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by vMUGIv
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日本初美人コンテスト 令嬢の部 その1

明治40年(1907)
アメリカの新聞社シカゴトリビューンから時事新報社に連絡が入った。
シカゴトリビューン社では世界一の美人を決める催しをする、
ついては日本代表の美人写真を送ってほしいという内容であった。

そこで時事新報社は「容色をもって生業とするものを者を除く」
という条件をつけて一般家庭より応募者を募ることとなった。
これが日本で最初の「素人の」美人コンテストである。

時事新報社は全国の新聞社に美人さがしを依頼した。
時事新報社と地方紙22社を巻き込んだ苦難の道の始まりである。

仙台の河北新報は紙面で美人募集を行った。
我と思わん美人は奮つて写真を投与せられよ。
また、美人の親戚知友たるものは内気なる美人の為に其人に代りて投寄の労を取られよ」


しかし、募集要項を発表したぐらいでは応募者は集まらない。
美人コンテストに我も我もとやってくる現代とは違う。
何につけ「はしたない女性」というレッテルが貼られてしまうと、
それだけで一生お嫁に行けなくなる時代である。
目立つことはしないに限る。

困った各地方紙は地元の美人を探し出すための調査班を組織した。
社長までもが女学校などへ行ってキャンペーンに務めた。

河北新報は結果二位となる金田憲子を見つけた。
宮城県の水産検査場長の娘、良家の令嬢である。
しかし彼女をコンテストに引きずり出すまでには苦労があった。
彼女の美しさは近在で有名だったが、本人は出たがらない。
そこで親戚の銀行頭取に彼女を説得させ、写真を手に入れることができたのである。
応募写真の多くはこのように地方紙の記者たちによって集められたものだった。

時事新報はコンテストの発表後に彼女の父親の談話を載せた。
「御社の誌上に娘の写真が発表されてからといふものは、
諸方から結婚の申込みが非常なもので、今日迄に約二百通も参りましたよ。ハハハハハ。
此二百通に対して一々返事を出したのですから一時は目も廻はりさうな始末。
何うぞお笑ひ下さい」



翌明治41年(1908)に結果が発表された。

※当時の総理大臣の月給は1,000円

<一次審査入賞>
1等 18金ルビー真珠入り指輪 値30円
2等 18金真珠入り勝利形ブローチ 値15円
3等 18金結形根掛 値十円
4等 銀製鍍金草花図丸彫束髪用ピン 値5円
5等 同上

<二次審査入賞>
1等 18金ダイヤモンド入り指輪 値300円
2等 18金梨地無双ダイヤモンド入り婦人持懐中時計、
並びに18金ルビー真珠入り緒しめつき首掛け鎖一揃い 値150円
3等 18金白金金製桜花ニ流水図透かし彫りだしダイヤモンド入り帯留め 値100円
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# by vMUGIv | 2015-01-03 00:00 | 明治

日本初美人コンテスト 芸者の部 その2

時事新報社が令嬢美人コンテストを開催した明治40年、
雑誌『文芸倶楽部』も美人コンテストを行った。

「大懸賞百美人写真大募集」と題され、全国から100人の芸者を選抜し、
読者の投票により順位をつけるというシステムだった。

このコンテストでは、赤坂の芸者、万龍/万竜/萬龍/萬竜が一位となった。

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# by vMUGIv | 2015-01-02 00:00 | 明治

日本初美人コンテスト 芸者の部 その1

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明治24年(1891)浅草に建てられた12階のビル浅草凌雲閣で
芸者の写真展「百美人展」が開催された。
100人の芸者を撮影したのはアメリカで修業した有名写真家 小川一真。
公平を期するため、全員同じセットで同じ構図という条件で撮影されている。
これが日本で最初の「玄人の」美人コンテストである。

凌雲閣は日本初の電動エレベーターが目玉だった。
ところが警察からエレベーターは危険だと判断され、設置早々エレベーターは撤去されてしまう。
目玉を失った凌雲閣が考えた企画が「百美人展」だったのだ。

凌雲閣を登っていくと、各階に百美人の写真が飾られており、
それを見た入場者が投票するというシステムだった。
この写真展をもとに『東京百美人 GEISHA OF TOKYO』という写真集が作られ、
日本人はもちろん外国人にも大人気となった。

その後もは百美人展は3回開催されているが、対象はすべて芸者であった。




1位 新橋 玉菊 17歳
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2位 新橋 桃太郎 19歳
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3位 新橋 小豊 19歳
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4位 新橋 吾妻 17歳 
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5位 柳橋 小鶴 22歳
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芳町 三子 20歳
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新橋 寿々 
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新橋 ゑり子
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新橋 とん子 16歳
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新橋 桃子 15歳
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新橋 つま子 19歳
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# by vMUGIv | 2015-01-01 00:00 | 明治

森鴎外の子供たち その19

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評論家 今日出海

私が結婚した時、辰野隆先生はお祝いをするから学士会館へ5時に来るようにと、
大学の研究室でおごそかに命令された。
「では、出かけるとしようか」といってどこへ出かけるのか見当がつかぬので、
私は黙々と先生に従った。タクシーは新橋の花柳街へ走った。
「この人はね、恋愛が成就して2、3日前めでたく結婚したんだよ」
と先生は並みいる芸者に披露した。
「おめでとうございます」「うらやましいわ」 芸者たちはそんなお世辞を言うと、
2、3日前結婚した男なんかには用はないといった風に私を床の間の置物同様に扱って、
関心は先生の方へ向いてしまった。
先生はいい心持ちで酔うほどに歌は出るしで大モテなのに、
私は新しい家に帰りたくモジモジしてきだしたが、
そんなことに同情も容赦もしてくれない。

夜更けになって、同じ大学の山田珠樹先生が突然現れ、
「では、おあと交替といたすかね」 今度は新橋から赤坂へお座敷が移った。
さすがに堅くなっていた私もこう飲んでは骨までとろけ、時はますます経つばかり。
もうどんなに慌てても家に帰ることはできない。
しまいに大座敷で雑魚寝ということになった。

山田先生は翌朝私に訓戒を垂れて言った。
「女房って奴は最初が大事だよ。あまりにチヤホヤすると、
もう後で取り返しがつかぬほどつけあがる。結婚初期に手当をしておくのが肝心さ。
辰野は君が女に甘いから、前夜後夜と分けて二人で
君および君の女房を教育しようっていうので、こんなお祝いをしたのさ。
結婚初期に家を一晩あけるくらいの度胸がなければ君も駄目さ。
女房は昨夕一晩まんじりともしないで君を待っていただろう。
これがいい薬になったぜ。君も今日は大威張りで帰って行くんだ。
こそこそ帰って女房に謝るようじゃ、九仭の功を一簣に欠くって奴でなんにもならないよ」
至れり尽くせりの教育ぶりである。

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森茉莉の息子 山田亨

鴎外が茉莉を愛し、茉莉が父鴎外を愛したように、
僕は父山田珠樹に愛されて育ち、そして今でも父を愛している。
父が僕を可愛がった理由の一つは、僕の容貌が茉莉と似ていたためだと思う。
その反面茉莉と似ているためか、僕は継母からひどく嫌われた。
父はフランス文学者だったが、茉莉が指摘したごとく本質的には明治の男だったようだ。
自己の再婚に際し、親戚・知人の全員に
「亨の母親が森茉莉だということを絶対口にしないように」と頼んだという。
したがって僕は、母茉莉のことを父の死まで知らなかった。
父の葬式の後、「亨、僕たち二人の母親は、森鴎外の長女である森茉莉という人だ」
と兄から言われたが、突然のことで実感がわかなかった。
茉莉は当時まだ作家として世に出ていなかったので、
僕は叔母である小堀杏奴の著書や雑誌を書店で購入するようになった。
そして杏奴と文通するようになり、終戦後のある日叔母から
「亨ちゃん、御馳走するからうちにいらしゃい」という手紙をもらった。
当日玄関で叔母が「亨ちゃんには知らせなかったけれど、茉莉を呼んであるの」と言った。
部屋に入ると僕によく似た女性がいて、「亨」と言って僕を抱きしめて激しく泣いた。
母親というのは子供を抱きしめるんだなと、抱かれながら思った。
僕は継母から一度も抱かれた記憶がなかったからだ。
父に抱かれた記憶は何度もあるのに。

茉莉の死後、兄から茉莉の形見分けを任された。
僕が著作権継承者代表であったため、手元に置いて考えた。
これらの物は僕に所属する物ではなく、母のファンに所属すべき物だろうと。
そこで、鴎外の遺品すべてを文京区立鴎外記念本郷図書館に寄付した。
僕の死後は、伯父森於菟にならい茉莉のすべての遺品を、本郷図書館と
津和野の森鴎外記念館とベルリンのフンボルト大学所属鴎外記念館に寄付することにした。
そして、それぞれの担当者に僕の意思を伝えた。
最後に、母の作品を愛して下さった方々に深い感謝を捧げたい。

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# by vMUGIv | 2013-12-19 00:00 | 明治

森鴎外の子供たち その18

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鴎外の友人賀古鶴所から森於菟への手紙

今日午前に長尾恒吉氏と面談し候。
氏曰く、於菟さんには、その後山田老人〔珠樹の父〕も私も面会致したり。
要するに両人の意趣合致せぬというを以って離縁断行することとなせり。
老生曰く、現況の如くに立ち至りては、けだし止むることを得ず。
なお聞くところによれば、衣類だけはいつの間にか既に大概持ち去られ空き箱多し。
山田方にて作りたる物は残されあり云々。

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岩波書店重役 小林勇

森志げは悪妻であるという評判は、私の耳へも折々入った。
また山田珠樹と親しいフランス文学者の間に、
志げ夫人を悪しざまに言っている人がいたことを私は知っている。
杏奴さんが小堀四郎氏と結婚したのは、パリから帰って間もなくであった。
その頃私は折々森家を訪ね、夫人に会っている。
ある時夫人は「私が山田と具合が悪くなった時、幸い茉莉は家へ帰ってくれた。
けれども杏奴は小堀ととても仲が良いから、
もし私と小堀が喧嘩しても帰ってきてくれないと思うから困ってしまう」と言った。
私は驚いて、いったん嫁に行った子供を
いつまでも自分の物と思っていてはいけないでしょうと本気で諌めた。
その時夫人は「はあー」と言って、私の顔を茫然として見ていた。

斉藤茂吉氏はある時
「山田君は茉莉さんと一緒に風呂へ入り、爪を切ってやったというねえ」
と嬉しそうな顔をして話したことがある。
志げ夫人は美人である。その手は実に美しかった。
私はいつもそう思い、百済観音の手を思い浮かべた。

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# by vMUGIv | 2013-12-18 00:00 | 明治


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