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by vMUGIv
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森鴎外 その13

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鴎外の後妻 森しげの小説 『波瀾』 明治42年12月発表

富子は法学博士大野豊と東京で結婚式を挙げた。ともに再婚であった。
翌日大野の赴任地小倉へ出発する。

しばらく黙つて歩きながら、「初めつからお前と結婚すれば好かつたなあ」と言って、
大野は富子の手を堅く握つた。
「そんなに早くではわたくしは子供ですもの」と富子は甘えるように言った。
「さうだつた。俺もちつと若すぎるように思つたが、婆さんすぎるよりましだからね」
と大野は笑った。
「女は子供を産むとすぐお婆さんになると申しますもの」
「子を産むのは良し悪しだ」
富子は思ひがけないので返事ができなかつた。
「女は子を産むと損ねる。
せっかく綺麗な顔や髪をだいなしにしてしまふのは馬鹿馬鹿しいではないか」
大野は当たり前のつもりでかう言った。

「小倉の家へ行つたら慣れている下女もゐるのだから、お前はなんにもしなくつても好い。
美術品だから損ねないように大事にしておくよ」
妻にもらつた者に子を産まなくてもいいと言つたり、
なんにもしなくていいと言ふ大野の気持ちが分かりかねたが、
どうもなんだか嬉しくなかつた。
「わたくしはなんにもできませんが、そのうち慣れませうからどうぞ御指図あそばして」
大野はかう言つた。「俺は妻と下女を共通にするのは嫌だ」

大野は九日の日から事務所へ出勤した。
富子は待つといふことを始めて覚えたので、今まで約束をした友だちなんぞを待つたのは
あれは待つたといふものではないとまで思つた。
約束どおり三時少し過ぎに帰つてきた大野は
嬉しそうに出迎えた富子の頬を両手で押へてキツスをした。

大野を送り出して、二階へ駆け上がつて自分たちの床を上げかけた。
その時富子は何か変つたことを発見したらしい様子で、
急に真青になつてしばらくは身動きもしなかつた。
富子の目からは冷たい涙がこぼれた。



ここはわかりにくいが、要するに富子は布団の下から避妊具を見つけたのである。


夫はたしかに優しくしてくれる。可愛がつてくれる。
しかし夫のは可愛いから可愛がるのではなくて、義務で可愛がるのではあるまいか。
うかうかと罪もなく喜ばせられてゐるとき、
ふと夫は自分をおもちやにする、一時の慰みにするといふ風に思はれることがある。
それが今こそは夫の心持ちを確かめることができたのである。
これでは全く自分は死の宣告を受けたに等しい。
しかしこの身体を無駄なものにしてしまふのは嫌だ。
自然に背いたことをしているのは恐ろしい。
こつちでは一日も大野なしには生きてゐられないやうに思つてゐるのに、
大野が平気でこんなことをしてゐるのは
あまりに残酷だ、情けない、男らしくないと富子は思つたのである。

富子は眠られなかつた。夫は寝入つたのか静かにしてゐる。
富子ひとり目を開いて大野のことをいろいろ研究してゐる。
夫はありふれた洋行帰りとは違つてよほど長い間外国にゐたので、
世間で言うハイカラアとは気風が変わつてゐる。どこか深く西洋化してゐるらしい。
それで東洋風の道徳の上から見るとできないやうなことも平気でするのではあるまいか。
今の出来事で見ると、
妻を妻と思つてゐない、家庭といふものを尊重しない夫の軽薄な考へがよく分かつてゐる。
こんな風に分かつているうちはまだ良いが、この上またどんな事があるかもしれない。

「なるほど、妻があつて子供を欲しがらないと言ふと冷酷だとも言えば言えるがね、
実はお前のためを思つたのだ。
お前の髪が抜けたり萎びたりするのを、あまりに惜しいやうに思つたのだ。
せっかく綺麗なお前と夫婦になつたのだから、
所帯じみさせないで一年や二年は気楽に散歩でもしてゐたかったのだ」
「では、わたくしは散歩のお供に参つたのでごさいませうか」
「そう曲がつて聞いてはいけない。
フランスなんぞの女は少しでも容色の衰へることは決してしない。
お前をなるだけ損ねないように保存して置かうと思つたのだ。
俺はいったい考へが世間並ではない。先が見えすぎる。
あまり先の見えるのは人生の幸福ではないかもしれない。
だがお前のためを思つたのには違いない。
それに子供ができると多少生活にも影響が及んでくる。
俺はもとから貧乏人の子だ。貧乏暮しなどは少しも恐れない。
ただお前にはあまり苦労をさせたくないと思つたのだ。」
「あなた初めに御結婚あそばした時には、ぢきお子さんがお生まれになつたでせう」
「その時は俺も若かつた。目の前のことだけで世間を渡つてゐた。
それに前の妻は別嬪ではなかつた。一緒に散歩をしようなどとは実はあまり思わなかった」
「それでも子供が無くつては、もしあなたに見捨てられてしまいました時
わたくしは一人ぼつちになつてしまひますわねえ」
「見捨てるも見捨てないもあるものか。
俺の方で嫌になるか、お前の方で飽きるか、自分たちにだつてわかるものではない。
お前が子供をたくさん産んで醜い女にでもなつたら、
それこそ俺の方で嫌になるかもしれないではないか。
子がかすがいになつて夫婦の縁が固まるといふのは、
夫婦の恋愛といふ話とは矛盾している。
恋愛が無くなつて別れたいのに、かすがいがあつては困るわけだ。
それではかすがいではなくて、西洋で囚人の足を繋ぐあの鎖だ。
かすがいのたとえは、義務から出てゐて恋愛からは出てゐない」
「しかしさう煩悶するには及ばないよ。お前がさう思ふならもう余計な遠慮はしないから」
富子はちょっと赤い顔をした。
「わたくしよく分かりませんからどう致してよろしいか存じませんが、
どうもあんなことはなんとなく恐ろしいやうに思ひますわ」
「それはみんな誤解だ。もう少し一緒にいれば分かるよ」
本能に支配せられている富子には、三人の子を産んで一人の子を流産して
髪は抜け皮膚は弾力を失つて昔のおもかげが無くなるまで、
大野のその時言つたことがはつきりとは分からなかつたのである。

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鴎外の娘 森茉莉

この森しげの小説は
彼女の夫の森鴎外が朱筆で元の文章が見えないほど真っ赤に直したのを、
森しげが真っ赤のまま本屋に渡したものである。
森しげが真っ赤のまま出したのは馬鹿馬鹿しいほど正直な人間だったからで、
鴎外は彼女の真正直を愛していたのである。
森しげは考えるのに小説を書かなかった方が良かったのである。
本人も晩年すごく後悔していた。
たしかに母は詩的な感情の人であって、
一緒に暮らしていて母の感覚が詩的だということは私も知っている。
だがその感覚を文章の中に出すことは上手くはなかったからである。
この『波瀾』を読んでいると、
これがあの母が書いたものだろうかと不思議に思われてくるのである。
心理も細かく深く働く人であるからだ。
なんだか批評らしい批評が書けなかったが、私には批評する興味が持てなかった。
とにかく甘い新婚の生活を、
克明に日記のように書き込んであるというだけの小説なのだからである

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by vMUGIv | 2012-01-13 00:00 | ヒト
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