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by vMUGIv
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澁澤龍彦 その3

◆龍彦、東京高輪に生まれ、埼玉県川越市で育つ。
◆04歳 父親が東京勤務となったため一家は東京に転居。
◆13歳 東京府立第五中学校入学。
◆17歳 浦和高等学校理科に入学。
フランス文学を学びたかったが兵役猶予のため理科を選択。
しかもフランス語ではなくドイツ語と英語が必修であった。
途中東京大空襲で家が焼けたため一家は埼玉県に疎開、
残った龍彦は高校の寮に入って通学する。
◆18歳 終戦を迎え、本来の希望通り理科から文科に転部。
同時にアテネフランセに通ってフランス語を習得。
しかし東京大学仏文科には2年連続落ちる。
疎開していた家族と合流して鎌倉市の借家に転居。
◆20歳 浪人時代、雑誌「モダン日本」でアルバイトをする。
編集長をしていた吉行淳之介の下で働き、二人で飲み歩く。
◆22歳 東京大学仏文科合格。
◆25歳 東京大学仏文科卒業、卒論は『サドの現代性』。
卒業しても就職口がないため、岩波書店の校正のアルバイトをする。結核となるが一度完治する。
◆27歳 父親死亡。結核再発。同じ校正アルバイトの矢川澄子と出会う。

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妹 澁澤幸子

1948年浦和高校を卒業した兄は、
東京大学文学部フランス文学科を受験し見事に落第した。
自分の好きな本ばかり読み、受験勉強は一切しなかったのだから当然だろう。
「発表見てきてくれないか。たぶんダメだけどさ」
どうして私が見に行かなくちゃいけないのよなどと、私は決して言わない。
良い妹なのである。翌日私はノコノコと本郷に出かけた。
「なかったわよ」「そうだろうな、ハハハ」

浪人になった兄はアルバイトとして
『モダン日本』を出している新太陽社に編集者として勤務し始めた。
毎日銀座を歩いて築地にあった会社に通ったこと、
編集部に先輩としておいでになった吉行淳之介と知り合ったこと、駆け出し編集者として
多くの作家方にお目にかかったことなど、澁澤はエッセイに書いている。

翌年兄は再び東大を受けたが、またしても不合格だった。
2度目の不合格で、兄はいつまでもアルバイトをしていても仕方がないと思ったのだろう。
この春、新太陽社を退社した。
翌1950年、兄は東大に合格した。三度目の正直である。
ようやく受かった大学だが、兄はあまり学校へ行かなくなった。
この頃から兄と鎌倉在住の東大や早稲田や外語大などの学生たちとの交遊が始まった。
小町の家の2階は次第に梁山泊と化して行った。
そんな時期でも、悪童たちが帰れば兄はすぐに机に向かった。
兄は生来勤勉な努力家なのである。
兄にかわいらしいガールフレンドができたのもこの頃である。
お似合いの相思相愛カップルだったが、兄が肺結核を発病したころ二人の愛は終わった。

1953年、兄は東大を卒業したが肺結核を発病する。
さあこれからという時に病を得て、天性ノーテンキな兄もさすがにガックリきたようである。
友人が来れば病気を冗談の種にして笑っていたが、
真剣に治療に取り組み真面目に通院していた。
総領息子の発病に両親の心労も大きかった。
小康を得ると、兄は岩波書店の自宅校正のアルバイトを始めた。
兄が浦高時代理科から文科に転科する時、
父は「理科をやった方がいいんじゃないのか」とひとこと言っただけで、
その後は一人息子が二度も大学に落ちようが就職もせずにブラブラしてようが
何ひとつ口出ししなかった。

兄が初の翻訳書、コクトーの『大股びらき』を白水社から刊行したのは1954年である。
この本から兄の筆名は澁澤龍彦になった。
『大股びらき』の刊行を誰よりも喜んだのは父だった。
父は親戚や友人にこの本を見せて
「せっかく龍雄という名前をつけてやったのに、勝手に龍彦なんて変えやがって」
などと言いながら相好を崩していた。

兄は肺結核再発の宣告を受ける。
せっかく治ったと思ったのに、さぞガックリきたことだろう。
友人が作ってくれたアーム付きの書見台に本をはさんで、
布団に仰向いたまま本を読んでいた。それでも友人が来れば相変わらず笑顔で迎え
冗談を言い合って笑い転げて、決してめげることはなかった。

父が突然脳溢血で急逝した。外出先で倒れ、そのまま逝ったのである。享年60。
兄同様色白で痩せ型、血圧も高くなかった父の突然の死に
私たちはただ呆然とするばかりだった。
一家の長となった兄は一日も早く健康を取り戻したかったのだろう、
真面目に気胸療法に通院した。

1956年、兄は『サド選集』を刊行した。
ある日兄はちょっと改まった口調で私に言った。
「あのさ、今度の本に三島由紀夫の序文もらいたいんだけどね。
三島さんに電話してみてくれないかな」
どうして自分で電話しないのよなどと、私は決して言わない。
何度も言うが、良い妹なのである。私は必ずや三島氏のOKを取ってあげようと思った。
私は勤務先のファッション雑誌の編集部から電話することにした。
電話番号は編集部にあった文化人名簿で調べた。
「三島先生はおいででいらっしゃいましょうか」「はい、私ですが」
最初にご家族かお手伝いが出ると思っていたのに、
いきなりご本人がお出になったので私は大いに慌てた。
「澁澤龍彦と申す者の代理でごさいますが」と言いかけると、
「ああ、サドをやっていらっしゃる珍しい方ですね。あれは名訳です」
代理と言うのも妙だなあと思いながら電話したのだが、
三島氏の口調はまったく屈託なかった。
「今度龍彦が『サド選集』を出すことになりまして、先生の序文がいただければと。
本人は病人でございますので、代りにお電話させていただきました」
「奥様でいらっしゃいますか?」「いえ、妹でございます」
病気を口実にしてしまったが、電話くらいかけられないはずはない。
だが、三島氏はすぐにかいだくして下さった。
私は横須賀線を降りると、鎌倉駅から我が家まで宙を飛ぶように走った。
玄関に飛び込んで「やったよお!」と私は叫んだ。
「三島さん、お兄ちゃんのこと知ってたわよ。名訳だって言ってたわよ」
兄もさすがに嬉しそうだった。
その夜兄は三島氏宛に手紙を書き、それから兄と三島氏の深い交際が始まったのである。

澁澤龍彦といえば異端、異端といえば澁澤龍彦と言われていた時代が長く、
本人もさぞうんざりしていたことだろうが、そのため兄は私生活まで
なにやら秘密に満ちた特殊な人間のように思われていたところもあった。
兄に妻がいるというだけで、へええと驚く人さえいたが、
家庭人としての兄はまったく真っ当で健全な人間であった。
それは彼自身も充分自覚していて、いつだったか親しい友人に
「俺ってノルマルだなあ。いやんなっちゃうほどノルマルだなあ」と言って、ケタケタ笑っていた。
昭和一桁生まれの男の例にもれず兄は家族に対して照れ屋であったが、
家庭人としての兄は親孝行な息子であり、愛妻家であり、
妹たちには頼りがいのある兄であった。
兄が逝ってはじめて、私は自分がいかに兄を頼りに思っていたかに気づいて愕然とした。

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by vMUGIv | 2015-07-03 00:00 | ヒト
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