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by vMUGIv
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太宰治 その6

◆21歳 東京帝大文科入学。左翼活動へのカンパ開始。兄圭治死亡。
初代を東京に呼び寄せる。
初代が結婚を前提に津島家に引き取られ留守になった間、
カフェの女給田部あつみ18歳と睡眠薬で第2回自殺未遂、あつみは死んだが太宰は生き残る。
初代18歳と結婚。


大学時代
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昭和5年11月30日
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弘前高校時代の先輩・東京帝大生・左翼活動家 工藤永蔵

当時工藤は日本共産党の中央委員長で、太宰を訪れたのも
東大に入ってきた弘前高校卒業組をしらみつぶしに当たり運動に引っぱり込むためだった。
高校時代に地主制度を批判する『地主一代』など
左翼的な作品を書いていた太宰だったが、シンパになれという要請にはうろたえた。
「初めて太宰を見て、この人は優雅な世界で育った人だ、警察の弾圧には弱いと直感した。
だから資金を援助してもらっても運動に参加させてはいけない、
警察に絞られたらすぐ吐くだろう、だから自分以外の活動家とつきあわせない」
これが工藤の結論だった。それ以降、太宰は月々10円の援助をするようになる。

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■小館キョウ 太宰の姉・小館貞一夫人
■小館保   小館貞一の弟・太宰の弟礼治の同級生
■工藤永蔵  弘前高校時代の先輩・東京帝大生・左翼活動家
 
初代は<玉屋>であたりの目をはばかって自分のタンスの中から着物を取りだし、
代りに新聞紙を詰め込み風呂敷をかぶせた。
<玉屋>を抜け出すと近くの小料理屋<おもたか>の女中に
着物を入れた風呂敷包みを預ける。こんなことが春から夏にかけて続いた。
タンスの中が新聞紙だけになった昭和5年9月30日の夜、
初代は青森駅から夜行列車に乗り込んだ。

初代の出奔を手助けした小館保は「修治さんが東京に出た時から準備していました。
その頃初代さんには身請けの話が起っていて焦っていた。
持ち出した着物は友人葛西信造君の下宿に郵送しました。
修治さんとは電報で連絡を取った」
文治も誰も知らぬ間に計画されていたことなのである。
初代がいないことに気づいた玉屋は東京の知人に頼んで上野駅を見張らせ、
その日のうちに文治にも連絡を取った。
文治も太宰の青森中学時代の下宿先で遠縁にあたる豊田太左衛門を上京させた。

初代の姿は上野駅にも太宰の下宿にも見当たらなかった。
「修治さんの指示で初代さんは手前の赤羽駅で降りたんです。
必ず追手が来るに違いないというわけ」 小館は当日の様子をこう話す。
初代が赤羽駅に降り立った10月1日は第3回国勢調査日に当たっていた。
調査を避けるため翌日10月2日午前1時頃までハイヤーで東京を走り回った後、
池袋の近くにあった葛西信造の下宿に初代をかくまった。

文治も11月上旬に上京した。
文治は、芸者を家に入れることはならないけれど
津島家から籍を抜くのならば初代との結婚を認める、その代り財産は分与せず
初代と結婚同居生活を続けることを条件に大学卒業まで毎月120円を仕送りすると告げた。
二人の間で<仮証文>が取り交わされた。
高校時代から一人で月100円以上の仕送りを受けていた太宰にとって、
初代と二人で月120円は少ない。
初代は嬉々として身請けのために文治に連れられて青森に帰って行った。

数日後太宰を訪れた工藤永蔵はこう言う。
「その直後に文治さんから仮証文を見せられました。
鉛筆で走り書きしたお粗末なものだった。
『初代と結婚すべし。月々いくらいくら送る・・・』と書いてあるだけ。
文治さんはあきれ果ててどうにでもなれと思っていたのではないか」

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太宰が初代を東京に呼び寄せたのは、単に同棲するためで結婚するつもりまではなかった。
芸者をはべらせて小説を書き、文士気取りをしてみたかったにすぎなかった。
太宰はあつみ目当てに<ホリウッド>に通い詰めていた。
ツケがかさんでいたが多額の仕送りで返済できるはずであった。
ところが裏でこじれていた初代との結婚問題で自由になる金がなくなり支払えなくなってしまう。
カフェーの女給は現代のバーのホステスと同じシステムなので、
担当客の売掛金が回収できなければあつみが支払わなければならない。
進退窮まった二人は鎌倉の七里ヶ浜の海岸で睡眠薬心中を図る。
あつみは死亡するが太宰は生き残る。
太宰は自殺幇助罪に問われるが起訴猶予となる。

あつみも太宰と同量のカルモチンを嚥下したものとみられるが、
あつみの場合は吐瀉物により窒息死したと推測される。
太宰はこの事件をモデルにして『道化の華』など複数の作品を書いているが、
<数回しか会っていない男女が・入水自殺をして・多数の船が捜索に駆り出され・
男は海から救出されるが・女は水死体で見つかる>というのは、完全なるフィクションである。


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■小館キョウ 太宰の姉・小館貞一夫人
■小館保   小館貞一の弟・太宰の弟礼治の同級生
■中畑慶吉  青森在住の太宰の御目付役 
■北芳四郎  東京在住の太宰の御目付役

ところが太宰は文治が帰京した直後に、またまた家名を汚す事件を引き起こす。
田部あつみとの心中事件である。おりしも県議会開会中で
青森の旅館にいた文治のもとにも新聞記者が駆けつけた。津島家からは英治が急行。
続いて側近の傍島正守、出入りの呉服商中畑慶吉らが向かう。
当時脇元小学校校長だった傍島正守はこの間のいきさつをこう話す。
「東京に講習に行く用事があり青森の旅館にいる文治さんを訪ねたら、
修治君の心中を知らされました。文治さんから『共産主義で困ったもんだ。
物覚えてるはんで理屈っぽくて困るじゃ。行って始末してけろじゃ』」と言われました。
たまたま鎌倉に居合わせた小館キョウさん〔太宰の姉〕と
東京の洋服屋の北芳四郎君と私の3人で行きました。
すでに修治君は治療を受けていた恵風園を出て
鎌倉の警察で調べられていたので、留置場で会いました。
警部補は亡くなった圭治君と小学校の同学年で自分の教え子村田君でした。
村田君は『今日の調べが終われば出す』と言った」
調べが終わった後、太宰・キョウ・北・傍島の4人は自動車で鎌倉から銀座に出た。
開店したばかりのレストラン<オリンピック>で食事をした。太宰は黙りこくったままで、
キョウが緊張のあまり食べたグラタンを吐いたことを傍島は記憶している。

郷里ではヤマゲン〔津島家の屋号〕の修治が自殺未遂した噂はすぐに聞こえてきた。
当時ヤマゲンの借り子だった中谷幸一によると、文治や英治、番頭の津島市三郎、
祖母イシ、母タネが毎日にように家の奥でヒソヒソ話をしていた。
タネは袂からハンカチを出して真っ赤に腫らした目を拭いていた。
太宰は<女狂いしたヤマゲンの悪たれ者>と陰で呼ばれていた。

「偉い弟を持つということは、容易なことでへんじゃ」
文治は後年太宰について聞かれればこう答えた。
それも両手で頭を抱えて照れた風に笑いながら、いかにも閉口しましたと言うばかりだった。
文治が恐れたのは、
この事件がきっかけで太宰の非合法運動が世間に知られることだった。
身内から<アカ>の出ることが極端に恐れられた時代、
金で済む芸者遊びならばまだいい。だがアカだけは絶対に困る。
津島家そのものが社会的に抹殺される。

文治は昭和5年12月に太宰と初代の仮祝言をひっそりと挙げさせた。
さらに昭和6年1月27日に太宰を東京の定宿に呼び出し、
前年に交わした<仮証文>を破棄して新しい<覚>を取り交わした。
文治と修治が署名・捺印し、文治は実印を押した。
「文治さんは町長や銀行の頭取をしていたので契約の観念が強かった。
ハンコを使って取引と同じ証文を作った。
<覚>を交わした後の修治さんは『参ったじゃ』とこぼしていた。
勘当されて郷里に戻れないことで、やはり痛手だったのではないだろうか」
小館保はこう見るのである。

太宰はその後も相変わらず工藤永蔵ら左翼活動家と付き合っていた。
昭和7年には思想犯を取り締まる特高の刑事がしばしば津島家を訪れ、
太宰が活動家にアジトを提供したことや、西神田署に留置されたことを伝えた。
そこで7月文治は太宰を青森に呼びつけた。
警察に出頭して運動から離れる誓約をすれば生活費は送る、と文治のこれまでにない
強い態度に実家からの送金に頼っていた太宰は頷かざるを得なかった。
小館保は青森から東京に戻って来た太宰が暗い顔で
「兄にずいぶん叱られた。青森警察署に行ってきた」と話したことを覚えている。

太宰の青森中学時代の友人外崎美智雄はこの間の兄弟をこう見る。
「文治さんは家名を守るため修治さんと義絶したんです。
でも金をやらないと何をしでかすかわからない。金をやるからアカはやるな、
こう言って証文を作ったのに修治さんは違反した。
修治さんは自分がアカの動きをすると、津島家と文治さんが滅びることを知っている。
だから修治さんはゆすりまがいに金を取ろうとした」

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兄津島文治と太宰との間で交わされた<覚>(抜粋) 昭和6年1月27日

●小山初代と結婚・同居生活をするならば、生活費として毎月120円を支給する。
●単独生活をするならば、生活費は毎月80円となる。
●120円は毎月6日に50円、毎月26日に70円、月2回に分けて送金する。
●学費は生活費とは別に支給する。
●帝国大学から処罰を受けたり、中退したり、卒業の見込みがなかった時、
刑事上の起訴を受けたり、金銭を浪費したり、操行が乱れた時、
社会主義運動に参加したり、金銭その他物質的援助をした時は、
支給を減額・停止・廃止する。

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太宰の妻 津島美知子

太宰はずっと国もとから月額90円の仕送りを受けていた。
井伏先生宛に30円ずつ3回に分けて届くのを先生の奥様が転送して下さっていて、
太宰はあちこちに移転したのだからお手数をお掛けしたものである。
昭和16年頃やっと直接一回にまとめて届くようになった。
いつも次兄の筆跡で太宰は何か便りが添えられていないか期待する様子だったが、
小為替が入っているだけだった。
大学出の初任給が7、80円の時代であるから恵まれていたのだが、太宰は
自分がいくら金を使ったといっても、長兄の使った金の方がずっと大きいのだなどと言った。
90円の仕送りは昭和14年10月で打ち切られる約束であったが、
期限を過ぎても届いていた。
太宰は富裕な地主の家で育って、
自分の稼ぎで生活してゆくべきだとは考えていなかったと思う。
戦前二人の兄は職に就いたこともあるが名誉職のようなもので<職>ではない、
自分の天分を活かして得た金を特別輝かしいものに考え
これは全部自分の自由に使ってよい小遣いだ、これが彼の経済観念のもとになっている。
戦争中はそれで良かったのだが、終戦という大変動期に際し地主階級が没落し、
物凄いインフレの進行で、仕送りの90円は闇酒一本の価に下落していた。
長年の仕送りは終わった。

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睡眠薬心中した太宰が運び込まれた恵風園院長 中村義雄

11月29日午前8時頃、出漁しようとした漁夫が若い男女が倒れているのを発見、
女はすでに死んでいたので、男の方だけ背負って恵風園に担ぎ込んだ。
恵風園は日本で最初に開放空気療法を取り入れた結核療養所で、
当時は病棟数15・病室数62の大病院であった。
応急手当にあたった中村氏は、太宰の口中から特有の匂いが発していることから
服薬した薬品がカルモチンであると判断する。

カルモチンを嚥下した時刻は、11月28日夕刻から夜半の間。
患者の容体・現場に残されていた空瓶からも推定服用量30グラム以下であって、
命に別状がないことは明らかであったという。昏睡持続時間は完全覚醒まで
1日半であった。衰弱は認められるが重体とは診ていないので、
看護婦を付き添わせるということはなかった。

入院中の太宰は静かでおとなしく、いつも物思いにふけっている風であった。
見舞客は入所2日ぐらい経って、郷里から兄という人が訪れたという。
入院していたのは体力回復の期間を含めて約10日間であった。
当時のカルテは戦災のため残っていない。

Q 新聞記事では『午前08時頃、小動神社裏手海岸で若い男女が催眠剤を飲み
倒れているのを発見、七里ヶ浜恵風園療養所に収容、手当の結果男は助かったが
女は死亡した』となっていますが?
A 女の人がここに入ったことはなかったですよ。男だけが担ぎ込まれてきたんです。
Q 太宰の年譜などでは<袖ヶ浦心中>と書かれているのですが?
A そんなのはありませんよ。我々は<袂ヶ浦>と言っています。
Q 小動神社裏手海岸というのは?
A いや、小動神社の裏ではなく前です。
Q 海岸で睡眠薬を飲んだだけではなくて、海に投身して女が死んでしまって
太宰だけが助けられたと言われていますが?
A それは作りすぎていますね。
Q 舟を出して何度も探したことは?
A そんなことは全然ありませんよ。
Q 『道化の華』の中では恵風園は青松園という名で、
友達が来てトランプしたり看護婦さんをからかったり、
朝から晩までふざけて過ごしたことが書かれているのですが?
A いくらなんでも、そんなことはありませんよ。そういうことは病院では許しませんからね。
Q 2、3日は友達が泊まり込んで騒いで、
最後の日は看護婦さんがソファで一緒に泊まったと書かれているのですが?
A それも違いますね。必要がなければ看護婦は来ませんから。
ただ本人が雇う場合は別ですが。雇われた看護婦ならばそういうこともありえますね。
Q 雇われた看護婦というのは、恵風園の看護婦ではないわけですね?
A そういうことです。
Q 退院の時は?
A 元気で帰りましたね。
Q 当時、太宰はすでに結核だったのでしょうか?
A いや、そういうことはありません。私が診察した時にはそんなことはありません。
さもないと、退院の前に裏の山まで行ったなんてね、
結核患者にそんなことできやしませんよ。

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青森在住の太宰の御目付役 中畑慶吉

私が文治さんから頼まれて<修ちゃ>の御目付役みたいになったのは、
鎌倉での心中事件以降のことです。
「修治の奴が鎌倉で情死事件を起こした。
中畑君、すまんがすぐに行って君の好きなように処理をつけちゃくれないか」
私は文治さんから3,000円を預かると、夜行に飛び乗り鎌倉に急ぎました。

この鎌倉事件は、太宰が分家することを承諾してから1ヶ月後、
分家する約束に従って文治さんが初代さんを送って寄こす1ヶ月前のことでした。
事件以降、学費は東京の御目付役的存在であった北芳四郎さんや井伏鱒二先生の所に
送られるようになりました。
私が太宰の後始末をつけるため東京へ向かう車中にあった時、
この北さんから電報が来ました。当時太宰は共産党の活動をやっていて、
その秘密書類が下宿に置いてあって見つかるとまずいから処分してきてくれと言うのです。
私は上野から円タクを飛ばして下宿へ立ち寄り、柳行李一杯ぐらいあった書類を
焼いてくれるように女中さんにチップを渡してから鎌倉に向かったのです。
次の日、太宰の部屋に思想犯刑事が踏み込んだそうです。

太宰とともにカルモチンを飲んで死を図ったのは、
田部あつみという銀座のカフェーの女給でございました。
鎌倉に着いてからすぐにあつみの内縁の夫・田部某に会いました。
この人は痩せた小柄な人物で、おまけに極度のノイローゼでした。
この人と鎌倉警察の人と私と3人で、仮埋葬してあったあつみの死体を確認いたしました。
丸裸の上に麻の葉の模様の襦袢が掛けてありました。
私は美人とはこういう女性のことを言うのかと思いました。
当時アリタドラッグという店の商標に使われていた蝋人形の美女にそっくりでした。
鎌倉では日没になってからでないと火葬にできないということで、
私は夕方になってから焼場に向かいました。田部君は同行せず、私一人だけで行きました。
骨は田部君が正式に段取りを決めてから渡してやろうと考えておったのですが、
次の日本人がやって来てとにかく遺骨をくれと言う。警察では今遺骨を渡すと
自殺の恐れもあると言っていたのですが、遺族のたっての希望だから渡してやったのです。
ところが警察の言う通り、今度は田部君が行方不明になってしまったのです。
すぐに消防団や青年団を動員して山狩りをしてもらいました。発見したのは夕方のことで、
田部君は自分の女が心中した海辺の現場に行き遺骨を抱いて写真に納まろうとしていた
寸前に発見されたのです。次の日の朝でしたか、私は警察署の宿直室で刑事さんに
立会人になってもらい田部君に今後一切無関係という念書をいれてもらいました。
代償として預かってきた金から100円やりました。
〔青森から〕三等寝台で行き食堂車で食事をして上野から宿まで円タクを奮発しても、
乗車券ともども11円だった時代です。

その日、恵風園病院に入院している太宰を見舞いに行きましたが、
自殺幇助の罪に問われている男にしては明るい彼を見てビックリしたことを覚えています。
私が田部君に渡した念書の立会人になってくれた刑事さんは
偶然津島家と同じ村の出身で、また事件を担当した検事さんもこれまた津島家の遠縁で、
このお二人がいたから太宰が罪に問われなかったのかどうかそれはわかりません。

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by vMUGIv | 2014-05-06 00:00 | 昭和戦前
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