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2018年 更新中
by vMUGIv
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夏目漱石 その13

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漱石の息子 夏目純一

今カーッとして裸足で学生を追いかけて行った父が、
帰ってくるとその自分を他人のように面白おかしく書いているなど、
その神経はどう考えても私にはわからない。弟子たちに囲まれ、
にやにやしながら黙って話を聞いている温厚な姿からはとても想像できないことだ。

父は私が生まれた時、初めての男の子だというので大変喜んだそうだが、
それにしては可愛がられたという記憶は全然ない。
よく西洋料理を食べに連れて行ってもらったことがあるのだが、
食事中の行儀のことも大変うるさかった。すべて正しいことなのだが、
当時は美味い物を食わせてもらっても食った気なんか全然しなかった。

とにかくいつ爆発するかわからなかった。
現代の医学でいう高度のノイローゼなのだが、
当時そんな病名は、親父はもちろん誰にもわからなかったので、
周囲の者はただ戦々恐々としていた。

親父の弟子たちはこんな親父のキチガイじみたことは一切認めようとはせず、
悪いことはすべて母のせいにして悪妻にしてしまった。
しかし後年母の口ぶりから察するに、母は心の底から親父を尊敬し信頼していたようだ。
母の口から親父に対して愚痴らしい言葉を聞いたことは絶えて一度もなかった。


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漱石の長男純一の息子 夏目房之介

鏡子夫人は漱石と違って長命だった。
亡くなったのは僕が中学生になってからだから、祖母の人となりはよく覚えている。
僕やイトコたちは「おばあちゃま」と呼んで親しんだ。
今はない東京の広い地所の家に何匹いるんだかわからない猫とともに住み、
どしんとした存在感の人だった。
猫については格別好きというわけでなく、猫の小説で食べられるようになったので
粗末にしないという縁起かつぎのようなものだったらしい。
ニコニコして物にあまり動じない人のように覚えている。
後年祖母が熊本時代にノイローゼで入水自殺をしかけたと知って意外の感に打たれた。
妊娠による心理バランスの崩れだったらしいが、
僕の記憶の限りでは不安定なところのない人に見えた。

祖母には菩薩のような懐の深い愛情があったかもしれない。
少なくとも子供たちはあの母だから漱石のような夫でも家がもったのだと語り、
終生彼女の母性を尊敬していたように思う。
祖母は感情の器の大きい女性だったのだと思う。
漱石のように感情の底を掘り崩してしまうようなタイプには、
このくらい感情の深く大きい女性が必要だったのかもしれない。

父から聞いた話で後年とてもいい話だなと思って覚えているのは、
鏡子夫人の夫への愛情についてである。
祖母は時々とんちんかんなことを言っては子供たちに笑われたらしい。
そんな時、彼女がこう言ったというのだ。
「お前たちはそうして馬鹿にするけど、お父様は馬鹿にしなかったよ。
ちゃんと優しく教えて下さったよ」


漱石の長男だった父夏目純一は、18歳から32歳までヨーロッパに遊学していた。
大正15年、18歳でベルリンに留学。
以降ウィーンやブダペストに遊学し、ヴァイオリンを習った。
ベルリンでジプシー音楽に魅せられ、好きな演奏者を追っていたら
いつの間にかプタペストまで行っていたという。
まことに羨ましい話である。最終学歴はブタペスト音楽院というところであった。
昭和14年、32歳の時に帰国。第二次欧州大戦が始まり、やむを得ず帰ったのだという。
「戦争がなければ日本へは帰らなかった」とよく言っていた。

漱石のイギリス嫌いとは対照的に、父にはヨーロッパの水が合ったようで、
父にとってヨーロッパは青春の最も輝かしい時期を過ごした場所で、
生涯そのことを楽しそうに語った。
確かにヨーロッパでの体験を話す時の父はイキイキと嬉しそうで、
人生で一番楽しい時期だったろうと聞いていても思えた。
向こうの知り合いの貴族の城に泊まって、テニスに乗馬、狩りと、
日本からお金を送ってもらって遊んでいた。そりゃ楽しかろう。
漱石の印税収入は長男の遊興にかなり消えたものと思われる。

ヨーロッパでさんざんテニスをしていた話を聞いていたので、
なぜ日本でやらないのか聞いてみたことがある。
「だってお前、日本じゃボールを自分で拾わなきゃいけないだろ」
向こうでは貴族の城などでやるので、
領地の子供がボールボーイをやってくれるのだそうだ。
その時も、あきれて開いた口がふさがらなかった。
かように父の物事の基準はヨーロッパに、それも社会的にかなり上の層にあった。

真面目で几帳面で粋な遊びなどとはあまり縁のない漱石に対し、
金を生み出すこと、働くことは苦手だが、使うことは得意な人だった。
よく言えばディレッタント、漱石の憧れた高等遊民だった。
が、大人になり切っていない所があり、漱石の長男、漱石家の家長として
甘やかされた結果、スポイルされたのだろうと思わせた。
わがまま気ままで周囲は大変だった。

元来まともに働いてこの世を渡るようにはできていない人なんだとしみじみ思った。
私はずっと父がヨーロッパに行ったのは、
漱石の長男というプレッシャーから逃れようとしたのだろうと思い込んでいた。
いつだったかそんな話をチラリとしたら、
「そういうプレッシャーみたいなのを感じたことはなかったなあ」
まことにのんびりした口調だったので、拍子抜けした。
父が漱石のことを話す時「とにかく怖かった」とは言っても、
プレッシャーを感じたようなことは言っていないのだ。
「親父は機嫌の良い時は、何しても怒らなかったなあ」とも言っていた。
父や叔母たちから聞く漱石像はだいたいかくのごとしでロクなものはない。
ただ漱石は弟子たちにはとても評判が良かった。
父などには鏡子夫人が弟子たちから悪者にされているという不満があったようだ。
子供たちにすれば、
これであの母親がいなければ逃げ場がないというほどの気持ちがあったろう。

戦雲急を告げるヨーロッパからやむなく帰国した父は、
東京フィルハーモニー楽団結成に参加、初代のコンサートマスターを務めた。
日本での戦争が激しくなっても音楽家の仕事というのは十分あったようだ。
楽団の練習場でフリーのハープ奏者だった母を見初め、戦時中に結婚した。
かくて戦後、姉と僕が生まれる。

音楽のみならず、絵画・服装・スポーツ・家具など、
趣味性の発揮される分野では抜群のセンスを持っていた。
父の最も基本的な価値基準は、趣味と快楽、芸術と道楽だった。
良い悪い、好き嫌いの判断において、ほとんど迷いがない。
「俺は好きでヴァイオリンを弾いてるんだから、本当は仕事でなんかやりたくないんだ」
何のてらいもなくそう話すのを聞いた時にはさすがに呆れた。
批判の口は達者なくせに、
世間に揉まれていないせいか実際的な処理能力がまるで無かった。
多分に母の苦労と彼女の父批判が僕に伝わってのことと思う。
まして母は父と逆に働き者で、金銭感覚も実務能力もある人だった。
女にしておくのがもったいないと周囲から言われ、
本人も男だったらと思っていたようなタイプだったので
相対的に余計父の像は零落してしまったのだろう。

私は圧倒的に父親に反抗しようとしたタイプで、
母親にはさほどの反抗心を持った覚えがない。
母はフリーのハープ奏者で、かなりハードに仕事をしていた。
父があまり働かなかったためであるらしい。
楽団の地方巡業で家にいないこともあった。
幼い私からすれば、ハープの練習で自室にこもってしまったり、
ハープという華麗だがひどく重くて体力のいる楽器を人前で弾く母親というのは、
家にいてヌカミソ臭くて愚痴やら小言ばかり言っている母親とは
まるで違う存在であったと思われる。むしろカッコ良かったのかもしれない。
着る物はいつも洋装で、戦前にはダンスホールに親に内緒で通ったというから
モダンガールというか、そういう颯爽たる感じであった。
性格もサッパリしていて、意志が強くて我慢強く、行動的であった。
父と一緒の時に母が駅の階段を転げ落ちたことがあった。
父が慌てて下の踊り場に駆けつけた時には、もうとっくに立ち上がって
遠くの方へサッサと歩き去っていたというのは父の談である。


三田平凡寺は奇人の蒐集家として有名だった。
本人は耳が聴こえず話はすべて筆談。気難しく偏屈、人の好き嫌いも激しかった。
戦時中の話。三田平凡寺の末娘嘉米子はハープ奏者として活躍してた。
彼女はヨーロッパ遊学から帰った漱石の長男ヴァイオリニスト夏目純一と出会い結婚する。
純一が娘をもらいに三田家に出向き平凡寺と相対した時のこと。
平凡寺は趣味の人である。
そこらに置いてあった屏風を指して「純一君、この歌には裏がある」と言ったらしい。
純一、何を思ったか、そろそろと這い出しておもむろに屏風の裏を覗いたという。
平凡寺は「うーん、純一君は素直だ」と感心してしまった。
かくて純一と嘉米子はめでたく敗戦直前に華燭の典を挙げ、戦後男女2児をもうけた。
純一もまた人の好き嫌い激しく、相当の偏屈であることは息子の私が保証する。
戦後、海外旅行が可能になっても父はヨーロッパに行こうとしなかった。
「何もかも変わっちゃったからね。今のヨーロッパは見たくないんだ」


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漱石の孫/漱石の長女筆子の娘 半藤末利子

叔父純一は度外れたワガママな人であった。
漱石は男の子たちには相当に厳しく接した。
漱石は純一が10歳の時に亡くなったのだが、
その反動からか鏡子夫人は純一を甘やかし放題に甘やかした。
おかげで純一は心根は優しいのに、このうえなく自己中心的に育った。
自分のオシャレや趣味には湯水のごとく大金を費やすのに、
家族を養うのは妻の役目と勘違いしているフシしがうかがわれた。
あの叔父と暮らすことのできる女性は叔母しかいなかったと、
叔母の苦労を思いやって通夜の席上私たちイトコは叔母を絶賛しあった。
純一は戦前15年間もベルリンに居住してバイオリンを学んだ。
帰国後は交響楽団に入り、そこのハーピストであった叔母に一目惚れして二人は結ばれた。
当時はハープそのものが珍しい楽器だったのでハーピストは希少価値で、
叔母のギャラはコンサートマスターをしていた叔父より高かった。
叔母はスカッとした性格で、頭の切り替えも早い。
時代が経つにつれて若手のハーピストたちが台頭してくる。
いつもでも自分ごとき老体がはびこっていてはいけないとサッと引退して、
自宅付近に喫茶店を開いた。
純一が亡くなった後も、純一が遺した漱石に関する遺産を
一つ残らず神奈川近代文学館に寄贈した。金に換算したら莫大な額になろう。
叔母は私のような俗人と違って、
一つぐらいは取っておこうなどとケチ臭い考えを抱かない人であった。
一つとして私物化せず公共に供した叔母の思い切りの良さには脱帽する。


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ヨーロッパにて
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純一&嘉米子夫妻
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左側伸六夫妻 右側純一夫妻
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by vMUGIv | 2012-03-13 00:00 | 明治
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