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by vMUGIv
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三島由紀夫 その11

◆41歳 居合道始める。『論争ジャーナル』の学生編集者たちと出会う。
『憂国』のモデル青島中尉の割腹現場に行った軍医川口良平に
手紙・電話などで切腹について質問攻め。
◆42歳 自衛隊体験入隊始める。空手始める。
朗読レコード『天と海 英霊に捧げる七十二章』を作る。
◆43歳 楯の会結成。


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親友・仏文学者 村松剛

若者たちが三島の家に出入りするようになってから、彼はある日こんなことを言った。
「若い者が来たら、こっちはドテラなんか羽織って玄関に出て『おう来たか、まあ上がれ』
そう言ってほしいのだろうなあ、あいつらは。それは俺にはできないんだよ」
唖然とする思いで僕はこの言葉を聞いた。
磊落をてらうこういう泥臭さを、三島は何よりも嫌っていたはずではないか。
剣道の掛け声も生臭くてファナティックで耐えがたいと、少し前までの彼は言っていた。
「あの生臭い声。それから、試合に勝っても負けても腕を顔に当てて
ウーッとかいって泣くだろ。我慢できないな」
『奔馬』を書いていた頃の作者は、こういう嫌悪感をもう口にしなくなっていた。

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今上天皇の御学友・作家 藤島泰輔

昭和42年1月11日、三島氏の前には26歳と25歳の青年が座っていた。
中辻君と万代君である。
「僕は君たちの話を聞いて、破れないと思っていた書斎の壁が破れるような気になってきたぞ」
と三島氏は言った。
「『英霊の声』を書いてから、俺には磯部一等主計の霊が乗り移ったみたいな気がするんだ」
と真顔で打ち明けるのを聞いている。
そして氏は、書斎から日本刀を三振持ち出してきてそれを抜き放ち
「刀というのは鑑賞するものではない。生きているものだ。
この生きた刀によって、60年安保における知識人の欺瞞をえぐらなければならない」と言った。

『論争ジャーナル』の2青年に加えて、若い学生たちが三島家の客となるようになった。
後に楯の会のメンバーとなった青年たちである。
三島氏は青年たちに武人としてのシツケを徹底的に施すことを始めた。
午後6時を約束の刻限とし、6時半に夕食が供せられた。
夕食は青年たちにとって極めて贅沢な内容のものに限られていた。
ビーフステーキ・中国料理なども、フルコースとして青年たちの前に現れた。
いつの場合にも、フランス産の最上級のワインが出された。
夕食が終わると3階の展望の良い部屋に誘い、
キューバ産の葉巻の木箱を開けて青年たちに勧めた。
コニャックとスコッチが食後酒として用意された。

中心メンバーによる三島家訪問は定期的に続いていた。
三島氏はしきりに日本刀を書斎から持ち出して、一同に抜かせ素振りを教えている。
切腹の作法、歴史上の切腹の話なども次々と飛び出した。
時には絨毯に青年を正座させ、峰打ちで介錯の作法を教えた。
それを行うのは三島氏に限っており、必ず首の寸前で止めた。
初めはいい気のしなかった青年たちも次第に慣れて、
背後で刀を振り下ろす風を切る音が聞こえても平気でいられるようになった。

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新潮社編集者 菅原国隆

年齢もほぼ同年、育つ環境もほぼ同格という点において作者と一脈通じ合う気風があり、
作家と編集者の関係を超えて生活上の些事も打明け合う親友の間柄に達していた。
昭和42年7月の段階ですでに
「近頃の三島さんは、何を考えているんだかさっぱりわからないよ」
と嘆息まじりに漏らしていた。

昭和43年
三島は「今度、自衛隊に学生を連れて行くことにした」と述べ、
楯の会結成の細かいいきさつも説明したという。できれば菅原さんの賛同を得るとともに、
相談役として一肌脱いでもらいたい気持ちがあったらしい。菅原さんは反対した。
「三島さん、いったい何を始めるつもりなんですか」いきなりそう切り出した。
「とにかくご自分で作り上げた主人公になりきる習性があるから注意してくださいよ」
『禁色』を書く前の三島が男色酒場に出入りし、
<ユウちゃん>という青年を可愛がっていたのを菅原氏は見ていた。
一時の三島は男色の世界に入り浸った。
『美しい星』を書いていた頃の三島はなかば宇宙人になりかかっていた。

『美しい星』の取材に同行した菅原さんの話によると、
空飛ぶ円盤を見る目的で山で夜明しした時のいでたちが、
肩から毛布みたいなものを巻きつけ、もう一方の方には大きな望遠鏡をつけ、
自分でデザインした実に奇妙な帽子をかぶり、格好まで宇宙人を模して現れたので
危うく吹き出しそうになったと言うのである。
格好だけではない、真実宇宙人になったつもりらしい。

「ご自分で作り上げた主人公になりきる習性がある」
と氏が言ったのは過去のそのような経験による。
この言葉は三島の痛いところに触れたようで、彼は悪戯を見つかった子供のような顔をした。

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親友・仏文学者 村松剛

昭和44年の夏の頃、「中辻を呼んであるから、つきあってくれよ」と三島は囁いた。
中辻和彦は昭和41年の暮れに三島の家を訪問した万代潔の仲間で、
『論争ジャーナル』の編集責任者だった。
行き先は赤坂プリンスホテルの喫茶室だった。席に座るなり、彼は中辻君を面罵した。
「君は雑誌なんかやめて、リュックサックを背負って田舎に帰れ」

ある右翼系の人物から『論争ジャーナル』が財政上の支援を受けていたことが
三島を立腹させた原因だったと、これも後になってから聞いた。
多少誇張癖のあるその人物は楯の会は自分が養っていると吹聴し、
それが三島の耳に伝わったのである。楯の会を外部からの金銭上の援助なしに
独力で運営してきた三島にとって、これは許しがたい背信行為だった。
絶交宣言の立会人として、僕がその場に呼ばれたらしい。

この事件によって『論争ジャーナル』系の7人が楯の会を辞めた。
その中に持丸博という学生がいた。三島が<祖国防衛隊>の結成を
初めて告げた相手が中辻・持丸の2人であって、持丸は後で学生長に任命される。
三島には彼だけは辞めさせる気はなく、辞めもしないだろうと思っていた。
楯の会の仕事に専念してくれれば、生活は自分が保証すると三島は彼に提案した。
それを振り切って持丸は楯の会を去ったのである。この時も三島は電話をかけてきた。
「持丸が辞めるって言うんだよ。楯の会が成り立たなくなる」
悲しみようは尋常ではなく、大切な右腕を失った嘆きというよりも、
我が子に裏切られた父親の悲嘆を思わせた。
三島は森田必勝を次の学生長に任命した。

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持丸博は後任の学生長に自分と同じく実務的な能力がある倉持清を推薦したが、
三島が決めた学生長は森田必勝であった。

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by vMUGIv | 2015-03-11 00:00 | 昭和戦後
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