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by vMUGIv
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夏目漱石 その4

◆慶応03年 1867 2月9日東京新宿に生まれる。
生後間もなく里子に出されるが、すぐに戻される。
◆慶応04年 01歳 塩原昌之助の養子となる
◆明治09年 09歳 養父の女性問題から養父母離婚。
籍は塩原家に置いたまま漱石は養母とともに夏目家に引き取られる。
籍を置いたままであったことが後々問題となる。
◆明治11年 11歳 東京府立第一中学入学。
◆明治14年 14歳 漢文塾二松学舎に転校・さらに英学塾成立学舎に転校。
◆明治17年 17歳 大学予備門入学、途中で第一高等学校と改称。
◆明治23年 23歳 第一高等学校英文科卒業。
東京帝大英文科入学。東京専門学校の英語講師となり学費を稼ぐ。
この頃から神経衰弱の兆候が見られる。
◆明治26年 26歳 東京帝大英文科卒業。東京高等師範学校の英語教師となる。
◆明治27年 27歳 第1回神経衰弱発病。
◆明治28年 28歳 東京高等師範学校を退職、愛媛県松山中学校に赴任。


★第1次精神病期 27歳~28歳 東京高等師範学校退職から松山中学退職まで


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漱石の妻 夏目鏡子

夏目は慶応3年1月5日に生まれたのですが、
それが申の日の申の時の時に当たっていました。
申の日の申の時に生まれた者は昔から大泥棒になるものだが、
それを防ぐには金偏のついた字をつければ良いという言い伝えがあって、
それで金之助という名をつけたということです。

生まれはしたものの年寄りっ子で、お乳がない。
そこで四谷の古道具屋に乳があるというので里子にやることになりました。
こうして乳離れのするまで古道具屋に預けておかれました。
そこへ折りよく養子の話が持ち上がりました。
塩原昌之助は夏目の家に書生をしていた者ですが、
見所があるというわけで名主の株を買ってもらってだんだんに取り立てられ、
その頃では浅草の戸長となっておりました。
妻のおヤスさんというのも夏目の家に奉公していて一緒にしてもらったのだそうですが、
夫婦の間に子供がありません。
養子を物色していたところへ、恩人の子であり男の子で願ったりかなったりで、
こちらもやるなら気心の知れた所がいいというので、塩原に養子に行くことになりました。
夏目の3歳の時です。

最初のうちは夫婦二人ともたいそうな可愛がりようで、
何でも欲しいと言う物は買ってくれるし、
それはそれは我が子のようにちやほやしたそうですが、
そのうちに子供はそっちのけにして夜昼夫婦喧嘩ばかりするようになりました。
おヤスさんは根が非常なヤキモチ焼きだったのですが、
ヤキモチ喧嘩をするには原因があったのです。
浅草のどこかに後家さんで寂しく暮らしている女があり、
いろいろその面倒をみてやっているうち、色に絡んでしまったものらしいのです。
とうとうその女が家に入り込んで、あべこべにおヤスさんを追い出そうという始末。
ことに大助兄さんがたいそう同乗して、自分は病身であり妻帯もできそうにないので、
金ちゃんを養子にして跡を取らせようと引き取ることになったのだそうです。
それが夏目の7歳の時です。

実家に帰っておりましたまま、やはり塩原金之助で、籍はいっかな渡してくれません。
ずいぶん大きくなるまで塩原姓を名乗っていたものだそうです。
大助兄さんが亡くなられたのをきっかけに
準養子の話からいよいよ夏目へ復籍させることになって、
養育費など合わせて240円を支払うというのでようやく契約が成り立ったそうです。
その時縁は切れるものの今後とも一切不実不人情は致すまじく候という一札を
夏目の方から塩原へ入れております。
これが夏目が有名になってからたたってくるのでございます。

おヤスさんは間もなく後家さんに放り出されました。
そのおヤスさんがはるばる熊本へ手紙を寄こしたのです。それはそれはくどい手紙でした。
結局困っているから金が欲しいというような意味合いがほのめかしてありました。
それからは1年に1度ぐらいは見えたでしょうか。来るたびにお小遣いを上げました。
塩原の方はその後欲にかかって、先の契約を無視して不実不人情の一札を楯にとって
人を寄こしては態のいいゆすりにかかりました。
出す義理はないのだけれど、100円で今後は文句を言わないということを
親類の者などが入ってけりをつけました。

夏目は家がうるさいとかで小石川の法蔵院という寺に間借りしていたそうです。
トラホームを病んでいて、
その寺から毎日のように駿河台の井上眼科に通っていたそうです。
すると始終そこの待合で落ち合う美しい若い女の方がありました。
背のすらっとした細面の美しい人で
──そういう風の女が好きだとはいつも口癖に申しておりました──
その人が見るからに気立てが優しくしんから親切でして、
そばで見ていてもほんとに気持ちが良かったと後でも申していたくらいでした。
当時は珍しい学士のことですから、縁談なんぞもちらほらあったことでしょう。
そんなことからあの女ならもらってもいいと独り決めしていたものと思われます。
ところがその人の母が芸者上がりの性悪の見栄坊で、
始終お寺の尼さんなどを回し者に使って一挙一動を探らせた上で、娘をやるのはいいが
そんなに欲しいんなら頭を下げてもらいに来るがいいという風に言わせます。
そこで夏目も、俺も男だ、頭を下げてまでくれとは言わぬといったあんばいで、
それで一思いに東京が嫌になって松山へ行く気になったのだとも言われております。
パリパリの学士で大学でも評判の良かったという人が、なにも苦しんで松山くんだりまで
中学教師として都落ちをしなければならないわけはなかったらしいのです。
ともかく松山へ行っても、まだその母親が執念深く回し者をやって、
あとを追っかけさしたと自分では信じていたようです。

ちょうどその事件の最中で頭の変になっていた時でありましょう。
突然実家に帰ってきて、兄さんに「私に縁談の申込みがあったでしょう」と尋ねます。
そんなものの申込みに心当たりはなし、第一目の色がただならぬので、
「そんなものはなかったよ」と簡単に片づけますと
「私に黙って断るなんて、親でもない兄でもない」とえらい剣幕です。
兄さんも辟易して「いったいどこから申し込んできたんだい」
となだめながら尋ねましても、それには一言も答えないで
ただむやみと血相を変えて怒ったままぷいと出て行ってしまった。
兄さんも心配でなりません。ともかく法蔵院へ行って尋ねてみたら子細もわかるこどだろう、
こう思ってお寺へ行かれた。が、てんで寄りつけもしない剣幕で、
そんな不人情者は親でもない兄でもないを繰り返して、当の相手のことを尋ねてもそれは
相変わらず一言ももらさないので、手がつけられないのでそれなりに帰られたそうです。
法蔵院の尼さんに帰り際に尋ねてみると、
夏目さんの部屋の方でも見ているのがみつかろうものなら、
ひどく怖い目つきでにらまれたりしますという話だったとか申します。
これは後で当人の口から聞いたのですが、
尼さんの中の一人に眼科で会う婦人によく似た尼さんがありました。
祐本さんと申しました。ある日祐本さんが熱を出しました。
気の毒に思ったとみえて一服解熱剤を盛ってやったそうです。
すると他の尼さんが夏目の方を指して「まだあの人のことを思ってるんだよ」と口さがなく、
祐本さんがその婦人に似ているから親切にするのだとばかりにほのめかしました。
それを小耳にはさんで、いっそう尼さんたちが女の母親に頼まれて
探偵の役をしているのだと思い込んだものだとかいうことです。
そうして家は嫌、法蔵院も嫌、東京全体が嫌になったのではないかと思われるのです。
そんなわけからか急に東京を捨てて松山へ行くことにしたらしいのですが、
松山へ行っても下宿のかみさんや何かが回し者に見えていて、
あまり愉快ではなかったようです。とにかく得体の知れない変な話でございます。

その後洋行から帰ってまったくお話にならない乱暴を家の者にしますので、
私もほとほと困ってある日兄さんに話しますと、兄さんも法蔵院時代のことを思い出して
「それでやっとわかった。なぜあの時金ちゃんがあんなにぷりぷりしていたか、
私には長いこと合点がいかなかったんだが、するとそういう精神病が隠れていて、
それが幾年かおきに暴れ出すんだね」と言われたので、
私も前にそんなことのあったのを聞いて、初めてそれが病気だということを悟りました。
その後、精神病学の呉さんに診てもらいましたところ、
それは追跡狂という精神病の一種だろうと申しておられました。
とにかく想像の上に想像を重ねて行って、しまいには一つの立派な事実
──それは自分だけにわかって人にはわからない──
を作り上げてしまうこうした病的な頭を、私はそれからもしばしば実地に見てきております。
この発作はその後数年経ってからひどく起って参りましたが、
ずいぶんと病気の昂じている時でも遠い人には案外良くって、
近い人ほどいけないのですから始末におえません。
だもんで、私が困り話なんかしましても、
知らない方はあの謹厳な夏目がと本気になさいませんのです。

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by vMUGIv | 2012-03-04 00:00 | ヒト
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