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2018年 更新中
by vMUGIv
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森鴎外 その9

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鴎外の息子 森於菟

私の生母登志子と父との結婚は、同郷の大先輩で政府の要人であった西周の媒酌であり、
登志子は海軍中将かつ男爵を授けられている赤松則良翁の長女であったので、
名門との婚姻という廉で祖父母はおおいに意進み、洋行帰りの父に慫慂したのである。
父自身は元来家のことすべて両親ことに母親任せであり、
別に異議なくこれに従ったまでであろう。父は赤松家の持家を借り
祖父母たちとは別居したのであるが、新家庭はだんだん面白く行かないようになった。
新家庭には父の弟篤次郎・潤三郎と、母の妹登久子・加津子が同居した。
父は弟たちに対する妻の態度に飽き足らぬものがあったらしい。
ある時父が役所から帰ると、妻は妹たちと外出して留守である。
小さい弟と膳につくと、自分と弟のおかずが違っている。
女中に聞くと「奥様のお言いつけでございます」と答えたのが著しく父を憤激させて、
「潤は俺の弟だ、なんと思っている」と声を荒げたこともあった。
また赤松家の新華族としての習慣があまりに事大主義で、花嫁につけて寄こされた老女が
奥様は良いとして、祖父を大殿様・父を殿様・父の弟を若殿様などという大袈裟な呼び方が
父の気に障っていたことなどもあったろうし、花嫁の父の家で花嫁の妹たちが来ていたこと
なども養子のような取扱いとして父の気に入らなかったのであろう。
その頃の父の月給は100円で毎月家計に不足するということが、これまでつましく暮らし
100円は大金と思う祖母などに「家族のお姫様には困る」と思わせた。
また何かにつけて里方の権門の噂をして事ごとに言うのが、
ひどく父の癇に障ったとのことである。父は不快が内に積もり積もって、
ある日突然弟たちをつれて家を出て3人で借家を借りてそれに入った。
赤松男爵はこれを聞いて怒り、お気に入らぬ娘ならば引き取ろうと申し出たのに対し、
父も同意し破断は急速に成立してしまったのである。
赤松男爵の夫人が「娘にふつつかの所、お気に入らぬ所があれば、
あなたから私に一言でもおっしゃって下さったら叱っても叩いても直させましたのに、
突然表立ってああなされては赤松も男でございますから」と怨み言を言われたのに、
祖母は返す言葉がなかったという。父もこの間に苦しんで非常に痩せ、
大事な父を病人にしてまでこの結婚生活を続けさせる考えも祖父母になかった。

父はその後長く独身を続けており祖母はそれを苦に病んでいた。
その頃叔父篤次郎は久子を娶ったが、美人で、そのうえ快活で話好き、
いわゆる箸のころげたのにも笑うという風であった。
従って叔父との仲も良く、祖母にも真実の娘のように隔てがなかった。そこで祖母は
父の最初の不縁の原因の主なる点は、妻の醜いところにあったと信じたのである。
祖母は母のことを「なにしろ鼻が低くて、笑うと歯茎が丸見えだから」などと父を弁護した。
「久ちゃんはあんなに美しく可愛らしい。お登志さんも少しも悪い人ではないのだが、
もっと器量が良かったら林も嫌わなかったろう。美しいというのは大切なことだ。
今度林の嫁にはきれいな人を探さなければいけない。
林と仲良くして篤の嫁と2人きれいな人がそろったら、私はどんなに幸福だろう」
祖母は相当の良家の教養ある令嬢の中で美しい人をと懸命に尋ね出した。

周囲の特に祖母の絶えざる懇願を退けていた父に決心させた大きな魅力は、
この母がすぐれた美人であったところにあったことは疑うべくもない。
丈はスラリとして肌は浅黒く、髪は豊かに顔立ちは凛々しく、品は良いが愛嬌は乏しく、
現代的知性美とは異なるが明治上流の代表美、
下町育ちとか聞く母方の血を受けて粋なところがあった。
また父は女の饒舌と欺瞞を最も憎んでいたから、その寡言と正直さをその美点とした。
彼女はまったく正直であったが、世間ありきたりの習俗さえ気に入らねば
つとめるということをしなかった。よく「私は嘘だけはつけないから」と言ったが、
それは文字通りの事実で表面を取り繕うなどということは考えも及ばなかったのである。
かくして父は帰京して茂子を娶り、新婦を伴って再び小倉に帰任した。
父が親友の賀古鶴所に送った手紙に『いい年をして少々美術品らきし妻を相迎え
おおいに心配し候ところ、万事存外好都合にて御安心下されたく候』とあったごとく、
やはり母の美しかったことがその主なる原因であったろうと思える。
この点では祖母の予想は正しく的中したのである。私は父の結婚直後、
初めて親戚知己が集まった会合で母の隣に席を設けられ、母が手を引いてくれた時に、
こんなきれいな人が母であることを得意がる気持であった。
まもなく父が再び小倉に出発するのを停車場に見送り、
歩廊を歩く時また母が手を引いてくれるだろうと思ったところ、
母は父と並んでズンズン先へ行ってしまい私一人とり残された。
このとき母の妹のこれも美しい栄子叔母が私の手を優しく取って小走りに後を追ってくれた。
母は実になにごとにも「つとめる」ということのなかった人なのである。

父はこのすぐれて美しい無邪気な少しわがままな人形のような若い妻を
最初充分愛したであろう。母は全身全霊をあげて父を熱愛し、
そこに不安を感じさせる原因となるものには激しい反感を覚えた。
前からの習慣で祖母から父に送った私の写真を書斎の卓上に置いていたのが、
小倉の住居に着いた新婦の気に障り、まずそれを取りのけてくれと言ったという。
小倉での二人きりの新婚生活は彼女にとっても非常に幸福であった。
母はこのままの生活が、いつまでも東京に帰っても続くものと考えた。
しかし小倉で夫婦水入らずの生活を楽しんだ母を迎えた東京の家は簡単でなかった。
心の広い父はその祖母・母・弟・先妻の遺児のいずれにも温顔を向けて
愉快に語ろうとする。そのほか別に家を成している弟妹・賀古鶴所をはじめ
昔からの友・一般知己・訪客の数も小倉とは比較にならない。
長い間家庭の主宰者であり、衰微の境にあった森家を回復し、
父を立派に育て上げたという自信を持ち、さらに将来のことまで計画をめぐらさずには
いられぬ勝気な祖母がまず母と感情の対立する位置にあった。
これはすでに祖母と父との尋常ならぬ親しみに意識せずして嫉妬を抱いていた
母にとって重大なる侮辱であった。母の父に対する愛はかえがたき人としての信頼と
恋人への愛着とを合わせた絶対のもので、その愛を不当に奪うように
己が瞳に映ずるものは、家の内でも外でもみな嫉妬の対象となり敵と感ぜられた。
己れの感情をそのまま行為に表す性質と、
理知的で一家の主権を握る祖母とは到底折り合えなかった。

母が祖母を嫌ったのは「その声がやかましくて癇に障るから」というのがはじめ、
私に対しては「なんてみっともない子でしょう」から出発したそうで、
祖母に向かって父は「於菟は終生の敵なのだそうだ。いい奴なのにかわいそうに」と言った。
かくのごとき状態で東京へ帰ってからの父の月給袋はそのまま祖母に渡され、
母の手にはわずかの小遣いしか与えられなかった。
この主婦の位置を渡す渡さぬが繰り返し問題になって、
「それなら俺が会計をしたらよかろう」と言って自分で算盤をはじくが
何度やっても答えが違い、紙に書いて試みても元来計算にうとい父は
やっぱり辻褄が合わぬのを顔をしかめながら繰り返しているのを見た。
もっともこれは1、2ヶ月で投げ出したらしい。
かくて美しい眉の間にはいつも縦に二本の皺襞が寄り、
姑と顔を合わせねばならぬ席には出てこないようになった。
やがて一家そろって食事をするというようなことも少なくなる。
祖母が食事の席に遅れてくると、今まで父や私たちと並んで膳についていた母が
急に箸を置いて立つ。父が「ペストのように嫌わんでもいい」と言って顔をしかめる。
あとの者は白けた気持ちで残りの飯を砂でも飲みこむようにして早々に席を立つ
というようなことがある。やがて母は自分の部屋で一人食事し、
父と母は同じ家に住む夫婦でありながら食事を共にせぬという不自然な状態になった。
母はいつもイライラしてなにごとも思うように片づかぬという訴えを繰り返した。
いつか楽しい日が帰ってくるように思えて、それが待ち切れなかったのである。
ある冬、母が興奮して庭に出たまま佇立して動かぬので、
父も心配して夜通し起きて見守っていたこともあった。

日露戦争が勃発し、父は軍医部長を命ぜられ出発した。
同時に母は娘をつれて別居し、明舟町にある荒木家の借家に入った。
前々からの事情で別居ということは問題となっており、
親友としての賀古鶴所および青山胤通から父に向って妻に対して断固たる処置を
取ることを要求する忠告もあったと聞くが、父は一家を二分するということを賛成せず、
戦争で留守にするため別居が実現した。いろいろの事情はともかく、
父が己れの従軍の留守における衝突を心配して母の家と妻の家を分けた結果、母が
幼い娘一人つれていつ帰るともわからぬ父の留守を守ったのはいたわしいことであった。
この別居は父の帰国後も半年あまり続き、父は祖母たちとともに千駄木の観潮楼に住み、
土曜から日曜にかけてだけ妻と娘との住む明舟町の家に行った。
土曜ごとにあたかも妾宅を訪ねるごとく来る父を幼い妹が不審がって
「パッパのお役所は長いのねえ」と言ったと父から聞いて私ももののあわれを感じた。
母は周期的に感情が昂ぶり、
走馬灯のように同じことを繰り返して父を悩ます理屈と同時に激しく涙を流す。
それを小さい妹が「お母ちゃんがあんなに泣くから、パッパ我慢して」と言う。
「実に俺は茉莉がかわいそうで」と父が祖母に言うのを私は聞いた。
日露戦争の後までも、
祖母は重要な家事の相談など家で父に話すことを避けて役所を訪ねたし、
私もドイツ語について質問したいこともためておいて役所で父に会うようになり、
それがまたあいにく役所で母と出会って余計気まずい状態になったことなどもある。

祖母が亡くなり、叔父潤三郎は別家し、私も結婚により別居して、
遠い昔の小倉時代のように父と二人、己れが生んだ愛児のみを交えて
生活を楽しもうとしてから3、4年経つか経たぬかに父を奪われた母の悲しみは大きかった。
絶大の庇護者であった父を失った後の母に対する世間の風は冷たかった。
母は急に年を取って、暗く寂しい人になった。
それは肉親の者にとっては見かねるほどの痛ましさであった。
子供たちの他、ごく少数の親戚、さらに少ない友だちしか母を慰めるものはなかった。
もとから気の合う人は少なかった。母は深慮よりも直感を重んじた。
感じの良い人悪い人ということが常にその好悪を支配した。
感じを鋭くしこれに忠実なことは芸術上には大切であるが、世間に生活する場合には
周囲を狭くするので、それが母の不幸の一つの原因であったと思う。

子供を非常に可愛がったが、これは他人の子供でもほとんど同じである。
祖母なぞはこれを博愛だと不平らしく言ったこともある。
父の心には学問に対する熱情が大部分を占めている。
己れの全部を与えるべく女はあまりに小さい。
父の女への愛はしたがって人形に対するようなものになる。
父を愛する女性は、いつまでたってもその全体を己れの物にしたという気にはならない。
そこで必然の結果として嫉妬を起す。
それが真面目に受け取られず茶化されるから、ますます憤激するのである。
このことについては祖母が洞察したような言葉を私に聞かせた。
「林の奥さんになる人はみな不幸せで気の毒なのよ。
久ちゃん〔鴎外の弟篤次郎の嫁〕のような人だって
お喜美さん〔鴎外の妹〕のような人だって、
林の奥さんになれば上手くいかないに決まっているのだから」


父は好男子でもなく、ほどのいい口をきく技巧を持つ人でもないが、
とにかく女性に嫉妬された。
前の結婚の場合にもそれが常にあり、
この時は父の方で妻を見るのも嫌という状態に達したらしいが、
後の結婚の場合には周期的に繰り返して現れる興奮発作に悩まされながらも、
琴瑟相和していたことは確かである。
祖母と潤三郎叔父と腰を据えてしゃべるうち、中学生の息子がいるにもかまわず
「いやはやお登志〔前妻〕なんぞは女だというばかりだったが、
あのおカミさん〔後妻〕は大変だ」
なぞと言ったが、たぶん交情こまやかという意味だったろう。


母の実家荒木氏を訪ねたことも数回ある。荒木博臣翁は物静かな立派な老人であった。
もっとも舅としての荒木翁は大事なところを押さえる法律家だけに、
単純な好人物の赤松翁より父にとって扱いにくい人であったらしい。
老婦人あさ子刀自は昔美人と言われた名残をとどめ、親切に私をもてなしてくれた上に、
私と母との仲を心配し母をなだめる側になってくれた私にとっては有難い人であった。
子供の時に母から物をもらってもあまり嬉しそうな顔をせぬので
「ほんとに物喜びしない可愛げのない子ね」と言われたこともあり、
長じては私が近づこうとした時には母が横を向き、
母が親しもうとすれば私が敬遠するといった状態を繰り返し、
「於菟ちゃんと私とはいつも気持ちが食い違うのを」と嘆息されたこともある。


私の妻は不幸にしてお気に入らず、
母から見ると「冷たい、理性に勝った声」が気に障るらしかった。
妻が母の機嫌に触れて悄然としていると、
後からわざわざ父が来て紙にくるんだ菓子を与えた。
それはまるで幼い娘に対するような態度であった。
「また今日もお父さんからお菓子頂戴か、困るな」
それがその頃の私の妻に対する揶揄の言葉であった。
ともかく父の晩年のある時期には、私は父母の所へゆく足を遠慮がちにした。
私は初めてドイツ語で小論文を草した。それを父に直してもらおうとすると、父は非常に
喜んだが、お前がしげしげ来るとお母さんが機嫌を悪くするから役所へ来いよと言った。
私は毎日午前11時頃、父を訪ねて上野公園の博物館に行った。
ある日私は父と私が悪いことでもするようにしているのはみっともないことではないか
と言った。私は父が家庭のことをもう少しテキパキしたらと考えたのである。
すると父はただ「女は気の狭いものだから、そのつもりでいなければいけない。
お前は自分の考え通りで何でもゆけると思うが、
世の中にはいろいろ別の考え方もあるのだから気をつけなくてはならぬ」と言った。
父は不幸な気持ちの齟齬があった場合にも、決して私に母のことを悪く言わぬ。
また母にも私のことを悪く言わぬのである。
この論文訂正が終わった翌々日の朝である。
すでに結婚して別家したために父の家を半分わけてもらって裏合せに住んでいた
私の家の門口を開けて父が入って来た。
いつも用があれば呼ばれるので、こんなことは例がない。
私が驚いて出てゆくと、父は出勤の途と見えて背広服に手提げ鞄をさげている。
不安そうな目つきで私を招く。小さい声で
「お母さんが大変怒っている。当分ウチへ来てはいけない」
「どうして」
「なに、昨日お前の論文ができたのであんまり嬉しくて、
つい日記に書いたらそれを見られてしまったのだ」
父は泣き顔と苦笑とをごたまぜにしたような変に歪んだ顔をしている。私は一言も出ない。
父はすぐ後ろ向きになって、トボトボ歩いてそっと門を開けて出て行った。


帰朝して観潮楼の主人となった翌々年の暮れには、
私はやむを得ない事情でこの家を去ることになった。
事情というのは、母と私たち夫婦との間が次第に面白くなくなり、
母が感覚的に我々を嫌うため、父の在世当時のある時期と同じように母の神経がいらだち、
私どもがその近くにいることさえその危険な妄想を激発させそうになったためである。
「私を殺す気だろう」などと言われ、
「家から逃げ出すとは不見識ね」と冷笑されながら借家へ移り、
世間へは子供らの健康のためと言いつくろって大宮郊外に家を作るような次第になった。

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by vMUGIv | 2012-01-09 00:00 | ヒト
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