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by vMUGIv
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澁澤龍彦 その10

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友人堀内誠一夫人 堀内路子&友人出口裕弘

堀内◆澁澤君とは古くからのおつきあいでした。
私は矢川澄子さんと20か21ぐらいからつきあい出したの。
一緒にアルバイトしたり旅行をしたり親しくしていたんです。
澄子さんと仲良くなった一つの理由は、父親が両方ともクリスチャンだったんです。
それから共産党になった。環境が似ていたんです。中央合唱団というのがあったでしょう。
あそこのアンサンブルで、うちの姉がピアノを弾いて、
澄子さんのお姉さんがバイオリンを弾いてた。
新宿の紀伊国屋でばったり澄子さんに会ったら、澁澤さんと一緒だったの。
ベレー帽をかぶってパイプを持って、なんてキザな人とつきあってんだろうと思った(笑)
それが初対面です。今でもハッキリ覚えてますよ、紀伊国屋の階段を降りてきたところ。

出口◆渋澤さんはいつも妹さん込みで人とつきあっていた時期があると聞くけれど?

堀内◆お供が必要なのよね(笑)

出口◆僕が行くようになった頃はもう妹さんたちがいらっしゃらなかったから、
矢川さんが妹みたいな。

堀内◆お兄ちゃんなんて言っちゃってるんだもの(笑)
もうその時はうちの父親は亡くなっていたんだけれど共産党で大事にしてくれていたので、
そのスタッフの一人に「知り合いに結核の人がいる」とか言ったのかな。
ペニシリンとかストレプトマイシンとか、とにかく高いわけですよ。
そしたら薬をもらってあげると言うんで、ゴソッと薬をくれたの。
それを澄子さんが澁澤君のところへ届けたの。
捨てるはずのもので、一度封を切ったものいらしいんですよね。
そんなの、今だったらおっかなくて使えないですよね。

出口◆渋澤さんが治った頃、矢川さんはもう一緒にいたのかな?

堀内◆澄子さんが小町のお家にほとんど一緒にいるようになったのは、
澁澤君のお父さんが亡くなってからだと思います。
でも、私の方が籍を入れたのは先だった。会費制の結婚パーティをしたのよね。
澁澤君と澄子さんはお対の格好をして来た。
澄子さんはワンピースで、澁澤君は同じ生地のアロハで。カップルだけじゃなくて、
私たちにお揃いの格好をして歩こうと澁澤君が提案したこともある。私がそれこそ
「ああ、嫌だ」と言ったら、「そういうの、しない?」とか言ってね。ほんと可愛かった。

出口◆『血と薔薇』では、澁澤さんは何やら露出癖を出したりして。

堀内◆けっこう好きだったんだと思う。
そうそう、そういうヌードの写真やなんか、けっこう澄子さんが撮ってるんですよ。
写真撮られるのが好きでしょう。

堀内◆私たち夫婦が転々と引越す、その先にはたいてい一回ずつは澁澤君も澄子さんと
一緒に来てくださったけれど、堀内とはそんなに親しくしていなかった。
そしたら澄子さんと澁澤君が別れた後、
入れ違いに今度は堀内の方が仕事で年中接触するようになって。
私たち一家がパリで暮らすようになったのは74年の6月からです。
それで、じゃあみんなで一緒に旅行しようかということになったんです。

出口◆渋澤さんはあれでもう3度目だからかなり慣れていたはずだけれども、
龍子さんに聞くと相変わらず旅行がうまくできなかったらしいですね。

堀内◆私たちも悪かったんですよ。そういう装備について打ち合せなしだったから。
こっちは旅行はナップザックで行くものと思ってるから。
それなのにトランクで来ちゃったの(笑) 宿の予約も何も取らないで出かけたわけ。
ともかく歩きながら旅館を探して行くわけでしょ。
私と堀内はそういう旅に慣れてるし軽装だったんだけど、
澁澤夫妻だけ大きなトランクを持ったまま歩くはめになっちゃんたんです。
その意味では澁澤夫妻にとっての一番の貧乏旅行だったんじゃないかしら(笑)

出口◆渋澤さんの旅行は、予定したものしか見ないし、しないという傾向があるな。

堀内◆「偶然出会うものなんかない!」と言ってました。
私たちが人形芝居を観てすごく良かったという話をしたんですね。
そんなのは街の中を歩いて、たまたま出会うわけでしょ。
そしたら怒っちゃって「僕がそんなものに出会うはずないだろう。
タクシーで目的地に行っちゃうんだから」と言ったの(笑)
普通の人に比べたらスタミナないほうでしょう。すぐにくたびれちゃうし。
地図を見て動いたりするのも不得手な人ですよね。
龍子さんは車の運転ができるから、そういう感覚は澁澤君よりずっとあると思うんです。
龍子さんだって美容院にもさっさと一人で行ってましたよ。感心してしまったもの。
実際、国内では龍子さんが全部面倒をみていたわけですよね。
でも旅先での澁澤さんはちっともワガママじゃなかったですよ。
ちゃんと「明日があるからね」という調子でとてもセーブして、
みんなが他の場所に足を延ばそうとしても「じゃあ、僕はここで帰る」と言って、
私たちがタクシーに乗せ一人でサッサと帰って休むようにしてました。
自分が見たいと決めてきたものを見物したら、それ以上は欲張らない。
お酒もほどほどにしてましたね。

出口◆渋澤さんは方向感覚がないしね。地図を見られないようですね、澁澤さんは。

堀内◆澄子さんはそういうの得意なのよね。
一緒に旅行を何回かしたけど、行く先からすべてお膳立てしてくれたの。
私が最初に澄子さんに連れられてよく遊びに行ってた時は、澁澤君も若かったでしょ。
身体が少しぐらい弱くてもそれなりに無茶もしたんでしょうけれど、
龍子さんと一緒になってからはだいぶ落ち着かれたんじゃないですか。

出口◆彼はサグラダファミリアにエレベーターで昇って、気分が悪くなっちゃったんでしょう?

堀内◆私が行こう行こうと言って、エレベーターに乗せちゃったの(笑)

出口◆彼は高いところも駄目なんだ。

堀内◆乗って外に押し出したの。そしたらエレベーターのところにつかまって、
「見れば?」と言っても「嫌だよ、嫌だよ」って(笑) それから、闘牛にも行かなかったな。
やっぱりお互いにペースが違うでしょ。明日の朝は何時に出かけると決めると、
どうしてもウチの方が用意が早いわけ。そうしたら最後の日だったか、
澁澤夫妻がやってきて「堀内君は?」って言うから「まだ」って言ったら、
澁澤さんが廊下を「やった!」って踊り出しちゃって可愛かったの(笑)
ほんとに小躍りして、クルクル回っちゃってね。

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by vMUGIv | 2011-07-10 00:00 | 昭和戦後

澁澤龍彦 その9

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画家 池田満寿夫

雑魚寝なんかずいぶんしたものね。
富岡多恵子〔池田の前妻〕と行ったことがあるんだね。
酒を飲み始めてグデングデンになって「みんな裸になろう」と言うわけよ。
みんな裸になって飲んでいて、
そのうちに「ちょっと、抱こう、抱こう」と言って抱き合ったりしたんだよ。
そのうち「乱交しよう、乱交しよう」と言ったんだよね。
渋澤さんが「おもしろい、やろう、やろう」と言ったんだよね。
そうしたら澄子さんが怒ったので、我々はシュンとなっちゃった(笑)

一人ずつお風呂に入りに行ったわけ。
「俺も入ろう」と言ったら佐藤陽子〔池田の後妻〕が「じゃ、一緒に入ろう」と。
澁澤が「なに?一緒に入るのか、俺も入る」と言って彼も入っちゃったわけ(笑)
そしたら龍子さんも入ってきちゃった(笑)

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by vMUGIv | 2011-07-09 00:00 | 昭和戦後

澁澤龍彦 その8

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澁澤の後妻 澁澤龍子&友人巖谷國士

龍子◆私は澁澤と結婚する前は、
自分じゃ何もやらないで周りがみんなやってくれるという人間だったんです。
だから「同じのが二人結婚してどうするんだろう」と私の友人なんかみんな心配して。

巖谷◆龍子さんもやってもらう方。どころが渋澤さんは(笑)

龍子◆もっとできない人だから、しょうがないから私がやるようになったの。

巖谷◆『滞欧日記』には切符を買うとか書いてあるけれども、龍子さんがかったわけ?

龍子◆そうよ。切符買うというのは、あの人はお金を出したりすることができないから。
なにしろお金にまったく興味のない人でしょ。
でも外国で迷子になったりした時、一文なしでは困るじゃない。
だから必ずいくらか渡すのね、これはリラよとか説明して。でも全然覚えないの。
こっちの方が絵柄がきれいだとか、硬貨の方がいいとか、
そういう感覚しかなくて、まったくダメ。

巖谷◆それ子供じゃない。

龍子◆そうよ、ぜんぜん子供よ。

巖谷◆あの人は方向音痴でしょ? 地図が読めない。

龍子◆それはまだいいのよ。もっとすごいのはホテルで迷っちゃうのよ。ホテルの中よ。

巖谷◆泳げないの?

龍子◆泳げないわよ。自転車にも乗れないし。
私はね、女同士でも旅行に行きたいわけよ。女友達と行くと言うと
「俺は世界中お前の行きたいところはどこでも連れて行ってやるし、どこでも行くのに、
どうしてお前は他の人と行きたいんだ」って言うのね。

巖谷◆子供みたいだね、それも(笑)

龍子◆楽しみが違うんだからさ、またそれは。
そう言うと「飛行機が落っこちたらどうするんだ」とか、いろいろ言うの。
イタリアなんか行った時、たいていお昼は寝ちゃうのよ。
そこで寝ている間に、私が買い物でも行こうと思うでしょ。
あの人と一緒だと買い物行けないから。

巖谷◆買い物嫌いだから。

龍子◆だからあの人がちょうど寝てるから行こうなんて思っても絶対ダメなの。
私が一人で出かけるのが心配なの。一人になると不安らしいのよ、私が行っちゃうと。

巖谷◆でも大変だったね、そういう人とでは。

龍子◆いや、それ以外は言わないんだもん、うるさいことも。
「どういう風になってほしい」とか「いろいろ勉強しろ」とか、そういうのは一切ないもん。

巌谷◆「出かけるな」とか「ついて来い」とは言うけれども、それ以外のことは言わない。

龍子◆「出かけるな」って言うのは旅行の時だけで。「何を食え」とかも言わない。
何でも自由自由だし。

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澁澤の後妻 澁澤龍子

ほんとに事件らしい事件が全然なかったわね、死ぬまで。
17年間というもの、まるで時間が止まったようというか。
日常生活のサイクルもほとんど一定してましたから。
仕事する時は40時間ぐらいでもしましたね、続けて。
その代り2日間ぐらいずっと寝てる時もあるんですよ。
昼夜逆転した不規則な生活で奥さんも大変でしょうなんて言われるけど、
全然大変じゃない。いつまで寝ていてもいいんだし、
あの人は自分が仕事してて私が寝てるっていうのが一番好きなんだから。
寝てればうるさくないでしょ(笑)
掃除なんかしたら、もう大変。寝てる時にするとうるさい、仕事中は気が散るって。
それでもあんまり汚いから我慢しきれなくなってやったりすると、
怒って掃除機のコードをちぎっちゃったりして。
それだから何時だって起こさないですよ、私が寝てれば。
私もずっと寝てられるし、だからちっとも大変じゃなくて楽でした。

私とあの人は性格なんかまったく違うわけだし、
あの人の書くものを私はまともに読んだこともない。
あの人自身が、私が勉強してくれればいいとか、まったく思わない人ですからね。
なにしろ、白痴で寝てれば一番いいとか言う人だから(笑)
存在してるだけでいいと言ってましたから。

買ってきた服をとっかえひっかえ着させては、
これがかわいいとか、それはよくないとか、そういうことは言いますよ。
私がなにか物を書いてたりすると、すごく気にして文章を直したりなんかするんです。
「お前が何かやると気になって自分は何にもできない」なんて言いながら。
手紙書いてても気にするんだから。
後から見てて「長い」とか「どうしてそういうムダなこと書くの」とかいちいち言うの。
やっぱりさみしがりやですよ。一人でいるの嫌いだしね。
いつも私が出かけるところに出てきて、「早く帰ってきてね」なんて言うんですもの。
そうやっていつでも関心を持たれてたということは良かったわね。
子供がいたりすると、今度は子供が一番ということになるでしょ。
せれはあの人は絶対許せないわけね。お互いの存在が絶対一番でいようと。
なんでも「お前が一番、お前が一番」ということはずっと言い続けてくれた人だから。

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by vMUGIv | 2011-07-08 00:00 | 昭和戦後

澁澤龍彦 その7

◆昭和44年 41歳 前川龍子29歳と再婚。


★後妻 前川龍子 元編集者
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澁澤の後妻 澁澤龍子

私が初めてこの家を訪ねたのは1967年のこと。
大学卒業後2年ほどして新潮社に入り、『芸術新潮』の編集者をしていました。
鎌倉の実家から通勤していたので、
原稿の依頼や受け渡しに出入りするようになったのです。
静かでちょっとノーブルな美形ではあるけれど、
好きなタイプというわけではありませんでした。
私は澁澤のような神経質そうな文学青年は好みではなかったので、
特に尊敬するような態度も取らずにいたところ
「君以外にそんな口の利き方する人はいないよ」と言われたこともありました。
とにかくスポーツ大好き、
車で飛ばしたりヨットに乗ったりするのが一番幸せという湘南育ちでしたから、
文学少女とはおよそ正反対のタイプで、澁澤の文章さえ読んだことがありませんでした。
その頃はまだ矢川澄子さんがお家にいらして御馳走になったこともありました。
私がおしゃべりで騒々しいせいか、
矢川さんは物静かでおとなしい方という印象を受けました。
そのころ彼の身辺にはいろいろ変化があったようですが、
私はそれほど親しくはなかったので個人的な事情は知らないまま、
結婚してから義母や義妹からそのあたりの話を聞かされたのでした。

『芸術新潮』の特集が澁澤と特別に親しくなるきっかけになったようです。
それ以降鎌倉の私の家に「遊びに来ない?」
という電話が頻繁にかかってくるようになりました。
結婚のきっかけは海外旅行でした。
友人がフランスに旅行するというのを聞いて私も行きたくなり、
1ヶ月ほど休ませてほしいと会社の上司に言いました。
「君には給料を払っているだけでも腹が立つんだ。こっちが月謝をもらいたいぐらいだ。
行きたかったら会社を辞めてから行きなさい」と叱られてしまいました。
その話を澁澤に伝えたら
「ああそれなら僕が世界中どんなところへも君を連れて行くから、すぐ会社を辞めちゃえ」
これがプロポーズの言葉だったのかもしれません。
こうして半年ばかりの間に私たちは急速に親しくなり、花の独身生活を楽しみ
結婚など考えもしなかった私がまるで引き寄せられるように結婚することになったのです。

結婚しないかという正式な言葉はその年の10月に聞きました。
彼はその時、自分は結婚しても浮気したりしてきたから、
そんなこともあるかもしれないと言ったので、「私は絶対許さないわ」と強く反発しました。
結婚してから私を裏切ったり約束を守らなかったことは一度もありませんでした。
おかげで彼との生活の中で、嫉妬心とか猜疑心という言葉は私の辞書からなくなりました。

銀座の画廊で展覧会を見る約束をしていましたが、いくら待っても現れません。
怒り心頭に達した私は帰りに澁澤の家に寄りましたところ
「眠かったから寝ていた」とケロッとしています。
「あなたの眠いのと龍子とどっちが大事なのよ!」
「この宇宙は僕を中心に回っているからこれからもずっとそうだよ。
そんなことで怒るのはおかしいよ」とシャアシャアとしているではありませんか。
1日24時間という時間の観念がまるでないのです。
時には寝ていて「おいおい」と私を呼んで「お腹空いていると思う?ぼく」
時計を見ると12時間ぐらい寝ているわけで、「あ、空いてるわよ」
それから慌ててご飯を食べることもありました。

「今日、何を食おうか」 朝目が覚めた時の澁澤の第一声です。
24時間家にいる人ですから毎日の食事はとても楽しみにしておりました。
何品も並べるのではなく、一点豪華主義。
好きな主品を集中的に食べますから、その一点がはずれた時の落胆ぶりは激しく
不機嫌になって原稿が進まなくなることさえありました。
たまに手の込んだ献立に時間がかかると、彼は足踏みしながら
「腹へった、まだなの、まだなの」と後から私を突っつくのでした。

二人が一番使った言葉、それは<バカ>でした。
私は極楽トンボですから「バカな龍子」とは
「龍子って本当にかわいいね」と言っているのだと思っていました。
澁澤はよく「お前がもっと白痴ならいい」と言っておりましたし、
私も子猫のようにかわいがられ時々爪を立てて引っ掻いたりしながら
一生を過ごすのが最高と思っていたのです。
わからないことは家に売るほど辞典類があるのですから引けばいいのですが、
澁澤という生き字引がそばにいるかと思うとつい聞いてしまうのでした。
仕事中の彼にたびたび尋ねるものですから、しまいには怒られてしまいます。
そして何度聞いても忘れてしまうものですから、壁に紙を貼りつけておいて同じことを
教えるたびに彼がその言葉の下に見せしめの正の字を書き記すことにもなりました。
そして『お叱り帖』とか『龍子バカ帖』というメモ帳を作られてしまいました。

●チェーンソー知らない。俺が教える。
(そのうちきっとそんなの前から知ってるって言い出すからここに書いておく)
●「行って来るぞと勇ましく~」 何度言ってもダメ。またダメ。
●柿食えば鐘が鳴る鳴ると言う。(大楠山でまた言った)

私も彼に「あなたってバカね」と言うのが口癖でした。
自動支払機でお金を出すのを見るとびっくりして、
自分もやりたいと何度も何度もボタンを押してお金をどんどん出してしまいます。
やはりちょっとおバカさんだったのではないでしょうか。

澁澤は私にこうなってほしいとか、もう少し利口であってほしいなどとは
決して言いませんでしたが、一つだけ「オバサンにならないでね」とは言っていました。
私の髪形や服装にはけっこううるさく、結婚以来ずっと彼の好きなロングヘアですし、
柔道着みたいで嫌いだというキルティングも着たことがありませんでした。
いつでしたか着やすいジャージのワンピースで出かけたら
「それ、僕の嫌いな服じゃない」と新幹線の車中でずっと怒っていたこともあったほどです。
私が服を買うと彼も喜び、同じようなものをばかり着ていると買い物に行くよう勧めるのです。
「毛皮でも宝石でもどんどん買っておいで」と送り出されるのですが、
やはり経済ということを考えますし適当にして帰ると
「なーんだ、それだけ」とがっかりさせてしまうのです。

ある日玄関のチャイムが鳴り、「宅急便です」という声に扉を開けると、
白い子兎が箱に入れられ置き去りにされていました。
生き物などに興味もなく飼ったこともなかった澁澤ですので、
誰かにもらってもらおうと必死になったのですが、
可愛くて手放せなくなり以降部屋で放し飼いすることになりました。
「ウチャ」と呼んでいました。本を齧るのが大好きで、愛読書はボードレール。
「お前もやっぱりボードレールか」と澁澤も満足そうでした。

1991年には義母が85歳で亡くなりました。
鎌倉彫の先生として現役のまま、一日臥せっただけで見事に生涯を閉じました。
しっかりと自我を持った自立した人で、
私も嫁というよりは対等な女性同士のようにつきあってきました。
私のことは誉めこそすれ間違っても悪口を言って歩くような人ではなかったのに、
こちらはといえば日々言いたいことを言い好きなようにやってましたから、
義母は大変だったかもしれません。
今思えば、もっと優しくかわいらしいお嫁ちゃんでいてあげればよかったかなと思います。

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初めての海外旅行
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最後の旅行写真
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by vMUGIv | 2011-07-07 00:00 | 昭和戦後

澁澤龍彦 その6

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澁澤の前妻 矢川澄子

Q 澁澤さんとの別離があって、矢川さんは谷川雁さんの方へ傾斜して行くと。

A 私は澁澤の中に子供の部分しか見てなかった。
もちろんメンタルなところで男らしいんだけど、日常的にはわがままな子供同然だし、
次に目についちゃった人は自分の父親を思い出させるようなタイプでした。
あんな風にスケールの大きな人というのはプラスの部分も大きいけど、
マイナス面のスケールもケタはずれでね。
あらゆる意味で澁澤のミニアチュールの世界とはまるで規模が違う。
離婚後、父に「私はやっぱりミニアチュールの完成に飽き足らなくなったんだと思う」
なんて話したら、「確かにそうだね」と頷いてくれてましたけど。

私が本当に楽しく踊らされながら、潜在的になんかおかしいなと思い始めた頃に、
たまたま昔の父親みたいな人と出会って、それでなんとなくということでしょうね。
だって全然別のものだと思ったから。
あっちは子供で、そこに今度は父親みたいな人が出てきただけでしょ。
その二人がお互いに嫉妬し合うなんてことは全然私は考えてなくて。
私だって澁澤に他の女性の出現を経験してたわけで。
現実にはあれよあれよという間にそういうことになってしまった。

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澁澤の前妻 矢川澄子

彼女は結果的には彼の全幅の信頼を一夜にして裏切ったのだった。
彼は動転し狼狽し混乱と興奮の極みにかろうじて持ち前の潔さを発揮しようとして、
二人の関係は今日限りきっぱりお終いにしようと言い出した。
彼女はもちろん頷いた。これまで10年越しにそうしてきたように。
夫婦喧嘩ということをついぞ知らずにきた夫婦の、これが最もふさわしい別れ方であった。

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澁澤の前妻 矢川澄子

Q でも谷川さんとは結婚なさらなかった。

A そこはまあ、お互いにひねくれ者ですから、いろいろあって・・・。
最後は黒姫でよき隣人でした。

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澁澤の前妻 矢川澄子

彼との生活は彼女のこれまでの仕事であり、ほとんど天職とも思われたのだ。
後継者も見つからぬうちに職場を去ることは間違ったことである
という意識を彼女はどうしてもふっ切れなかった。
「俺これからどうやって暮らそうか。お前、誰か次のいい娘、見つけてくれよ」
彼は彼女にそう頼みさえしたのだったから。
「やっぱりヨーロッパ行きだけは、最後につきあってもらおうかな」
彼がそう言い出した時、彼女にどうして断るいわれがあったろうか。
子供の修学旅行の前夜に倒れた母親のように、
彼女はこの付添いの約束は果たさなければという義務感のとりこだったのだ。
彼女の子をすぐにも欲しがっていた男には、この理論はもちろん通用すべくもなかった。
彼女が話を切り出したとたん彼はピシャリと心の窓を閉ざし、三者は三様に傷ついたまま、
それぞれに一人ぼっちで次の時代に歩み入るしかなかったのだ。

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澁澤の前妻 矢川澄子

A この詩には、澁澤の次の人への尊敬も込められているの。
2度目の人が出てきた時に、
耳で聞いて九州なまりの声が同郷の父とものすごく似ていたの。
しかも、昔の父のようなタカビシャな(笑)、理想主義的な言葉を吐いてくれるわけ。
子供時代の精神教育やら讃美歌やら、忘れていたものを思い出させられた
というところがありました、その人にはね。

『兎とよばれた女』の<神様>は谷川雁のつもりで。
1970年代、雁さんは<神様>みたいにたまに訪ねてくる人でしたから。

離婚の話が進む過程では、雁さんは私と結婚するつもりでいたみたいです。
女にモテる人でしたけれど、今までの他の関係を清算するって(笑)
でも離婚直前に澁澤と私との間でヨーロッパ旅行の計画が持ち上がっていて、
澁澤が旅行だけは一緒に行ってくれよと言うし、
私もそれが自分の最後の務めのような気がして、ともかく雁さんに相談したのね。
そうしたら、そのことが雁さんの目には澁澤にまだ未練があるというふうに映ったらしく、
いきなりピシャッと心を閉ざしてしまった。
誤解を解きたくても後の祭で、結局結婚も旅行もしなかった。
そのご関係は修復できたものの、雁さんは半年に一度くらい訪ねてくる人になったんです。
半年後とか続けざまとか、予告も無くいつ来るかわからないわけ。
そんな状態が10年くらい続いて、1978年には雁さんが黒姫に引っ越して、
きっと寂しかったのでしょうね、ここなら空地もたくさんあるから越してくればということで、
私も1980年に黒姫に家を建てました。それからは近所づきあい。

こちらが全力投球すれば相手も応えてくれるなって、そういう大きさのある人でした。
つきあいが始まった時「私、ともかく状況を変えたいのよ」と言っただけで、
私の考えていることをスッとわかってくれて。
もちろん問題も山ほどある人で、純情とひねくれのアマルガムで、
威張りんぼでしたしケンカもしましたけれど。

Q 澁澤さんとはケンカもしなかったと書いてらっしゃいましたね。

A ノンと言わなかった。ケンカもしなかった。
その頃は感情を抑制するのが知性だと思い込んでいたから、
はたから卑屈と見えるほど自分をないがしろにするようになってしまった。
そういう意味では(谷川とは)いい関係だったと思います。
心の支えになってくれましたしね。やっぱり、死なれると寂しい。

Q 矢川さんは、いまだに澁澤さんに惚れてる。

A そう。やっぱり澁澤を嫌いになったわけじゃないし。
私、一度も澁澤を嫌いになったことがないんですよ。

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澁澤の友人 種村季弘

その頃の矢川さんは澁澤龍彦さんと結婚していて鎌倉小町の二階建ての小さな家にいた。
一階にご家族がいて、上に彼女と澁澤さんがいたんですが、
八畳間に机を並べて床の間に本箱を置いて二人で勉強しているといった感じでした。

そのご矢川さんと澁澤さんは別れた。
そのころ僕は都立大学に勤めていたんですが、矢川さんは研究室に毎日のように来て、
もう一度鎌倉に帰りたい、どうしたらいいかという相談を受けました。
でも僕は第三者ですからどうしようもない。
それはご自分で澁澤さんと会って話すしかないんじゃないか、
そんなことを何度か言ったのを覚えています。
他にも相談を受けていた人はいただろうけれど、
澁澤家を出て下宿した赤堤が都立大に近いせいか連日のように来ていました。

そもそも澁澤のチャイルドネスを承知で一緒になったけれども、
それでは飽き足らなくなって父性的な人物のところに走った。
だけどその人が彼女の父親像を叶えてくれたかどうか。

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澁澤の前妻 矢川澄子

その家にいるかぎり、彼の呼び名は決まっていた。
だから少女もそれに倣ったまでだ。<おにいちゃん>
父・母・妹三人という家庭ではごく自然のなりゆきだったろう。

彼女のもとに彼の重病の知らせが人づてに届いた。
手遅れの喉頭癌ですでに声を失っているという。
見舞いに行ってやれよと昔を懐かしむ友人は言った。
あんなに仲の良かった二人じゃないか、このままではお互いにきっと悔いを残すよ。

彼女が病院を訪れたのは、彼が世を去る五日前激しい夕立のあとの夏の夕暮れだった。
病室に入った途端、彼女は再び昔ながらのおにいちゃんをそこに見出した。
別れも、その後も気まずさも、病が私たちを仲直りさせてくれたと彼女は思った。

彼は点滴の移動スタンドを押しながらエレベーターのところまで送りにきてくれた。
別れ際二人はおのずと握手しあっていた。顔と顔が少し近づいた。
少女はとっさに伸び上って囁いた。
「もう一度だけ、おにいちゃんと呼ばせてね」
くしゅんと、声にならない笑い声がした。

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2002/05/19 最後の写真   2002/05/29 自殺 
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by vMUGIv | 2011-07-06 00:00 | 昭和戦後

澁澤龍彦 その5

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澁澤の前妻 矢川澄子

戦災に焼け出され、稼ぎ手である父を失い、
自身は肺疾を病むといった重ね重ねのマイナスの接点に少年はいた。
そのような劣悪な条件の中で、少年はよけい美しく光り輝いて見えた。
その光にひとたび魅せられた以上、彼の求めを拒むいわれが少しでもあったろうか。
さしあたって嫌なのは産婦人科の門をくぐることだけだった。
それさえ目をつむってしまえば、二人はまたもとの楽しい蜜月に戻れるのだった。
彼が付き添ってくれる限り、この手術台までの道行きはものの数でもなかった。
彼は決まってその場に居合わせてくれた。麻酔切れの目覚めのたびに、
彼女がまず仰いだものは彼の顔であり、耳にしたのは彼の声であった。
「気がついた? ああ、よかった」というその声。ほっとしたそのまなざし。
「ごめんね」
とまたしても彼女をそんな目に遭わせなくてはならなくなるたびに彼は言うのだった。
それだけでもう充分だった。

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澁澤の前妻 矢川澄子

Q 澁澤さんが矢川さんに何度も中絶させているのが納得できないんですが。

A 自分の中で結婚時代にいろいろ疑問に感じてたことがワッと言葉になったんだけど、
目の前に彼がいたら全然ダメなんですよ。考える暇もないというか。
向こうの笛に踊らされてるだけで、楽しくってしようがなくて。
でもちょっとこのままでは、やっぱり何かちょっとおかしいなと思って。

Q 事前に避妊するというのをお互いにしなかったんですか?

A だって二人がいつそういう気分に陥るかというのは、まったく交通事故みたいなもので、
神のみぞ知ることでしょ。だからそのために前もって準備をしておくなんていうのは、
その方がよっぽど猥褻だと思って。

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矢川澄子の東京女子大時代からの友人・詩人・翻訳家 多田智満子

書くこと、表現することは、彼女にとってひとつの救い、解放だったでしょう。
澁澤さんと結婚している間は支え役に回って自分の仕事はできなかったし、
素晴らしい文学修業にはなったはずだけれど、
あれだけ尽くしたのにという思いはあるでしょう。
女として忍びないことを何回もしていてそれも非常につらかったと思うし、
そんなことをしないで済むように手が打てなかったかと思うけどそれをしなかった。
一度だけハッとするようなことを言ったことがあります。
「女に子供を産むことを許さないのなら、男は射精すべきではないわよ」
これは痛烈な本音でした。
やはり子供が欲しかったのだと思いますし、実際に養子縁組も考えてきたようです。

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澁澤の前妻 矢川澄子

最近も当時の知人が、夫と私のことを一卵性双生児のようだったと評してくれたが、
それほどの相手となぜ別れる気になったか。
疑問を口にできなかった自分の優柔不断のためと言ってよい。
二十代半ばから四十直前まで続いたこの生活で、
最大の皮肉は二人が親にならなかったことだった。

新居の書斎で彼は雑誌のインタビューに応じていた。
「タテの関係は一切ごめんというのが僕の主義なんだ。
子供はかすがいだなんて、そんなもの無い方がいい。精神の絆の方がよっぽど強い」
半月ほどしてその記事が活字になった時、そこにはこんなコメントが添えられていた。
<彼らは意志の力で子供を作らずにいる。まれに見る理想的なカップルである・・・>
彼女はそれを見た時、あ、この人ずるいなと、秘かにしかしはっきりと思ったのだ。
子供を持たずに済んでいるのは断じて意志の力ゆえではなかった。
彼女がその後始末を引き受けない限りタテの関係は発生していたはずであり、
主義の貫徹のために血を流すのは一方的に彼女の側だったのだ。

彼女はこの時感じた疑問を彼にはついに言わなかった。
言わなかったというより言えなかった。
彼ら夫婦のありようを根底から揺るがしかねない大問題であったからだ。
しかし、この疑問をわざと避けて通っているという忸怩たる思いは、
いつまでも解けやらずに彼女の胸に残った。かけがえのない伴侶であるはずの彼と、
こんなに大事な問題を語り合うことを自分は忌避しているのだ。
それもただただ、目の前の毎日が明るく翳りなく快く過ごせればという卑小な目的のために。
自分はいつからこんなところで浅ましくも満足するように成り果てたのか。

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澁澤の前妻 矢川澄子

彼は自分の好きな物のことを彼女に話すのが好きで、
その時々の彼の心を魅きつけてやまない物のことを熱っぽく語った。
好き勝手の及ぶ範囲はやがて女性にまで拡がってゆき、
一時はある人にかなりうつつを抜かしたりもしていた。
お前のところに戻ってこなくては意味がない、
僕の体験はお前に報告して初めて完結したものになるんだよ。
聞いて、ねえ聞いてよ。子供が外で見聞きしてきたことを、
帰るなり母親に逐一披露しなくては気が済まないのにも似ていた。
彼女は、もうじき飽きて終わるんだからという彼の言葉を信じ、
どこにも行っちゃ嫌だよという彼の頼みに従い、
同居の母の目をくらますことに加担したりもしていたのだ。

彼が初めて彼女以外の女に手を触れた時のこと。
ほとんど死にも匹敵するあの悲しみを、なぜ正直に悲しまなかったのか。
姑に心配をかけまいというだけで必死に平気を装うしかなかったのだ。
そこへいくと彼ははるかに真当で正直だった。
彼女が彼以外の男に救いを求めたというだけで、彼は混乱と同様の極みに達し、
あられもなく号泣することで、母親に一生一代の心痛をもたらす結果となったのだから。

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作家 高橋たか子

1968年の春だったと思うが、
澄子さんが突然不意打ちに澁澤家を出ていかれ、私はびっくり仰天した。
澁澤龍彦はびっくり仰天というより、ショックで大声を立てて泣いた。
「澄子がいなくなった」と。

澄子さんは谷川雁と結婚するのだと幸せな顔だった。
子供が産みたいと言っておられた澄子さんは、
谷川の子供を産むことを楽しみにしておられた。
二人は結婚なさったのだとずっと私は思い込んでいた。
東京から黒姫山へ移ったとの通知状が来た時も、そこが二人の新居だろうと思った。
通知状に書かれている電話番号に電話し、
結婚とか新居とか話題にしたが澄子さんの声は曖昧だった。
結婚せず、同棲でもなかった。なぜそんなふうな成り行きになったのか。

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澁澤の前妻 矢川澄子

自分の心にそれほどの隙間がいつの間にか生じていようとは
彼女自身もまったく思いもよらなかった。
彼と一緒に暮らすようになって10年、病気ともオサラバでき、
子供を作らなかった代りに念願の家を建て、ようやく巡ってきたゆとりの季節に、
今度は二人して計画した初めてのヨーロッパ行きというお楽しみが目前に控えていた。
すべてが順調に整ってきたかに見えたこの夫婦に、いったい何が起こったのだろう。
彼女はただ懐かしいものに図らずも巡り逢ってしまっただけだ。
それは響きであり、声であった。

父親のそれとそっくり同じ訛りを持つ男の声。
声音がそっくりならば、言うことも父親とそっくりだった。
なぜならその男は、彼女が今まで無理をして子供を持たずにきたことを知ると
たちどころに眉根を曇らせて言い出したのだ。
「そんなのおかしいよ、やめなさい。俺といっしょに赤ん坊作ろうよ」
夫のそれとはまるで異なる高みから響く声であった。

「よく来たね」 その一言が番狂わせの始まりでした。
「もう帰さない。たとえ10年がかりであろうと、最終的に一緒に暮らせる態勢へ持っていく」

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by vMUGIv | 2011-07-05 00:00 | 昭和戦後

澁澤龍彦 その4

◆27歳 父親死亡。結核再発。同じ校正アルバイトの矢川澄子と出会う。
◆30歳 2度目の結核完治。
◆31歳 矢川澄子29歳と結婚。
◆38歳 自宅を建てる。
◆40歳 矢川澄子38歳と離婚。


★前妻 矢川澄子 翻訳家・詩人
1930-2002 昭和05-平成14 72歳没 自殺   

教育学者矢川徳光の娘
東京女子大学外国語科卒業後、学習院大学独文科へ編入。
学習院大学卒業後、東京大学美学美術史科へ進学。
25歳で澁澤龍彦と出会い、29歳で結婚、38歳で離婚。
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澁澤の前妻 矢川澄子

<むかしむかし、一人の少女と一人の少年が仲良くなって一緒に暮らし始めました。
二人の間には、やがて幾冊かの本が生まれました。>
それにしても本当でしょうか。本が本物の子供の代りだったなんて。仕方ありません。
身ごもった生命は片っぱしから水に流してしまう常識はずれの不遜な男女に
神様はそれならばというわけで、この二人にふさわしい子種を授けてくださった。
それが本だったのです。

「書けたよ」どんなに疲れて眠っていたりしても、
少女はその一言で飛び起きることができました。
入れ替わりに机に向かうのは少女自身でした。
翌朝編集者の現れるまでに少女はこれを清書しなくてはならないのでした。
書き上げられた草稿を常に最初の読者として読ませてもらう喜びと、
この人にこんなに頼られているという責任感が少女を支えていました。
清書ばかりではありません。協同体制はとっくに開始されていました。
文献を入手するための工面から始まって、資料調べを手伝い、時には下訳をし、
いよいよ上梓が近づけば校正を繰り返し、装丁に頭をひねり、
といった具合にこの工程のすべてに少女は望まれて関わっていたのでした。

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評論家・作家 埴谷雄高

澁澤は矢川さんに清書させた。
矢川さんは清書しながら自分の考えも入れて澁澤をかなり助けている。
澁澤はフランス語だけど、矢川さんはドイツ語なんです。
ドイツ語的な知識は矢川さんでないとできないんです。

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澁澤の前妻 矢川澄子

初期の『ピカソ伝』みたいに代筆しちゃったものもあるけど、創作では全然。
私が下訳をして、後から手を入れたというのはありますよ。例えば『O嬢の物語』ね。
澁澤が引き受けたものの、「時間が足りないから、お前ともかく全部訳しておいてよ」
ということで(笑) 訳しておいて、後で澁澤が。
だって私は彼の専属だったもの。彼に喜んでもらえることをやっていればいいんで。
向こうに役立ててもらえる、私の能力を残りなく発揮して役立ってあげられる。
あらゆる意味で満足しきってた。そのために生まれたとさえ思ってた。
この人が表現してくれれば、私は何も表現者じゃなくたって
彼の生活を支えてればいいような気になっていたから。
少なくとも矢川澄子名義で世の中に物を広めようなんて気は全然なかった。

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詩人・作家 中井英夫

天使の男の子と女の子が一つ家に棲んだとも、
矢川さんが澁澤を守護しているイコンとも見え、
乳母日傘というのは二人を言う言葉だと思った。

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澁澤の前妻 矢川澄子

私たちは理想的な夫婦、またとない組み合せだと人にも言われ、
みずからもそう思っていました。二人で一人前、二人で一つ分なのでした。
一つの精神を私たちは仲良く共有していたのです。

何かしたくなるとあの人はいつもこう言いました。<僕こうすることにしたよ>
私はいつも答えました。<じゃあ、そうなさって>
あの人の言うことはいつも決まっていました。<ね、いいだろ?>
私の答えもいつも決まっていました。<ええ、いいわ>
あの人は始めから言っていました。<年とってからでなければ結婚なんてするものか>
私は答えました。<私だって>
それから半年ほどすると、あの人は言い出しました。
<お前、僕のつれあいになれよ。僕を信じてどこまでもついておいで>
私は答えました<なるわ。ついてゆくわよ、どこまでだって>
つきあいが深まるにつれてあの人は幾度念を押したことでしょう。
<人並みの幸福を求めるのはやめようね>
私の答えも決まっていました。<求めませんとも>

でも二人はとうとう世間並みにひとつ家に暮らすはめになってしまいました。
するとあの人はこう宣言したのです。
<こうなるとお前は月並みに子供をほしがることになりそうだな。
でもそうなったらもうお終いだ。僕は絶対お前を独り占めにしておくからな。
子供なんぞに奪られてたまるものか。いっそのこと僕が子供になってしまおう。
僕はもともと大人にならないことにしてるんだもの。この思いつき、素敵だろ?>
私は答えました。<素敵だわ>

二人は熱心にそれぞれの役割を演じ始めました。
足かけ10年にわたるその月日、お芝居に酔っていられた間は楽しかった。
醒めてはなりませんでした。醒めたら最後、迷いが生じ足元に狂いが生じて
この楽園から追放の身となることはわかっていました。

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澁澤の前妻 矢川澄子

「あなたの結婚してた人って、子供を作らない主義の人だったんだって?
それであなた自身もそうだったの?」

「それがねえ、私は本当にどっちでも良かったのよ。
相手が欲しいって言えば喜んで産んだだろうし、邪魔だって言われれば喜んで堕してね」

「どうしても産みたいとかお母さんになりたいとか、全然思わなかった?」

「ぜーんぜん。だってご本人が完全に子供代りでいてくれたもの。
あの人、買い物だって頼めなかったわよ。
本屋さん以外はお店に入ったことなんかないんだもの。
わがまま坊ちゃんが身近の女手に全部頼り切って、それでようやく成り立つ生活ね。
昔は時々そいういう男の人がいたの。ましてや母親にとっての一人息子ともなると。
あの人甘やかされてたから堪えるってことを知らなくて、
お母様の作った料理をムシャクシャして気に入らないと言って
お膳ごとひっくり返したことだってあったわよ。
それをまたお母様はおどおどしちゃって、周囲の誰ひとりとしてたしなめられないの。
一緒になってからはお母様はホッとして息子のことはすっかりお嫁さんに譲っちゃってね。
そうなるとこっちはもうツーカーどころか、ツーって言われないうちから
カーって言っているような姿勢にみるみるはまり込んじゃって。
始まりがいけなかったのかもね。あの人ずっと病身で、
お見舞い通いが結局住込み看護婦になっちゃったような形だもの。
あんなにわがままで我慢嫌いの人が、病気や貧乏のおかげで
やむを得ず耐えているのって、それだけでもう精神的に美しく思えてね。
せめて自分の力でこの人の不如意を少しでも減らしてあげられればと思って。
そりゃあもう尽くし甲斐があったわよ。楽しかった。ほんと、没頭できたわね、あの生活は。
人並みの健康を取り戻してからも、二人の関係はずっとそのまんまだったわね。
子供なんて余計だって言われれば、本当にそう思えたし、
そんな余計者が二人の間にできちゃったとすれば、
そのために彼はまた我慢しなくちゃならないことが増えるわけでしょう。
あの人、私が他の仕事するのだんだん嫌がるようになってね。
お前が他のことに気を取られているのを見るとイライラしちゃうって言いだして。
だから奥さんでいる間は仕事らしい仕事は何ひとつしない女になっちゃった。
奥さん兼お母さん兼ナース兼セクレタリー兼ハウスキーパーとして
フルに生かされてる感じで、片時の暇もなく充分燃焼していられたわね」

「でも、結局出てきちゃったんだ」

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撮影:矢川澄子
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by vMUGIv | 2011-07-04 00:00 | 昭和戦後

澁澤龍彦 その3

◆龍彦、東京高輪に生まれ、埼玉県川越市で育つ。
◆04歳 父親が東京勤務となったため一家は東京に転居。
◆13歳 東京府立第五中学校入学。
◆17歳 浦和高等学校理科に入学。
フランス文学を学びたかったが兵役猶予のため理科を選択。
しかもフランス語ではなくドイツ語と英語が必修であった。
途中東京大空襲で家が焼けたため一家は埼玉県に疎開、
残った龍彦は高校の寮に入って通学する。
◆18歳 終戦を迎え、本来の希望通り理科から文科に転部。
同時にアテネフランセに通ってフランス語を習得。
しかし東京大学仏文科には2年連続落ちる。
疎開していた家族と合流して鎌倉市の借家に転居。
◆20歳 浪人時代、雑誌「モダン日本」でアルバイトをする。
編集長をしていた吉行淳之介の下で働き、二人で飲み歩く。
◆22歳 東京大学仏文科合格。
◆25歳 東京大学仏文科卒業、卒論は『サドの現代性』。
卒業しても就職口がないため、岩波書店の校正のアルバイトをする。結核となるが一度完治する。
◆27歳 父親死亡。結核再発。同じ校正アルバイトの矢川澄子と出会う。

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妹 澁澤幸子

1948年浦和高校を卒業した兄は、
東京大学文学部フランス文学科を受験し見事に落第した。
自分の好きな本ばかり読み、受験勉強は一切しなかったのだから当然だろう。
「発表見てきてくれないか。たぶんダメだけどさ」
どうして私が見に行かなくちゃいけないのよなどと、私は決して言わない。
良い妹なのである。翌日私はノコノコと本郷に出かけた。
「なかったわよ」「そうだろうな、ハハハ」

浪人になった兄はアルバイトとして
『モダン日本』を出している新太陽社に編集者として勤務し始めた。
毎日銀座を歩いて築地にあった会社に通ったこと、
編集部に先輩としておいでになった吉行淳之介と知り合ったこと、駆け出し編集者として
多くの作家方にお目にかかったことなど、澁澤はエッセイに書いている。

翌年兄は再び東大を受けたが、またしても不合格だった。
2度目の不合格で、兄はいつまでもアルバイトをしていても仕方がないと思ったのだろう。
この春、新太陽社を退社した。
翌1950年、兄は東大に合格した。三度目の正直である。
ようやく受かった大学だが、兄はあまり学校へ行かなくなった。
この頃から兄と鎌倉在住の東大や早稲田や外語大などの学生たちとの交遊が始まった。
小町の家の2階は次第に梁山泊と化して行った。
そんな時期でも、悪童たちが帰れば兄はすぐに机に向かった。
兄は生来勤勉な努力家なのである。
兄にかわいらしいガールフレンドができたのもこの頃である。
お似合いの相思相愛カップルだったが、兄が肺結核を発病したころ二人の愛は終わった。

1953年、兄は東大を卒業したが肺結核を発病する。
さあこれからという時に病を得て、天性ノーテンキな兄もさすがにガックリきたようである。
友人が来れば病気を冗談の種にして笑っていたが、
真剣に治療に取り組み真面目に通院していた。
総領息子の発病に両親の心労も大きかった。
小康を得ると、兄は岩波書店の自宅校正のアルバイトを始めた。
兄が浦高時代理科から文科に転科する時、
父は「理科をやった方がいいんじゃないのか」とひとこと言っただけで、
その後は一人息子が二度も大学に落ちようが就職もせずにブラブラしてようが
何ひとつ口出ししなかった。

兄が初の翻訳書、コクトーの『大股びらき』を白水社から刊行したのは1954年である。
この本から兄の筆名は澁澤龍彦になった。
『大股びらき』の刊行を誰よりも喜んだのは父だった。
父は親戚や友人にこの本を見せて
「せっかく龍雄という名前をつけてやったのに、勝手に龍彦なんて変えやがって」
などと言いながら相好を崩していた。

兄は肺結核再発の宣告を受ける。
せっかく治ったと思ったのに、さぞガックリきたことだろう。
友人が作ってくれたアーム付きの書見台に本をはさんで、
布団に仰向いたまま本を読んでいた。それでも友人が来れば相変わらず笑顔で迎え
冗談を言い合って笑い転げて、決してめげることはなかった。

父が突然脳溢血で急逝した。外出先で倒れ、そのまま逝ったのである。享年60。
兄同様色白で痩せ型、血圧も高くなかった父の突然の死に
私たちはただ呆然とするばかりだった。
一家の長となった兄は一日も早く健康を取り戻したかったのだろう、
真面目に気胸療法に通院した。

1956年、兄は『サド選集』を刊行した。
ある日兄はちょっと改まった口調で私に言った。
「あのさ、今度の本に三島由紀夫の序文もらいたいんだけどね。
三島さんに電話してみてくれないかな」
どうして自分で電話しないのよなどと、私は決して言わない。
何度も言うが、良い妹なのである。私は必ずや三島氏のOKを取ってあげようと思った。
私は勤務先のファッション雑誌の編集部から電話することにした。
電話番号は編集部にあった文化人名簿で調べた。
「三島先生はおいででいらっしゃいましょうか」「はい、私ですが」
最初にご家族かお手伝いが出ると思っていたのに、
いきなりご本人がお出になったので私は大いに慌てた。
「澁澤龍彦と申す者の代理でごさいますが」と言いかけると、
「ああ、サドをやっていらっしゃる珍しい方ですね。あれは名訳です」
代理と言うのも妙だなあと思いながら電話したのだが、
三島氏の口調はまったく屈託なかった。
「今度龍彦が『サド選集』を出すことになりまして、先生の序文がいただければと。
本人は病人でございますので、代りにお電話させていただきました」
「奥様でいらっしゃいますか?」「いえ、妹でございます」
病気を口実にしてしまったが、電話くらいかけられないはずはない。
だが、三島氏はすぐにかいだくして下さった。
私は横須賀線を降りると、鎌倉駅から我が家まで宙を飛ぶように走った。
玄関に飛び込んで「やったよお!」と私は叫んだ。
「三島さん、お兄ちゃんのこと知ってたわよ。名訳だって言ってたわよ」
兄もさすがに嬉しそうだった。
その夜兄は三島氏宛に手紙を書き、それから兄と三島氏の深い交際が始まったのである。

澁澤龍彦といえば異端、異端といえば澁澤龍彦と言われていた時代が長く、
本人もさぞうんざりしていたことだろうが、そのため兄は私生活まで
なにやら秘密に満ちた特殊な人間のように思われていたところもあった。
兄に妻がいるというだけで、へええと驚く人さえいたが、
家庭人としての兄はまったく真っ当で健全な人間であった。
それは彼自身も充分自覚していて、いつだったか親しい友人に
「俺ってノルマルだなあ。いやんなっちゃうほどノルマルだなあ」と言って、ケタケタ笑っていた。
昭和一桁生まれの男の例にもれず兄は家族に対して照れ屋であったが、
家庭人としての兄は親孝行な息子であり、愛妻家であり、
妹たちには頼りがいのある兄であった。
兄が逝ってはじめて、私は自分がいかに兄を頼りに思っていたかに気づいて愕然とした。

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by vMUGIv | 2011-07-03 00:00 | 昭和戦後

澁澤龍彦 その2

●長男 龍雄  澁澤龍彦
●長女 幸子  津田塾大学英文科卒 編集者
●二女 道子  東京大学仏文科卒 詩人 画家矢野眞と結婚
●三女 万知子 東京外語大学イタリア語科卒 商社マン坂斉氏と結婚


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澁澤の母 澁澤節子

Q 結婚されたのは、誰かからお話が?
A 私は東京でしょう。兄の顧問弁護士が埼玉県の人だったの。
もう22になると昔は急ぐでしょう。それでその人に兄がちょっと言ったらしいのね。
「それじゃいい人がいる」というわけで。主人は33でしたよ。

Q だいぶお年が違いますね。
A ええ、11違うんです。向こうの母がとても心配して
写真をいくら持って行っても「だめ、だめ」とやっていて、
私のを持って行ったら「いい」と言ったって。私は嫌でしたよ、田舎へ行くの。
父が「田舎と言ったって埼玉ならそんなに遠くなることないし」と言って。

Q でも川越って由緒ある立派な町でしょう。
A 今はとても流行っちゃっていますけれども。でもつまんなかったんですよ、本当に。
東京から行ったんだから。

Q たとえば芝居なんかによく行ってらした?
A ええ、お芝居なんて母が好きだから、
毎月毎月あっちへ行ったりこっちへ行ったり、大変。
主人も好き。ものすごく歌舞伎が好きなの。
主人はお金が無ければ立ち見でもいいからというほど芝居が好きだった。
だから母が喜んじゃって一緒に行きました。

Q 澁澤君が書いている文章によると、お父様というのは堅い方で、
お勤め人で、銀行の役員、東大法学部卒という方なんですけれども、
生活人としてはわりあいに多趣味人というか、自由人でいらしたと。
A 競馬は好きだし、それから花札。カメラは現像・焼き付けまで家でやる。
そして山登り。日曜日というとお父さんがみんな子供を連れて
ゾロゾロゾロゾロとこかへ遊びに。それで銀行の帰りには
子供たちにおみやげを買って帰ってくるという、なにしろいいパパ。
それは亡くなるまでそうでした。

Q そうすると彼は長男だけれども、お父さんと喧嘩したりということは?
A あんまりしないです。でも仕事は反対だったわけよ。
銀行ならいくらでも世話してやるのに、
文士なんて髪の毛を長くして汚らしい格好して嫌だ、と言って。
お兄ちゃんお兄ちゃんで何かやっても結局女の子にやらせちゃったりするから、
別に大事にしてこうなったわけじゃないんだけれども、何もできないでしょ、家のことは。
だから、お嫁さんはかわいそう。

Q 二十代の頃、僕は小町のお宅によく伺ったんです。
下が3部屋、上が大きい十畳ぐらいの1部屋で。
彼がいつもそこに頑張っていて、威勢のいい論客が夜も昼も議論ばっかりしてたでしょう。
お父さんもお母さんもとても寛容で、
僕ら泊まり込んだりしてずいぶん乱脈を重ねたと思いますよ。
お酒もガンガン飲みましたしね。下には生活があったわけでしょう、妹さんたちとか。
どう思われていたんですか、あの頃。
A しょうがないと思っていましたね。でも皆さんのようないい友達をたくさん持って。

Q 友達がいっぱいできましたものね、彼は、
A しあわせでした。だから、短かったけれども楽しかったろうと思います。


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澁澤の妹 澁澤幸子

兄貴が慈恵医大に一年間入院していた時のことです。
母はあそこへ見舞いに行くぐらいのことはできる体力はあったし、
死ぬまで頭もボケていませんでしたが、
兄貴が来てほしくないと言ったので一度しか行きませんでした。
そういう意味で母は理性的で、非常にクールな母親でした。
感情的にカーッとならないし、話せばわかるというものすごく便利な親でしたしね。
だから私は、テレビのドラマやなにかで
母親がすぐキャンキャン泣いたり怒鳴ったりするのを見たり、
よそのお母さんのそういう態度を見るとビックリしましたもの。

父はいたずらとかきかないことをすれば怒られたけれども、そうね、あんまり。
お母さんがお父さんが死んでから言ったのは
「あの人は学者になって大学教授でもずっとやってれば一番向いてた人ね」とか言ってた。
そういうタイプだった。凝り性だし、人づきあいでも如才ないとかいう所がないのね。
明るい人ではありましたけど。遊ぶのがやたら好きで、
お兄ちゃんよりもっと全然スポーツ派でしたから、泳ぎもうまいし、登山もやった。
あの時代にドイツ製のカメラで写真をいっぱい撮って
コンクールに出して何位になったとか、登山も本格的にやってたし。

日曜日というと、お父さんとお母さんと子供とみんなで出かけるとか、
すごくいい家でしたよ、いま思うと。
日劇の地下でディズニーの漫画とニュースをやっていたんですよね。
それを見に行って、銀座でごはん食べて帰ってくるというのをしょっちゅうやってた。
夜なんか晩ごはんが済んでから家中で上野の不忍池の方まで散歩に行くの。
それで精養軒でアイスクリームを食べる。
あそこで植木市を昔からやってたんですよ。植木市で何か買って。
その頃は道子なんかまだ小さいから、お父さんがおんぶしたら寝ちゃったりしてね。

家の雰囲気は明るくて本当に健全な家庭で。
お父さんとお母さんと子供たちが一緒にいろいろ遊びに行ったり、何でも家中でやったり。
「ニューファミリー」という言葉が流行ったでしょ。
あの時「なんだ、ウチはニューファミリーのはしりだ」と思ったの。
だからお兄ちゃんは全然明るい。
お父さんは死ぬまでお母さんのことを「きみ」と言ってたのよね。
あの世代では非常に珍しいんだってね。みんな笑ったの。


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澁澤の妹 澁澤幸子

とにかくあの人は人にやらせるの。
どこへ行くのも何をするのも龍子さんと一緒でしょう。
東京へ行くのからヨーロッパに行くのから、全部。
そうすると「本当に仲のいい御夫婦で」というふうに思うでしょう。
仲がいいのは本当だけれども、澄子さん時代もそうなんですよね。
ちょっと鎌倉へ行くのも何も、全部一緒。
その前は妹をそういうふうに使っていたの(笑) そういう生き方の人なの。

妹依存症というか、女房依存症というか、全部そうなんです。パターンなの。
奥さんと奥さんの端境期があったでしょう。
端境期の時に家のコンセントが壊れたんですよ。
それで電気屋を呼ぶとか、母親と兄がゴチャゴチャやってる。
「こんなの簡単じゃない」とか言って私が直しちゃったら、
「お前そんなことできるのか」ってほんとにびっくりしてましたよ(笑) 
その辺は異常でしたね。

とにかく龍子さんになるまで何もできませんでしたね。
例えば澄子さんとお母さんがちょっといなかったりすると、
ノドが乾いてもお茶も飲めないのね。
お腹が空いても、冷蔵庫を開けるという知恵が回らないの(笑)
だからたまたま二人が出かけていないと「ああ、腹空いた」とか言ってるんだって。
冷蔵庫を開ければ食べるものがいっぱい入っていても、
それを出して食べるという知恵が回らない。
ノドが乾いても、お湯を沸かして飲むとかお茶を入れるという知恵が回らない。
朝トーストを食べる時も、バターを塗ってあげる。お紅茶をいれるのは当たり前よ。
何でもかんでもしてあげる。ところが龍子さんになって鎌暮に行ったら、
お兄ちゃんがフライパンで銀杏か何かこうやって炒ってるの。私、びっくりした(笑)
それから寝る時も、自分でお盆を取ってウイスキーと水と氷とコップを載せて
寝床の方に寝酒を運んで行くのを見て、びっくり仰天。
それだけのこともやらなかったんだから。やればできるのよ(笑)

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左から 龍彦 幸子 道子
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左から 道子 万知子
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幸子
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万知子
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by vMUGIv | 2011-07-02 00:00 | 昭和戦後

澁澤龍彦 その1

■父方祖父 実業家 五代目澁澤宗助 
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■母方祖父 実業家・政治家 磯部保次 
1868-1928
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■父 銀行員 澁澤武


■母 磯部節子


祖母磯部トキと母節子
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●長男 龍雄  澁澤龍彦
●長女 幸子  津田塾大学英文科卒 編集者
●二女 道子  東京大学仏文科卒 詩人 画家矢野眞と結婚
●三女 万知子 東京外語大学イタリア語科卒 商社マン坂斉氏と結婚




■澁澤龍彦 本名澁澤龍雄
1928-1987 昭和03-昭和62 59歳没


■前妻 矢川澄子 翻訳家・詩人
1930-2002 昭和05-平成14 72歳没 自殺 


■後妻 前川龍子 元編集者
1940- 昭和15-


◆父親は渋沢栄一の遠縁で埼玉県出身、東京大学法学部を卒業後商社に就職。
しかし商社勤めは肌に合わず、武州銀行に転職して入間川支店長となる。
母親は実業家・政治家の娘で東京都出身、聖心女学院を卒業後見合い結婚。
父親33歳、母親22歳で、埼玉県川越市で新婚生活が始まる。
父親は歌舞伎・相撲・野球に詳しく、競馬・花札が得意で、
写真・登山を楽しむという多趣味な人間であったが、
母親の父親は多くの妾を囲っていたため、
苦労した母親の母親が娘には真面目な男性をと探した相手で、その方面では堅物であった。
◆昭和03年 5月8日東京高輪に生まれ、埼玉県川越市で育つ。
◆昭和07年 04歳 父親が東京勤務となったため一家は東京に転居。
◆昭和16年 13歳 東京府立第五中学校入学。
◆昭和20年 17歳 浦和高等学校理科に入学。
フランス文学を学びたかったが兵役猶予のため理科を選択。
しかもフランス語ではなくドイツ語と英語が必修であった。
途中東京大空襲で家が焼けたため一家は埼玉県に疎開、
残った龍彦は高校の寮に入って通学する。終戦。
◆昭和21年 18歳 本来の希望通り理科から文科に転部。
同時にアテネフランセに通ってフランス語を習得。
しかし東京大学仏文科には2年連続落ちる。
疎開していた家族と合流して鎌倉市の借家に転居。
◆昭和23年 20歳 浪人時代、雑誌「モダン日本」でアルバイトをする。
編集長をしていた吉行淳之介の下で働き、二人で飲み歩く。
◆昭和25年 22歳 東京大学仏文科合格。
◆昭和28年 25歳 東京大学仏文科卒業、卒論は『サドの現代性』。
卒業しても就職口がないため、岩波書店の校正のアルバイトをする。結核となるが一度完治する。
◆昭和30年 27歳 父親死亡。結核再発。同じ校正アルバイトの矢川澄子と出会う。
◆昭和33年 30歳 2度目の結核完治。
◆昭和34年 31歳 矢川澄子29歳と結婚。
◆昭和41年 38歳 自宅を建てる。
◆昭和43年 40歳 矢川澄子38歳と離婚。
◆昭和44年 41歳 前川龍子29歳と再婚。
◆昭和61年 58歳 下喉頭ガンの手術により声を失う。
◆昭和62年 59歳 8月5日死亡。



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澁澤の母 澁澤節子

Q 結婚されたのは、誰かからお話が?
A 私は東京でしょう。兄の顧問弁護士が埼玉県の人だったの。
もう22になると昔は急ぐでしょう。それでその人に兄がちょっと言ったらしいのね。
「それじゃいい人がいる」というわけで。主人は33でしたよ。

Q だいぶお年が違いますね。
A ええ、11違うんです。向こうの母がとても心配して
写真をいくら持って行っても「だめ、だめ」とやっていて、
私のを持って行ったら「いい」と言ったって。私は嫌でしたよ、田舎へ行くの。
父が「田舎と言ったって埼玉ならそんなに遠くなることないし」と言って。

Q でも川越って由緒ある立派な町でしょう。
A 今はとても流行っちゃっていますけれども。でもつまんなかったんですよ、本当に。
東京から行ったんだから。

Q たとえば芝居なんかによく行ってらした?
A ええ、お芝居なんて母が好きだから、毎月毎月あっちへ行ったりこっちへ行ったり、大変。
主人も好き。ものすごく歌舞伎が好きなの。
主人はお金が無ければ立ち見でもいいからというほど芝居が好きだった。
だから母が喜んじゃって一緒に行きました。

Q 澁澤君が書いている文章によると、お父様というのは堅い方で、
お勤め人で、銀行の役員、東大法学部卒という方なんですけれども、
生活人としてはわりあいに多趣味人というか、自由人でいらしたと。
A 競馬は好きだし、それから花札。カメラは現像・焼き付けまで家でやる。
そして山登り。日曜日というとお父さんがみんな子供を連れて
ゾロゾロゾロゾロとこかへ遊びに。それで銀行の帰りには
子供たちにおみやげを買って帰ってくるという、なにしろいいパパ。
それは亡くなるまでそうでした。

Q そうすると彼は長男だけれども、お父さんと喧嘩したりということは?
A あんまりしないです。でも仕事は反対だったわけよ。銀行ならいくらでも世話してやるのに、
文士なんて髪の毛を長くして汚らしい格好して嫌だ、と言って。
お兄ちゃんお兄ちゃんで何かやっても結局女の子にやらせちゃったりするから、
別に大事にしてこうなったわけじゃないんだけれども、何もできないでしょ、家のことは。
だから、お嫁さんはかわいそう。

Q 二十代の頃、僕は小町のお宅によく伺ったんです。
下が3部屋、上が大きい十畳ぐらいの1部屋で。
彼がいつもそこに頑張っていて、威勢のいい論客が夜も昼も議論ばっかりしてたでしょう。
お父さんもお母さんもとても寛容で、
僕ら泊まり込んだりしてずいぶん乱脈を重ねたと思いますよ。
お酒もガンガン飲みましたしね。下には生活があったわけでしょう、妹さんたちとか。
どう思われていたんですか、あの頃。
A しょうがないと思っていましたね。でも皆さんのようないい友達をたくさん持って。

Q 友達がいっぱいできましたものね、彼は、
A しあわせでした。だから、短かったけれども楽しかったろうと思います。

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by vMUGIv | 2011-07-01 00:00 | 昭和戦後


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