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2018年 更新中
by vMUGIv
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夏目漱石 その12

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漱石の孫/漱石の長女筆子の娘 松岡陽子マックレイン

父松岡譲は、新潟県長岡市近郊の浄土真宗の寺に生まれた。
長男で本来なら寺を継ぐ立場だったが、漱石の長女と結婚し
とうとうお寺を継がず東京に残ってしまった。昔の寺はお寺様と呼ばれ、
寺を継ぐ長男が大学へ行く時の月謝は村の檀家が出したそうだ。
その長男が村に戻らないのだから、村人たちが父の行動を喜ばなかったことは想像できる。
また父が母と結婚した当初は、他の弟子たちの嫉妬のせいか
あまり平和な結婚の出だしではなかったようだ。
ある弟子からもう少し待っていれば自分が結婚してやったのにと言われたとかで、
母は後年になっても憤慨していた。
また他の弟子からは芥川龍之介にならやってもいいと自分の娘でもないのに
勝手なことを言われたと、これまた憤慨していた。
芥川は母にまったく興味がなかったようだ。
漱石の娘4人のうち、三女の栄子ならまあいいと芥川本人が言っていたと
母から聞いたことがある。栄子叔母は美人で、フランス語に堪能で、
生け花もピアノも教える能力があった人だから、芥川の言葉にも納得できる。
しかし栄子叔母は一生独身を通した。彼女は祖母の大のお気に入りで、
好きでもない男性との結婚を勧められ、それが嫌でとうとう結婚しなかったと母から聞いた。
祖母は娘たちに対して、少々強引なところがあったようだ。

久米正雄が母を父と争って自分が負けたと『破船』という小説に書き、
父を友人を裏切った悪人のように書いているので世間ではそのイメージが流布していた。
ある家庭では、私の姉を指してそんな父親の子供とは遊ばせないとまで言ったそうだ。
何を言われても父は沈黙を通したが、それを聞いて家族のために弁護することを決め
『憂鬱な愛人』という小説を書いた。晩年母は、父を好きになったのは自分の方で、
父にはむしろ迷惑をかけた結婚だったのではと話したことがあった。
父も一度だけ私に、母と結婚したことは文学的には損をしたと語ったことがあった。
ある出版社は父の作品を一切出版しないとまで言ったという。
男性の嫉妬は男女間の嫉妬より強いと聞いたことがあるが、
父の場合まさにこれであったらしい。


祖母は漱石の死後印税収入があり、
母の弟妹たちもその恩恵を被りかなりの贅沢ができた。
長男純一は小さい頃からヴァイオリンが上手だったそうで、
中学を卒業してすぐヨーロッパまで勉強しに行った。
次男伸六は夏休みにシベリア鉄道で兄に会いにドイツまで行ったという。
今と違って、外国旅行など大変な贅沢であった。
栄子叔母は若い時身体が弱かったので、祖母が鎌倉材木座に一軒家を持たせ
一人の女中さんと住んでいた。私たち甥姪は、
夏休みになるとよく彼女の家に遊びに行って何日も泊まって海で泳いだ。
新大久保に祖母の家があった時、2人の叔母たちは流行の最先端だったパーマをかけに、
家から車で伊勢丹の美容院によく出かけていた。
当時のパーマネントは、外国から入ったばかりでかなり高価だった。
母の弟妹たちは父親の印税収入のお蔭で、このようなゆとりのある生活をしていた。
しかし漱石が生きている頃の夏目家は慎ましく暮らしており、長女であった母は
いつも小さい弟妹たちの世話に追われ贅沢一つしたことはなかったという。
結婚してからも私の父の松岡譲は大衆小説のようなお金儲けができる作品は
何一つ書かなかったから、家はいつも貧乏だった。
母はもともと貧乏に生まれついた人だったに違いない。

父は77歳で脳出血で突然逝った。母は父の死後20年もの間生きてきたが、
最後の数年は妹に献身的に世話をしてもらって余生を過ごした。
週一回は妹の家へ行ったが、母は少々ボケ始めていて
私と妹の見分けがつかないことがよくあった。
そんな状態でも母はいつも丁寧な言葉遣いで、
私たちは「お育ちがいいのに」などと冗談交じりに笑っていた。
当時の母は寝たきりで不便を感じていただろうが、
怒ったり威張ったりすることがまったくなく、
ちょっとのことでもいつも感謝し遠慮がちの人だった。
祖母のような剛胆なところはまったくなく、むしろ苦労性の方だった。
母は90歳という高齢で他界した。


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漱石の孫/漱石の長女筆子の娘 半藤末利子

筆子は並はずれた苦労を背負わされた人であった。
久米正雄が祖母鏡子に筆子を欲しいと申し出た時には、古参の弟子たちは猛反対した。
芥川龍之介・久米正雄・松岡譲など第4次新思想同人が漱石の門をくぐったのは
漱石の最晩年のわずか1年間にすぎないが、
彼らは華々しくありすぎて先輩たちにはとかく面白くない存在であった。
そこへもってきて目立ちたがり屋の久米が
漱石の一周忌も待たずに筆子に求婚したとあっては、古参軍が許すはずがない。
いっぽう39歳で夫に先立たれた鏡子は6人の子を抱え途方に暮れていた。
そこへ筆子に熱を上げた久米からの申し込みがあったのである。
「本人の意思を確かめた上で」という前置きをつけながらも、
むしろいそイソイソとそれを受け入れた。鏡子の頭の中には、
長女の婿には腹心の部下のような気のおけない、しかし頼れる男性を迎え
同居させて家のことを任せようという未来図が描かれていたのであろう。
鏡子は「お前は久米さんと結婚するんだよ、いいね」
と筆子に有無を言わせぬ勢いで申し渡した。
なにしろ明治生まれの17歳の令嬢のことである。
母親の言いつけに背くなんてとんでもないと筆子は思い込んでいた。
久米と結婚しなければいけないと自分に言い聞かせはしたが、
一目見た時から好きになってしまった松岡に対する愛は
日ごとに深まるばかりで諦めようもない。
肝心の松岡は筆子と顔を合わせれば「もっと久米に親切にしてお上げなさい」
と言うばかりで相談できるでなし、筆子は一人若い胸を悩ませていた。
なかなか筆子から色よい返事がもらえぬ久米は焦れるあまり、
二人の恋が成就することをほのめかすような小説を発表したり、
婚約も間近などというゴシップを自ら雑誌に載せさせるなど、
下手な小細工をやらかして次々とバレて、
最初は味方だった鏡子の心までがどんどん久米から離れて行った。
代りに漱石から<北国の哲学者>と言われていた松岡への
鏡子の信頼は増す一方となった。
しかし寺の長男でゆくゆくは跡を継ぐ身である松岡を、
鏡子は娘婿の対象として最初から除外していた。
しかし筆子のひたむきな愛を知らされその愛を受け入れようと決意した松岡は、
越後まで両親を説得に行き弟に僧籍を譲り許可をもらって帰京した折には、
鏡子は嬉しさの余り有頂天で松岡を迎えたのである。
しかも久米の時には反対の大合唱を繰り広げた先輩たちも、
松岡の時には特にウルサ型の最たる小宮豊隆さえ拍子抜けするほど反対を唱えなかった。
とにかく当の筆子が好きな相手なのだから仕方がないし、
反対のしようがなかったのかもしれない。

しかし払わされた代償は大きかった。
当時10歳であった長男純一が一人前になるまで夏目家を護り、
女の鏡子一人では手に余る諸々の雑務を自分が代行するということに異存はないが、
妻と自分の食い扶持ぐらいは稼ぎたいと就職しようとした松岡に
「あなたには家の仕事をしていただかねば困ります」と鏡子はそれを許さなかった。
働き盛りの大の男が一日中家にいてしなければならないほどの商売を
やっていたわけではなし、鏡子の命令で松岡がイヤイヤやっていたことといったら、
門下生に貸した金の取り立てやら、鏡子が一度ならず人に騙されて出資して始めた
会社の倒産の後始末など、およそ松岡に似つかわしくない仕事であった。
松岡はこうして7年近く夏目家で暮らした。
松岡としては書きたい書かねばという気持ちに駆られたが、
「お父様は40歳から書いてあそこまでおなりになったのだから、
あなたも下手な小説など今書いてはいけません」と鏡子は釘を刺した。
おまけに筆子の妹弟たちも成長するにつれ、
居候してタダ飯を食っているとあからさまに態度や言葉に出すようになり、
松岡はもちろんだが筆子も間に入って居づらい思いを味わった。
鏡子は太っ腹で優しい人なのだが、松岡と筆子の微妙な立場を思いやり
周囲を丸く収めようなどと細かい気配りをする人ではなく、
漱石亡きあとは一種独裁者で人の諫言に耳を傾ける人でもなかった。
こうした事情もあって、世間からは恋を勝ち得た上に夏目家の婿に納まって
のうのうと暮らしていると思われている分、松岡は気の毒だった。

大正13年、両親は結婚7年目にしてようやく夏目家から独立して一家を成した。
こんなに晴れ晴れと暮らしていいのだろうかと思うほどの
解放感と幸福感に浸ったと筆子は述べていた。
叔父伸六に赤紙が来た時もそうだったが、
重大事には鏡子は決まって電話をかけてきて松岡を呼びつけている。
松岡は鏡子にとっていつまでも気のおけない頼れる腹心の部下だった。
叔母栄子は「お祖母ちゃまはね、純一夫妻が一番大事で、筆子夫妻が一番可愛いの。
『これ、筆子に送っておやり』なんてすぐ言うのよ」とちょっと腹立たしげによく言っていた。


漱石門下であった父と久米は漱石没後、夏目家と深い関わりを持つようになった。
父にとって筆子は高嶺の花以上の冒すべからざる神聖な領域に属する存在で、
己の配偶者にしようなどとは露考えも及ばないことであった。
一方久米は筆子に恋心を抱き、結婚を申し込む。
奥手で女性に免疫のない父は、ゆくゆくは友と結ばれるかもしれない筆子に
装うこともなくむしろ無防備に接してきた。ところがあろうことが、
その筆子の自分に対するひたむきな愛を知らされてしまうのである。
父の驚愕はいかばかりであったか。筆子の気持ちを受け入れようと決意するまでの
父の迷い、苦渋、懊悩は計り知れないものであった。
しかし父は筆子の命がけの愛に応えんがために、あえて祝福されない結婚に踏み切った。
親友を失い、仲間から孤立し、先輩を敵に回し、甘んじて世間の非難を浴びた。
父と久米が漱石の長女を争い、
弱気でお人好しの久米がコケティッシュな筆子に弄ばれた結果、腹黒い父に奪われた
という久米に都合よく書かれた話が事実としてまかり通った時代もあった。
私自身、子供の頃から
「へーえ、あなたが筆子さんのお子さんなの。『破船』を読んだことあるわよ」
と含みのある薄笑いを浮かべた好奇な目で見られたことは一度や二度ではなかった。

文壇という大船に乗って創作を続けていれば安泰に一生を送れたであろう。
しかし父は母と結婚したことで、たった一人で大海を泳ぎ切って行かねばならなかった。
従って我が家の家の経済はたびたび逼迫した。
母はめげずによく耐え、身を粉にして父に尽くした。
父が逝って母と一緒に暮らすようになってから15年以上もの間、
「初めて見た時からパパが好きになってしまったの」
「私の方がずっとずっとパパのことを愛していたのよ」
「パパはきちんと座って障子や襖を開け閉めしたでしょ。
お祖父ちゃまのお弟子さんでそんなことをする人はいないから、
なんてお行儀の良い人だろうって好感を持ったわ」
と母の父に対する熱烈な想いを私は聞かされ続けた。
父の不運の大半は母に一方的に熱を上げ失恋した久米正雄が
父を悪者に仕立てて『破船』を書き、世間をして誤解せしめたことにある。
父ほど高潔な人はいないのに残念だ。
母はなんとかしてこの誤解を解きたいと繰り返し私に訴え、
「あんなに運の悪い気の毒な人はいなかった」と嘆き悲しむのであった。


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by vMUGIv | 2012-03-12 00:00 | 明治
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