも何かの因縁でしょうねえ」
としんみり言うてましたよ。
そのとき印象に残ったことがあるんやが、
法主が「あと10年若ければ私も改革派と戦うんやが、この年では」と弱々しく言うと、
裏方が「何を気のお弱いことを」とたしなめとった。
主戦論者は裏方のようだったねえ。それだけ四男暢道が可愛いんだろうねえ。

ところが四男暢道がね
「06月半ばまでは所有権の移転登記をせんといてくれ」と言うんですよ。
「06月01日から宗議会が始まる。改革派が多数を占める僧侶が
全国から集まってくる時期だから、ことを荒立てるとマズイ」と言うんだねえ。

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しかしその直前の05月25日、京都地裁は東本願寺から申請された
大谷家の債務負担行為禁止等の仮処分を認める判決を下した。
これにより法主の借金や財産処分権は停止される。
慌てた幡新は、
聖護院別邸・大谷専修学院の学生寮『修練舎』・宗務総長役宅の仮登記を行った。
一方、1億5千万円の担保として同じ聖護院別邸の書類を預かっていた
福田アツシ〔外字〕も、慌てて幡新に遅れて3日後に仮登記を行った。

福田は「借金の担保として書類を渡しておきながら、
知らない間に他人に売っていたのか」と愕然とし、
幡新も「聖護院別邸の3億5千万円は福田に返す金に使うんだと言うとったのに、
返さなかったんですよ。びっくりしたわ」とあきれた。
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18年後の平成06年(1994)大谷家の借金を肩代わりした東本願寺が、
3千万の借金に利息を合わせて3,100万円を支払って和解が成立した。



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by vMUGIv | 2018-01-10 00:00 | コト

お東騒動 その9

<聖護院別邸事件 福田編>

四男暢道は福田アツシ〔外字〕(元総理大臣福田赳夫の甥)の紹介で、
横浜の会社から1億5千万円を借りた。
借り手の名義は光暢法主、保証人は福田アツシである。
ところが四男暢道が返済しなかったため、
昭和51年(1976)福田は聖護院別邸を差し押さえた。
別の債権者幡新守也も差し押さえていたため、
聖護院別邸は二重に差し押さえられたことになる。


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元総理大臣福田赳夫の甥 福田アツシ〔外字〕

今まではオヤジ(福田赳夫)に迷惑がかかってはいかんと思って黙っていた。
そもそもの馴れ初めから話しましょうか。
ある人の紹介で四男暢道と武内克麿(四男暢道側近の僧侶)がやって来たんです。
東本願寺の息子だし、母親は皇后様の妹だし、信用しない方が不思議でしょう。
それで、ごく普通のつきあいが始まったわけです。
御上(光暢法主)や裏方(智子)にも何度もお目にかかりました。
私が京都へ行ってお住まいで一緒に食事をいただいたこともあるし、
法主夫妻が東京へ来ると、いつも泊まる帝国ホテルで食事を差し上げたりしました。

オヤジは私とは別のルートで法主と知り合ったんです。
代議士の大橋武夫さんが東本願寺の門徒で、
オヤジは大橋さんに紹介されて法主には何度か会っているんです。
いつも法主夫婦の後ろの方でチョロチョロしている男がいる。
オヤジが「ありゃ何者だい」と聞くので、
私が「あれが有名な吹原弘宣ですよ」と教えると、
「へえ、あれが吹原か。でもなんで吹原が東本願寺と一緒にいるんだい」
なんて言ってました。

なんでも、保守派と改革派というのがあって、改革派は東本願寺乗っ取りを企んでる。
これをなんとか防がなくちゃならんのだが、そのためには金が要るんだと言うんですなあ。
選挙の応援もしてもらっていたし、なんとか助けてあげたいと思ったわけですよ。
それで当時私が顧問をしていた横浜の会社を紹介した。
借りてやったのは昭和49年(1974)だったと思うんですがねえ。
昭和48年の末だったかもしれない。ともかくその頃ですよ。

ところが、期限が来ても金は返せないと言うんですな。
その時点で私はまだ彼らを信用しとったから返せないのは気の毒だと思って、
自分で5千万円都合し、あと1億円は知り合いの会社に頼んで手形を切ってもらって、
とにかく横浜の会社には返したんです。
しばらくして私も金が必要になったので、
銀行に頼んで手形(四男暢道が振り出した元の1億5千万円の手形)
を割り引いてもらおうとしたんですよ。
そしたら、この手形が全く使い物にならない偽物だとわかった。
東本願寺の息子だからと疑ってみもしなかっただけに愕然としましたな。

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四男暢道が光暢法主名義で振り出していた手形は光暢法主の口座のものではなく、
他人の口座の白紙の手形を入手して金額を書き入れていたものだった。
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これは明らかに詐欺です。
私が訴えなかったのは四男暢道はともかく相手が東本願寺であり、
事を荒立ててオヤジに迷惑がかかっちゃいかんと思ったからに他ならない。
今日まで我慢に我慢を重ねとったんです。
例の枳殻邸の問題ね、あれは私が松本裕夫さんに忠告したんですよ。
松本さんが法主に金を出してるという話を聞いたんで、
私の二の舞を踏んじゃいかんから、
ちゃんと担保を押さえてからにしなきゃいかんと言ったんです。
私も松本さんも他の人も、みな同じ手口でやられてる。
あの連中は知らない人のとろこへ行って東本願寺で信用させて、
返すアテのない借金を膨らませている。
明らかな手形詐欺、普通の人間だったらとっくの昔に捕まってますよ。
あの連中はきちんとした形にすると、自分たちの思うように金が入らないので反対する。
結局のところ、四男暢道や武内らを切らんと東本願寺の紛争は解決の糸口ができない。
これが私の苦い経験から得た結論ですな。高い授業料につきましたが。
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8年後の昭和59年(1984)大谷家の借金を肩代わりした東本願寺が、
7千万円を支払って和解が成立した。



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by vMUGIv | 2018-01-09 00:00 | コト

お東騒動 その8

<枳殻邸事件>

昭和53年(1978)
光暢法主が枳殻邸/渉成園を松本裕夫(京都のビル会社社長)に30億円で売却する。
記者会見で、
光暢法主は
「東本願寺が独立するにあたって松本氏に感謝している。
東本願寺の財産を正常化するために使用する」と発言。
三池新二(四男暢道側近の不動産業者)は
「売却するのではない。東本願寺正常化のための資金援助を受ける担保として
一年間お預けするだけ」と発言。
30億円を渡した京都のビル会社社長松本裕夫は
「資金を出す裏付けとして、一年間お預かりする」と発言した。

しかし翌昭和54年(1979)松本は、
光暢法主・四男暢道・四男暢道側近の不動産業者三池新二と共に
背任容疑で書類送検されてしまう。


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裕光株式会社(京都のビル会社)社長 松本裕夫

昭和53年(1978)の3月頃でしたかな、
三池から1,500万円ばかり貸してくれと言われましてね。
仕事の関係で20年来のつきあいやし、まあええやろということで貸したのが始まりですわ。
三池が「一度光暢法主に会ってやってくれんか」と言うので、
御池飯店で水炊きをつつきながらお会いしました。
智子裏方・四男暢道・武内克麿(四男暢道側近の僧侶)も一緒やったな。
それからも法主とお裏さんには何度かお目にかかってます。

三池はそれからも何度か金を借りに来て、気がついた時には数千万の金が出てた。
いくらお寺さんでも、なんでこないに金が要るんやろと不思議な気がしましてな。
私も仕方ないから東本願寺のことを勉強しましたがな。
調べてみると、これがもうめちゃくちゃ。
借金が雪だるま式に増えて自転車操業やっとんのやから、
いくら金があっても足りんはずですわ。

私も商売人ですさかい、
お寺さんに金貸しても利益になるわけやないから、やめよと思たんですわ。
そやけど既に数千万円つぎ込んでしもてるし、
返ってくるアテもないんやから後戻りできまへんがな。
「助けてもらわんと法主はパンクしてしまう」て言いよるしねえ。
親鸞の血をひく生き仏で皇后陛下の妹さんを奥方にしてるような偉い御方が
困っておられるのやったら、お助けしよかという気にもなりますがな。
でも私としても
「何にも無しでこれ以上ズルズル貸し続けることはでけん」と言うたんですわ。
そしたら四男暢道・武内・三池は
「それなら枳殻邸をお譲りしますから、援助を続けていただきたい」て言いましてね。
私は法主にお目にかかって、直筆の念書もちゃんといただいてます。

三池から電話がありましてな。「記者会見があるから出てくれへんか」て言うんです。
ところがいよいよ記者会見が始まる直前になって三池が
「松本さん、あれ一時金を貸しただけやいうことにしてくれへんか、頼むわ」
て言うんです。
「それ、話が違うやないか」て言うてるうちに記者会見が始まってしもた。
で、三池があんなこと喋ったわけですわ。私もいまさら違うとも言われへんしねえ。
しょうがないから、今まで黙っとったんですわ。

どこを調べてもろてもかまいませんけど、
私は東本願寺に貸した金について利子はビタ一文も取ってません。
私は金貸しとは違うんやから。
法主が私に枳殻邸を売るという念書を書かれて、
四男暢道たちはそれで援助を続けてくれと言うたんやから、
利子を取れるはずがありませんわ。
これほどまでした私が、なんで背任で告訴されなあきませんねん。
宗門のことには一切口出しもせんと、
四男暢道たちの乱脈にもじっと我慢して見守ってきたのにですよ。
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16年後の平成06年(1994)大谷家の借金を肩代わりした東本願寺が、
5億3千万円を支払って和解が成立した。



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by vMUGIv | 2018-01-08 00:00 | コト

お東騒動 その7

<名号ネクタイ事件>

昭和48年(1973)光暢法主が、
直筆の南無阿弥陀仏の六文字(名号)をデザインしたネクタイを
1万の末寺を通じて門徒に売ろうとした事件。
表向きは、大阪の本泉寺の住職若松晴が企画したことになっている。
東本願寺内局が計画を差し止めたため、
ネクタイ会社が損害賠償を求める訴えを起こして翌年発覚。
訴状によると、1本5,000円のネクタイ10万本の製作費販売費の損失が1千万円、
完売した場合の予定利益は5億円だった。


<難波別院事件>

昭和48年(1973)光暢法主が、
大阪にある難波別院の400坪の土地に貸しビルを建て、賃貸料を儲けようとした事件。
表向きは、同じく若松晴が企画したことになっている。
大阪の不動産会社から数回に渡り計7千万円を受け取った。
しかし正規の手続きを経ていなかったため計画は差し止め、
結果的に若松が7千万円を詐取した形となり、訴えられて翌年発覚。


<宇治土地事件>

昭和48年(1973)光暢法主が、
京都宇治にある本願寺維持財団の土地1,100坪を1億3338万円で売り、
滋賀県の山林を5千万円で買って土地交換を行い、
差額の8338万円を儲けようとした事件。
表向きは、同じく若松晴が企画したことになっている。
本願寺維持財団理事長の二男暢順が気づいて未然に防いだ。
しかし不動産業者から内金として3,500万円を受け取っていたため、
結果的に若松が3,500万円を詐取した形となり、訴えられて翌年発覚。




『難波別院事件』と『宇治土地事件』で合計1億500万円を詐取したことになる若松は、
昭和49年(1974)06月、妻子を連れてドイツに逃亡する。
逃亡前日に若松の銀行口座に四男暢道名義で1千万円の振込があり、
逃亡当日に若松が全額引き出していたことが京都府警の捜査で判明している。
3年間海外で逃亡生活を送ったのち昭和52年(1977)に帰国、自首した。
単独犯行であることを主張、有罪判決を受けたが控訴せず服役した。



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by vMUGIv | 2018-01-07 00:00 | コト

お東騒動 その6

<六条山墓地造成事件>

光暢法主から後継者に指名された長男光紹のブレーンには危険人物がいた。
昭和40年(1965)三菱銀行・大和銀行から総額486億8千万円を騙し取った
戦後最大の詐欺事件『吹原産業事件』の首謀者吹原弘宣である。


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読売新聞 昭和44年(1969)05月16日

『新門のブレーンに疑惑の人吹原弘宣、内局・宗議会が反発』
内局は三位一体の不文律が破られた理由を解明しなければならぬと調査を始めたが、
意外なことに吹原が長男光紹のブレーンとして
昭和42年(1967)頃から宗政面にタッチしていることがはっきりした。
吹原は東京本願寺振興対策委員会の11人の委員の1人となっており、
長男光紹が東京本願寺住職でもあるところから長男光紹に接近した。
しかも吹原が果たしてきた役割は、いわば宗政の実務であったという。
例えば東京本願寺所有の空地約3,300平方メートルを京成電鉄に賃貸していたが、
この契約を更新するとき東京東本願寺に入った権利金9,100万円に対する課税額を巡って、
吹原が東京国税局長と直接取引し173万4千円で話をつけた。
また東本願寺横浜別院は本山の三機関の正式な決定によって
約2,000平方メートルの土地を2億円で売却して磯子区内へ移転することになり、
今の土地に予備校があったので寺側は立退料3,000万円を支払ったが、
この02月光暢法主が突然「売却についてはすべて吹原に相談して決めるように」
内局に指示したため、3,000万円支払った土地はいまだに売れていない。
これは売買の話を知った吹原が
「2億円では安すぎる」と法主に相場を教えたからだと言われている。
吹原の大谷家に対する食い込み様はかなりのものらしく、
彼と大谷家の密接な関係を裏付けるような話が次々とあらわれる。
「吹原は1ヶ月に1度くらい智子裏方を東京へ招いて歌舞伎などに案内している。
銀座の洋品店で高価な物を買って贈る」

(長男光紹と記者の一問一答)

Q 吹原氏が前科3犯の詐欺常習者であり、現在保釈中であることはご存知か?
A 前科があるということは初耳だ。
親鸞の教義に悪人と見られている人こそ救わねばならぬとあり、
またそんな人ほど善人に比べて宗教心が厚い。

Q 吹原氏を知ったいきさつは?
A 門徒であるというので、昭和42年(1967)ごろ人を介して会った。
高松宮ともお親しいし、赤十字の顧問や私立学校の援助もしている
教育・社会活動に熱心な人だと思っているので、
いろいろ意見を聞くことにしている。

Q 東本願寺の財産問題に吹原氏がタッチしているのは
宗教的交際の域を越えるものではないのか?
A 吹原氏は有能な実業家であるので手助けを願っている。
今度の事件も判決が出ていない以上、悪人にするのは酷ではないか。
いわんや親鸞とても、流罪になったことがあるではないか。

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毎日新聞 吹原弘宣へのインタビュー

新門(長男光紹)から光暢法主と上手くいかないので、
仲を取りもってほしいと言ってきたのが最初ですね。
法主と新門は親子でありながら和がない。
智子裏方は自分の手元で育てた四男暢道ばかりを猫可愛がりで
上の三人は継子扱いだ、そんな家族の悪口を聞くことから始まったんです。
そこで御法主夫妻・新門さんを招いて食事を差し上げたりした。
新門さんがこの事務所に来られたのは昭和41年(1966)初め。
だから大谷家への出入りはもう10年になる。
僕はお寺に生まれた。大谷家のみんなが良くなるように、
それによって宗門が良くなるようにと思って首を突っ込んじゃったんですね。
10年間1銭も使わせず面倒みてきたんですよ。

(接待費・車賃・金一封など東本願寺関係者のために使った金は
75,935,740円だと吹原は述べている)

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昭和45年(1970)12月『六条山墓地造成事件』が起きる。
光暢法主が吹原の入れ知恵で六条山にある東本願寺所有の土地に
墓地を造成して売り出す計画を京都市に申請する。

六条山は伏見宮邦家親王の娘/嘉枝宮和子女王が
21代大谷光勝に嫁いできた時の「持参物」で、
広さは23,600平方メートル、総工費は20億円である。
正規の手続きを経ていなかったが、内局がこれを知った時には
すでにブルトーザーが入り山林は切り開かれ土地の造成が始まっていた。
今さら白紙に戻せない事態に内局は頭を悩ませた末に、
東本願寺ではなく本願寺維持財団にこの墓地の経営を任せて工事を続行することに決めた。

できた墓地が『東山浄苑』、墓の数は2万基。
二男暢順が本願寺維持財団の理事長となった。

当の吹原はこの工事により水面下で数億円を手に入れて、
「本願寺問題から手を引く」と記者会見して大谷家から離れて行った。



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by vMUGIv | 2018-01-06 00:00 | コト

お東騒動 その5

<開申事件前夜>

もともと東本願寺大谷家は、
明治時代に伯爵号を与えられた祖父/22代大谷光瑩、そして父/23代大谷光演と放蕩が続き、
これに反発して改革派が生まれた経緯がある。
23代大谷光演が破産宣告した際には、
条件として大谷家の財産がほとんどが東本願寺の所有になった。
しかし大谷家側はその後も財産は自分たちの物であるという意識を持ったままだった。
大谷家による財産の処分を今後は未然に防ぎたい改革派は
いずれは大谷家から管長職を切り離そうと考えていたため、
取り上げられるぐらいならと
大谷家側が先手を打って管長職を子に譲ろうとしたと考えられる。

長年大谷家べったりだった内局も年々改革色を強めてゆき、
ついに昭和36年(1961)改革派の訓覇信雄が宗務総長に選出される。
訓覇内局は組織の抜本的な改革を行い、13部からなる部門制に改めた。
これに伴い大谷家に近い儀式関係の式務局と
大谷家の宮内庁にあたる内事局が部に格下げされた。

末寺から本山には様々な願い事が上がってくる。
願い事を叶える度に、末寺から本山に上がる金の1割が内事局に入ることになっていた。
また末寺住職に率いられて上山する門徒は、
法主との面会『お会い』のために内事を訪れる時に相当の礼金を包むことになっていた。
それが絶たれてゆくことに不満と苛立ちを募らせたのは長男光紹であった。

長男光紹は2回の婚約解消を経験している
1度目は昭和天皇の娘・孝宮和子内親王。
昭和24年(1949)に婚約が各紙で報じられたが、
昭和25年(1950)和子内親王は元公爵家鷹司平通と結婚する。
母親同士が姉妹なので、実現していればイトコ結婚であった。
長男光紹は昭和25年(1950)アメリカに留学し、4年後の昭和29年(1954)に帰国する。

2度目は智子裏方の実家久邇宮家から持ち込まれた縁談で、元伯爵家の令嬢。
昭和30年(1955)に帝国ホテルで見合いののち婚約、
大学2年生だった令嬢の卒業を待って結婚式が行われる予定であった。
昭和32年(1957)には長男光紹みずから設計した新居が1,500万円で建てられた。
しかし長男光紹が秘かに婚約を破棄していたことが発覚、
自分の側近を相手の家に遣わして白紙を伝えており、
内局はもちろん、両親も知らなかった。
大谷家は慌てて取りなしたが、相手の家族は激怒、復縁は不可能であった。

1度目の婚約はどちらから解消したのかはわからないが、
2度目の婚約ははっきりと長男光紹が破棄している。
智子裏方は両親に相談もなしに非常識な破談を行った長男光紹に対して
強いわだかまりを抱くようになった。

お東騒動が10年・20年と続く過程で、
保守派・改革派ともに光暢法主に引退していただき
長男光紹を新しい法主にしてまとめようという案は何度も出たが、
積極的案というより消去法的案でしかなかった。
四男暢道に側近の僧侶武内克麿や側近の不動産業者三池新二が付いていたように、
長男光紹にも大物右翼や宗教家たちがバックに付いていたからである。



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by vMUGIv | 2018-01-05 00:00 | コト

お東騒動 その4

<骨肉の争いは続く>

◆昭和56年(1981)
06月11日 東本願寺で宗憲改正が可決され、新宗憲が発布された。
法主・東本願寺住職・管長の3つすべてを廃止、
法主は門首と改め、象徴門首制となった。
(東本願寺は門首、西本願寺は門主)

06月15日 東京都庁が東京別院/長男光紹の宗派離脱申請を認証 
同日   東本願寺が長男光紹を除籍
06月26日 東本願寺が光見(長男光紹の長男)を新門に決定


◆昭和59年(1984)
03月 東本願寺の国宝『教行信証』が無くなっていることが発覚、
秘かに大谷家が私蔵していたことがわかった。
国宝が流出しかねない事態を重く見た文化庁が預かることとなり、
東京国立博物館に保管された。



◆昭和60年(1985)
10月 光暢法主&智子裏方&四男暢道が記者会見を開き和解破棄を宣言


◆昭和63年(1988)
02月 長男光紹/東京本願寺が
「浄土真宗東本願寺派を結成し、第25世法主に就任する」と宣言
これを受けて本山の後継者となっていた光見(長男光紹の長男)も
「本山の新門と東京本願寺の新門を兼ねる」と宣言


◆平成元年(1989)
02月 東本願寺は
二派の新門を兼任しようとした光見(長男光紹の長男)を新門から解任・除籍
03月 東本願寺は業成(二男暢順の長男)を新門に決定

11月 智子裏方83歳没、東本願寺と大谷家とで別々に葬儀が行われる


◆平成04年(1992)
04月 二男暢順が自らの本願寺維持財団が所有する土地を売却


◆平成05年(1993)
04月 光暢法主90歳没、東本願寺と長男光紹と四男暢道とで別々に葬儀が行われる
6人の兄妹のうち5人が負債や訴訟を恐れて相続放棄、
四男暢道だけが自らを第25代法主と宣言して相続手続を取ったため
訴訟も引き継いだ。


◆平成07年(1995)
11月 二男暢順が東本願寺に対して1億円の助成金返還を求める訴えを起こす


◆平成08年(1996)
01月 二男暢順&業成(二男暢順の長男)&実成(二男暢順の二男)が宗派離脱を宣言、
二男暢順は第25代法主を名乗る
02月 東本願寺は二男暢順&業成&実成を除籍、業成を新門から解任
07月 東本願寺は騒動に関わりのなかった三男暢顕を後継者に決定
同月 三男暢顕が第25代門主に就任、71年ぶりの継承式が行われた。


四男暢道側近の僧侶武内克麿は大谷家を離れた後、先物取引で多額の借金を作り失踪、
交通事故で死亡した。



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by vMUGIv | 2018-01-04 00:00 | コト

お東騒動 その3

<事件につぐ事件>

◆昭和45年(1970)
前年の『開申事件』を受けて、改革派以外にも法主批判の声が広がる。
これに対して光暢法主は、
内局が提出した改革案の承認を拒否したり、改革派僧侶16人の僧籍を剥奪しようとした。

12月『六条山墓地造成事件』
光暢法主が20億円をかけて六条山にある東本願寺所有の土地に
墓地を造成して売り出す計画を京都市に申請した。
これは光暢法主&智子裏方&長男光紹に取り入っていた吹原弘宣が、
東本願寺の財産を使って事業を興そうとしたものであった。
吹原弘宣は昭和40年(1965)三菱銀行・大和銀行から
総額486億8千万円を騙し取った
戦後最大の詐欺事件『吹原産業事件』の首謀者である。
六条山は伏見宮邦家親王の娘/嘉枝宮和子女王が
21代大谷光勝に嫁いできた時の「持参物」であった。


◆昭和46年(1971)
発覚した時にはすでに造成が始まっていた『六条山墓地造成事件』は今さら白紙にできず、内局は経営を東本願寺ではなく本願寺維持財団にこの墓地の経営を任せて
工事を続行することに決定した。二男暢順が本願寺維持財団の理事長になる。


◆昭和47年(1972)
02月 光暢法主が開申を撤回する。


◆昭和48年(1973)
01月『名号ネクタイ事件』(発覚は翌年) 
大谷家が法主直筆の南無阿弥陀仏をデザインしたネクタイを販売しようとする。

09月『難波別院事件』(発覚は翌年) 
大谷家が大阪にある難波別院の400坪の土地に貸ビルを建てようする。

10月『宇治土地事件』(発覚は翌年)
大谷家が京都宇治にある本願寺維持財団の1,100坪の土地を売却しようとする。


◆昭和49年(1974)
02月 改革派の嶺藤亮が宗務総長(総理大臣にあたる)に選出されたが、
光暢法主は任命を拒否、嶺藤総長は2ヶ月間新内閣を組織することができず、
宗議会が光暢法主に任命の要望書を提出したり、
職員組合が任命を求めてストをしたり、混乱が続いた。


◆昭和50年(1975)
08月「ドル箱」でもある本願寺維持財団の理事長を務める二男暢順に対して、
四男暢道が理事長のポストを自分に譲るよう迫るが拒否される。
09月 今度は光暢法主が二男暢順に対して、
理事長のポストを四男暢道に譲るよう内容証明を送るが拒否される。


◆昭和51年(1976)
01月 東本願寺が光暢法主に対して管長職退位を勧告

02月『大谷の里事件』
光暢法主が滋賀県の2万坪の土地に
老人・障害者・青少年のための福祉センター『大谷の里』を造ろうとする。
理事長は四男暢道の予定であった。
総工費は40億円、門徒から寄付で100億円を集め、
土地は篤信家が寄付してくれるのだという不思議な計画だった。
光暢法主&智子裏方&四男暢道が連名で7枚計5億円の手形を乱発。

04月 光暢法主が宗務総長嶺藤亮を解任して曽我敏を任命、
前代未聞の二人総長体制となってしまう。

06月『聖護院別邸事件』
福田アツシ〔外字〕(元総理大臣福田赳夫の甥)が
四男暢道に融資した1億5千万円が返済されなかったため、
聖護院別邸を差し押さえる。
同月
幡新守也(グアム島残留日本兵横井庄一の妻の兄)が
四男暢道に融資した3千万円が返済されなかったため、
聖護院別邸・大谷専修学院の学生寮『修練舎』・宗務総長役宅の3点を差し押さえる。
聖護院別邸は二重に差し押さえられたことになる。
聖護院別邸は智子裏方が嫁いできた時の「持参物」であり、四男暢道の住まいであった。
また、当時宗務総長役宅には嶺藤総長が住んでいた。



◆昭和52年(1977)
『大谷の里』に関して乱発した手形のうち2枚計1億円分が不渡りとなったため、
東本願寺の重要文化財18点が差し押さえられる。


◆昭和53年(1978)
01月 嶺藤総長が再選されるが、
03月 光暢法主が嶺藤総長を破門する。
嶺藤総長は宗議会と門徒評議会を招集して光暢法主から管長職を剥奪し、
竹内良恵を管長に任命、二人総長に次いで二人管長という事態が発生する。

07月 京都府警が『大谷の里』に関連する手形乱発事件について、
光暢法主と四男暢道の2人を背任容疑・横領容疑で書類送検した。

同月 光暢法主&四男暢道&債権者2人の4人が記者会見。
「10月15日までに債権者2人に対して額面1億円の7割、
7千万円を支払うことで和解が成立した。
支払いが履行された段階で、債権者2人は訴えを取り下げる」と発表。
これを受けて末寺・門徒で結成した『東本願寺を守る会』が
7千万円を工面して法主に渡したが、2人の債権者には支払われず、どこかに消えた。

10月『枳殻邸事件』
光暢法主が『枳殻邸』を松本裕夫(京都のビル会社社長)に30億円で売却。
『枳殻邸』は正式名称『渉成園』、
三代将軍徳川家光が東本願寺に寄進した一万坪の土地に池泉回遊式庭園を造ったもので、
国の名勝にも指定されている。

11月 光暢法主が宗派から離脱独立すると爆弾宣言。
一万の末寺は法主派につくか否かの選択を迫られる。


◆昭和54年(1979)
01月 京都府警は『枳殻邸事件』に関連して、
光暢法主・四男暢道・四男暢道側近の不動産業者三池新二・
そして松本裕夫の4人を背任容疑で書類送検した。

02月 光暢法主が前年の宣言通り、京都府に宗派離脱申請書を提出する。
父親に足並みを揃えて、
04月 長男光紹の東京別院が宗派離脱を宣言
06月 四男暢道の井波別院が宗派離脱を宣言
07月 二男暢順の長浜別院が宗派離脱を宣言


◆昭和55年(1980)
08月 京都地検が横領容疑で
四男暢道の側近僧侶武内克麿・克麿の弟孝麿・金融ブローカー岩井忠彦を逮捕する。

11月 大谷家の借金の肩代わりと告訴取り下げを条件に
大谷家と東本願寺との即決和解が成立、
東本願寺は光暢法主と四男暢道への告訴を取り下げる。


◆昭和56年(1981)
04月 光暢法主・智子裏方・四男暢道が債務一覧表を提出、
借金の総額は7億2358万円と判明。
借金の肩代わりをすることになった東本願寺と債権者らとの交渉には13年かかり、
完済は平成06年(1994)、総額は8億1675万624円にのぼった。


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by vMUGIv | 2018-01-03 00:00 | コト

お東騒動 その2

<開申事件>

浄土真宗大谷派は、
東本願寺を本山とする末寺1万・門徒数1千万を擁する日本最大級の宗教教団である。
全国に別院が54ありそのほとんどは光暢法主が住職を兼ねていたが、
東京別院は長男光紹、滋賀県の長浜別院は二男暢順、
富山県の井波別院は四男暢道がそれぞれ住職を務めていた。
しかし、30年に渡るお東騒動により4派に分裂するに至った。

東本願寺・大谷家は戦前までは伯爵家であった。
皇族・華族との結婚を繰り返すことによって、一種の天皇家を作り上げていた。
教団の天皇家にあたるのが『大谷家』、宮内庁にあたるのが『内事局』
内閣にあたるのが『内局』、
総理大臣にあたるのが『宗務総長』、閣僚にあたるのが『参務』
衆議院にあたるのが全国の僧侶から選ばれる『宗議会』、
参議院にあたるのが全国の門徒から選ばれる『門徒評議会』、
憲法にあたる『宗憲』もあり、裁判所にあたる『審問院』もある。


東本願寺のトップは3つの権力を持つ。
一つ目は親鸞の血を引く生き仏としての『法主』
二つ目は本山である東本願寺で宗教活動を行う『住職』
三つ目は宗教法人の代表としての『管長』

これらは三位一体のものとして一人が担うのが原則であった。

ところが昭和44年(1969)04月24日、
光暢法主が突然「管長職だけを長男光紹に譲る」と開申し、独断で記者会見も開いた。
開申とは法主が宗門に重要なことを知らせる通達の意味である。
三位一体で切り離せない『管長』の地位のみを長男に譲るというこの開申は、
長い伝統と習慣を破る前代未聞の事件だった。
宗務総長にも宗議会議長にも
事前にまったく知らされないまま突然発表されたのである。
三位一体の原則を崩すうえ、宗憲に定められた正式の手続きも経ていない。
内局は猛然と反対した。結局この開申事件はすったもんだした挙句、
3年後の昭和47年(1972)02月に
光暢法主が開申を取り下げるという形で落ち着いた。

しかしこの事件をきっかけに保守派と改革派の対立が激化し、
30年にも渡ってお東騒動が続くことになる。


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当時の内示部長(侍従長にあたる) 佐々木全応

その日は午前中に当門(光暢法主)と会ったが、何の変化も感じられなかった。
ところが新聞記者がやってきて、「午後の記者会見って何ですか?」と聞く。
記者会見なんて聞いてなかったから、その足で当門に聞きに行ったんです。
「大したことじゃないんだ」と言われる。
具体的にわからないまま引き返してきたんです。

2時過ぎに当門に呼ばれて、「記者を呼んでほしい」と言うんです。
ところが会見の内容がなかなか手元にこない。
法主の会見の際には担当の総務部長にまず写しを出し、
それを見て法務部長が会見の手順を考えるわけです。
だから「写しは?」と聞いたが、「いや、いいんだ」と言われる。
会見の発表文は巻紙になってましてね、封されていた。
このまま会見というわけにはいかないので、
参務(閣僚)を集めて封を開けてみたんです。
そしたら、「管長を新門(長男光紹)に譲る」という開申でしょう、
びっくりしましたよ。三位一体を崩すものだというわけでね。
しかしあと数分で会見が始まるという時でどうしようもなく、
そのまま発表ということになってしまった。
当門と新門が出てこられて、
開申の内容といい、発表の方法といい、異例ずくめだった。
やはり、こじれ始めたのはあの時からという感じがしますね。
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by vMUGIv | 2018-01-02 00:00 | コト

お東騒動 その1

◆大谷光暢 東本願寺24代法主
1903-1993 明治36-平成05 90歳没


■妻 久邇宮邦彦王の娘 智子女王 香淳皇后の妹
1906-1989 明治39-平成01 83歳没


●長男 光紹   離脱して浄土真宗東本願寺派/東京本願寺
●長女 美都子  音大教授大賀寛夫人
●二男 暢順   離脱して浄土真宗大谷本願寺派/東山浄苑
●三男 暢顕   東本願寺25代門首 最終的に後継者に選ばれる
●二女 須美子  オーミケンシ副社長夏川浩夫人
●四男 暢道/光道 離脱して嵯峨本願寺

※30年に渡るお東騒動により4派に分裂、
4人の息子はそれぞれ自らを25代と名乗っている


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◆長男 光紹 離脱して浄土真宗東本願寺派/東京本願寺
1925-1999 大正14-平成11 74歳没

*長男であったため新門(後継者)として育てられる
*京都大学文学部史学科卒業
*ハーバード大学・コロンビア大学に留学

昭和24年(1949)昭和天皇の娘・孝宮和子内親王(イトコ)と婚約発表・立ち消え
昭和25年(1950)アメリカに留学
昭和29年(1954)4年後帰国
昭和30年(1955)元伯爵家の令嬢と婚約発表・光紹から解消
昭和39年(1964)結婚

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■妻 真宗誠照寺二条秀淳の娘 貴代子    
1940-2012 昭和15-平成24 72歳没


●光見 長男家の後継者
●暁子
●慈子
●紹爾




◆二男 暢順 離脱して浄土真宗大谷本願寺派/東山浄苑  
1929- 昭和04- 

*東京大学印度哲学梵文学科卒業
*東京大学大学院仏文科に学ぶ
*パリ大学に留学
*仏文学の大学教授も務めた
*演劇に興味があり、脚本家を志して文学座に席を置いたこともある

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■前妻 藤原信一の娘 綾乃 熟年離婚
1947- 昭和22-

●業成/光輪 二男家の後継者
●実成
●他不明


■後妻 随筆に「末の娘が生まれたとき私は80歳を過ぎていました」との記述あり

●女子
●他不明




◆三男 暢顕 東本願寺25代門首(法主の名称は門首に変更された)
1930- 昭和05-

*2歳の頃のハシカが原因で軽い聾唖となる
*京都大学農学部に学ぶ
*東京に出て精密機械会社の設計技師となっていたが、
 お東騒動に関わっていなかったため最終的に後継者に選ばれる


■前妻 30代で結婚、1年で離婚


■後妻 奥村政一の娘 妙子
1950- 昭和25-


●子供ナシ・後継はイトコ大谷暢裕




◆四男 暢道/光道 離脱して嵯峨本願寺 
1945- 昭和20-

*大阪大学基礎工学部制御工学科卒業
*伊藤忠に入社するも一年で退職
 以降、両親の秘書的存在となる
*智子裏方は四男暢道を溺愛した。長男光紹と四男暢道は20歳離れている。
 周囲は溺愛というより偏愛と見ており、このことがお東騒動の大きな原因となる。

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■妻 高校時代の同級生・京都の画材商の娘 礼子
1948- 昭和23-

●長女
●二女
●三女 純子 四男家の後継者
●他不明




浄土真宗大谷派は、
東本願寺を本山とする末寺1万・門徒数1千万を擁する日本最大級の宗教教団である。
しかし、30年に渡るお東騒動により4派に分裂するに至った。
東本願寺では法主は「御上」とも呼ばれ、
妻は「裏方」と呼ばれる。
また跡継ぎの長男は「新門」と呼ばれ、特別の扱いを受ける。

昭和44年(1969)
光暢法主が「管長職を長男光紹に譲る」と独断で宣言、お東騒動の火ぶたが切られた。
反対する改革派に対して、光暢法主&智子裏方夫妻を中心に
長男光紹・二男暢順・四男暢道が団結し保守派として対抗した。

長男光紹は過労で倒れて東京の病院に入院したのをきっかけに、
住まいを京都→東京→鎌倉と移し東京本願寺に専念するようになり
光暢法主&智子裏方と疎遠になってゆく。

二男暢順は本願寺維持財団の理事長に就任したのをきっかけに、
東山浄苑に専念するようになり光暢法主&智子裏方と疎遠になってゆく。

残った四男暢道は光暢法主&智子裏方の秘書的存在として権力を持つようになり、
側近の、僧侶武内克麿・不動産業者三池新二と共に
次々と財産処分や手形乱発で問題を起こし、騒動はエスカレートする。

16億円の財産を有する「ドル箱」東山浄苑を狙った四男暢道は、
二男暢順に本願寺維持財団理事長の座を自分に譲れと迫る。
二男暢順がこれを拒否すると、今度は光暢法主から命令させる。
二男暢順がこれも拒否したため、
光暢法主&智子裏方と二男暢順の関係は悪化する。
長男光紹もこのやり方に苦言を呈したため、
光暢法主&智子裏方の不興を買ってしまう。
「東本願寺、骨肉の争い」と報道されるに至り、
長男光紹と二男暢順は騒動から手を引いて静観するようになる。
やがて保守派と改革派の対立から、
保守派にも見限られた法主派とその他派の対立に変わり、
光暢法主&智子裏方と四男暢道は泥沼にはまり込んで行く。



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by vMUGIv | 2018-01-01 00:00 | コト


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