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森鴎外 その3

★ドイツの恋人 エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト 『舞姫』エリスのモデル
1866年9月15日-1953年8月4日 86歳没


■父 ヨハン・フリードリッヒ
ガルニゾン教会の教会簿の婚礼記録で1839年オーバーヴィーツコ生まれ。
1880年~1881年死亡。41歳~42歳没


■母 ラウラ・アンナ・マリー・キークヘフェル
ガルニゾン教会の教会簿の婚礼記録で1845年4月8日シュチェチン生まれ。


●長女 エリーゼ・マリー・カロリーネ
聖マリア教会の教会簿の洗礼記録で1866年9月15日シュチェチン生まれ。

●次女 アンナ・アルヴィーネ・クララ 
聖ペトリ教会の教会簿の洗礼記録で1868年9月13日ベルリン生まれ。


両親は1866年5月21日ベルリンで結婚、新郎27歳・新婦21歳。
ガルニゾン教会の教会簿の婚礼記録では、
職業<トレインソルダート>(馬車で移動する軍隊の兵士)。
結婚後除隊して、1866年聖マリア教会の教会簿の長女の洗礼記録では、
職業<カッセンディーナー>(銀行の出納係)に転職している。
長女の時は里帰りしてシュチェチンで生み、
次女の時は里帰りせずベルリンで生んだものと思われる。

父が亡くなり母は35歳で未亡人となる。
ベルリンの住所録1880年度版と1881年度版には、
母マリー・ヴィーゲルトの名前で賃貸契約を結んでいる記録が残っている。
当時は正規の賃貸契約を結ぶ条件は厳しく、
多くの市民はまた借りで生活していたため住所録に記録されていない。
職業は<Näherin>(お針子)と記されているが、
母子家庭でありながら、かなりしっかりした経済基盤を築いていたことがわかる。

鴎外のドイツ留学は1884年(明治17年)8月24~1888年(明治21年)9月8日の4年、
うちベルリン滞在期間1987年4月~1988年7月であるので、
鴎外との交際中エリーゼは20歳~21歳であった。

問題の来日事件は、日本滞在期間1888年9月12日~10月17日(乗船期間含まず)。
当時は各港で乗船・下船すればその乗客の名前が現地の新聞に載る。
ただし、一等客室の乗客しか発表されないので、
エリーゼは往復とも一等客室を使ったことになる。

来日時は、
香港到着 09月05日発行 『チャイナ・メイル』
香港出航 09月06日発行 『チャイナ・メイル』
横浜到着 09月15日発行 『ジャパン・ウィークリー・メイル』

帰国時は、
横浜出航 10月20日発行 『ジャパン・ウィークリーメイル』
神戸到着 10月19日発行 『兵庫ニューズ』
長崎到着 10月24日発行 『長崎エクスプレス』
香港到着 10月26日発行 『チャイナ・メイル』
香港出航 10月29日発行 『チャイナ・メイル』

エリーゼは明治21年7月25日ブレーメン発のドイツ船ブラウンシュバイク号に乗船、
8月28日コロンボ着、9月6日香港でドイツ船ゲネラルヴェーダー号に乗り換え、
9月12日横浜港で下船した。

鴎外の方は、明治21年7月5日にベルリンを引き払い、オランダ・ロンドン・パリを視察し、
7月29日マルセイユ発のフランス船アバ号で日本へ向い、9月8日帰国した。

エリーゼが日本に到着したのは、鴎外の帰国から4日後にあたる。
しかし、エリーゼは鴎外より4日先に出発している。<後を追ってきた>わけではない。
鴎外もそれを知っており、ヨーロッパ視察中に上司である陸軍医務局石黒忠悳に報告している。

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石黒忠悳日記 1888年
07月26日 本日、森の書状来る言う。
07月27日 その情人、ブレーメンよりドイツ船で本邦に赴きたりとの報あり。

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また鴎外は渡航中、コロンボに10日後に入港するエリーゼに本を贈っている。
本の扉にはドイツ語でメッセージが書かれている。

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1888年8月16日コロンボにて
この小説は航海の最後に他に何も読むものがなくなった時に読みなさい。
どちらかと言うと読まない方がいい。この小説は読む価値がない。
 
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コロンボの港に先に入港した鴎外が
この本をエリーゼにどのような方法で渡したのかは不明だが、
エリーゼの宿泊予定のホテルに預けるなどという方法が可能性が高い。
いずれにしても、
この行動には鴎外がエリーゼが来日を迷惑に思っていたというニュアンスは感じられない。


エリーゼが来日した9月12日経った9月24日の朝、
鴎外の弟篤次郎が喜美子の夫小金井良精を大学に訪ねた。
小金井はそこで初めて鴎外の恋人の来日を知り、夕方森家を訪ねた。
そしてエリーゼを穏便に国へと追い返す役目を引き受けた。
翌日からさっそく実行に移し、「いよいよ帰国」「模様よろし」などと記した小金井だったが、
5回目の接触を図った10月4日
「林太郎の手紙を持参す。こと敗る。ただちに帰宅」という事態に陥った。
小金井が持参した鴎外の手紙の内容は不明だが、
これを機に小金井はこの件と距離を置き、代りに石黒忠悳が動き始める。

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石黒忠悳日記 1888年
10月06日 森、来る。
10月07日 森母弟妹、来る。
10月08日 石坂より森のこと内談ある。〔鴎外の上司陸軍医務局次長石坂惟寛〕
10月10日 森、来る。
10月12日 賀古氏、森のこと相談す。〔鴎外の友人賀古鶴所〕

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小金井良精日記 1888年
10月12日 夕刻、賀古氏来る。林太郎氏についての話なり。
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この10月12日、賀古は石黒を訪ねた後、小金井を訪ねている。
そしてこの日を境に今度は石黒日記から事件の記述が消え、
代りに小金井日記に事件の記述が再度現れる。

また鴎外は10月14日付で賀古に一通の手紙を書き送っている。
これが鴎外がエリーゼについて触れた、現存する唯一の資料である。

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10月14日付 鴎外から賀古への手紙 ※現代訳
御配慮恐れ入ります。明朝は麻布兵営へ参ります。
明後日のお話は承知致しました。よろしくお願い致します。
またあの件は、周囲を気にせずためらうことなく断行致します。
お手紙の様子などから、貴兄もむろん賛成くださっていることと考えております。
もちろんその根源の清からざることゆえ、どちらにも満足できるようには収まりがたく、
その間の事の重さは明白で、人に相談するまでもないことでございます。

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小金井良精日記 1888年
10月14日
築地に至る。林太郎氏あり。
帰宅、晩食、森家に行き11時に帰る。
10月15日
午後2時過ぎ教室を出て、築地に至り。
今日の横浜行きを延引す。
10月16日 
午後2時築地精養軒に至る。林太郎氏来たりおる。
2時45分、汽車を以って3人同行す。
横浜の糸屋に投宿す。篤次郎待ち受けたり。
晩食後、馬車道、太田町、弁天通を遊歩す。
10月17日
午前5時起く。
7時半はしけを以って発し、本船General Werderまで見送る。
9時出帆す。
9時45分の汽車を以って帰京。
11時半帰宅。
午後3時頃喜美子とともに小石川あたりを遊歩す。

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鴎外はエリーゼ帰国後4ヶ月で赤松則良男爵令嬢登志子と結婚する。
この縁談はドイツ留学中から森家が西周男爵に頼んで水面下で進めていたもので、
鴎外はこのことをまったく知らなかった。
同郷の大先輩であり、恩師であり、遠縁でもある仲人西男爵に対して
鴎外は断ることはできなかったのであろう。

エリーゼ帰国の2ヶ月後、賀古は山縣有朋に随行してヨーロッパ視察へと旅立っている。
この時賀古はエリーゼと会っているかもしれない。
会っていたなら、その時に鴎外の結婚を知らされたと思われる。

エリーゼは帰国した後、帽子製作者となっていたことが住所録からわかっている。
1898年版住所帳 職業<仕立物師>
1899年版住所帳 職業<仕立物師>
1900年版住所帳 職業<仕立物師>
1901年版住所帳 職業<モーディスティン>
(帽子製作者であるが、帽子の他髪飾りなど女性の頭部の装飾品全般を扱う人気の職業だった)
1902年版住所帳 職業<モーディスティン>
1903年版住所帳 職業<モーディスティン>
1904年版住所帳 職業<仕立物師> 
少なくともこの6年間は帽子製作者として生計を立てていたことがわかる。

その後も彼女とは文通が続いていたようで、
鴎外は死の直前、手紙と写真を妻に焼却させている。
そしてエリーゼが使用していたと思われるイニシャルMのモノグラム(刺繍用の金型)が
鴎外の遺品として現在に残されている。
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by vMUGIv | 2012-01-03 00:00 | 明治
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