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by vMUGIv
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大正三美人 柳原白蓮 その1

■父 柳原前光伯爵
1850-1894 嘉永03-明治27 44歳没


■正妻 伊達宗城伯爵の娘 初子
1854-1936 嘉永07-昭和11 82歳没


●実子 義光  次代当主
●実子 信子  入江為守子爵夫人
●庶子 燁子  歌人柳原白蓮 生母は芸者おりょう 
結婚3回 北小路資武子爵→炭鉱王伊藤伝右衛門→大学生宮崎龍介


◆明治18年 10月15日白蓮誕生
◆明治27年 09歳 実父柳原前光44歳没
◆明治31年 13歳 学習院入学
◆明治33年 15歳 北小路資武子爵22歳と結婚
◆明治34年 16歳 息子功光を生む、北小路家が京都へ移住
◆明治38年 20歳 北小路資武子爵27歳と離婚
◆明治41年 23歳 東洋英和女学校入学
◆明治44年 26歳 伊藤伝右衛門50歳と再婚、福岡県へ
◆大正04年 30歳 別府別邸竣工、サロンの女王となる
◆大正09年 35歳 宮崎龍介と出会う
◆大正10年 36歳 宮崎龍介と駆け落ち、新聞に絶縁状発表、伊藤伝右衛門60歳と離婚
◆大正11年 37歳 息子香織を生む、龍介の父宮崎滔天51歳没
◆大正12年 38歳 関東大震災を契機に宮崎龍介31歳と再々婚
◆大正14年 40歳 娘蕗苳を生む
◆昭和11年 51歳 継母柳原初子82歳没
◆昭和17年 57歳 龍介の母宮崎鎚子71歳没、北小路資武64歳没
◆昭和20年 60歳 息子香織23歳戦死
◆昭和21年 61歳 娘蕗苳21歳結婚
◆昭和22年 62歳 伊藤伝右衛門86歳没
◆昭和42年 82歳 02月22日白蓮死亡
◆昭和46年 宮崎龍介79歳没 
◆平成01年 息子北小路功光88歳没


■柳原白蓮/柳原燁子
1885-1967 明治18-昭和42 82歳没

大正三美人の一人。
(大正三美人は九条武子・柳原白蓮・林きむ子、または九条武子・柳原白蓮・江木欣々)

父は柳原前光伯爵。前光の妹は柳原愛子、大正天皇の生母である。
ゆえに燁子は大正天皇のイトコにあたる。

前光には妻妾同居させている側室の梅子と近くの家に囲っている芸者おりょうがいた。
梅子は宮中の妹愛子の侍女。前光が見初めて愛子からもらい受け本邸に住まわせた。
おりょうは没落した幕臣の娘で芸者になり、伊藤博文と前光が取り合ったが、
おりょうは前光を選び身請けされた。
このおりようが生んだ娘が燁子である。おりょうは燁子を生んだ3年後に亡くなっている。
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■最初の夫 北小路資武子爵 夫22歳&妻15歳で結婚・夫27歳&妻20歳で離婚
1878-1942 明治11-昭和17 64歳没

●北小路との間に息子功光


■2番目の夫 伊藤伝右衛門 炭鉱王 夫50歳&妻26歳で再婚・夫60歳&妻36歳で離婚
1861-1947 万延01-昭和22 86歳没

●伊藤との間に子供ナシ


■3番目の夫 宮崎龍介 弁護士・社会運動家 夫31歳&妻38歳で再々婚
1892-1971 明治25-昭和46 79歳没


●宮崎との間に息子 香織
●宮崎との間に娘  蕗苳
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# by vMUGIv | 2015-02-14 00:00 | 大正

大正三美人 九条武子 その4

◆明治44年 24歳 義姉寿子29歳没
◆大正09年 33歳 12月 夫良致10年ぶりに帰国、夫妻は東京築地本願寺に住む
◆大正11年 35歳 01月 夫良致が詐欺事件で起訴される
◆大正12年 36歳 09月 関東大震災
◆昭和02年 40歳 年末 風邪を引きこじらせる
◆昭和03年 41歳 02月07日 敗血症で死亡
◆昭和14年 11月 生母藤子死亡
◆昭和15年 08月 夫良致56歳没




良致は留学予定の3年が過ぎても帰国せず、イギリス滞在は10年に及んだ。
すでに外国人女性との間に一男一女ももうけていた。


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武子の友人 柳原白蓮

「あなた、御主人様の男爵から、ちょいちょいお便りはあって?」
「ちっともないの。もう久しいこと手紙一本来はしませんのよ。
でも私、あの人を待ってはいません。
本当は離婚してくれって言ってやったんですけど、何もそれについて返事は寄こしません」

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しかし、武子も悲嘆にくれて暮らしたわけではなかった。
何よりも武子は一生涯西本願寺の娘であった。
ヨーロッパから帰国して3ヶ月後、兄嫁寿子が子宮炎で急死した。
兄光瑞は再婚しなかったので、武子は光瑞の片腕のような存在であった。
光瑞が「口八丁、手八丁」と称したように、武子は機転がきき独創性があり手早い。
西本願寺の広告塔として、巡教のため日本全国を飛び回った。


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武子の友人 柳原白蓮

ある時田舎のお寺で武子さんの御説教があるというので見に行きたいと話したら、
「あきさんが見てるとお話がしにくいわ。来ないで」と言われるとなお見たくなって、
とうとう私は出かけていった。
お寺の奥座敷で二人は落ち合った。話をしたり食事をしたりしていると、
その寺の和尚さんがやってきて「そろそろお時間でございます。御支度を」と言う。
御支度って何をするのだろうと見ていると、
武子さんは立ち上がり鏡台の前で髪をお下げにしてしまった。
そして白羽二重の着物の上から緋の袴をはいた。
その上から目の覚めるような美しい袿を着てスッと立ち上がったその美しさ、
日頃見慣れた私の目にも品の良い土佐絵の中から抜け出したようなお姫様が出来上がった。
武子さんが普通の姿で御説教されるより、
生きたお雛様そっくりの武子さんが壇の上から御説教をなさる、
この姿だけでもう信者は大満足に違いない。
さていよいよ支度もできた。本堂の方から鐘の音が聞こえてくる。
生きたお雛様は長い廊下をしずしずと本堂の方へ。私はその後からついて行った。
このお雛様、ひょいとあたりを見まわすと、誰もいない。
私の方を振り向いた途端、舌をベロリとだして見せた。
そして何食わぬ顔をして、湧き上がるような南無阿弥陀仏の唱名の中へ、本堂へしずしずと。

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良致が帰国する気になった理由は不明だが、
10年に至って大谷家が良致への生活費の仕送りを打ち切ったのかもしれない。
ともかく大正09年12月06日午前06時、良致を乗せた船が神戸港に着いた。
武子は兄の光明・尊由・妹の義子とともに良致を出迎えた。
それから良致の記者会見が行われ、
3日後の12月09日には大阪ホテルで「九条良致男爵夫妻歓迎会」が行われた。
12月12日、住まいとなる東京の西本願寺築地別院へ引っ越した。

帰国した良致はまた深酒を続けた。
すでに帰国の船中で酒の席で暴力事件を起こしている。
天長節の夜の祝賀会で酔っ払った良致が乗務員とトラブルを起し、
アントワープオリンピックに役員として同行していた辰野保が仲裁したことが報道された。
銀行の勤めには一応出かけていくが、帰宅時間は一定しない。
酔っ払ってフラフラで帰ってくる日もあるが、帰ってこない日もあった。
ある夜、良致は泥酔して玄関で伸びていた。
武子は足を持ち上げて靴を脱がせようとした。
良致は武子に気づくと、武子を振り払い、靴のまま武子のアゴを蹴り上げた。

良致が帰国してからも、武子はそれまでと同じように巡教を続けた。
しかし良致はこれも快く思わなかった。

大正11年には良致は不渡り手形による詐欺事件で起訴されている。

大正12年の関東大震災以降、武子は巡教の他に慈善活動も始める。
昭和02年、例年通り医師らとともに貧民窟の歳末巡回診察をした際に風邪を引く。
01月02日の深夜、酔っぱらった良致が風呂に入りたいと言い始めた。
このとき井戸ポンプが故障していた。
そこで使用人が隣の家から水をもらってくる、
晴れ着にタスキをかけた武子がそれを風呂場の窓から受け取り風呂桶に移すという作業をした。
これが原因で武子は風邪をこじらせる。


昭和03年
01月16日 扁桃腺が悪化して化膿していると診断される
01月18日 入院
01月21日 発熱続き、虫歯の痛みを訴える
01月23日 歯痛おさまらず抜歯、出血止まらず壊疽性口内炎と診断される
01月27日 敗血症と診断される
02月06日 重態に陥る
02月07日 午後7時25分、生母・兄妹に囲まれて死亡


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性応寺住職 安満了智

良致男爵は武子様の容体が悪化した時、
ジョニ黒を持っていらっしゃってヤケ酒みたいにグイグイ飲んでおられました。
そして涙声になって「武子が死んだらどうしようかな」と、男泣きに泣いておられました。
武子様が亡くなった後 山王ホテルに一人でお泊りの時に伺ったところ、
「いやあ、よく来てくれたなあ。武子が亡くなってから寂しいから、一緒に御飯を食べよう」
と非常に寂しそうにおっしゃいました。

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良致は晩年ホテル住まいをしていた。
昭和15年08月、良致はホテルで倒れ脳出血で死亡、56歳だった。


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# by vMUGIv | 2015-02-07 00:00 | 大正

大正三美人 九条武子 その3

◆明治42年 22歳 
09月15日 寿子の弟九条良致男爵と結婚、夫の家東京麹町三番町に住む
09月 光瑞&寿子夫妻ヨーロッパに出発
12月 良致&武子夫妻ヨーロッパに出発

◆明治43年 23歳 
01月 二組の夫妻合流、夫良致はイギリスに残りケンブリッジ大学に留学
08月 武子は兄夫婦とともに帰国、京都の大谷家で生母とともに住む
11月 兄光明が寿子の妹九条紝子と結婚




兄光瑞は武子の結婚相手に東本願寺の二男大谷瑩誠を考えていた。
この二人が結婚すれば、三百年も対立してきた東西本願寺の関係が好転するとの考えからである。
ところが妻寿子が弟良致を推薦する。
九条公爵家は禅宗で良致は男爵、
宗旨が浄土真宗で子爵以上の相手を探していた幹部陣は難色を示したが、
次期法主夫人の寿子の意見は無視できず、良致が武子の夫に決まる。
良致は一条公爵家に婿養子の予定で養子に入ったが、
結婚相手の経子から嫌われ実家に戻されていた。
寿子はさらに光瑞の弟光明と自分の妹紝子を結婚させており、
大谷家と九条家との間に3組の夫婦を作り上げた。


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武子の友人 柳原白蓮

良致男爵は九条公爵家の公達として生まれたお方であり、
皇太后陛下〔貞明皇后〕とは御姉妹の間柄、
その若君がおいくつの頃だったのでしょう、
未来は一条公爵の世嗣たるべく御養子にお約束できたのです。
一条家にはその時ただ一人の経子姫がおられ、
行く末はこの姫君の配偶者として選ばれた若君だったのです。
それから何年かの後なにかのわけで一条家を去って元の九条家に戻られた若君は、
男爵を賜りそれがすなわち九条良致男爵その方なのです。
弟君が生家に帰られたことを不憫に思われた姉君は、
なんとかしてこの弟君を幸福にしてやりたいものと日夜心を痛められるのでした。
寿子裏方の焦燥は、日頃勝気な方だっただけにいっそう深かったに違いありません。

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明治42年09月15日、東京の九条家本邸で結婚式が行われた。
「九条家の女には女傑が多いが、男には傑物がおらず大した者がいない」
とかねてより父光尊が評していたように、良致も小柄で貧相、
姉寿子とは正反対の生気のないタイプであった。
夫妻は東京麹町三番町の男爵邸で新婚生活を始めたが、
黙って酒ばかり飲んでいる何を考えているかわからない夫との仲はしっくり行かなかった。

光瑞の勧めで、良致はイギリスのケンブリッジ大学に3年間の予定で留学することになっていた。
良致の渡航費用・留学費用・生活費はすべて大谷家の負担である。
09月にまず兄夫婦がヨーロッパ外遊に出発、追って12月に武子夫妻が出発。
香港・シンガポール・コロンボを経てマルセイユに到着し、翌明治43年01月兄夫婦と合流する。
航海中武子は船客たちと親しく交わったが、良致は船室に閉じこもって甲板に出ることもなかった。

光瑞は「仕事がたまっているので自分はすぐにロンドンに行かなければならない。
地中海旅行は君たち3人で楽しむといい、良致君二人の面倒を頼みます」と言ったが、
良致は地中海旅行には参加せず、このまま光瑞と一緒にロンドンに行くと言い出す。
結局男性陣はロンドン直行、女性陣は地中海旅行に回ることになる。
03月にロンドンで男性陣と女性陣が合流するが、また良致は自分だけが出て行くと言う。
それまで光瑞とロンドンに住んでいた良致は、一人郊外の下宿に移ってしまう。
良致とともにロンドンで暮らす予定であった武子は、結局08月兄夫婦とともに帰国することになった。
結婚して1年弱、以降3年どころか10年も良致はイギリスに留まる。

光瑞はインド洋経由で、寿子と武子はシベリア経由で帰国、
武子は京都の大谷家で生母と暮らすことになる。
東京の男爵邸は宮内省から借りていただけだったので、
イギリス留学とともに返却されていたからである。


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イギリスにて
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# by vMUGIv | 2015-02-06 00:00 | 大正

大正三美人 九条武子 その2

◆明治20年10月20日 武子誕生
◆明治25年 05歳 兄光瑞の婚約者九条寿子10歳が大谷家へ
◆明治27年 07歳 武子京都師範学校付属小学校入学
◆明治31年 11歳 兄光瑞&寿子結婚
◆明治32年 12歳 義姉寿子の裏方教育の御学友として武子もともに学ぶ
◆明治36年 16歳 シャムの皇太子と見合い、父光尊53歳没、兄光瑞就任
◆明治38年 18歳 義姉寿子が仏教婦人会総裁に、武子が本部長に就任


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日本画家 上村松園 

九条武子夫人は松契という雅号で私の家にも訪ねてこられ、
私もお伺いして絵の稽古をしていられました。
あんなきれいな方は滅多にないと思います。
綺麗な人は得なもので、
どんな髷に結ってもどのような衣装をつけられても皆が皆よう似合うのです。
いつでしたか一度丸髷に結うていられたことがありました。
たいていはハイカラで髷を結うていられることは滅多にないので、
私は記念に手早く写生させてもらいましたが、誠に水もしたたるような美しさでした。
『月蝕の宵』は、その時の写生を参考にしたのです。

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上村松園の息子 上村松篁

武子さんがお母さんのところへお越しになった頃を存じてますよ。
それは美しいお人でしたな。それに外見と違って、少しも気負ったところのないお人でしたな。

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武子の友人 柳原白蓮 

※互いを「たあさん(武子)」「あきさん(白蓮の本名燁子)」と呼び合う仲だった。

〔白蓮事件の際〕さすが人目をはばかって自分自身では来られませんでしたけれど、
女中を使者にして幾度私の隠れ家を見舞ってくれたことでしたろう。
そのたび親切な見舞いの品々を添えられたのでした。
普段着の着替えもなかろうからと言って、
銘仙のこれは自分に仕立てたのだから寸法は合うまいけれどと言って、
あの人は背の高い人なので立褄の二尺一寸もあるような綿入れ、
それにメリンスの美しい模様の長襦袢を添えてありました。
また洗濯物なども思うに任せぬことだろう、
遠慮なくこの使者に持たせてやるがいいとも言うのでした。
実にこんなにまで心を込めてくれた人は、私の友達にも兄姉にもありませんでした。
ましてその当時世間からさんざんに悪口されている私の所へ、
誰がそんな優しい心を向けてくれる人がありましたろう。

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武子は西本願寺法主大谷光尊伯爵と側室松原藤子の間に生まれた。
正妻枝子は病弱で人前に出ることもほとんどなく、
光尊の7人の子供のうち6人は側室藤子が生んだ子であった。
武子の細身の長身も、並外れて手が大きかったのも、藤子ゆずりであった。

兄たちに囲まれて育った武子はお転婆で、
人形遊びよりも兄たちとチャンバラ遊びをすることを好んだ。
乗馬や木登りも得意で、
手が長くスルスルと木に登る武子に兄たちは「手長猿」というあだ名をつけた。
また物真似が得意で、冗談が上手く、家族兄弟はいつも笑い転げていたという。

兄光瑞には嫌いなものが6つあった。蛇と雷、これは単に苦手なもの。
囲碁と将棋、これは時間を浪費するから。
そして、女と老人。女は愚痴を言い、老人は過去を語るから。
光瑞は特に女のおしゃべりを毛嫌いした。女々した旧式の女を好まなかった。
光瑞の眼鏡に適ったのは妹の武子だけであった。
美しく、好奇心が強く、ユーモアがあり、自分の意見を持っている人物だったからである。


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九条武子

物心ついた頃 私の住まいは父母の元から長い長い廊下続きで、
大きな2枚の杉戸のあった入口を覚えている。
北の御方と呼び慣れておった一棟の家が子供達雑居して入れられておるところ、
小さな丸髷を頭に乗っけたお婆さんで何でもできる怖い女中が
全権を委任されておったという形で、この女中に叱られた時の怖さは今でも忘れない。
私の得なことには末の子であったため、父は厳格な中にも破格に私を可愛がったものらしく思う。

近傍の学校では友達が悪いといって、
御苑内の近く現府立第一高等女学校になっているところにその時分は付属小学校があって、
家から約一里ほどもあろう道を俥で通って行った。
今の女学生の燕のような軽装は夢想だにつかぬ。
髪は大きな輪の稚児髷に上げて、友禅縮緬の長い袂に、
袴だけは東京から取り寄せてはかされておったが、
それがまた自分一人なので肩身の狭い思いをした。
学校の主義として綿服着用というお達しがあってから、
一重ねの二子縞の着物と羽織を作ってもらった。
それでも式日には家の者が許してくれないで、
紫と薄紅のぼかし染めに総縫いの振袖などを着て緑と濃紫の精巧の袴をつけて行った。
髪には親譲り姉譲りの銀の花簪や鼈甲の櫛、
稚児髷の後ろへ長い銀の房の先に鈴のついて大きな平打ちを一本挿すに決まっていた。
さぞ人目いぶかしゅう見られたことであったろう。

男の子供達は大きくなったので、別の館に移されそれぞれ中学に通うようになった。
長兄が西洋へ立ったりしてにわかに寂しくなったというので、
私は義姉の寿子が住んでおった百花園という建物に移された。
古い習慣と一種妙な空気に包まれた家庭では、庭へ出るさえ一人では許されなかった。
わけても下男達は行き違う場合、身を隠すか背を向けてうずくまるのであった。
花ひとつ折ってほしいとて植木屋などに口きくことはできなかったし、
今思うとずいぶん不自由千万な境涯だと言わねばならぬ。
義姉は18、私は14、世は楽しいことより他に何も知らなかったが。

父は自分の13の歳に大病を患ってからずっと薬にばかり親しむようになっておった。
桃山の三夜荘に行って1ヶ月も2ヶ月も本邸には帰らないことが続いたりした。
上の兄の帰朝期もほぼ予定されて、新邸の錦華殿はノミの音が激しく勇ましく響くようになった。
もの珍しい西洋館が日に日に形造られてゆく。付属の日本建築も工事が同時に運んでいった。
お清所はここ、呉服所はかしこの間、ここを錠口にしましょう、
たあ様〔武子〕のお部屋は2階の間がいいでしょうと、
義姉は私を連れて夕方大工が帰った後必ず見に行くことを日課のようにしておったし、
また父に報告するのも二人の楽しみであった。

明治35年も暮れて行く冬はわけても寒かったが、年が改まっても寒さは増すばかりであった。
正月4日シャム皇太子殿下が御来朝になって本願寺へおなりになるということで、
病身な父は病をおして準備万端手落ちのないようにと伏見の別荘から帰って来たが、
とうとう風邪をひいて寝込んでしまったのが元で持病が亢進して、
月の半ばついに寂光の都へ帰ったのである。
錦華殿のみは先の日のままにノミの音が力強く聞こえておったけれども、
義姉は毎日のようには見に行かなかったし、
自分も何か張り合いがなくなったような気になっておった。
欧州からの帰り道であった兄は、インドにおける仏蹟探検を中途にして急遽帰朝した。
新しい新邸に入ったとて、誰一人祝辞を述べる者もない悲しみの中に取り巻かれておった。
長い旅に断腸の思いを抱いて帰ったであろうと思う。
一山の責任と尊敬とを担って、若き兄は父の遺志を継いで立った。

年変わって日露の戦役が始まった。
耳に聞く話、目に見る物、すべてが変わってきて、何も知らなかった人形の夢は覚めた。
若い力の目まぐるしい活動が始まって、
私の天地は夜が昼になるよりももっと激しく展開したのである。
活き活きした光と自由に投げられて、錦華殿に人足繁く、電話の鈴は鳴り続ける。
兄は国家のため法門のため王法の奉仕に尽瘁し、
義姉は自ら思い立って仏教婦人会のために活動したのもその頃であった。
かくして私の幼い時代が過ぎた。

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シャムの皇太子スル・ワジラウッドが東本願寺を訪問したのは武子との見合いのためであった。
シャムと日本の末永い友好のため日本の名家の姫を妃に迎えたいという依頼があり、
武子に白羽の矢が立ったのである。
西本願寺に打診すると父光尊も乗り気で、明治36年01月03日の見合いとなった。
しかし直後に光尊が急死したことや、
シャム側が日本人を妃に迎えることに国内の賛成を得られないことから立ち消えとなった。


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左 義姉寿子   右 武子
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# by vMUGIv | 2015-02-05 00:00 | 大正

大正三美人 九条武子 その1

■父 西本願寺大谷光尊伯爵/明如
1850-1903 嘉永03-明治36 53歳没


■正妻 大谷光威/徳如の娘 枝子
 -昭和06


★側室 松原有積の娘 藤子
 -昭和14


●藤子の子 光瑞 次代当主 九条道孝公爵の娘寿子と結婚 
●藤子の子 文子 常磐井堯猷男爵の1/3番目の妻・本人死別
●藤子の子 孝慈 木辺孝慈男爵となる 醍醐忠敬侯爵の娘静子と結婚
●藤子の子 光明 九条道孝公爵の娘紝子と結婚
●藤子の子 尊由 小出英尚子爵の娘泰子と結婚
●藤子の子 武子 九条良致男爵夫人→歌人九条武子
●正妻の子 義子 壬生泰弘男爵と結婚・広瀬千秋と再婚


◆明治20年10月20日 武子誕生

◆明治25年 05歳 兄光瑞の婚約者九条寿子10歳が大谷家へ

◆明治27年 07歳 武子京都師範学校付属小学校入学

◆明治31年 11歳 兄光瑞&寿子結婚

◆明治32年 12歳 義姉寿子の裏方教育の御学友として武子もともに学ぶ

◆明治36年 16歳 シャムの皇太子と見合い、父光尊53歳没、兄光瑞が法主就任

◆明治38年 18歳 義姉寿子が仏教婦人会総裁に、武子が本部長に就任

◆明治42年 22歳 
09月15日 寿子の弟九条良致男爵と結婚、夫の家東京麹町三番町に住む
09月 光瑞&寿子夫妻ヨーロッパに出発
12月 良致&武子夫妻ヨーロッパに出発

◆明治43年 23歳 
01月 二組の夫妻合流、夫良致はイギリスに残りケンブリッジ大学に留学
08月 武子は兄夫婦と帰国、京都の大谷家で生母とともに住む
11月 兄光明が寿子の妹九条紝子と結婚

◆明治44年 24歳 義姉寿子29歳没

◆大正09年 33歳 12月 夫良致10年ぶりに帰国、夫妻は東京築地本願寺に住む

◆大正11年 35歳 01月 夫良致が詐欺事件で起訴される

◆大正12年 36歳 09月 関東大震災

◆昭和02年 40歳 年末 風邪を引きこじらせる

◆昭和03年 41歳 02月07日 敗血症で死亡

◆昭和14年 11月 生母藤子死亡

◆昭和15年 08月 夫良致56歳没




■九条武子●子供ナシ
1887-1928 明治20-昭和03 41歳没


■夫  九条道孝公爵の子 九条良致
1884-1940 明治17-昭和15 56歳没


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# by vMUGIv | 2015-02-04 00:00 | 大正


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