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by vMUGIv
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谷崎潤一郎 その20

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秘書 伊吹和子

松子夫人の『倚松庵の夢』には、
「夫と永劫の別れを告げる十日ほど前に、私は禁句を舌端に載せてしまった。
それもいそいそと最後に気に入られていた人を連れて行こうとする人の背に。
これだけの気力を取り戻したことを喜びながら、『長い間心配ばかりした私をおいて』
と言いながら、顔を覆い寝室のベッドに打ち付した」と記されている。

この「最後に気に入られていた人」というのは、
その頃お目見えしてまだ日の浅いトンちゃんという新潟出身のお手伝いさんであった。
ヤスさんから聞いたところでは、
先生がいつもの通り新人を珍しがって映画や散歩と連れ出され、
トンちゃんは事情がよくわからないまま
先生の言いつけに逆らうわけにはゆかず付いて歩いていた。
松子夫人はそれでヤキモキしておられたらしい。
ヤスさんは「奥様、ベッドで泣いていらっしゃった。ヤキモチもあったかも知れないけど、
そんな本気で焼かんならんようなこと、先生できる身体じゃなかったよね。
お腹に穴開いてたんだもの」と言った。

私はもう何年も前、小滝氏に言われたことを思い出していた。
あの時私は「あんまり先生の役に立つと松子さんを怒らせる」
という同氏の言葉の意味が全く理解できなかったが、小滝氏の言は松子夫人自身が
その随筆の中で嫉妬と呼んでおられたものを指していたのではなかったろうか。
私は松子夫人が、ほんとにあなたのお陰様ですわと言い、
主人が喜んでいます、よろしくねと言われるのをただひたすら真に受けて、
その裏にある微妙な翳りに気づかず松子夫人の神経を逆なでしていたのかもしれない。
秘書もお手伝いさんも、あのKさんやTさんの場合も
結局は松子夫人の優しい言葉をそのままに受け取り、
先生を喜ばせればそれがまた松子夫人をも喜ばせることになると信じていた。
知らず知らず松子夫人を傷つけていたTさんが
三人前のメインディッシュを無理にお腹に詰め込むのを見て、
夫人には密やかに快感に近いものが走ったのでもあったろう。
彼女たちは松子夫人の言葉の裏に隠された悲傷に気づかなかった。
私の場合「書く機械」になり切ってきても、それはそれでまた
先生にも松子夫人にもそれぞれの異なった意味で目障りになることがあったのだろう。

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by vMUGIv | 2011-04-20 00:00 | 大正

谷崎潤一郎 その19

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秘書 伊吹和子

『瘋癲老人日記』で老人は颯子の足の裏の拓本を取る。
実際に先生から足の裏に朱墨を塗られたのはヨシさんであった。
昭和27年頃から谷崎家に来ていたお手伝いさんだが、
至って朗らかな当時二十歳になるかならずの娘さんであった。
今は大阪でデザイナーとして活躍しているヨシさんが語ってくれた回想によれば、
それは彼女が谷崎家に来てまだ日の浅い頃で、
拓本造りは日々飽きもせず繰り返されたということであった。
書斎に着くと先生はまず彼女のソックスを脱がせ、
洗面所の流しで手ずから丁寧に足を洗ってくださり、
指の股までタオルで拭いて高い椅子に腰かけさせ、
自分は時間をかけて硯になみなみと朱墨をお磨りになる。
手伝いましょかと言っても、手出しをするなと言われる。
やがて先生はその足に朱墨を塗りたくって、
色紙を押しつけたり色紙の上を歩かせたりなさった。
「辛抱してたけど、ビチョビチョで気持ち悪いし、触り倒されてこそばいし」
とヨシさんは顔をしかめた。
先生は何度も失敗して、朱墨にまみれた足を洗い直したり拭き取ったりしてくださるが、
「先生はなんぼでも色紙を出してきて次から次へと足の型を押して散らかしはるから、
お座敷中色紙だらけになりました」
先生はしばしば内緒だよと言いながら、
無理矢理何枚かの紙幣をヨシさんの掌にねじ込まれたという。

足の拓本作りに疲れると、先生はうつ伏せになり
「肩と腰をもんでほしい、背中にのってくれないか、ヨシは身体が軽い上に
足のキメがツルツルしていて柔らかでいい気持ちなんだ」とおっしゃった。
仕方なく言われるままに背中に上ると、じっとしていないで足踏みをしておくれと注文される。
足踏みをすると先生は「痛い、痛い、痛いけどいい気持ちだ、
もっと踏んどくれ、もっと踏んどくれ」とおっしゃるので、
ヨシさんは汗をかきながら一生懸命に飛んだり跳ねたりした。
こんなことが毎日続くうちに、なるほど内緒にしておけとおっしゃる通り
朋輩は誰もこんなお相手をしていない様子なのに、
なんで自分だけがこんな目に遭わなければならないのかとくやしくなり、
腹いせの気持ちも込めて先生の背中を踏んだが、余計に先生は嬉しそうになさったと言う。
「そやけど、先生はなんであんなつまらんことして遊びはったんやろね。
上等の色紙やのに、もったいない。あんな足の型なんか、どう考えても使い道あれへんよ」
私は驚いて『瘋癲老人日記』に出てくる大事な場面に
役立ててあるのを読んでいないのかと尋ねると
「ほんま?私、本はもろたけど、初めの方ちょっと覗いただけで、読んでへんねん」

『過酸化マンガン水の夢』の原稿を部分的に筆記したことはよく覚えているという。
映画のお供やその後の食事は楽しかったけれど、書斎でも仕事はイヤで仕方がなかった。
「なんや、こんなややこしいこと。マンガンって何のマジナイや」
と思いながら痺れた足をさすっていましたということであった。
一節書くと、先生の長い沈思のしじまが来る。
「はーい、書きましたよー。次を早う言うて下さいやー」とヨシさんは催促する。
「ええ加減に早うしてください、先生。辛気臭いなあ、もう。私、忙しいのに。
お洗濯かてせんならんし、お風呂場も汚れたあるし」
先生はヨシさんを書斎での格好のペットのように思っておられたらしい。
クリクリして色白の可愛いお転婆さんは、必要以上に緊張することもなく
思うことを遠慮なく口にしたので、かえって楽しいお相手になったのであろう。
「台所の用事をさせないで書斎にずっといさせるのは具合が良くないって
家内が言うもんですからね、どうもそれが困っちまってね」と嘆いておられたが、
ヨシさんは松子夫人から苦情が出て何度か出たり入ったりしていた。
彼女が谷崎家に戻ってくるのは、実家の事情から働かねばならなかったからである。
戻ってくれば元通り、先生はヨシさんをことさら甘えさせて書斎に呼ばれた。
松子夫人にとって愉快であるわけはなかった。

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by vMUGIv | 2011-04-19 00:00 | 大正

谷崎潤一郎 その18

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秘書 伊吹和子

*谷崎の秘書を5年務めた後就職、谷崎に請われて再度秘書を務めた後、
中央公論社の編集者となる。

先生が考えておられた<秘書>とは、果たしてどんな性質のものだったのであろうか。
早くは資料調査などを受け持っておられた榎克朗氏が
週に何回か通って秘書の役目も勤めておられ、
宮地裕氏が引き継がれたが、その後は女性を頼まれることになり、
私が宮地氏の後を承るまで
短期間ながら何人かの女性が代わる代わる秘書として勤めていたようである。
ある人は本棚の整理を命じられて全集を左から右へ並べて失敗し、
ある人はつけていた香水が気に入らず、ある人はかすかなワキガが災いした。
ある人は手洗いが二つあって、一つが先生専用になっていたのをうっかり入ってしまい、
しかも後の水の流し方が充分でなかったというのが解雇の原因であった。

老後の4年間すなわち私が時に応じて呼び出されていた間にも、
先生は書斎の相手をする若い女性をいろいろと物色しておられたようである。
先生が望んでおられたのは口述筆記のための秘書と言うよりは、
書斎専門にいつも身近にいさせて気楽に雑用を頼むことができる
二十歳前後の女の子であった。
先生は秘書という名目の女の子に情緒的な慰めを期待しておられたようである。
高校を出たての娘さんが来ると先生は単純なほど喜んで、
毎日散歩に連れ出したり何かと服飾品などを買い与えたりされるので、
たいていの人は先生のお気に入りになれたと錯覚してしまいがちであった。
ところが先生は新人が少し慣れてくると、
書斎の雑用に加えてかなり高度な仕事もさせようと望まれた。
先生はそれほど難しい仕事だとは考えておられなかったようである。
そのためにちょっと見が気に入ったというだけで雇おうとされた相手から
最初の新鮮な印象が色褪せたところで、先生はいつも幻滅を味わわされることになった。
そうなると小さなことまでがいちいち気になって、ついには癇癪玉が爆発する。
新しい秘書も先生の豹変ぶりに戸惑ってしどろもどろになり、
なおのこと御機嫌を逆なですることになってしまうのであった。

中央公論社が美人コンテストを主催し先生が首席審査員を務められたが、
先生の目にとまったのがその春高知県の高校を卒業して
上京してきたばかりで応募したというKさんであった。
コンテストでは入賞を逃したが、先生はKさんを秘書に採用することにされた。
先生はことのほか上機嫌で、
教え込むのも楽しみの一つになるからとウキウキしておっしゃった。
Kさんはすっきりと背が高く均整のとれた身体つきで、
色白のふっくらとした顔にはまだ少女の面影を残しているようであった。
Kさんは毎日の出勤が楽しくてたまらない、
先生はどんなワガママを言っても笑って喜んでいらっしゃる、
散歩について行って映画を観て、お茶を飲んでおいしいものを食べ、
おねだりすると何でも買っていただける、お小遣いも欲しいだけ下さるしいいお仕事です
と嬉しそうに瞳を輝かせていた。
ある朝Kさんが寝坊をして連絡なしに遅刻したので先生が注意されたところ
「たった10分ぐらいなのに、いやだァ、そんなに待ち遠しかったの?」と笑った。
先生は時刻についてまことに厳しい方であったから、その怒り方も想像できる。
ただ優しいお爺様だと慣れ親しんでいたKさんは、
初めての先生の剣幕にどんなにか驚いたであろう。
泣きながら下宿に帰った彼女は翌日からスネて出勤しなくなり、
それではと暇を出すことにされたところ、
クビになったと言っては故郷に帰れないと下宿に居座ってしまったということであった。
もともとは中央公論社の主催したコンテストから起こったことだからと、
先生は嶋中社長に助けを求められたらしい。

先生のもとには東京女子大の英文科を出たTさん〔田端晃〕という人が通い始めていた。
先生の友人で閣僚を経験された津島寿一氏の知り合いで、
スポーツ界の重鎮であった方のお嬢さんだということであった。
Tさんの手記には『原稿筆記のこと以外の仕事にはおよそ大まかで任せっきり、
それゆえ私の方でいろいろ工夫したり判断したりしてやって行くと、
それを喜ばれるという風でしたから大変私にはやりやすかったのでした』と書かれている。
先生とTさんの二人三脚は順調にスタートが切られたように見えた。
ところが書簡にはこんなことを書いておられる。
『今度雇った秘書婦人のことにつき、私も差し当り人がないから使っているだけで
別に気に入っているわけではありません。
1、2ヶ月内に機会を見て解雇し、書斎の整理をするだけの少女を一人雇うことにします』
「あの人はどうも大変な大食いでね。こないだなんぞは洋食を3人前食べちまったんですよ」
「そうなんですの。レストランでね、お好きなものを何でもどうぞって言いましたらね、
ヒレステーキとシチューとビーフカレーとね、すっかりね」
実はまみえて早々の時期から先生夫妻のウケはあまり良くなかったようである。

『こちらは今Tさんがまだ手伝っていてくれますから、
あなたの方はいったいいつ頃ならばお差支えないかお知らせ下さい。
お宿の方はTさんが今おられる下宿をお使いになるのが一番良いと思いますが、
その前にTさんも東京に落ち着く先を決めなければなりませんので、
それがだいたい決まりましたらお知らせ致します』という代筆の書簡が来た。
上の文に続いて『Tさんに代筆してもらっています』とあって、
Tさんはどんな気持ちでいるだろうかと思った。

『高血圧症の思い出』の第6回に先生は私の名を出しておられるが、
中央公論社の小滝穆氏はこれを<先生のラブレター>だと言われた。
「先生はかつて身近にいた人のことをあしざまに言われることが多いが、
いざ離れてみると惜しく思われてきて、もう一度来て欲しくなる。
その時は作品の中にその人を登場させるのが手なんだよ。
相手は感激してホイホイやって来るけど、またじきに飽きられてしまうんだ。
『高血圧症』はTさんの筆記でしょ。辞めさせるつもりでいる人を相手に、
お前さんは駄目だと言わんばかりのことを筆記させるんだもの、
残酷な親父さんだよ、まったく」

松子夫人は夕方私が退勤する時、毎日のように石段の下まで見送って
「主人が伊吹さんがよく話の相手になってくれて嬉しいって言いますのよ。
ほんとによろしくね」とおっしゃった。
どういうわけか先生の御機嫌がにわかに悪くなった。
あまりの唐突な変わりように私はただ驚いて
何がいけなかったのかを確かめることさえためらわれ、
ともかくおっしゃるとおりに動くより仕方がなかった。
小滝氏は書斎ですれ違いざまに、
「先生の御機嫌が悪いんでしょう?だいぶやられてますな」とおっしゃった。
私が「でもお手が痛むので無理もないのでしょう。奥様が大変心配して、
よろしく頼むといつもおっしゃいます。先生をイライラさせてしまっても、
奥様が何かととりなしてかばって下さるので・・・」と言いかけると、
小滝氏は「やっぱりわからないんだなあ。
それはあなた、あまり先生の役に立ちすぎて松子さんを怒らせてるってことなんだよ。
でもまあ、あなたにあんまり人の心の裏を読むことを教えちまっちゃマズイかな」と言って、
ノドの奥で、く、と笑い声を立てられた。
小滝氏の言葉を私は全く理解することができなかった。
はるか後になってもしかするとと推し測ってみたこともあったが、ここでは触れない。
「まあ、しょうがないさ。先生もしばらくは喜んで口授なさったろうけれど、
もうハネムーンは終わったんだよ」とおっしゃった。

『京都の女の声は表面優しそうに聞こえるけれども、
潤いがなくて素っ気なくて作り声のようなところがあり、
所謂カマトト声を出すので私は嫌いである』
その日先生は私がここを書き終わる瞬間、間髪を入れず
「はい、今のところを朗読してみて下さい」と妙に冷たい口調でおっしゃった。
ゆっくりと読んだ。読み終わると先生は「もう一度」とおっしゃった。もう一度読んだ。
いわば私自身の声をクソミソにけなされているのだが、
こういう言いつけにも一向たじろがずに応じるようなところが、
先生には許しがたい京都人特有のふてぶてしさだったのであろう。

先生はMさんという若い女性にも夢を託しておられるようであった。
武智鉄二氏のお弟子さんだというMさんが出入りするようになっていた。
誰彼なしにもっといい秘書はいないかと頼んでおられたので、
それならと武智氏がMさんを推薦されたのではなかったかと思う。
スラリと背が高く、浅黒い個性的な顔立ちが今も印象に残っている。
すでに武智氏の舞台にも出ていて、お稽古や舞台が重なれば
いつでもすぐ呼び寄せるというわけには行かず、
それではどちらにも中途半端でと言う松子夫人の心配をよそに、
先生はMさんが来ると必ずハイヤーを呼んでドライブに出かけられた。
Mさんは先生の隣に乗ると、すぐに形のいい手を先生の腿に置き、
降りる時までそうしていた。私にはとても考えられない風景であった。

ある午後、先生が口述の途中ふと席を立たれたことがあった。
文章は読点を打ったところで中途半端であったから手洗いかと思っていると、
仁王立ちで私を見おろし、いきなり「あなたね、もう明日から来ないでよござんす。
今すぐに東京へ帰って下さい」とおっしゃった。
もちろん原稿はマルまで来ていないままである。
「なあに、明日っから新しい人が来るんです。
今度のはあなたなんぞより、そりゃずっと優秀なんだって。
ああ、今度こそ、いーい人が見つかりました。もう大丈夫です。
もうあなたに手伝ってもらうことはなーんにもありません」と追い立てるようにされた。
さすがにいい気持ちではないままに荷物をまとめて帰京すると、
先生は嶋中社長に「もう、あれは寄こさないでほしい」と電話をしておられた。
社長は「また先生の気まぐれですなあ。
この忙しい最中に先生のワガママにいちいちつきあっていられますか。
まあ、4、5日待ってごらんなさい。きっと呼び出しの電話が来ますから。
え?御辞退いたしますですって?そんなこと言ったって、そりゃダメだ。
先生の相手ができるような変な人は他にいないもの」
2、3日のうちに先生から電話がかかってきた。
「もしもし、あのね、ちょっとね、消しゴムをね、丸善でね、
一つでよござんすから、買ってね、これからすぐにね、持ってきてくれませんか。
一つでいいんです、二つも三つもは要りません。
いやあ、熱海にも売ってはありますがね、
どうも丸善で買った方がよく消えるって、そう思うもんだから」
渋ってはみたけれども、社長からの口添えもあり、
致し方なく、また東海道線に乗ることになった。
書斎に着くと、先生はケロリとした表情ですぐ口述にかかられた。
こんなことが『瘋癲老人日記』の完結までに何度かあった。

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by vMUGIv | 2011-04-18 00:00 | 大正

谷崎潤一郎 その17

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秘書 高木治江/旧姓 江田治江

大阪府女子専門学校の1年先輩の武市遊亀子から手紙を受け取ったのは
昭和3年12月中頃で、当時武市は『卍』の大阪弁の助手として谷崎家に起居していた。
『谷崎先生が大阪のお嬢様方に夕食を差し上げたいとおっしゃっていますので、
貴女を含めて5人のお友達を誘って25日5時頃に先生のところへ来て下さい』
私は驚いた。狼狽した。誰と誰を誘っていいかわからない。
と言うのは谷崎潤一郎は一種のエロティックな作家という評判で、
うっかり誘って学校内に知れ渡ると生徒課からにらまれる恐れがあった。
武市の同クラスの隅野滋子が大朝の社会部で婦人記者として活躍している上に、
谷崎先生の所に出入りしているので電話してみた。
「心配するほどのことないよ。
先生は若いお嬢様方にお酒をすすめて賑やかな雰囲気がお好きなのよ。
テマコでも引っぱって行ったらどう? お酒飲まされる覚悟だけはしてね」
本名古川丁未子、先輩の間ではテマコ、後輩の間ではチョマさんと呼ばれていた。
彼女は英文科の1年先輩であったが健康を害して郷里の鳥取へ帰り、
1年静養して私のクラスに入って来たから両棲動物と言われていた。
入学当時、あの方地方から出て来たらしいが顔立ちの整った美しい方ね
という噂がたちまち学校中に広がった。
おさげ髪を首の辺に束ね、絣の長袖にグリーンの袴、
白い鼻緒の麻裏草履が有名になる一要素でもあった。
ところが最初の夏休みが済むと第一級のモダンガールに変身して現れた
という話は伝説のように聞かされていたが、
病癒えて現れた時は普通の女子学生で美人の病み上がりは痛々しかった。
しかし華奢な身体に似ず、どこか芯の強いものは感じ取れる人である。
私は寄宿舎にいるチョマさんに相談した。
「嬉しい、私行きたいわ。谷崎先生を見られるだけでも素敵だのに、
その上御馳走がいただけるなんて。行かせてよね、頼む、頼む」
「そいでも、大阪のお嬢さんと注文あったんよ」
「田舎者と言いたいんでしょう、わかってるわ。でも大丈夫よ、私4年も大阪にいるし」
「そいでも、あんたの大阪弁おかしいよ」
「そんな悲しい意地悪言わないでちょうだい」
「それそれ、そんな時、そんなきついイケズ言わんといてと言うのよ」
あとは2人しか誘わず、結局4人で出かけた。

翌年の1月25日、谷崎先生から手紙を受け取った。
『まだ学校は続いていると思いますが当方より通うこととし、
5日ほど泊まり込みで大阪弁のお手伝いをしてもらいたいのでおいでを乞う』
一体どうなったのだろう、岡山生まれの武市では不十分な所があるので、
大阪生まれで大阪育ちの私をもう一人加えるのだろうか。
「先生、武市さんはどうされたのですか?」
「君には連絡なかったかね。彼女は結婚して新婚旅行中だと思う。学校はいつまでかね?」
「2月いっぱいで、3月には卒業式のための登校があるはずです」
「それでは2月3月とここから学校へ通ってもらって、
それから『卍』が済むまで住み込んでもらいたい」

その時、女中が夕食を知らせに来た。
すでに千代夫人と鮎子さんと先生の妹の末子さんが卓について待っていた。
お膳の上にはおかずが大きな皿に盛り上げられていたが、
大阪風ではおかずはめいめい別々によそい分けられているのが普通だから勝手が違う。
給仕は女中にさせず、御飯とお汁のおかわりにはまめまめしく手を差し出して
千代夫人が手際良くさばき、なおかつ自分自身も間を縫ってうまく済ませるのには驚いた。

3月の中頃からいよいよ住み込むことになった。
千代夫人は元芸者であったとか何かで読んだことがあるが、
少しも玄人のようなところはなく、早寝早起きだし、酒・煙草は嗜まないし、
時々手習いをしたり万葉集を読んでいる姿を見かける。
至極面倒見の良い人で、先生の弟妹は実母同様に心を割って甘えている。
言いたいことをパッパッと言うのに、どうしてか警戒心を抱かせない。
何を話しても聞いてもらえて、失敗もうまく冗談に流してもらえるという信頼感がある。
鮎子さんは宝塚小林の聖心女子学院の中等科に通っている。
色白なのでひ弱そうに見えるが、学校は精勤である。
頭の切れる所が時々言葉に出るが、性格が素直だから爆笑の震源地になり楽しく消える。
先生の妹の末子さんは顔貌が先生似で、一度嫁したが一人の子供を先方に置いて
帰っていてまだ話がついている訳ではないと聞いた。
千代夫人を実の姉のように思い何もかも相談していて、
先生の方には義兄のように遠慮しいしいオロオロしている様子が見えた。
先生の末弟の終平さんは下宿をして京都の学校へ通っているのが、
土曜と日曜には帰ってくる。この人は顔が面長で先生とは似ても似つかず、
むしろ千代夫人に似ていてまったく母親のように甘えている。

千代夫人の妹せい子さんは、当時神戸のマンションに住んでいた。
時々遊びにやってくるが、
二人の仲は世の姉妹関係と少しも変わらないように見受けられた。
『痴人の愛』のモデルだと聞いているか、
今は何事もなかったかのように二人の間は至極和やかな状態である。
千代夫人はひさし髪の束髪、歌麿描く面長、肌美しき古風な女性であるが、
足だけは先生の気に入らなかった荒れ性で年中木型のような白足袋を履き、
ひび割れた踵にクリームを丹念になすり込んでいる。
せい子さんはその化粧ぶりは浅丘ルリ子式で当時としては誠に目新しく、
肢体は引き締まり長く美しくのびのびとしていた。
顔はエキゾチックで妖気を含んでいるように見えた。
前田則隆という男優と結婚していて、輝くほどの二枚目だが
<色男金と力はなかりけり>な夫抱えて苦労をしているということである。
せい子さんはパッタリ来なくなり、
そのうちに東京外大仏文科出身の和嶋彬夫氏と結婚したということが伝わってきた。
せい子さんは遊ぶ時は羽目をはずして思い切ったことをやるが、
一度この人と決めれば外聞など頓着なしに
尽くし型世話女房に変貌する二面をはっきりと持っている。
だから和嶋さんがこの娼婦型と母婦型を理解すれば
一生倦怠期のない相手として続くだろうと私は祝福した。

横浜から見るからにエロ漢という一言で尽きる風貌の、50がらみの貿易商人がやってきた。
どうも先生好みの女を探し出してきては紹介する心面白からぬ人のようである。
「先生にピタリのが見当たりましたよ」
「あなたは女中専門でいて、よくまあマメマメしく探せるわねえ」
「久しく御無沙汰していましたが、先生近頃この方はどうかね?」
とニヤニヤしながら小指を差し出して、夫人にぬけぬけと聞く。
「書斎に行って聞いといでよ。ここは女子供の部屋だから、ちったあ遠慮してほしいね」
千代夫人は妹のせい子さんに対しても後に現れる数人の女性に対しても
心に棲む嫉妬や猜疑は微塵も外に出さず、
悟ったというのか諦めたというのか至極淡白なそぶりではしたない言動は露ほどもない。
同居の私でさえ夫妻の間でくすぶっていることには気づかなかったぐらいだから、
時々現れる客人に勘づかれるはずはない。

7月に入って、根津家からの招待で先生と千代夫人は出かけて行った。
「根津夫人は客を招待する朝は自分で買い出しに行き自分で料理して、
時間までは普段着のままマメマメしく働き時間にはサッとあでやかに装い、
まったく船場のご寮人さんの格式を備えて客人の饗応ぶりが素晴らしい。
女はあれでなくっちゃ駄目だ」と先生は帰るなり、私どもの前でしきりに誉め立てた。
根津清太郎氏は資産数百万と言われる300年も続いた船場木綿問屋の若旦那で
夙川に本邸を構え芸能人のスポンサーになることが好きで
立派な衣装を贈ったり本邸に招いたりしてずいぶんな銭をつぎ込むが、
妻の松子夫人も藤永田造船所の森田専務の四人娘の二女に当たり、
近代的な美貌と艶麗な容姿とで評判の女性である。
この夫人も文壇の有名人との交際が好きで、
三女の中はんと末娘のこいさんが根津家に同居していて贅を尽くしている。
松子夫人は先年芥川龍之介に紹介してほしいということで料亭に行った時、
すでに芥川氏と谷崎先生が盃を交わしている席へ現れた。
一目見るなり先生の琴線に触れたが、肝心の芥川氏は東京と距離もあるし、無関心のまま
別れ別れとなり、心に残る先生好みの関西女性として交際が始まったと聞いている。

これから谷崎家と根津家の家族ぐるみの交際が始まる。
根津家は必ず三姉妹、時々女中が付いて恵美子嬢ちゃんが連れられてくるが、
中はんによくなつき、中はんも母親代りの面倒をよくみている。
そうこうするうちに山村わか師匠を地唄舞の先生として迎えることに成功し、
三姉妹と鮎子さんたちの舞の稽古が始まった。
真夏だというのに三姉妹は熱心に通ってくる。
そのたびの身なりは女中たちをやんやと騒がせた。
三人三様の個性的な装いがあるかと思えば、色違いだけで三人おそろいの時がある。
たたきに並べられた履物を見ているだけでも目を楽しませてくれた。
週1回の来訪ごとに二度同じ物を見たことはなく、
泥一つついていない栄耀ぶりにただただ気羨がるばかりである。
「今日もまたきれいなべべ着てはりますなあ、それに履物もよう似合うて」と女中が言えば、
千代夫人も「半衿だって20円以下のは使わないんだって。
気をつけててごらん、刺繍で盛り上がっているから」
「衿元が盛り上がってるから首がほん華奢に見えて、
なんやしらんけど愛おしい気がしますなあ。
もうちょっと色が白かったら言うことないのやけど」
先生は顔をほころばせっぱなしで、まったく付きっきりである。

チョマさんは東京で働きたいと言い出し、先生に頼んでほしいと食い下がってきた。
絶対に紹介状を書かない先生を知っていたから積極的に切り出せないでいる私に、
手紙を託して「これを先生に見せて一生懸命頼んでほしい」と泣いて私を説得した。
先生は菊地寛氏に入念な依頼状を出されたのだから、
すでにこの頃からチョマさんに憎からぬ感情を抱いていたことは確かだが、
まさか将来彼女の悲運がついて来ていたとは思わず、二人は抱き合って喜んでだ。
直ちにOKの返事があり、
彼女は文芸春秋社から出ている『婦人サロン』の見習記者として採用されることになった。

松子夫人の方はと言えば、夫がこいさんと関係があるとか、現場を見たとか見ないとか、
事に寄せては先生を訪ねて来た。足も繁くなるにつれて先生は松子夫人に好意を持ち、
一家を挙げて丁重に扱うように仕向ける。千代夫人は危険信号と、
立派なお店の亭主持ちであるという安堵の交錯したものを秘かに感じていた。

先生の周辺には女性の出入りが複雑になってきて、
千代夫人に指も触れない夫婦仲がいよいよ怪しい雲行きになりかけてきているのを
勘づいている時、佐藤春夫氏の訪問があった。
しばらく経って私が岡本へ行ってみると、佐藤氏・千代夫人の実家の兄という人が来ていて
なんとなく家中に冷たい空気が漂っている。
鮎子さんもいつものように楽しくは話さない。女中たちも素知らぬ顔をしている。
先生は千代夫人と離婚して、夫人は佐藤氏と結婚するという。
私のいない1ヶ月ほどの間に急転直下、話はトントン拍子に進んだらしい。
「すでに君の耳には入っていると思うが、近々千代と別れることになった。
公表する時が来るまで女中たちにも知らせていない。
必ず内緒にしておいてもらいたい」と釘を刺された。
私はこれほどの大革命が家人の誰にも知れずに行われていることの不思議さに驚いた。
それなら家人は何も知らずに、珍客や千代夫人の泣き腫らした目などから、
ただならぬ気配を感じて皆があんなによそよそしい態度を取っていたのだろうか。
それから各新聞に声明書を発表されたのである。
私の方まで記者が続々と押しかけて来るので、居留守を使って蟄居していた。

主婦のいない家庭の寂寥はまったく通夜のようなしんみりさで、
先生は手持ち無沙汰で所在なさそうだし、女中は腫れ物を触るようにしているし、
私は命ぜられた書物の整理に余念がない。
これを最後に私は岡本へ行かなくなった。

谷崎家ではチョマさんは物の数ではなかったから、
千代夫人や鮎子さんが話題にするほどのことは何もなかった。
顔が可愛く四肢が美しいというだけで、ナリは田舎者であり、料理はわからない、
芸事は何も知らない、歌舞伎や文楽はまだ見たことがないとなると、
谷崎家にとって危険人物ではなかった。



家族ぐるみで谷崎家とつきあいのあった妹尾健太郎の妻君子と治江の会話。
君子夫人は花柳界出身だった。

「実は先生こないだ上京して古川はんに思いのたけを話しはったんですわ。
そやけどワテは先生にハッキリ、あかん、やめときなはれ、
先生はインテリ婦人が一番お嫌いでっしゃろ、珍しいのは当座だけでっせ、
料理はでけへんわ、他のことかて何一つ知らんわ、そんな人と長続きするはずあれへん、
きっと飽いてきやはりまっせ言うてコンコンと止めましてんがな。
それに聞きはれしませんねん。熱あげてはる真最中やさかいなあ。
主人は、言い出したら聞かんお方やよって思う通りやってみやはって
はよ卒業しやはるこっちゃと言いますねんけど、
そやったら古川はんが泣き見ること間違いなしでっしゃろ。」
「私は彼女の賢明さが善処してゆけると信じますわ」
「その賢明さいうやつが先生には一番鬼門でんねんがな。
そやから言うて、黙ってついて行くだけの女子はんも都合悪いねんわ。
先生にはそのへんの加減が底知れん難しさがおまんねん。
ここでせんど考えはらんと、子羊みたいな人の一生がワヤクチャになったら気の毒思てな。
こんな時止めたげるのが友情ですがな。
あんたあんだけ先生のそばに居はって気つかんねんなあ。
前の奥さんで気に入りまへんねんで。あんなよう出来たお方でだっせ。
あの奥さんで気に入らんほど先生の目肥えてますねんで」
「先生は千代夫人のように純粋の日本式ではなく、
家庭にバタ臭いもんが欲しなったんですわ。
ナオミを好みの女性に育てようとした時のように、
根と努力と寛大さで先生好みの愛妻に仕上げはりますよ」
「何を言うてなはんねん。ナオミは子供だっせ。素直な奔放さがありますわな。
無邪気と言おうか天衣無縫と言おうか、その無軌道ぶりが気に入ってますねんで。
古川はんはじきに26だっしゃろ。それに専門学校も出てはる人や、
あんな素直さがおますかいな。もう個性が固まってますわ。
それに先生は50だっせ。根と努力と寛大やなんて、綺麗事で済ませる年と違いますがな。
女性遍歴では海千山千の先生が、
あんなおぼこはんのとろ臭い閨捌きで辛抱しやはると思いまっか。
あんたらなあ、英語の学校出やはったさかいアメリカ人とはペラペラや、
ワテらチンプンカンプンですわなあ。
あんたらが勉強してはる間ワテは男はんの扱いに苦労してましてん、
その代りあんたらはその道は皆目やわなあ。
そのワテが先行き読んであかんとにらんだのに狂いはおまっかいな」
この縁談に賛成するのは人生経験皆無といった私だけで、
多方の大人たちは全部不賛成である。
年齢からくるセックスのズレや性格の不一致が現れ出した時の先生の辛抱加減、
好みのあくの強さ、例えば自分好みでない時は
どんなに努力しても認められずに惜しげもなく退けてしまう非常識さ。
あれだけ頭の冴えた人で、女性観察の豊富な人で、
全然念頭になかったのだからなんとも話にならない。

「いつの間にそんなに上手に着物を着られるようになったの?」
「潤一郎が着せてくれるのよ。そりゃ可愛がってくれるのよ。
私を毎晩お風呂に入れて足の先まで洗ってくれたり、
あなたにはまだわからないと思うけど、潤一郎はねえ、私の身体がいいって有頂天なの」
人ってわからないものだと思った。あんなにも要塞堅固だと信じ切っていた彼女が
ぬけぬけとこんなことがしゃべれるなんて、私だからいいようなものの
他人様にどう取られるかわからないのにと不安になってきた。

4月24日ごく内輪の祝言が行われた。
翌日仲人の岡さんから呼び出しの電話があり、幸先を曇らすような報告があった。
父君を岡本の駅まで送って行く時、
先生とチョマさんは10代の新婚夫婦のようなはしゃぎ方で前を歩いて、
父君は岡さんとその後ろについて歩きながら
「岡さん、この度は段々とお世話になりましたが、
私にはどうしてもめでたいと思えないのです。
昔から釣り合わぬは不縁のもとと言いますが、
何ひとつ釣り合う点を見つけることができないのです。
年齢といい、環境といい、
娘のような田舎育ちのどこを気に入って下さったのかまったく解せないのです。
私は祝言の間中、熱病だ、どうせ捨てられるだろうが
どうか惨めな捨て方だけはしないで下さいと祈り続けていました」

税務署からの督促状がたまっていて、この家の買い手もつかず、
前々から東大時代の友人に税務署の偉いさんがあって、
その人に頼んで延ばせるだけ延ばしてもらっていたので
差し押さえを待つより仕方のないところまで追い込められていた。
「実はね、この家、差し押さえにあってるのよ。当分女中も使えないのよ」
「私がいた頃は位人臣を極めていると言うほどの贅沢ぶりだったのに、
あなたが来てから女中も使えないなんてかわいそうね。
先生は料理はとてもうるさくて難しいんだけど、あなたどうする?」
「君にはそんな苦労はかけない、料理なんか女中にさせればいい、
僕のそばにいてくれるだけでいいんだよ、と潤一郎が言うから大丈夫よ」

この日は悪い日に当たったもので、
先生の不機嫌は最高で彼女の料理に対して雷の落ちた日であった。
「初めのうちは芯のある御飯で、その後はビチャビチャの御飯なのよ。
とうとう潤一郎は腹を立てて外食にしたの」
「あのおいしいもん食べたがり屋の先生が、それでよう辛抱してはるねえ」
「だって、食事の気苦労はさせない、
そんなことは女中にさせればいいという約束なんだもの。
それが女中を頼めないのだもの、外食で我慢するより仕方ないじゃないの」
「飯どころか、風呂だって常時水風呂じゃないか。湯加減ぐらい考えてほしいね。
それにね、片意地なところがあるんだよ。もっと素直だと思ったんだが」

「おいおい、茶がほしいんだが」
岡本時代は、お茶を欲するために人を呼ぶようなことはなかった。
今にして先生は千代夫人の行き届いた妻の所作が思い出されて、
神にも玩具にも娼婦にもなりきれず、
なまじ良妻たらんと焦っているチョマさんに失望しているのではなかろうか。
想像は悪く悪く広がる。チョマさんにしてみれば女中がいないのだから、
ちったァ不自由させた方がいいと思っているが、
先生にしてみれば良妻の部分は辛抱したことがないから、ただ驚きあるのみ。

「先生はなにか御用で大阪へ?」
「根津さんの家がうまくいかなくってね。
松子さんが悲しい悲しい手紙をたびたび寄こすものだから、
私が一度会って聞いてあげてちょうだいと勧めたのよ」
「あなた相変わらずコスモポリタンなんだなあ。
あの松子さんという方ね、ああいう人だし、大丈夫なの?」
「大丈夫よ、私、谷崎を信じているもの。今度の大阪行きも、
そろそろうまいもの恋しい虫が頭をもたげ出したのよ。松子さんの相談相手なんて口実よ」
私はすでに悪い予感がした。
チョマさんよりは私の方が、先生の性質も松子夫人の性質もよく知っている。

11月に入って日常生活がもう堪えられなくなった先生は、
根津家の離れ座敷に住まわせてもらうことにし、風呂、食事の苦労からチョマさんを解放し、
これで女神のごとく彼女に仕えられると一安心した。チョマさんも小躍りして喜んだ。
が、この離れを借りる約束が、松子夫人といつどこで交わされたのか。
チョマさんは例の調子でなんの疑いもなくすんなりと居を移し、
嬉し涙をたたえて松子夫人への感謝の気持ちを伝えた。

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by vMUGIv | 2011-04-17 00:00 | 大正

谷崎潤一郎 その16

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谷崎の義理の孫 渡辺たをり

松子夫人の連れ子清治→松子夫人の妹渡辺重子の養子になる
→高折千萬子と結婚→渡辺千萬子→清治&千萬子の子たをり

祖母〔松子〕は谷崎と最初に出会った時、大阪船場の根津商店の御寮さんでした。
実家も商家で旧姓は森田松子、中姉ちゃんとよばれる二女です。
長女は朝子で大姉ちゃん、
三女の重子は大阪弁のイントネーションで重子ちゃんと呼ばれていました。
こいさんは末娘のことで、四女の信子が四姉妹の間ではこいさんということになります。

四姉妹の母親は早く亡くなったそうで母親の影響は下へ行くほど希薄で、
森田のおばあちゃん〔朝子〕は、昔風の船場の女性の教育方法で仕込まれた人ですが、
こいさんにはそういったところは見当たりません。
世間のことに通じていて自信にあふれています。
『細雪』のこいさんは自由で時代の先端をいく若々しい女性ですが、
実際のこいさんも4人の中では一番現代的です。
着物で生活する3人に対して、こいさんはずっと洋服。仕事を持っているのも彼女一人で、
ゴルフの練習場を経営する夫の<嶋川のおっちゃん>と一緒にいつも練習場にいて、
彼女自身のお客さんを持っていました。
おっちゃんが亡くなった今は、そのまま練習場を引き継いで一人で切り回しています。
小さい時に母親を失くし、身を寄せていた根津家の没落、姉の離婚と、
一番若い身でいろんなものを体験してきたこいさんは、
開放的な性格ではありましたが、若い頃から苦労人でした。
複雑な人間関係の中で父・清治の少年時代の面倒をみてくれたのもこいさんです。
父は今でもこいさんにだけは頭が上がりません。
私も小さい時、ずいぶん可愛がってもらった覚えがあります。

森田のおばあちゃんは母親が亡くなった時には比較的成長していましたし、
先に結婚していましたので根津家のゴタゴタにも
祖父と祖母との同棲にも巻き込まれずにいました。
普通に昔風の結婚をして家庭を切り盛りして子供を育て上げたおばあちゃんです。
身体が動かなくなるまで現役の主婦でしたから、
そういう意味ではこいさんとは逆の苦労人でもあります。

こいさんは松子が根津清太郎と結婚した時に、
重子とともに根津の家に住むようになりました。やがて根津商店は傾き始めます。
祖父と祖母がつきあい始めたのが早いか、
傾き始めたのが早いかというくらいのことだと思います。
有名な佐藤春夫との千代夫人譲渡事件はこの後のことで、昭和5年です。
これですぐ祖母と結婚したわけではなく、昭和6年に古川丁未子さんと結婚しています。
写真で見る限りは若々しくモダンな感じの、顔立ちは祖母と驚くほど似ています。
新夫婦は根津家の別荘に間借りしていたというのですから、わけがわからなくなります。
丁未子夫人とは2、3年で別居、その間に根津商店の方はどんどん傾いていました。
祖母との仲は公然の秘密となり、やがて同棲、祖母の離婚、祖父の離婚と続いて、
昭和10年祝言を挙げています。

重子ちゃんは祖母が祖父と同棲を始めた時、根津の家から姉について家を出て、
結婚はしましたがそのまんまずっと姉と離れませんでした。
彼女が渡辺明と結婚し父を養子にしましたので、
私は渡辺姓を名乗り戸籍上の祖母はこの人というわけです。
ウチでは、松子を<おっきいばぁば>重子を<ちっちゃいばぁば>
と呼ぶ習わしになっていました。
おっきいばあばは身体つきも大きく、顔立ち性格ともに派手で華やか、
ちっちゃいばあばは身体も一回り小さく、無口で地味といった感じでした。
が、実際に谷崎家の台所を指図していたのはこの人でしたし、
私たち家族のこまごました世話もよく焼いてくれました。
面倒なお宅にご挨拶に行かなきゃならないとか、買い物や支度が大変だという時になると、
母と私はどちらからともなく
「ちっちゃいばぁばなら、こういう時うまくやってくれるのに」と言い合うのです。
ちっちゃいばぁばは昔からお酒が好きで、晩年にはみんなが
ちっちゃいばぁばの身体を心配して飲み過ぎないように注意していたのですが、
万事が派手目の姉の陰で彼女なりに辛いことも多かったかもしれません。

潤一郎が丁未子夫人と別れて住んでいた頃、
まだ根津清太郎の妻であった松子と世間に隠れて密会を続けていた。
それを陰になり日なたになり世間からの幕となってかばっていたのが
松子の妹森田重子である。
谷崎と松子の関係を語る上で、この重子の存在を忘れるわけにはいかないだろう。
やがて松子と一緒に暮らすようになると、すぐ谷崎自身が重子を迎えに行って以来、
夫の渡辺明が短命だったこともあって、谷崎は重子をそばに置いて大切にしていた。
私の記憶の中でも松子と重子は常にひとかたまりで、
重子が他界するまでコンビは崩れることはなかった。
それくらい重子という人は、谷崎家の生活に入り込んでいた人である。

私は谷崎は実際に重子と結婚する気があったのではないかと思う。
一人の女を愛した男が何らかの事情で彼女を手に入れられない場合、
彼女と血の繋がりのある女を代用にするというのは、
谷崎が終始追い求めたパターンである。
松子が谷崎の作品群を照らす太陽だとすれば、
重子は太陽の光なしでは輝かないけれども、
時には太陽の明るさよりも印象的で静かな光を放つ月にあたるのかもしれない。

谷崎は松子と一般的な夫婦の関係になることを拒否して、そのための努力は怠らず、
妻である松子と重子・清治・恵美子という人たちとの生活に細心の注意を払っていた。
谷崎が組み立てた生活を崩したものは、他ならない彼自身の病気だったのだろうと思う。
谷崎の健康が思わしくなくなり、もはや<御寮人様・順市>の真似はできなくなっている。
私の知っている祖父はすでに祖母の管理下にいて、
食事のたびに何か言われていたし、月並みな夫婦喧嘩も展開していた。

娘が言うのもおかしなものだけれど、母は気が強く人と議論して筋を通すのが好きな人間だから、
今から20年も若い時分には後先も考えずにずいぶん言いたい事を言ったに違いない。
大学を出たての気の強い嫁に理詰めに物を言われて反論できなかったお祖母ちゃんの姿や、
生意気な事を言う嫁がちょっと嬉しくもあるお祖父ちゃんの気持ちがわかって、
孫としては楽しいことである。
谷崎は千萬子の性格や美点をある程度捉えていたと言えるだろう。
千萬子にとって幸運なことに、それは彼の好みでもあった。
あるいは好みに近く、それに即して谷崎の内部で美化が始まっていたという風に言えるかもしれない。
それはやがて『瘋癲老人日記』の颯子として人格を持って登場するのだろうと思う。

母は「私はあなたにお祖父ちゃんが有名な作家だとか
世間の評価とかを意識して知らせなかった」ともらしたことがある。
私にとってお祖父ちゃんはお祖父ちゃんでしかなく、馬になって背中に私を乗せて部屋の中をグルグル回ったり、クイズごっこのようなこともよく相手をしてくれたりした。
私の父やその妹恵美子叔母などは松子の連れ子として子供なりに気を遣ったらしく、
計算もなく単純にお祖父ちゃんと甘えた子供は谷崎にとって私が初めてだったのではあるまいか。
それが彼にはうれしかったのだろう。家の中でもワンマンで気に入らないことがあると大声で怒鳴るような短気な人だったが、私だけは別で、ちょっと何かしても「だあれです!?」と冗談めかして言うだけだったし、
家の者には入らせなかった書斎へも、私は遊びに入っても叱られはしなかった。
小さい子供が可愛いという感情は谷崎自身にも驚きだったらしく、
『いくらか老耄のせいかも知れないが』といささか戸惑いを見せている。

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by vMUGIv | 2011-04-16 00:00 | 大正

谷崎潤一郎 その15

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谷崎家の義理の嫁 渡辺千萬子 『瘋癲老人日記』の颯子のモデル

松子夫人の連れ子清治→松子夫人の妹渡辺重子の養子になる
→高折千萬子と結婚→渡辺千萬子

初めて谷崎に会ったのは、私が19歳で大学へ入ったばかりの頃でした。
松子夫人は自邸でフランスのピアニストの日本風のもてなしを頼まれました。
お茶はまったく出来ないと言われる松子夫人に代って、
知り合いの母がお接待を引き受けて来たのです。お点前は私がすることになりました。
一言の相談もなしにこんなことを承知してきた母に腹を立てていました。
機嫌の悪いままニコリともしないでお点前をしました。
谷崎はその時の印象を「意地の悪そうな娘だと思った」と面白そうに笑っていましたが、
意地悪そうなというのがあるいは谷崎好みであったのでしょうか。
それから2年後にその家の人になるなど、
私はもちろん谷崎さえも夢にも思ってはいなかったでしょう。そんなことがあってから、
松子夫人の長男清治は我が家にも毎日のように遊びに来ていました。
その頃家には父が面倒をみていた医学部の学生が幾人も遊びに来ていて、
私はいずれその中からしかるべき人を養子に迎えて病院の跡をとる
という路線が敷かれているのを察していました。
なんとかしてそれからは逃れたいと思っていましたので、
医者でない唯一の彼は格好の人でした。
やがて結婚という話になって両親はなかなか承知しませんでしたが、
なんといっても後ろに谷崎という強力な人がいたお蔭でこの話は成立しました。
私にとっては結婚に名を借りた家出のようなもので、
この点は今でも清治には少し負い目を感じています。
昭和26年、私たちは結婚しました。私は21歳、まだ大学に在学中でした。

谷崎は3度結婚しています。
3度目の夫人が松子で、政治と恵美子の2人の子供がありました。
私の夫はその清治で、本来ならば谷崎は義理の父つまり舅に当たります。
その時、松子の妹渡辺重子の夫明は他界していて未亡人でした。
子供がなかったので、我々が夫婦養子に入りました。
それで私どもは渡辺姓を名乗ることになったのです。
戸籍上は谷崎は伯父に当たることになりました。
谷崎のことを伯父様、松子を伯母様、重子をお姑様、
恵美子を<恵美ちゃん>と呼んでいました。
私は誰からも<千萬ちゃん>と呼ばれました。お手伝いさんたちは若奥様でした。
娘たをりが生まれてからは、谷崎のことをおじいちゃん、
松子を<おっきいばぁば>、重子を<ちっちゃいばぁば>と呼んでいました。

根津清太郎は松子の前夫、つまり清治の実父です。
私たちが北白川に家を持ってから清太郎は時々来て2、3日泊まっていくようになりました。
それまでは行き来はありませんでしたが、清治が知らせたのでしょうか。
谷崎は清太郎が北白川へ来ることを嫌っていました。
<根津清>といえば船場の大問屋で、満州一円に木綿を商っていました。
やがて不況とまったく商売をかえりみないで
連日大尽遊びをしていた清太郎の商才のなさが元で倒産してしまいました。
そんなに良い物を着ているわけでもなく、
そうかといってみすぼらしい風でもありませんでした。
谷崎はそのような落ちぶれた姿を平気で見せるような
プライドのなさが嫌だったのだと思います。
清太郎はおっとりと鷹揚な態度の人でした。年は取っているもののなかなかの美男子で、
形の良い薄い唇をしていて、若い頃には和製ヴァレンチノと騒がれたのもうなずけます。
その時の妻は息子の清治と同じ年ぐらいの人でした。
その若い奥さんはヤキモチを焼いて、朝7時と夜12時に、
つまり外泊をしていないかを確かめるために毎日電話をかけてきました。
清太郎はそのたびに「こんな時間に電話したら、迷惑かけるやろ」
と柔らかにたしなめていました。

谷崎と松子、恵美子<松子の娘>、渡辺重子<松子の妹>、清治と、
6、7人のお手伝いさんが住んでいました。
その中に突然飛び込んで行ったのですから、なかなか厳しい環境であったと言えます。
一日は母屋へ行くことから始まりました。三度の食事はいつも母屋に通っていたのです。
他の家族は朝が遅くて10時過ぎまで起きてきませんが、
早くから書斎で仕事をしていた谷崎は7時頃から一人で食事をしていたのです。
自然に朝御飯は谷崎と食べることになってしまいました。

朝10時過ぎ頃、姑たちが起き出して朝食がぽつぽつ始まります。
すべての時間が信じられないほどゆっくる進みます。
その日の予定を話したりしているうちに、谷崎や私の早起き組の昼食になるのが常でした。
茶の間には一日中食事が出ていたように思います。
食べることには何よりも熱心は人ですから、主菜は必ず谷崎自身が決めていました。
それに合わせて他の物を決めるのは重子でした。
作るのはお手伝いさんで、ベテランの料理の上手い人が何人かいました。

夕食だけは必ず6時半と決まっていて、
全員が揃っていないと谷崎はご機嫌が悪いのでした。
洋服・着物をちょっと着替えて化粧も直して出なくてはなりません。
谷崎以外は全員女なのですが<夫はまだ帰っていません>、
谷崎は皆に取り巻かれて、食べ物もうんざりするぐらいたくさん出ているとご機嫌でした。

姑たちは映画や買い物には出かけましたが、
掃除・洗濯・料理は全部お手伝いさんがしました。
新聞を読むわけでもなく本を読むこともなく特に趣味もなくて、
来客があったり、たまにお華や漢文とかの先生が来るぐらいでした。
もう一つ不思議なのはお風呂です。「今日はしんどいし、止めとくわ」とよく言って、
2日か3日おきぐらいにしか入りませんでした。

こんな風に昼間はそれぞれの都合で
好きなように買い物に行ったり映画を観に行ったりしていました。
それはいつも松子・重子・恵美子の3人で、時には私もお供しました。
他に実際的なことをする人はいませんでしたから、
私の役目は荷物を持ったりタクシーと止めたりと
普段はお手伝いさんがしているようなことで、なかなか忙しいものでした。
「あのセーター、恵美ちゃんに似合いますよ」などと何気なく言ったこともありましたが、
松子も重子も「そうね」という一言で終わってしまいました。
2、3日すると恵美ちゃんがそれを着ているのを見て、ああ、私と一緒の時に買うと、
私の分も買わなくてはならないから避けたのだとすぐ察しました。
黙ってすっと引き返してそれを買ってくるのは重子です。

会合やご招待の席に行く時の着物や洋服について
「どんな物を着ればいいですか」と尋ねても、全然教えてもらえなくて困りました。
自分たちは着々と新しい着物を誂えているのは人の出入りでわかりました。
私は恥をかかないように全神経を集中していつも気をつけていました。
実家は理想的な家庭でもありませんでしたが、
こんな風に企んで意地悪をされることはなく、初めての経験で一つ一つが驚きでした。
私には姑が、それも性格の非常に違う人が2人いたので、
単純に2倍ではなくて4倍くらいはあったでしょう。

松子と重子、私には姑が2人わけで、松子は賢いしたたかな女性ですが、
どちらがつきあいやすかったかと言えば、日常的には松子の方が楽でした。
例えば食事の時でも「千萬ちゃん、それ取って」と言われます。
「はい」と言って取ればいいわけですが、
重子は黙ってスッと回ってきて取るという風でしたので、
表情に出さない人でしたから意向を察知するのは難しかったです。
重子の絶対的なプライドは『細雪』の雪子のモデルであるということです。
『鍵』の妻も、あの酔っぱらいの様子、酔態は重子です。重子はよくお酒を飲んでいました。
その酔態が『鍵』に書かれているのですが、
もう北白川の頃にはアルコール依存症と言えるほどの状態でした。
朝から台所で見つからないようにコップ酒を飲んでいました。
お酒がなくて料理酒を飲んだという話もあります。
あると思っていたお酒・ビール・ワイン・ブランデーが
いつの間にかなくなっていて足らないのは困りました。
お酒が肝臓に悪かったのでしょう。肝硬変で66歳で亡くなってしまいました。
東京に遺体を安置するところがなく、恵美ちゃんはマンションに入れたくないと言いました。
私が湯河原の家まで送ることになったのです。
すぐに寝台車に乗せられて東名を吉浜へ向かって走りました。
恵美ちゃんを母親代わりに可愛がって育てたのですから
恵美ちゃんについていてほしかったに違いないとか、
あるいは生涯離れることなく暮らした松子に乗ってもらいたかったのでは
とずっと考え続けていました。最後の最後まで心を開くことのなかった嫁に
付き添われての帰宅は、この人の孤独な人生を見るようで胸が痛みました。

『細雪』のヒロイン雪子のモデルだというプライドと、
谷崎に大切にされて愛されているという自信はあっても、表に出ることはかなわず、
いつも松子の陰の第二夫人に甘んじなくてはならなかったのです。
雪子の綺麗で清純なイメージを終生守ることにも必死に頑張っていなくてはならなくて、
そんな抑圧された神経が耐えられずに飲酒が逃げ道になったのではないかと思います。
また、夫渡辺明は松平家の華族の出で、家紋が葵であることもご自慢であったのです。
昭和16年、明43歳、重子33歳の時に結婚しましたが、
昭和24年には明はガンで亡くなりましたから、
離れ離れで暮らすことが多かった結婚生活は短いものだったのです。
谷崎の家は松子と重子がいて、陽と陰、車の両輪のようにして回っていましたから、
重子が亡くなってからは家はもうバラバラ・ガタガタになってしまいました。

谷崎は松子が人妻であったため、
彼女をあきらめて重子と結婚することを考えていたのは事実だと思います。
最初の結婚の時には、気に入っていた姉初子の代りに妹千代と一緒になっています。
自分の愛した人の代りにその縁の人と結ばれるというパターンは、
作品にもよく使われています。
夫婦の部屋の隣に襖一枚へだてて寝るというのは、
それも結婚してからも生涯に渡ってずっとですから、どういう神経かと思うのです。
重子は結婚してからもほとんど谷崎のもとにいて、
夫が北海道へ赴任した時にもついては行きませんでした。
渡辺明、私には舅ですが、アメリカ生活が長く英語も堪能で
料理なども上手であったらしく多趣味多才の人のようでした。
『細雪』の雪子の夫御牧に当たるわけで、松平家の一族の華族でした。
重子にはこうした家柄も大切なことであったのです。
谷崎は重子には非常に気を使って接していました。
いつも3人一緒でしたから「たまには谷崎と2人だけになりたい」などと
松子の愚痴を聞いたこともあります。
逆に重子の方は自分を排除しようとしていると言っていましたから、
2人は反目しているのかと思っていると、
こと私に対しては強力な共同戦線を張っていました。

「千萬子に谷崎の愛を奪われた」と松子が叫ばれたということを、
当時谷崎家に出入りしていた中央公論社の小滝穆氏から聞きました。
それは大変な見当違いで、私はこの次元の低い争いごとにはもううんざりで、
どれに関しても最初から同じ土俵の上にはいませんでした。
小滝氏という方は頭のいい鋭い人でしたが、
ちょっと世の中を斜に見るようなシニカルな性格の持ち主でありました。
自称反松子派で、松子のことを<お松の方>と呼んでいました。
夜中に京都の私のところへよく電話がかかってきました。
谷崎家内部の情報をいろいろ細かく知らせて来ました。
30そこそこの孤立無援の私には唯一の味方であり、有難い情報でした。
松子にしてみれば、重子だけでも『細雪』のモデルということが絶対で
ずっと一緒に暮らさなくてはならない状況は不本意ながらも納得できたでしょう。
そこへまた千萬子という者が現れたのですから、
心底憎らしいと思っても無理からぬことだと思います。
「嫁と姑」「男と女」加えて「モデル」と3つのことが絡み合っているのです。
松子はそれぞれの人にいつも一番良い言葉をかけ、一番良い顔を見せていました。
涙を流すことも止めることも自由自在でした。
その時その時ではそれは嘘ではなく、彼女にしてみれば本気なのです。

『往復書簡』が出版できたのは、私の手元に谷崎に宛てた私の手紙があったからです。
昭和37年頃、谷崎から「君の手紙がこっちにあっては困るだろうから送ります」
と電話がありました。
やがて谷崎自身が人手を借りずに作ったと思われる不細工な小包が送られてきました。
非凡な人は自分の死期を察知して、覚悟の上で
それなりの身仕舞をきちんとするものなのかと改めて身の引き締まる感が致します。
私の手紙が谷崎の手によって秘かに返送されていたことは誰にも言わずにいましたから、
書斎から無くなっていることに気づいた松子と重子は
「千萬子がお通夜の間に書斎から盗み出した」と言っていると、
やはり小滝氏から告げられました。
谷崎の手紙はいつも速達でした。私にも速達にするように言っていました。
速達の手紙は誰にも知られずに
すぐお手伝いさんが書斎に持っていくので都合が良かったのでした。

昭和38年8月21日の手紙に『あなたの仏足石をいただくことが出来ました』とあります。
それは話をしている最中に、突然五体投地のように目の前にバタッとひれ伏して、
頭を踏んでくれと言われた時のことです。
この時の頭と足の裏だけが、谷崎と私が肉体的に接触した初めての、
そして最後の経験でした。
言われるままに踏んだのですが、私は非常に醒めていて冷静であったということです。
片足で立った不安定な姿勢でグラグラしながら、
もしバランスを崩したら大変なことになるなどと心配していました。

私はいろいろおねだりを、ハンドバッグが欲しいとか、誰それの本が欲しいとか、
パールだとかミンクだとかスキーの道具だとか、いろいろ言ってはいますが、
私の頭で考えられる範囲でなるべく谷崎の知らないこと、知らない世界を選んだつもりです。
これに対して、『私はあなたを少しでも余計美しくするのが唯一の生きがいです』
などとまたいつものオーバーな返事であったり、
『僕は君のためならどんな高価な物でも高価とは思いません。
そんな御遠慮は御無用です』と、これまた谷崎らしい表現の書簡があります。

三島へ取材のために同行した時、
ポツンと「いま僕に2億円あったら、全部渡して一人になりたい」と言ったのです。
「一人になって、若い愛人と暮らして、その若い女が男と愛し合うのを見たい」
という話でした。

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by vMUGIv | 2011-04-15 00:00 | 大正

谷崎潤一郎 その14

★谷崎の義理の息子の嫁 渡辺千萬子 『瘋癲老人日記』颯子のモデル
1931- 昭和6-


■夫 渡辺清治 根津清太郎&松子の子
1924- 大正13-


●たをり


■父 開業医 高折隆一


■母 日本画家橋本関雪の娘 妙子


●千萬子
●八洲子


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谷崎から千萬子への手紙

昭和33年10月13日
トレアドルパンツの似合う渡辺の千萬子はダリア摘みに出でたり
君に関する歌がいくらでもあとからあとから出てくるので、
小説の仕事が進行しないで困っています。

昭和34年1月20日
僕は君のスラックス姿が大好きです。
あの姿を見ると、なにか文学的感興がわきます。
そのうちきっとあれのインスピレーションで小説を書きます。
東京でいろいろ買いたい物がある由、僕は自分の物を買うより楽しみです。
遠慮なく僕をスポンサーにして下さい。
僕はそれをこのうえなく光栄に思い、かつ喜びにします。

昭和34年2月16日
あんな風に時々重子さんにはビックリさせられることがありますが、
そういうところにあの人でなければ見られない面白味もあり長所もあるので、
私は困ることもあるが芸術的には惹きつけられることも多々あります。
なかなか複雑な女性です。
大小のばぁばが恵美子のことをあなたに隠すのは、
あなたに比較して恵美子があまり劣りすぎるからです。
いずれ遠からぬ将来には谷崎家も渡辺家も
完全にあなたに支配してもらうようになるでしょう。
私は私の崇拝するあなたに支配されるようになることをむしろ望んでいる者です。
つまりあなたは鋭利な刃物過ぎるのです。
私はむしろ鋭利な刃物でピシピシ叩き鍛えてもらいたいのです。

昭和34年3月16日
私は恵美子のことにはいつも全然タッチしません。それというのが、
私は彼女が愚にもつかないあんな仕事をしていることに心から不賛成だからです。
親や叔母たちがもう少し若い時から躾け方に意を注いだら
あんな風には育たなかったろうと思うと、私は腹立たしくもまた不憫にも思います。
私は彼女を憎む気はありませんが、
あれで世間が済んでいると思っていると不愉快に感じるのです。
彼女が女学校時代には毎朝毎朝出かけるのを嫌がり、
私がいつも怒ったりすかしたりしてやっと出してやったものです。

昭和35年12月3日
今度熱海へ来られる時、最近の君の写真を一枚持ってきて下さい。
なるべく全身、スタイルと顔のよく映っているもの。書斎に立てておくつもりです。

昭和35年12月5日
君の顔は近頃いかにも若奥様らしくふっくらと丸みができ、前よりいっそう美しくなりました。
それでなおさら写真が欲しいのです。和服でなく洋服のにして下さい。
スラックスならさらに結構。

昭和36年1月19日
洋服の写真はおめでたが済んでからゆっくり撮って下さい。
女は子供を二人ぐらい生んだ時が最も美しいと言います。
東京の商店から孔雀の扇を送らせます。特別に作らせたのです。
少し値段が高すぎたので、誰にも内緒で送りました。

昭和36年1月25日
僕は君のためならどんな高価な物でも高価とは思いません。
そんな御遠慮は御無用です。
ただもっともっと高価な物を買ってあげられないのを残念に思うだけです。
いろいろのスタイルの写真を撮って下さる由、このうえなく楽しみにしています。
先日の写真もそっと取り出して眺めています。

昭和36年7月18日
ちょっと豪華なソファベッドを作りました。
あんまり立派にできたので、くだらない客に寝てもらいたくない気がしています。
最初にこの上に寝る人は君であってほしいと思っていたのでした。
君はお初をしてくれるまでは、このベッドには誰も寝かせたくありません。
たをりに君の代理をさせるのも、できれば私は嫌なのです。
ばぁばたちはそうしようかと言っていますが、ママから止めておいてくれませんか。

昭和36年7月19日
今月末頃まで恵美子が赤ん坊をつれて熱海に泊まりに来ることになっています。
私はその間逆に東京へ泊りに行き逃げ出します。
しかし恵美子は緞子のベッドには寝かせません。
是非とも君にお初をしてもらって縁起を祝いたいのです。

昭和36年8月6日
なんとなく私はそんな気がしました。もしそうならば、
今後私にだけは何も隠さず気持ちを打ち明けて言って下さい。
私はどんなことでも君の言葉通りに絶対服従します。
気にもはなにか他人を服従せさずにはおかない威力のようなものがあります。
ばぁばたちには、君に迷惑がかからぬようにうまい具合に話しておきます。

昭和36年8月10日
私は観世家の両親たちも栄夫も嫌いではありません。
ただ栄夫の妻〔恵美子〕だけが困りものです。
それは一方に君のような人がいて自然比較対照され、
その優劣があまりハッキリ見えすぎるせいもあります。
彼女が栄夫のような夫を持つことができたのはまったく偶然にすぎませんが、
せめてもの幸せです。

昭和36年9月15日
この間の現金輸送はおばあちゃんたち二人とも寝ている間に投函させましたから、
誰も知りません。
私はあなたと小さいおばあちゃん〔重子〕が同じ程度に好きで尊敬しています。
二人は両極端で反対なところが好きです。
家内は別ですが、他にこの世界中でこの二人以上に好きな女性はいません。
この二人が自分の家庭にいることはなんという幸福かと思っています。
二人が仲が悪いことは必ずしも悲観しません。性格上当然でやむを得ません。
私がせいぜい緩衝地帯の役をしますから、何でも構わず私には話して下さい。
二人とも私にとってはオールマイティの存在です。貴重品の気がします。

昭和36年9月29日
扇子を一つ送りましたが届きましたか。
ブローチのことも忘れてはいません。ミキモトへ行く時間がなかったのでそのうち送ります。
東京へ移住するくらいなら京都へ移りたいと秘かに考えていますが、
おばあちゃんたちにはまだ話しません。
いい口実を考えるために、機会がうかがっているところです。

昭和37年3月4日
額がお気に召して結構です。あれを書くには家内に見せないように隠れて書きました。
「千萬子に書くなら恵美子にも書いてやってくれ」と言われるのが嫌だったからです。
第一恵美子では歌が浮かんで来ませんからね。

昭和37年3月8日
御都合つき次第、一日も早くおいで下さい。
「この家を飛び出してまさかノコノコと伯父様の前へ現れるわけにはいかない」
とありますが、そんな水くさいことは言わないで下さい。
私はあなたとどんな関係になっても絶対に交際を続けていきます。
万一そんなことがあったら、むしろ自由に交際ができて嬉しいと思います。
ともかくいつもだけお金は送っておきます。家人たちは知りません。
これはほんの旅費だけです。あと必要ならこちらへ来てから言って下さい。

昭和37年7月17日
写真さっそく送って下すってありがとう。ここに封入してある2枚を拡大して下さい。
どちらもこの4倍ぐらいの大きさにして下さい。横向きの写真も願います。
『千萬子百態』という題にして、君一人だけのアルバムを作りたいと思います。

昭和37年7月21日
写真引伸ばし代金、忘れないうちに送っておきます。
ある人から「君には誰かブレインがついているんじゃないか。
でなければ近頃の作品のようなものは書けそうもない」と言われました。
そのブレインが一人の若き美女であることを知ったら驚くでしょう。

昭和37年8月10日
この頃私の書くものすべて君を頼りにしすぎ、
君に見てもらわないと不安を覚える癖がついたようです。
むしろ完全に君に寄りかかってしまった方が安心ではないかとも思います。
どうせブレーンがあると思われるくらいなら。

昭和37年8月17日
文章上のことも是非注意して下さい。もう少し滑稽味を加えて書いてはいけないでしょうか。
この間あなたが履いていた靴、あれを履きこなせるような品位ある足は滅多になし。
今度京都へ行ったら、あの靴を履いたあなたの足をもう一度ゆっくり拝ませて下さい。

昭和37年8月23日
たをりに2万円御褒美に与えて下さい。あなたはあとの5万円をお使い下さい。
この分はおばあちゃんたちは知りません。
いろいろの教授代と思えばこれでも足りないくらいです。
なるべくたくさんという話でしたが、足りなければ言ってきて下さい。

昭和37年9月2日
私の夢はこの間の靴よりももっと洒落たもっと高級な、
あなたでなければとても履けないような素晴らしい靴をこしらえて、
あなたの足がそれを履いているところを見ることです。
今度東京へいらしゃったらこしらえる気はありませんか。宝石入りか何かにして。
あるいは室内履きの方がいいかもしれません。うんと贅沢なものにして。

昭和37年9月15日
家庭の問題に限らず、
広く社会のこと政治上のこと文学上のこと経済上のこと美術上のこと、
すべてあなたの意見が的中するので
それに背いてはならないことが改めてよくわかりました。
今後はなにごとも私の命令するつもりで御遠慮なく頭から高飛車に言って下さい。
私は崇拝するあなたの御意見なら喜んで聞きます。あなたはオールマイティです。
重ねてここにあなたに従わなかったことに御詫びを申します。

昭和37年11月7日
翡翠の細工費15万円と伺いましたから、中央公論社から為替でそちらへ直送させます。
おいでになる度にお小遣いを差し上げるのはお気に障るようですから差し控えますが、
必要の時は御遠慮なく御用命下さい。
私はその方が嬉しいのみならず、光栄に思っています。

昭和37年11月10日
熱海においでになる度にわずかばかりのものを差し上げて、
あなたから御礼を言われると私の方も照れるのです。
これからはハンドバッグの中などへ黙ってそっと入れておき、
あなたも受け取って知らん顔をしていて下さるわけにはいかないでしょうか。
あなたに恥をかかせるような方法で麗々しく差し上げていたのは、私の不行届きでした。
黙って受け取って知らん顔をしていて下さればお互いに気持ちがいいと思いますが、
いかがでしょうか。

昭和37年11月29日
私はあなたを少しでも余計美しくするのが唯一の生きがいです。
ここに小切手を封入いたしました。お礼の言葉は今後一切おやめ下さい。
当然のこととして黙っていて下さい。でないとあなたらしくなくなります。
私に無理を言って下さるくらいの方が嬉しく思います。
ポリオについての御注意ありがとう。
なんでも君の予言の通りになることがまた一つ証明されました。

昭和37年12月4日
人は誰でも欠点がありますから、あなたも始終その点を反省しておられるのは結構です。
しかし小生はあなたを崇拝する気持ちの方が強いので、
あなたの欠点が目につかないのです。
67歳の今日になっても
小生がなお創作力を持っていられるのは、まったくあなたのお蔭です。
晩年に及んでこういう女性に巡り会うことができたというのは、
まことになんという幸福でしょう。
あなたに関係のないことを書く場合でも、あなたの存在があなたの影響が絶対必要です。

昭和37年12月10日
『台所太平記』の末尾、さっそくあなたの御指摘に会いギクリとしました。
今後もどうかドシドシ活を入れて下さい。
あなたに厳しく叱りつけてもらうことが是非必要だと思います。

昭和38年1月11日
いろいろ将来の計画など考えてあなたの御意見を聞きたいと思っていたのですが、
今度は二人きりで話す機会がなくて残念でした。
あなたのお手紙だけを集めて『千萬子の手紙』というような単行本をいずれ出したいです。

昭和38年1月23日
毎日の賞をもらいましたので、わずかばかりですが3人宛に封入いたします。
家内に家計不足だからと言われて50万円取られてしまいました。
なお別に10万円同封いたしました。これはあなた様に使っていただきます。
『瘋癲老人日記』に対する賞なのですから、
100万円全部あなたがお取りになるのが当然かもしれませんが。

昭和38年2月1日
お金のことあなたに直接話すのは失礼かもしれませんがお許し下さい。
ミンクのこと家内たちに知れると少し具合の悪いことができましたので、
ちょっと待って下さい。
私は20万円全部でも、あなたのためなら喜んで出します。もっとでも出します。
しかしどうしても家族たちに勘付づかれる理由があります。10万円でも具合が悪いのです。
何か勘付かれないようなうまい方法を思いつくまで待って下さい。
私はなんとかしてあなたがミンクを着たところが見たいのです。
今のところまず5万円のストールを作ってみてはどうですか。
5万円ならすぐにでも送ります。それくらいは知れても差し支えありません。
どうかくれぐれもお許し下さい。

昭和38年2月6日
夕方から山王ホテルに行き、皆と食事を共にします。
15日は駅に着いたら真っすぐ熱海ホテルにおいで下さい。
私はそちらで待っています。夕刻まで二人きりでゆっくる話したいのです。
あなたの仕事のこと、私の家庭のこと、いろいろ山ほどあります。

昭和38年6月22日
一度あなたに何かの刺激を与えてもらったら、今の10倍も物が書けると思っています。
沓の刺激でも結構です。

昭和38年8月21日
御手紙かたじけなく拝見。何度も何度も押し戴いて読みました。
先日は梅園ホテルで2日間も他人を交えずお話を聞くことができ、
いろいろ教えていただくことができました。
こんな嬉しいことはありませんでした。一生忘れられません。
これからもああいう機会を与えて下さったら、どんなに貴重な刺激になるかしれません。
ことにあなたの仏足石をいただくことができましたことは、
生涯忘れられない歓喜であります。
決してあれ以上の法外な望みは抱きませんから、何卒たまにはあの恵みを垂れて下さい。
本当に活を入れていただいて、少しは良いものが書けることと張り切っております。

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谷崎と千萬子
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谷崎とたをり
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by vMUGIv | 2011-04-14 00:00 | 大正

谷崎潤一郎 その13

◆昭和09 48歳
03月打出に転居、松子31歳と同棲。
04月松子、清太郎34歳に無断で離婚手続きをする。
丁未子、鳥取の実家に戻る。

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丁未子から妹尾君子への手紙 昭和9年5月1日 鳥取の実家から

母が以前ぐらい家にお金があればお前にもこんな恥多い思いをさせなくても、
思い切り啖呵を切って別れてやれるのにと憤慨していました。
やっぱりお金なんてもらいたくないくやしい気持ちで一杯なのでしょう。
お金出させたって、出させてやると思えば平気なものですが、
なんだか私の気性も恥を感じる方なのかくやしいとも思います。

丁未子から妹尾君子への手紙 昭和9年6月2日 鳥取の実家から
女狸〔松子〕のこと、そんなことと思って案じておりました。
でもなかなか助手の女狸〔重子〕もいて、
もろともだまし込んでいますからなかなか本性は現わしませんでしょう。
私も狸の子ぐらいの技はできるようになりましたが、
狸は狸でつきあっても真人間は真人間でつきあわねば通力を失ってしまいますわね。
狸戦法などサラリと捨ててしまえる日の早からんことを望みます。



丁未子から妹尾君子への手紙 昭和9年6月5日 鳥取の実家から

オヤジ〔谷崎〕気の毒でなりませんわ。あの狸でも本当にもう少し人間らしいならば、
どんなにせめてもオヤジを祝福してやれましょうに。
結局オヤジは神聖なる女性を感得せずして終わるのではありますまいか。
あの狸からオヤジが離れられないのは、
狸に心酔してるからより他の意味があるように思われますね。
私はオヤジさんのために何もかも投げ捨てたものなのでございますし、
オヤジさんを良くするためには自分を滅ぼしてもいいと覚悟していましたのに、
不覚にも周囲に悩まされてせっかくの心境を曇らせ病んでしまいました。
私は狸だって良くなれる見込みがあればどんなにいいかしらと思っておりますのよ。
私の対象は狸ではなく潤一郎なのですから、
潤一郎が幸福になれますれば狸だってオバケだっていいと思いますのよ。
昨日大毎の支局長に会いました時「奥村さんが『僕には谷崎さんのことはわからないけど、
なんだか丁未子さんがかわいそうで仕方がない』と言っていましたよ。
僕は始めからあれ〔松子〕はつまみ食いだと思ってました」と申しましたので、
「潤一郎がつまみ食いしたって私が文句言えませんわ。
こっちだって勝手させてもらってるんですから」と言いますと、
「してそのオナゴも来ましたか」と言いましたので「いいえ」と言いますと
「もちろんそうでしょうな。図々しすぎるや」と言っていましたけど、
ああ、不覚にも私は思わず潤一郎のつまみ食いを是認してしまったことになりました。



丁未子から妹尾君子への手紙 昭和9年6月12日 療養先の三朝温泉から

私は現状維持の間はこのままお金を取っても構いませんけど、
はっきりしてしまう暁にはお金なんかもらいたくない気持ちが
まだまだ心の底でモヤモヤしております。
潤一郎さんはどうしてもやりたくてくれているのなら
私も喜んですみませんと言いながらももらいましょうけど、
あの様子では惜しくてたまらないのにと思えまして、
そうすると私のしていることが
何か汚らわしいことのように思えて情けなくなってしまいますのよ。
お金が無くっちゃ生きてゆけぬ世の中とは知りつつも、
金をやっているのだから何をしてもいいという態度がいやらしくてなりませんけど、
まあこんな問題は今年中に考えておけばいいのですわね。



丁未子から妹尾君子への手紙 昭和9年6月29日 療養先の三朝温泉から

潤一郎さんよりお金届きましたら、100円父宛お送り下さいますよう願います。
すみませんがお会いになりましたら潤一郎にも左様お伝え下さいまして、
なるべく早くお金くれますよう願います。



丁未子から妹尾君子への手紙 昭和9年7月2日 療養先の三朝温泉から

潤一郎ちっとも手紙寄こしません。どうしましたのでしょうか。
何も変わりはありませんでしょうかしら。



丁未子から妹尾君子への手紙 昭和9年7月30日 鳥取の実家から

毎日の病院通いで、これからもまだ歯に通わねばなりません。
歯ができましたらさっそく上阪いたします。待っていて下さい。楽しみでございます。
7月分はおろか8月分のお金なるべく早く送ってもらわないと
歯の療治に安心してかかれませんという始末。
どうぞ折りを見て、潤一郎にその旨お伝え願えませんでしょうか。



丁未子から妹尾君子への手紙 昭和9年8月7日 鳥取の実家から

そろそろ私も鳥取を引揚げませんと悪評の立つ恐れもあります。
松子さんは根津さんのお金を借りに歩いておりますのですか。
それとも潤一郎のためのですか。自分のためでしょうか。
潤一郎のためとはどうしても思われませんけど。



丁未子から妹尾君子への手紙 昭和9年8月28日 鳥取の実家から

9月になればどうしても中旬までに必ず〔岡本に〕出てゆきます。
私はだいぶヒステリーになっていまして、
ひどく腹が立ちまして我慢できないことがしばしばあります。
なんという困ったことになったことかと悲しくなりますが仕方ありません。
岡本でもっと陽気な生活を始めたら治るかしらと思っております。
お金のこと言いたくないのですけど、約束の守れない人ですから困ります。
潤一郎もたいていではないのですが、まあ9月のことは9月に考えましょう。



丁未子から妹尾君子への手紙 昭和9年9月8日 鳥取の実家から

いつまでもグズグズしていましても出戻り娘の評判が高くなるばかりですから、
19日には上阪したいと存じます。
それでまことに恐れ入りますが、岡本へ行きますれば生活難ですから、
約束通りその月初めには間違わぬようお金届けてくれますよう、
潤一郎に御話下さいませんでしょうか。
潤一郎は私からお金の話を申しますと、
お金のことは妹尾様の口から聞きたいと申して怒りますので本当につらいのですが、
どうぞ事情お伝えおき下さいますよう伏してお願い申し上げます。



丁未子から妹尾君子への手紙 昭和9年9月12日 鳥取の実家から

早く上阪しませんと、鳥取の人々は私がもう別れて帰ったのだという噂を信じてしまいます。
とにかくしばらくでもこの噂を取り消さないと色々不利ですので、
経済上から考えれば鳥取にいる方が安定なのですけれども、
そんなわけにはゆかないようです。
私の心持ちも、どうしても一度岡本で自分の生活をしてみたいと思います。



丁未子から妹尾君子への手紙 昭和9年9月18日 鳥取の実家から

それではお金の顔をみましてから私は岡本へ出かけることにいたしましょう。
返すものは返却し払うものは払ってしまいまして、
きれいになりましてからでないと心持ち悪いですから。
大変太りまして妹たちがもうこれより太っては見苦しいと申しておりますが、
神経過敏のガミガミは直らなくて困ります。

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松子から妹尾夫妻への手紙 年月日不明

丁未子様には御身体あまり御すぐれなさらぬ御様子に承り案じております。
いつもいつも決まりの物遅れがちにて奥様に御迷惑をかけ、
まことに申し訳なく存じております。
先生〔谷崎〕も御承知のような気分の人ゆえ、
入れば何を打ち捨てておきましても丁未子様の分は一番先に回すのでございますが、
つい出費かさみ相済まぬことでございます。
1ヶ月以上遅れておりますとか、ぜひ早く追いつくように致したいと申しております。
そのうちにはきっと早い目に御送りできるようになることと待っております。
本当にお目にかかりたくて、
丁未子様のように始終奥様と御一緒にいられたらよいのにと妹と申しています。
私の方はとにかく丁未子様が御心持悪いであろうと遠慮いたしておりますが、
いつか御許しを得てお目にかかりたいと願っております。

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◆昭和10 49歳
01月丁未子28歳と離婚成立、松子32歳と結婚式挙げる。

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谷崎から中央公論社社長嶋中雄作への手紙 昭和10年1月22日

これはまだ関係者以外誰にも話さないのですから、
当分たとえ社内の人たちにも極秘に願いたいのですが、
今度いよいよ丁未子との離別も円満に話がつきましたので、
近々に目下の同棲中の夫人とほんの心ばかりの内祝言をいたします。
このことを貴下に申し上げますのは、そのため金を他からも少々は都合いたしましたが、
なお不足につき700円ほど貸していただきたいのです。
暮にもたびたび御無理を申し済まぬとは思いますが、
おめでたき話でもあるので御祝いのつもりにて御承引願いたく存じます。
なお小生が最も恐れることは、式を挙げる前にこのことが新聞記者等にわかると
大々的な記事にされる心配のあることです。
それゆえ何卒必ず必ず貴下一人にてお含みを願います。
まだ佐藤春夫の方にさえ日取りを知らしていないくらいなのです。
その代り、もしこの結婚のこと、ないし恋愛のことを書いてよい機会が来れば、
かならず貴社の雑誌にだけ書くことにいたします。


谷崎から中央公論社社長嶋中雄作への手紙 昭和10年3月9日
『文章読本』の5千部の印税750円さっそくながら御電送下されたく
なるべく月曜日にお願い申し上げます。
近々結婚の披露をいたしますので、いろいろ入用が多くて困っております。

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丁未子、上京して文芸春秋へ再入社。


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丁未子から妹尾夫妻への手紙 昭和10年7月2日 東京の下宿から
昨日潤一郎上京、まだ会いません。
2千円の御話結構に存じますし、しかし3千円のことがちょっと腑に落ちかねます。
どうして3年もかかるのかわかりません。月々150円ずつ出してくれても
2年かからず3千円になるのですから、もう少しこの点考えてみたいと存じます。
3年という月日が長すぎてアテにならないような気がします。
潤一郎の誠意が認められずこすさがまざまざ見えていやらしくてなりません。
お松の差し金があるように思えます。次から次へと人を食った話のように思えてなりません。
父もこのことその他、私の上京など気に病みましてもう上京してくれるなと
申しおりましたが、やはり私といたしましても先々のことを思えばそうもならず
思い切って上京いたしましたものの、3年では父のきこえもいかがかと思います。
なるべく早く安心してもらいたいと思います。

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◆昭和11 50歳
01月丁未子29歳、同僚の鷲尾洋三28歳と再婚。


谷崎38歳
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by vMUGIv | 2011-04-13 00:00 | 大正

谷崎潤一郎 その12

◆昭和06 45歳
01月12日丁未子と東京でデート。
01月20日丁未子にラブレター。

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谷崎から丁未子への手紙 昭和6年1月20日

今日小川さんが来ました。
大変あなたのことを褒め、なぜ秘書に頼まないのかと言っていました。
私は自分は頼みたいのだが、古川さん〔丁未子〕に遠慮していると曖昧に答えておきました。
しかしこの答えは私の正直な心持ちなのです。
私はあなたをあまり崇拝し尊敬していたために、
気おくれがして近寄れなかったのだと思います。
この私の心持ちは説明するまでもなく、あなたは知っていらっしゃったと思います。
私は過去において恋愛の経験がありますが、本当に全部的に
精神的にも肉体的にもすべてを捧げて愛するに足る女性に会ったことはなかった。
私の芸術の世界における美の理想と一致するような女性、
もしそういう人が得られたら、私の実生活と芸術生活とはまったく一つのものになる。
本当にあなたというものがわかってきたのは最近のような気がします。
もっと高い深い意味において、私はあなたの美に感化されたいのだ。
あなたの存在の全部を、私の芸術と生活の指針とし光明として仰ぎたいのだ。
私の芸術は実はあなたの芸術であり、私の書くものはあなたの生命から流れ出たもので、
私は単なる書記生に過ぎない。
私はあなたとそういう結婚生活を営みたいのです。
あなたの支配の下に立ちたいのです。
一日も早くあなたと一つ屋根の下に住めるようになるのを待っています。

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01月23日谷崎から妹尾に、現在丁未子の両親のOK待ちだと言う手紙。 


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谷崎から妹尾健太郎への手紙 昭和6年1月23日 

I must confess to you that,having arrived at Tokyo,
I was perfectly "moritsubusareta" by her at the first moment.
How could I do otherwise when
she was so lovely,beautiful,fine,clever & everything ?
Now we are only waiting for her father's consent
which she says will be gotten without so much difficulty.
Anyhow I shall go home within a few days.


"moritsubusareta"は<もりつぶされた>か? とにかく両親のOK待ち状態。
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01月24日新聞各紙に婚約報道。


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丁未子夫人の友人・大阪朝日新聞社会部記者 山下滋子/旧姓 隅野滋子

私たち女専の仲良しグループ(遊亀さん・白髭さん・オスン・私)は千代夫人を大好きでした。
岡本小学校の隣の小さな借家住居のお宅へ紹介状もなくいきなり
「猫を見せて下さい」と飛び込んできた田舎っぽい女子学生を玄関払いにもせず、
「さあさあ、どうぞ」とお座敷に通して白いペルシャ猫を二匹連れてきて下さった爽やかな態度に
すっかり千代夫人のファンになってしまったのです。
もっとも、谷崎氏もその日よほど虫の居所が良かったのか、また暇を持て余しておられたのか、
お座敷に出て来られ、「あなたたち、どこの学校?」などと話しかけられ、
帰る時にはいつでも猫を見にいらっしゃいと送り出して下さったのですが。
もし千代夫人が素っ気なかったりひどく感じが悪かったら、
私たちは二度とお猫さま拝見に行かなかったでしょうし、
武市さん→エーチャン→テマコのパイプもできなかったでしょう。縁というものは不思議なものです。
ともかく私たちは二度目のお猫さま拝見の帰りには早速、
川口の天仙閣で中華料理の御馳走になっていたのです。

根津夫人については大朝の小倉敬二氏などはいつも
「根津の細君はベッピンだよ」と誉め「だが彼女、谷崎に惚れてるな」と予言していました。
私は反対で、谷崎氏が根津夫人に特別の関心を持っておられると感じていました。
谷崎氏を含めて殿方は皆さん根津夫人のことを美人だと誉められるのですが、
私ども女たちは千代夫人の方がずっと知的な美人だと思っていました。
妹尾夫人にいたっては不思議な存在と言うよりなかったですね。
いつの間にか知らないうちに乗り込んで、
ハッと気づいた時はもう押しも押されぬ中心人物になっていたという感じ。
結婚の時あれほど反対したテマさんのことをお終いまでよく面倒を見ていましたね。
谷崎氏を含めて殿方は皆さん根津夫人のことを美人だと褒められるのですが、
私ども女たちは千代夫人の方がずっと知的な美人だと思っていました。

〔結婚の〕ニュースは東京から伝わったので、
大阪では谷崎氏&チョマさん〔古川丁未子〕は寝耳に水とばかり驚いていました。
早耳のNHK大阪放送局の奥屋熊郎さんでさえ夜遅く私に電話してきて
「本当にチョマさんなの?松子さんの間違いではないの?」と繰り返し念を押されたのです。
奥屋さんばかりでなく私だって、千代夫人と別れた後は必ず松子さんと
と信じ切っていたので、まったく意外な思いをしました。
これはどう考えても無理な結婚だ、年もキャリアも違いすぎる、一致点がない等々、
つまるところ長続きしない、せいぜい2年くらいの結婚生活だろうと、
知るも知らぬもおしなべてそのような予測をしていました。

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01月30日鳥取の丁未子の実家へ挨拶に行く、両親仕方なく許す。
03月千代35歳&佐藤39歳結婚式挙げる。
04月谷崎&丁未子24歳結婚式挙げる。
04月下旬谷崎夫妻・妹尾夫妻・松子で新婚旅行、谷崎&松子キスをする。


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3番目の妻 谷崎松子

どうしてそうなったんだか、どうやって二人で部屋を抜け出したんだか、
しめし合わせてそうしたのか、何も記憶にございませんの。
ただ、外で真っ暗闇の中で谷崎と抱き合ってキスしたことだけ覚えていますの

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05月芦屋税務署より税金の督促状来る。再婚前の贅沢生活でかさんだ
借金23,000円のため岡本の家を売りに出し、夫妻は高野山に転居。


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丁未子夫人から妹尾君子への手紙 昭和6年5月21日

一番困るのは思いもよらない時に小僧が現れることであります。
とにかく非常に面白い所で、自由に立川流なども研究できますから、
できるだけ早くお出かけ下さい。

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谷崎から妹尾夫妻への手紙 昭和6年5月22日

なにぶん広い家にたった二人きりですから、
丁未子はピコン〔催淫剤、転じてセックス〕以外に何の仕事もなく
退屈の態ですが、そのうちにお友だちもできそうです。

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丁未子から妹尾夫妻への手紙 昭和6年5月23日
リーク〔催淫剤〕ご夫妻へ
小僧の神出鬼没は決してピーに邪魔になるというのではありません。
聖山のことゆえ、まことに清浄無垢な心を持ってVATや百フランなどのことは
思い起こしだにしないでおります。あくびが出るのは、つまり・・・。
和尚が毎日一度は訪ねて下さいます。
63歳ですが奥さんは37歳です。私どもの好敵手です。


丁未子から妹尾君子への手紙 昭和6年5月23日
ご夫妻がいらっしゃってから非常に強く刺激剤となりすぎまして、
私はますますこの頃痩せました。
やはり妹尾夫妻の効果は偉大なるかなと私ども三嘆いたした次第でごさいます。

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谷崎から妹尾夫妻への手紙 昭和6年6月13日

能率の上がらないのは決してピコンのためにあらず。ご安心を願います。
丁未子はアンプロムプチュ〔即興劇〕は嫌いのよしにて、
ペエジエント〔野外劇〕の要求に応じてくれません。
室内にても、白昼は嫌がります。これには困ります。

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丁未子から妹尾夫妻への手紙 昭和6年8月6日

今日はお久しぶりにお目にかかれると思い早くから起き出てお待ちしておりましたのに、
ただいま根津さんからの電報でガッカリいたしました。
せっかく思い立ったことをそのままやめてしまいますのは
大変に気持ちの悪いものでございますから、どうぞ10日以降に
根津夫人〔松子〕を御誘いの上、御登り下さいますよう願い上げます。
根津夫人の手紙によりますともし御一緒に御登り下さいませんならば、
潤一郎さんがノコノコ出かけていかなくてはならないかもしれないような風なことが
書いてありましたのでどうぞよろしくお願い致します。

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09月谷崎下山して大阪の松子の相談に乗る。
11月夫妻根津別邸の離れに転居、母屋には清太郎・松子・重子・信子・清太郎祖母ツネがいた。


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谷崎から妹尾健太郎への手紙 昭和6年12月15日

例の話で昨日根津夫人〔松子〕を小生一人で訪問。
夫人9度近き高熱なれども2、3日を争う場合ゆえ、枕頭にはべってしばらく談じました。
大いに意を安んじた点があり、やはり夫人に聞いていいことをしたと思いました。

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◆昭和07 46歳
01月せい子30歳と和嶋彬夫と結婚。
02月魚崎へ転居。
03月根津商店倒産。
09月丁未子、妹尾家へ家出。

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谷崎から妹尾夫妻への手紙 昭和7年9月23日
御電話ありがたく存じ候。
丁未子たぶんそちらへ参上のことと推察いたしておりましたが、
電話をいただくまでは多少心配にて仕事も進まず困りおり候ところ
御心づくしの段かたじけなく存じ候。毎々色々御世話になる上に、
今回はまたとんだ事にて御配慮を煩わし御芳情筆紙に尽くしがたく候。
丁未子は女同士のことゆえ、なにかにつけ奥様におすがり申すことと存じ候。
当人は心中の苦しみを伝える人ほかに一人もなき有様にて、
余計御迷惑をかけることと存じ候。丁未子が御宅へ上がっている時は一番安心にて
かえって家にいられるよりも心配なきため、ついつい御好意に甘える結果となり候。


谷崎から妹尾健太郎への手紙 昭和7年10月18日
昨夜は参上、御芳情にあずかり有難く存じ候。
その節御談合いたし候件にて、根津夫人と結婚いたす場合には表面結婚の形式を
取らざるようにいたす旨申し上げ候ところ、それはその通りに御座候えども、
丁未子へ御話し下さる節には結婚は確定の事実のようにはお話し下さらぬよう願いたく候。
小生としては大概そうする予定に候えども、根津清太郎氏の心中もまだ多少疑わしく、
松子夫人離別のこと果たして可能なりや、万一可能なりとするも、
小生との結婚を森田家その他にて容易に承知いたすやいなや等のこと
ずいぶん疑問につき、小生一存をもって確固たることを言明いたしがたく存じ候。
もっとも丁未子へは当然結婚するものとして話した方が
かえって覚悟も定まる次第に候えども、
最初より結婚できるかどうかは未定のように申し聞かせたることゆえ、
ただいま突然確定の事実のように申しては、
またまた丁未子の心証を害する憂なきにあらず。
ただしあの時はそう言ったが、その後根津家の離婚話も
案外進展しつつありという風に御話し下さるならばそれもよろしくと存じ候。
要するに松子夫人と結婚できるならば昨夜の御話のような形式を取るつもりなれど、
そのことの可能と否とに関わらず丁未子とは離縁いたしたく、
即ち後者の方が第一義的に重要のこととして御話下されたく候。


谷崎から妹尾健太郎への手紙 昭和7年10月24日
小生が丁未子に望むところは、なによりも出所進退を立派にしてもらいたいということです。
小生の一番恐れるところは、丁未子が哀れむべき人間、
尊敬に値せざる女になってしまうことです。
丁未子がおせい〔和嶋せい子〕などを相談相手にして、小生の愛を取り戻そう
などとしていることが事実とすれば甚だ悲しむべきことです。
かわいそうという感じは起こりますが、敬愛の情とは最も遠いものになります。
丁未子はどこまでも彼女らしく自尊心をもって行動してもらいたく、
またそれに堪えうる婦人だと思います。このこと貴下よりよろしく御伝え願いとう存じます。
別れるとしても敬愛の情をもって別れたきものなり。
丁未子が浅ましく哀れなる女になっては互いの悲しみも一層深かるべし。
芸術家の妻のというものは世間公衆の眼前に行動するも同然ゆえ、
よくよく立派に振る舞うこと肝要なり。
遠き将来のことも思って、勇気をもって進退してもらいたし。
かくてこそ小生も障害丁未子を尊敬いたすべし。

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丁未子から妹尾君子への手紙 昭和7年10月26日

明日は夜上山草人氏と一緒に帰ってくるそうでございます。
ただ今、後藤氏と和嶋夫妻で歓談を交えているところでございます。
三味線など弾いて大騒ぎしました。
奥様もいらっしゃったらどんなに面白かったかしらと
おせいさん〔和嶋せい子〕と言い合っています。

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谷崎から妹尾夫妻への手紙 昭和7年12月6日
金50封入いたし候。ともかくこれだけお渡しくだされたく。
時計は是非御取戻し願い上げ候。無断にて持ち出し必要品を返さぬでは困り候。


谷崎から妹尾夫妻への手紙 昭和7年12月11日
七面鳥残骸は、昨夜小生の留守中丁未子一存をもって和嶋夫妻に提供し酒盛りを始め、
小生帰宅してみたら和嶋がもう一人の友達をつれていて酔いつぶれており、
3人とも泊まり込み候。
丁未子もだいぶ酩酊の様子に見え候間、小生も叱言を申さずそのままに致しおき候。
今朝小生寝ているうちに丁未子大毎社へ参り候につき帰宅の時間不明ゆえ、
今夜のところは参上できるかどうか不明に候。
それより明日堺へ参り、その帰途相談いたした方がいっぺんに片付くと存じ候。

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12月北畑へ転居
◆昭和08 47歳
01月佐藤夫妻から妹尾へ、谷崎夫妻と松子の三角関係を尋ねる手紙。

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千代から妹尾夫妻への手紙 昭和8年1月19日

ちょっとお尋ね致したいことができました。実は谷崎家の近状についてでございます。
和嶋せい子3、4日前に上京いたし、まことに意外なことを聞きました。
もっともせい子の申すことゆえ一概に信用も致しがたく、しかしまんざら火のない所に
上がった煙とも思われませず、お尋ね申し上げる次第でございます。
なにぶん手紙にては事面倒にて充分伺えるとも思いませんが、
お差し支えのない限りお漏らしいただきたくお願い申し上げます。

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03月根津ツネ死亡。
05月丁未子との離婚話まとまる。


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谷崎から親友笹沼源之助への手紙 昭和9年5月6日

丁未子とは昨年5月媒酌人および妹尾夫妻立ち会いの上、
事実上離婚したる証書を双方並びに立会人全部取り交わし申し候。
小生は将来丁未子が結婚するか独立していける職業でも覚えるか、
とにかく安心できるまで毎月150円ずつ仕送る約束にて、これは以来実行いたしおり候。
金は妹尾氏が預かり、毎月少しずつ貯金をいたしくれ候。
丁未子が身を引いてくれた態度はだいたいにおいて潔く、
夫人〔松子〕に対してもつとめて悪感情を忘れ将来は仲良く暮らさんとする意思にて、
これもひとえに小生の心事と芸術を理解してくれている結果とこれまた感謝にたえず候。
小生は夫人に対する尊敬の念強く、対等の夫婦としては暮らす気にはなれ申さず候。
また過去における再度の結婚生活の経験に徴するに、
普通の夫婦生活としては結局小生のワガママが出て不幸に終わる恐れなきにあらず、
やはりどこまでも夫人は実家の森田姓を名乗り、
小生は『春琴抄』の佐助のごとくにして生涯を送りたく存じ候。

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11月妹伊勢の問題で弟精二と絶交。


谷崎34歳
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by vMUGIv | 2011-04-12 00:00 | 大正

谷崎潤一郎 その11

◆昭和04 43歳 (続き)
04月丁未子、関西中央新聞社入社。
07月谷崎邸で地唄舞の稽古開始、松子・重子・信子も習いに通う。
12月女中宮田絹江辞める。

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谷崎の弟 谷崎終平

ある日、兄(潤一郎)・兄嫁(千代)・私と
<絹や>と呼ばれていた女中さんが集まっていた。
ふとお絹が「私は旦那様が一番大好き!」と言った。
その前後の会話を失念しているので、
なぜお絹が突然そんなことを言ったのかはわからない。
その時、兄が本当に真っ赤な顔をしたのには驚いた。
44、5にもなる中年男子があんなに赤面したのを、私は他に見たことがないのである。
後で考えると兄の初恋の人・福子さんに目鼻立ちが似てないでもないし、
あっそうかとも思ったが、本当のところはわからない。
石川のお婆さん(千代の養母)が、ちょいとと言って私を自分の部屋に呼び入れた。
「まあ、終さん聞いておくんなさい。
お絹が近いうちに旦那様と結婚するのだと触れ回ってるんです」
私も驚いた。他人の恋愛にとやかく言う気持ちはない。けれども昭和の初めのことだ。
お絹のような教養のない女を家に入れて上手くいくと思うのが理解できなかった。
兄ものぼせていたのか。

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◆昭和05 44歳 

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谷崎から中央公論社社長嶋中雄作への手紙 昭和5年1月8日

実は昨年暮れ東京より帰りましてから少し家庭にゴタゴタが起こり、
そのために思うように執筆ができません。
家庭のゴタゴタはいずれ何らか形を取って現れるか、
あるいは円満に解決するか未定ですから、何卒何卒秘密に願いたく、
今回は佐藤春夫にさえも話してありません。

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05月丁未子、谷崎の紹介で文芸春秋社入社。
06月30日絹枝にラブレター。


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谷崎から宮田絹江への手紙 昭和5年6月30日

今度お目にかかり、あなたのお声を聞いて私も決心したい。
幸い私も朝日新聞に播州のことを書いていますので、時々姫路へ行く用があります。
電報を差し上げますゆえ、姫路駅まで来て下さいませんか。
あなたの御老母様にも兄さんにもゆっくりお目にかかりたいと思います。
この写真、近頃私は頭を短く刈りました。お笑い草にお目にかけます。

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谷崎から中央公論社社長嶋中雄作への手紙 昭和5年7月10日

目下佐藤春夫の離婚にからみ、小生家庭にもまたまた持ち越しの問題発生、
そのため新聞すら1回佐藤に代筆してもらったくらいです。

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07月14日絹枝にラブレター。

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谷崎から宮田絹江への手紙 昭和5年7月14日

正月以来の私の家庭の問題も今月中には決まりがつきそうですから、
どうぞどこへもいらっしゃらず待っていて下さい。
私の妻は佐藤春夫と結婚し、鮎子もそちらに行くことになるでしょう。
円満に話がつきそうです。佐藤は千代の昔の恋人なのです。

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07月20日千代兄倉三郎も来て離婚の話し合い。
07月24日鮎子が了承して離婚決定。

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千代の兄 小林倉三郎

声も立てずに泣いている鮎子の背を、
これも泣いている佐藤氏が抱えるようにして静かになでていました。
客間ではお千代が泣いていました。
谷崎氏は廊下を行きつ戻りつしていました。涙が光っていました。
私は堪らなくなって席をはずしてまいました。

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谷崎の弟 谷崎終平

佐藤氏が前の夫人と別れてから、長兄と和解してちょくちょく関西に来るようになって、
長兄は熱心にお千代をもらえと再び口説いている頃のことだった。
佐藤氏と兄嫁と私は布団の上に横になって遅くまで話していた。
兄嫁の考えは堂々めぐりして決心がつかない。無理もないことだった。
結局長兄のワガママから端を発したものだろうが、どうにもならぬこの夫婦の結末がきた。
長兄にしてみれば、別れても兄嫁が幸福になってくれなければ心配だというわけで、
それには気心の知れた、しかも以前にその意向のあった、
また現在独身である佐藤氏と再婚すれば一番安心だと言う。
ただ鮎子が一番かわいそうだとは誰しも同じ考えで、
長兄は鮎子は母について行けばいいし、父の所にも自由に来たい時に来ればいい。
幸い佐藤氏も鮎子を大変可愛がっていたし、子供には下手なことを言うより
本当のことをすっかり話して納得させるのが一番だというのが長兄の考えだった。
鮎子は15歳になっていて、聖心女学院に通っていた。
父親に似たのか、気の強いところがあって、何を考えているのか容易に心中を見せない。
長兄が鮎子に話すことになり、ある晩長兄は鮎子を呼んで二人きりになり、
しばらくして鮎子は涙を見せて自分の部屋に閉じこもってしまった。
だがすぐ元気な顔を見せて出てきた。
皆もらい泣きをしたが、鮎子は了承したということだった。

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08月04日谷崎・千代・佐藤の3人が佐藤実家へ挨拶に行く。

挨拶に向かう二人
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08月14日絹枝にラブレター。

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谷崎から宮田絹江への手紙 昭和5年8月14日

思いもかけぬことが起こりました。
私としてはいかにもお話ししにくいので、佐藤氏二人から聞いて下さい。
いずれ私もお伺いしますけれども。

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08月18日関係各位に離婚の挨拶状送付。
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08月19日新聞各紙に離婚報道<細君譲渡事件>
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08月20日丁未子にラブレター。

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谷崎から丁未子への手紙 昭和5年8月20日

お見舞状ありがとう存じます。
あれを発表するまでは事実を申し上げることができなかったので失礼しました。
断髪された由、ついでに歯を治されてはいかが?
御希望とあればドクトルに紹介状を書きます。場所は神田一ツ橋ですから便利です。
あなたが上京なさる時このことを言うのを忘れました。
新聞が一段落つくまでは旅行に出られません。早くても来月上旬になると思いますが、
出発の最初に東京へ出ますから、そうしたらお目にかかりましょう。

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08月30日絹江にラブレター。

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谷崎から宮田絹江への手紙 昭和5年8月30日

いっぺんお絹様にこちらへ遊びに来ていただこうかと存じましたが、
当地へも新聞記者が毎日やって来ますのでそれも思うように行きませぬ。

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11月15日萩原朔太郎の妹愛子と見合い。

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谷崎の弟 谷崎終平

長兄が最初の離婚をした後に、萩原朔太郎氏が関西にこられて
萩原氏との用件というのは末子をもらってくれないかという長兄の願いであった。
同時に長兄は、萩原氏から氏の妹さんをもらわぬかという話であった。
双方ともお互い君に似すぎていて嫌だということで話は決裂したのであった。

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11月29日丁未子にラブレター。

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谷崎から丁未子への手紙 昭和5年11月29日

御写真到着。あまり大きいのでブックに貼りきれず、
書斎の額にして大いに室内の光彩を添えようかと思いましたが、
世間の物議を醸してはならぬと差し控えています。
今後も撮影のたびにお送り願います。
せんだってもちょっと東京へ行ったのですが、お目にかかる暇がなくて残念でした。
あなたの方からもたまにはこちらへ遊びに来ませんか?お正月のお休みにいかがです?
宝塚のダンスホールへ是非ご案内します。その他できるだけ御歓迎準備を整えてます。

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12月04日谷崎から妹尾へ、見合いした女医の返事を問う手紙。

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谷崎から妹尾健太郎への手紙 昭和5年12月04日

例の女医、電話の首尾いかにや。吉報待ち入る。
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12月05日谷崎から妹尾へ、再度見合いした女医の返事を問う手紙。

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谷崎から妹尾健太郎への手紙 昭和5年12月04日

お医者さんの返事来ましたらお知らせを待ちます。
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谷崎30歳
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by vMUGIv | 2011-04-11 00:00 | 大正


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