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by vMUGIv
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夏目漱石 その14

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漱石の息子 夏目伸六

何一つ意識らしい意識さえ持ち合わさなかった幼い頃から、私はずっと父を恐れてきた。
父がニコニコ機嫌良く笑っていた顔も、私たち子供たちと一緒に大口を開いて笑った顔も、
私はいまだはっきりと覚えている。
しかしこうした父らしい姿を見ながらも、
私はその裏に隠れたかすかな不安をどうすることもできなかった。
当時の私にとっては、いつ怒鳴られるか、それが父に対する最大の恐怖だった。
私は心の底ではどうしてもこの父に真の親しみを抱き得なかった。
私はこの意味において父をずっと偽り通してきた。
そして父はそれを少しも知らずに死んでしまったということを考えると、
私は知らず知らず父に対して、病気を離れた真実の父に対して、
本当に申し訳なかったという侘しい後悔の念を感じるのである。

幼稚園から帰ってきたばかりの私と兄に、母が「久世山へでも行って遊んでおいで」
と女中をつけて遊びに出した時のことを覚えている。
暗い部屋の仏壇の前で、母は何かじっと拝んでいた。
家の中はシーンと静まり返って、コソッという物音一つ聞こえなかった。
私は襖を一つ隔てた隣の書斎に、父がじっと虎のようにうずくまっているのを意識した。
仏壇の前で祈っていた母は泣いているようだった。
その横顔に流れる涙を見ながら、小さい私も一緒に悲しくなった。
おそらくこの時の母の気持ちは、
暫時なりとも小さい子供を陰険な父の前にさらさせまいと思う親心から、
わざわざ女中までつけていち早く私たちを外へ遊びに出したものだろう。

正常な時の父は、みだりに訳もなく怒るような人間では決してなかった。
ただ私が機嫌の良い時の父と頭の悪い時の父の区別を
はっきり識別することが出来なかったまでである。だいたいは推察し得ても、
この上機嫌の陰からいつ何時恐ろしい父の姿が飛び出してくるか、
私はそうした不安をどうしても心の底から払いのけることが出来なかった。

「その怖いったらなかったわね」 私は一番上の姉と二番目の姉とがよく笑いながら、
父についてこんな思い出話をしていたのを知っている。
「だから私たち、お父様とどこかへ一緒に行くのとっても嫌だったわ」
おそらくこの姉たちは、私たちより数段の恐ろしさを身にしみて感じていたに違いない。

私がまだ小学校の1、2年の頃、道草を食い帰ってくる途中で、
よく父と兄が向こうからニコニコ笑いながらやって来るにに出くわした。
「あ、お父様、伸六ちゃんが来たよ、伸六ちゃんが」
兄が一生懸命父の手を引っ張って私の方を指差していた光景さえ、
ありありと目に見るように思い出す。
「どこへ行くの」
「これからね、お父様に洋食食べに連れてってもらうの」
「それなら、僕も一緒に連れてって」
そうして父は私たち2人を引き連れて当時は相当に有名だったのだろうか、
小さい西洋料理屋へ連れて行ってくれた。
御馳走を食べるのはうれしかったけれど、あれほどイギリス嫌いの父が
洋食の食事作法に関する限りまことに英国式でむやみと口やかましかったから、
それが怖くて美味さの方はおおかた減殺された。

私がまだ小学校へ上がらない小さい時分の事だったろう。
私は父と兄と3人で散歩に出たことを覚えている。
私たちはいつの間にかいろいろと見世物小屋の立ち並んだ神社の境内に入っていた。
当時としては珍しい軍艦の射的場があり、兄がしきりと撃ちたい撃ちたいとせがんでいた。
父は私たちに引っ張られて、むっつりと小屋の中へ入って来た。
「おい」 突然父の鋭い声が頭の上に響いた。
「純一、撃つなら早く撃たないか」 兄はその声に怖気づいたのか尻込みしながら、
「恥ずかしいから嫌だあ」と父の背後にへばりつくように隠れてしまった。
父の顔は上気を帯びて妙にてらてらと赤かった。
「それじゃ伸六、お前撃て」 そう言われた時私も咄嗟に気後れがして
「恥ずかしい、僕も」と私は思わず兄と同様父の外套の下に隠れようとした。
「馬鹿ッ」 その瞬間私は突然恐ろしい父の怒号を耳にした。
はっとした時には、すでに父の一撃を割れるように頭に食らって湿った地面に倒れていた。
父はその私を下駄履きのままで、踏む、蹴る、頭と言わず足と言わず、
手に持ったステッキを滅茶苦茶に振り回して私の全身へ打ちおろす。
兄は驚愕のあまりどうしたらよいのかわからないといったようにただこの有様を眺めていた。
その場に居合わせた他の人たちも、皆あっけに取られて茫然とこの光景を見つめていた。

父の真実性に対する渇き切った執着と周囲を取り巻く偽善者への憤懣は、
病気の進むにつれて必ず加速度的に異様な方向へ進展していくのが常だった。
正常における真実性の渇仰も病気にともなう極度の警戒心に歪められて、
いつか騙されはしまいかという不安に満ちた疑惑に変り、
その疑惑はたちまち自分を騙そうとしているのに違いないという奇怪な断定までに到達する。
ロンドンの下宿のおかみさんにも向けられたらしい父のキチガイじみた憎悪と焦燥は、
帰朝後、自分の妻であるという封建的な隔てのない関係から、
よりいっそう露骨に母の一身にぶちまけられたろうし、
下宿のおかみさんが抱いたと同様な母の父の精神状態に対する疑惧の念は、
ますます父の異常な神経をそそけ立たせたに違いない。
父が鈴木三重吉さんに宛てた手紙の中で
『癇癪が起こると、細君と下女の頭を正宗の名刀でスパリと斬ってやりたい。
妻はなんだか人間のような心持ちがしない』という一節がある。
私はそこに潜んでいる異様な気味悪さを感じるのである。
父は自分を冷酷にさせるのは、すべて妻がそうさせるのだと考えた。
子供の寄りつかぬ自分自身を省みても、
妻が故意に子供たちを父に近寄らせぬように仕向けているのだと断じて責めるのである。
自分の不健康さえ、寄ってたかって他人が自分をこんなに弱くしていまったのだと
相手のない腹立ちに苦しんだ。
おそらく当時の父は真面目にそう考えていたのに違いない。

父は母が自分に復習せんがために子供を愛撫し、
自分の仕事を邪魔せんがためにわざわざ子供を名に喚かすのだと解釈した。
自分は絶えず迫害されているという観念は、
すでに怪しげな被害妄想の域に一歩踏み込んでいるとしか思えぬのである。

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by vMUGIv | 2012-03-14 00:00 | 明治
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