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大正三美人 林きむ子

◆林きむ子/日向きむ子
1884-1967 明治17-昭和42 82歳没

大正三美人の一人。
(大正三美人は九条武子・柳原白蓮・林きむ子、または九条武子・柳原白蓮・江木欣々)

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■前夫 政治家 日向輝武
1870-1918 明治03-大正07
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■後夫 詩人 林柳波
1892-1974 明治25-昭和49
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義太夫語りの両親のもとに生まれ、新橋の有名料亭「浜の家」の養女となった。
跡を継ぐ予定だったため、三味線、踊り、お茶、お花などの芸事を仕込まれた。

政治家の日向輝武に見初められ結婚。
日向はアメリカに密航し苦労して現地の大学を卒業して帰国し、
様々な企業を立ち上げて成功した実業家でもあった。
きむ子は結婚してから仏英和女学校でフランス語、女子美術で油絵、神学校で神学と、
3つの学校に海老茶袴に自転車で通った。
またその間に6人の子供を生み、日向の肉親を合わせて20人の大家族をさばいた。
名実ともに上流夫人となったきむ子だったが、
夫が汚職事件にからんで逮捕、政治生命を断たれ80日後に釈放された時には日向は狂っていた。
3年後精神病院で亡くなる。
事業も傾き、屋敷も手放すことになった。

きむ子は自分の美貌を看板に化粧品店を始め、
美顔水『オロラ』を製造販売するなど活動を開始した。
夫の死後1年も経たないうちに年下の詩人で薬剤師の林柳波と再婚。
きむ子36歳、林27歳であった。
この再婚はスキャンダルとなり、夫の死で世間の同情を集めていたきむ子の評判を落としたが、
きむ子は「私は断じて今を初めての恋と呼ぼう」と言い切った。

次に幼い頃から仕込まれた芸事を活かして童謡舞踊を始め、林流を創設。
林との間には2人の子供が生まれたが、
終戦後に林と別の女性との間に子供が生まれたため別居。
以降二人は疎遠となるが、離婚はしなかった。
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# by vMUGIv | 2015-02-02 00:00 | 大正

大正三美人 江木欣々

江木欣々/江木栄子
1879-1930 明治12-昭和05 51歳没

大正三美人の一人。
(大正三美人は九条武子・柳原白蓮・林きむ子、または九条武子・柳原白蓮・江木欣々)

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長谷川時雨 『近代美人伝』

引き締まった白い顔に、長くはっきりした眉、
黒目がちの大きな目に、長いまつげが濃く伸びている。
色んな面を見せて複雑に輝く切子の壺のような女性。

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父親は佐賀の尊皇派志士のちに愛媛県知事となった関新平。
母親は老舗の袋物屋の娘 藤谷花子。
花子は行儀見習いとして関家に上がっていたが、主人である新平が16歳の花子に手を出し妊娠。
生まれた欣々は父母の顔を知らぬまますぐに他家に養女に出され、
花子は実業家早川政吉の後妻となった。

ゆえに欣々には父方の異母きょうだいと、母方の異父きょうだいがいる。
実父関新平と本妻和気子との間に関悦子・藤子・ませ子。
実母花子と夫早川政吉との間に早川登鯉子、政治、徳次。

このうち、異母妹 関ませ子は鏑木清方の代表的美人画「築地明石町」のモデル、
異父弟 早川徳次は後のシャープの創業者である。

養親が困窮したため神田の芸者になった。
16歳の時、有吉男爵に落籍され男爵夫人となる。
しかし夫が1年あまりで病没したため、今度は新橋の芸者になった。
弁護士江木衷に落籍されて再婚。
江木40歳、欣々20歳の年の離れた結婚であった。

江木は明治大正期の有名事件はすべて担当していたといわれるほどの敏腕弁護士で、
顧客も政財界のトップクラスばかりであった。
東大の前身である東京開成学校の法科を首席で卒業。
しかし優等生タイプではなく、教授に議論をふっかけては授業を潰したり屁理屈で煙に巻いたり、
悪ふざけでも首席を争う悪戯者だった。
一時官界にいた時は、出張の際に上司への報告がわりに
都々逸を電報で打って済ませたというエピソードが残っているほどである。

頭の切れる辛辣でシニカルでな性格だが、
派手好きで開けっぴろげで面倒見がよくユーモアを解した人物であった。
彼を評する人々はみな「とにかく痛快な男」と証言している。
独身時代は相当浮き名を流しており、離婚歴もあったらしい。
しかし欣々と結婚すると外で遊ぶのをぴたりとやめてしまい、
その代わり、毎週知人友人有名人を自宅に招き豪華な宴会を開いた。
それを欣々が芸者時代に身につけた客あしらいと美貌でもって贅をつくして歓待した。

夫妻は黒塗りの古風な武家邸を住まいにしていた。
御者・馬丁・門下の弁護士・書生・使用人など、三十人近い大所帯だった。
「我儘者で、贅沢者で、食道楽で、飲道楽である」江木は、
食事・酒・煙草すべて一流の店のものだった。
夏には電車を借り切って書生や使用人まで引き連れて軽井沢へ避暑に行き、
毎週東京から鰻を取り寄せる。

欣々は和漢詩、絵画、篆刻、琴、茶道、華道、柔剣道など、一流の教師を呼んで学んだ。
欣々夫人の豪奢な生活ぶりは婦人雑誌などを通じて大いに紹介され、スター的存在となっていった。
「主人の職業は言わば勝ち負けを争うもの、
家の中は常に賑やかに陽気にしておりませんことには
その日の仕事に非常な影響があると思いますので、
子供のない私は派手な賑やかな妻として仕えております」

欣々は人生の絶頂期にあったが、江木が病気がちになる。
そして大正12年の関東大震災で本邸を失う。
夫妻は軽井沢の別荘にいて無事だったが、この頃から江木の病が重くなる。
ついに大正14年、江木が心臓マヒにより68歳で亡くなった。

別荘をはじめ、江木の遺産が多く遺されていたため生活面で苦労することはなかったが、
江木という後ろ盾を失ったことにより華やかな生活は消えてしまった。

欣々は家を新築し、降るように来る再婚話もすべて断り、
江木の冥福を祈って毎日読経をして尼僧のような生活を送った。

病気のため子宮の摘出手術を受けたが思わしくなく、時々は喀血することもある状態だった。
華美を誇った生活と、後ろ盾となる夫、さらに健康まで失った欣々は神経衰弱にかかってしまう。

異父弟早川徳次が静養のために欣々を大阪に招いた。
二ヶ月ほどの滞在中ほとんど横になっていた。
久しぶりに体調のよかった欣々は住吉大社に参詣に出かけ、
帰ってきてから土産物の菓子などをつまみつつ家族と夕食を取った。
しかし自室に戻った欣々は縊死していた。
江木家の家紋の入った風呂敷で顔を覆い、右手には水晶の数珠を握っていた。
欣々は江木のお墓の隣に並べて葬られた。


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異母妹ませ子

死ぬのならもっと早く死なせたかった。あの通りの派手な気性ですもの。
本邸は毎晩宴会のようでした。
江木の力と自分の美貌からだと思っていたから、
顔が汚くなるということが一番怖い、それと江木の力も失いたくない。
それが、江木に死なれたのと、年を取ってきたのとが一緒に来て、
誰も訪ねて来なくなったのがたまらなかったらしいのです。
立派に暮してゆけるだけの財産もあったのに、よっぽどさびしくなったのだと見えて、
そんなことは絶対に言わなかった人なのに家には離れも二つあるから一緒に住まないかとも、
二男を子にくれないかとも言いました。
強い人があれだけ言ったのには、言うに言えない寂しさがあったのだと思いますけれど。

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# by vMUGIv | 2015-02-01 00:00 | 大正

日本初美人コンテスト 令嬢の部 その4

■父 末弘直方
1848-1920 弘化04-大正09 72歳没

*薩摩藩士出身の警察官僚。
函館区長・福岡県小倉市長・福岡県八幡市長などを務めた。


■母 柏田六右衛門の娘 イト


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イト夫人の遠縁 酒匂 津屋

〔直方は〕濃い濃い味噌汁をお好みになりました由。
夜中に目覚めて手洗水を飲む方なので、
手洗鉢はいつもきれいにしておくものだと私の祖母は〔イトに〕教えました。

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●直子  建築家山下啓次郎夫人→孫はジャズピアニスト山下洋輔
●育子  外交官阿部氏夫人
●貞子  写真家江崎清夫人
●ヒロ子 野津鎮之助侯爵夫人
●直志
●トメ子 


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酒匂 津屋

*直方が亡くなった後、直子・育子・貞子の三姉妹が鹿児島を訪問した。
東京生まれ・東京育ちの姉妹が、父の故郷を見るためだった。

3台の人力車が門前で止まりました。
中から同じお顔の和装のきれいなきれいな方々が降りて来られました。
山下様・阿部様・江崎様が氏神詣りがてら祖母に会いにいらしたのです。
祖母は「お上がりなさい、お茶でも」と申しましたが、
氏神様を拝んでお帰りになりました。

「娘の家に行くと取次が要るから〔末娘トメ子は〕高城の田舎に嫁にやる」
と言われた直方さんはあんまり勝手すぎたのではと思います。
学習院を出たお姫様が、田舎の四季折々の行事をなんでお分かりになりましょう。
お正月の行事・3月の節句のお菓子・お餅つき・5月のカララン団子とあく巻作り・
お盆・お彼岸・お味噌作り・醤油作り。田舎は本当にうるさいんですもの。

おトメさんはたびたび家にいらっしゃいました。直子様と相似形でいらっしゃいました。
頭が狂っていらっしゃるので、
玄関から真っ直ぐ鏡台の部屋に行かれ髪をきれいにされました。
実家のような気がしたのでしょう。いつも空の財布を出されました。
母は「高城から歩いては大変だった故、帰りは車でお帰り下さい。
お好きな物を買ってね」と、いくらかを差し上げました。


*「狂ったトメ子を夫が川の中につぶし込んで髪の毛を引っぱる」
という光景も近所に目撃された。
結局トメ子は直方の弟 龍岡新熊に引き取られて、そこで亡くなる。

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山下直子の孫 四柳与志夫

阿部のおばさまと呼んでいた方でした。英国大使の夫人でしたね。
いつも正装をしていたという記憶があります。
まるで鹿鳴館時代から抜け出したようなきれいな人で、子供心にも憧れたものです。
『どんなに暑くても、決して手袋を取らず、ハンカチを出さない人でした』と
直子お祖母様が言っていたのを覚えていますよ。


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山下直子の孫 ジャズピアニスト 山下洋輔

野津のおばさまを何度か見かけたことがあります。
こちらはまだ小学校にも入っていない子供でした。
そのように一時代を騒がせた人とは知るよしもありません。
曲った腰と丸くなった背中、両手にリューマチを患っている老女です。
かすかに足を引きずり、人目を避ける雰囲気がありました。
子供には近寄り難かったそれらの印象から、兄と秘かにカイブツと呼んでいたのです。
何という子供の残酷さでしょうか。時間の残酷さでしょうか。

第二次世界大戦直後です。
もやは侯爵夫人ではない野津のおばさまは人目を避けるようにして現れ、
出迎える姉の直子おばあちゃんと
手を取り合うようにして薄暗い応接間に入って行くのでした。
二人ともいつもきちんとした黒い紋付の着物を着ていました。
長い間、二人だけで過ごしていました。
出てくる時に、二人がハンカチで涙をぬぐっている時もありました。


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◆野津ヒロ子侯爵夫人
1893-1963 明治26-昭和38 70歳没

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■夫 野津鎮之助侯爵
1883-1942 明治16-昭和17 59歳没

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●美智子 ヒゲタ醤油 浜口久常夫人 
●真佐子 倉敷紡績 大原総一郎夫人→娘泰子は美智子皇后の弟正田修夫人
●佐恵子 京都ダイカスト工業 田中秀雄夫人
●高光  佐藤茂の娘緑子と結婚
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# by vMUGIv | 2015-01-06 00:00 | 明治

日本初美人コンテスト 令嬢の部 その3

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一位となった末弘ヒロ子は薩摩藩士出身の警察官僚 末弘直方の娘。
当時父は福岡県小倉市長を務めていたので、
ヒロ子は東京にある姉夫婦の家から学習院中等部3年生に通学していた。

姉婿の江崎清は名写真師と謳われた人物で、
日頃からヒロ子をモデルに写真を撮りためていた。
その一枚をヒロ子に無断で応募したのである。
漢字などを変えて末弘ヒロ子を末広トメ子という偽名にした。

当時の学習院院長は乃木希典。学習院にスパルタ教育を持ち込んだ人物である。
華美に傾いているという理由で学監下田歌子を追放したこともある。
案の定ヒロ子が一位に決まった時、
美人競争の行為は学則違反との理由で退学を言い渡す。

これにマスコミが噛みついた。
実はヒロ子の写真は3回掲載されている。
第一次選考を通過した時、第二次選考を通過した時、
一位の結果発表の時の3回である。
学習院は一次、二次の際には問題にしなかったのにも関わらず、
ヒロ子が一位になった途端に問題としたことになる。
さらに学習院からはヒロ子以外の他の生徒も数人応募していたが、
彼女たちは不問に付されている。

学習院はヒロ子自身が応募したのではなく義兄が勝手に応募したことも、
ヒロ子以外の生徒が応募していたことも知っていた。
それなのにヒロ子一人が退学処分の対象となったということは、
一位になったということが問題だったのだ。

明治時代には修身の教科書においてさえ美人が公然と非難されていた。
美人は高慢、美人は勉強ができない、美人は堕落する、
不美人は学業に励み、善良柔順であるという正論が大手を振っていた。

しかし、いつの世も本音と建前は別。
女学校の女生徒は卒業を待たずに嫁いでいくのが一般的。
卒業を迎える女は在学中に売れ残ったというわけで、
「卒業面」と呼ばれブスの代名詞であった。

結局、彼女は父親同士が親友だったため
生まれた時から許婚だった野津鎮之助侯爵と結婚。
学習院の方はこの縁談を名目に自主退学という形に落ち着いた。
乃木希典が罪ほろぼしに結婚相手を見つけてやったという説は、
創作された乃木神話の一つのようだ。
当時舅となる野津道貫は死の床にあり、
嫡男の結婚を見届けたかったという事情もあった。
舅は花嫁姿のヒロ子を見て感激したそうである。

シカゴトリビューン社の世界一コンテストの結果はどうだったのか。
ヒロ子が6位だったとする説があるが、勘違いである。
日本からヒロ子の写真が6番目に届いたという記録があるだけで、
アメリカ人女性が1位になった以外の情報は残っていない。

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# by vMUGIv | 2015-01-05 00:00 | 明治

日本初美人コンテスト 令嬢の部 その2

1位 福岡県 末広ヒロ子 16歳
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2位 宮城県 金田ケンコ 19歳
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3位 栃木県 土屋ノブコ 19歳
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≪ユニークな応募者≫


長野県 土屋ソヤコ
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東京市 宮下百合子
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神奈川県 下田リョウコ
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鹿児島県 藤田喜佐子
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# by vMUGIv | 2015-01-04 00:00 | 明治


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