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三島由紀夫 その18

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三島の唯一の女友達 湯浅あつ子 『鏡子の家』の鏡子のモデル 

三島由紀夫は才能にはすごい自信を持ちながら、肉体はコンプレックスの塊で
事実痩せていて足など折れそうで、いつも私の毒舌の対象になっていた。
のちのちボディビルに凝って得意になり我がサロンに見せに来ていたが、
私は「足のボディビルってないの?」とまたいじめて、怒る彼のムキな姿を楽しんだりした。

ジャイアンツの長嶋クンの胸毛の濃さにさえ自分のと比べ意識する、
子供のような性格はとうとう最後まで変わらなかった。
もうちょっともう一人の最大のライバル黛敏郎くらい大人になれたら、
あんな悲劇も起きなかったろう。
彼はいつも私に「ねえ、僕と黛とどっちがいい?」と聞いていた。
質問があまりにもくだらないので答えずにいると、
しつっこく「ねえ、僕?それとも彼?」ととめどがない。
どなたがご覧になっても黛さんはセンス抜群でそのうえ素敵な声の持ち主だったし、
マナーも柔らかく女性をこよなく良い気分にしてくれる独特のムードメーカーであった。
〔三島は〕硬派で、ボルサリーノみたいな服装をしたり
透けた黒シャツに金のペンダントに白のズボンではまるで比較しようもなかった。
女のきょうだいもなく年寄りの両親に囲まれ下働きの女の子一人の家庭からは、
ハイセンスな色合いなど望む方が無理である。
だから洋服の色になるとからきしの色音痴で、
作品の登場人物の着衣の色のところでいつも四苦八苦して聞いて回っていた。
ときどき私の姉が彼の作品を読んでは「どうしてこんなステキな登場人物が
洋服に歌舞伎の色のものを着るの?誰に聞いたの?」と聞くと、「オフクロだよ」
こんな会話は日常茶飯事で、いつも三島由紀夫はくさっていた。

彼はどんな時でも相手が男であろうと女であろうと、
貪欲に自分の文学への一助を必ず文士の習性としてつかんでいた。
私はそんな時の彼の目のギラギラは大嫌いだった。自分のそばに寄る者からは、
容赦なくすべて自分の文学への生け贄として襲いかかっていった。
『鹿鳴館』は私の姉の姑が大いに利用され、私のサロンが『鏡子の家』となり、
いつの間にか深い仲になっていた人からのヒントが『橋づくし』になった。
私などはあまり身近なところで次々と作品が出来てゆくので、
空恐ろしさと尊敬と半々の日々であった。もっとも『鏡子の家』はフィクションとはいえ、
私は自分のサロンをまるで淫売宿風に扱った箇所が不愉快であった。

私は三島由紀夫ではなく、平岡公威であることをいつも願っていたのだ。
私の仲良しの公ちゃんは、白皙でちょっと縮れっ毛で、後年突っ張って磊落を装うための
あの「カッカッカッ」という作り笑いの大声を出したことなど一度もなかった。

愛した女性・お金・ノーベル賞・ポルトガル永住・そして友・心の平和、
そのどれ一つをも彼は手にすることができなかった。
楽しんだ私のサロンも、母倭文重女の慈しみも役に立たなかった。
悲しさからの悩み・恨み・苦しみ・裏切りを一言も
他に訴えることなくおのれの心の中に閉じ込め、
我慢と忍で過ごした彼の鬱積が生への挫折に繋げられてしまった。
そんな彼を支えていたものは<三島由紀夫>というプライドだけで、
実に寒々とした乾いた心で毎日を送っていた。

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三島と湯浅あつ子
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by vMUGIv | 2011-03-18 00:00 | 昭和戦後

三島由紀夫 その17

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三島の元書生・作家 福島次郎

『禁色』に出てくるルドンは
実際にあったブランズウィックという店をモデルにしており、銀座5丁目裏にあった。
三島さんはそこの客として出入りするようになり、
今までの孤独で悶々としたソドミストから大勢の同好の友に囲まれる有名人になる。
それまでがあまりに密閉された世界で育ってきた三島さんだけに、
さぞかし有頂天にさせられたであろう。
三島さんは男色の世界に出入りするようになってから初めて恋をした。
悠一という青年、人々は悠ちゃんと読んでいた。
悠ちゃんは体格も髪の形も普通の感じで、顔立ちは整っているが
いかにもさっぱりとしたスポーツマン風の爽やかな風貌だった。
この世界にありがちな中性的な湿度がまったくない、やんちゃな男の子という感じだった。
だからこそ悠ちゃんはこの世界で引く手あまただったのだろう。
当時から愛されることに慣れ経験豊富だったに違いない。
社会的にはともかく、この世界ではぽっと出の純情な三島さんとでは勝負にならなかった。
三島さんが酔っていたのもわずかの間、悠ちゃんから捨てられた形になるのである。

内藤武次郎さんは、三島さんにとっては唯一の相談相手であった。
昭和20年代、内藤さんは銀座で<陶李苑>という大きな陶器の店を営んでいた。
悠ちゃんから愛されていないことがはっきりした時、
三島さんは内藤さんの家へ来てすべてを打ち明け涙ぐんでいたという。
「根が純情だから叱られた子供みたいにソファに長いことうつむいちゃって目を拭いてんの。
あんな男にフラれたぐらいで。でも深刻そうだし、このまま家に帰したら
途中で自殺でもするんじゃないかと思ってウチに泊めることにしたよ。
僕が御両親に電話して。人のウチに泊まるなんて、その時が初めてだったらしいよ。
悠ちゃんにフラれてしょげているところに君が現れたっていうことさ。
それも普通の大学生がやって来たんだから、
そりゃ三島さんが僕のところに一番に見せに来る気持ちはわかるよ」
三島さんに初めて会い、そのまま内藤さんの家に連れていかれた時の私には
そんな事情はわかろうはずもなかった。
坂を登り切った場所にそびえ立つ木造二階建てが、内藤武次郎さんの家であった。
大きな番犬、高級料亭の女将のような女性、所狭しと置かれた骨董美術品、
それらすべてに私は圧倒された。
「こちらさんは地方からそのまま直行してきたような人だね。
誰かさんとは正反対。ウブとウブとで、おたくたちはこれからがお楽しみ」
内藤さんはロイド眼鏡をかけた角ばった大きな顔を横にふりながら言った。
隠語が混じる内藤さんの早い話しぶりの意味はわからなかったが、
ユーモアに富んだ心優しい人物だという印象を受けた。

「そろそろ休もうか」 三島さんはひどく遠慮深げに言ってこちらを向く。
私がうなずくと、私の前まで来て椅子から立つようにと合図をした。
私が立ち上がると、三島さんは正面から私を抱きしめて頬ずりをした。
そして息づかいを次第に荒くしていった。
だが、私には興奮はまったくなかった。
男女を問わずそれまで性交渉の経験などまったくなかった私である。
三島さんは身悶えし、小さな声で私の耳元に囁いた。
「僕・・・幸せ・・・」 甘え切った優しい声だった。
今まで聞いてきた三島さんの声音とはあまりに違う。
私の身体よりもずっと小さく細い三島さんの身体は、
私の両腕の中で柔らかくぐにゃぐにゃになっていた。
私は観念して着ているものを全部脱ぎ、ベッドに仰向けに寝て目を閉じた。
電灯を消した三島さんも裸になって、
全身をおこりのように震わせ一途な勢いでのしかかってきた。
目を固く閉じている私の耳に、三島さんの激しい咽び泣きが火花のように飛び散る。
やがて甘えわめく子供のような大げさな声をあげて三島さんが動かなくなった時、
私は自分の股間の奥に収めきれず、太ももの付け根からゆっくりと
一筋の熱いものがあふれ出て臀部の方へ流れ落ちるのを感じていた。

初めてのホテルでの夜、
三島さんだけが激しくそうなっただけで私の身体には何の変化も起きなかった。
私のものはまったく用を果たさず、逆に凹型になっていった。
三島さんはそんなことにかまうのかかまわないのか、
私が裸になって仰向けに寝ると暗がりで自分も裸になるや、
獲物を得た獣のように堰が切れた気配で胸毛に覆われた薄い胸と細い四肢を震わせ、
泣き音をあげ続けながら一途にことを行い終わりに達したものだ。
今にして思えば、三島さんの技巧も言葉も抜きにした青年らしい直情径行ぶりが、
私としてはせめてもの救いだった。

東京のホテルでは死んだ魚のようにしていてもそれなりに済んでいたのだったが、
この避暑地での夜は、
三島さんもどうにか私が性的に反応するようにあれこれ工夫しはじめていた。
一夜、二夜、三夜を経ても、三島さんの律儀で必死な施しにもかかわらず
私にはなんの変化も起きなかった。
「君の性欲というのは、
大きな岩かなんかの下敷きになっていて、動けないでいるみたいだね」
昼は天国、夜は地獄が続いていくのだったから、感謝もいつか帳消しになり、
自分では気づかぬながら三島さんへの対応も冷ややかなものになっていったに違いない。
1週間目の夜のこと、三島さんは初めて私を裏返しにしてことを行おうとした。
「僕はバックというやつは好きじゃない。僕は向き合って顔を見なけりゃ嫌なんだ」
と以前三島さんは言ったことがあるが、この夜は違っていた。
相手の御機嫌ばかりうかがっていられないという、怒りさえ混じった強い気配があった。
三島さんのものが的を外れながら、私の臀部の内側をひどくあわてる風に
擦り動くだけなので、ただくすぐったかった。
この我が格好、三島さんの真剣さと私の幼児めいた一人騒ぎのちぐはぐさから、
こうまでして三島さんについて行こうとする自分の哀れさ、滑稽さが
一挙に胸元に突き上がってきて、私はうつ伏せのまま肩をゆすって笑いだした。
畳の上に三島さんの白いブリーフがあった。
そのブリーフを掴んで、私からはねのいた三島さんに向かって思い切り放り投げた。
ブリーフは三島さんの毛の濃い裸の胸に当たり、すでに萎えてしまった股間の上へ落ちた。

三島さんは伊豆にまだ滞在する予定だったのに、翌朝すぐに東京へ帰ると言い出した。
そして朝からトランクに荷物を詰め始めた。三島さんは額に汗をにじませながら、
慣れぬ手つきで懸命に荷造りをしていたが、私は籐椅子に腰かけたまま平然と眺めていた。
心の中では、手伝わなくてはならぬと思う。
あれほど憧れた作家が、最も似つかわしくない力仕事で精を出しているではないか。
詰め方に迷いながら、困りながら。革紐の結び方さえおぼつかない。
そこに私の手伝いを期待している気持ちが見えた。
それがわかっておりながら、わかればこそ、
その時の私は冷ややかに三島さんを見ているだけだった。
これでこの夏が終わった。
この数ヶ月間私を夢中にさせた僥倖のすべてが終わったという思いがあった。

三島さんは白いズボンも一気に脱ぎ、椅子の背に放り投げた。
白のふんどしをつけているだけで、15年前の虚弱体質な気配は微塵もなかった。
「おい、福島君、尻に触ってみろよ」
「はあ」
「腕や胸はともかく、尻の肉をここまで硬くするのは大変なことだぜ」
三島さんは腰のふんどしを軽くたたいてみせた。
「これ、はずせるものならはずしてごらん」
いよいよという覚悟の気持ちで三島さんの後ろに回って試みたものの、
ほどく順序さえわからない。
「君、こんなもの締めたこともないな」 
得意気な笑い声でここをこうしてと教え、私にはずさせた。
懸命に三島さんの首から胸、腹に、キスを浴びせかけていった。
三島さんはこちらが驚くほどの甘えた子供のような声をほとばしらせた。
脳の奥で願いの呪文を唱えているが、やはり私の方は駄目のようだった。
三島さんのセックスの形は昔とは違っていた。
上から覆いかぶさってきてただひたすらに掘削作業を行って終わっていた26歳の青年
とは異なり、身体は見違えるように灼けてたくましく男臭くなっているのに、
母親から抱き上げられる乳飲み子のようにのけぞり、
目は閉じたままくねって背をゆさぶらせていた。
三島さんは性的にも受け身を演じたかったのではという気がする。
世に言う<ドンデンが来た>というやつである。
ひょっとしたらドンデンが起きた頃から、
三島さんは外向きにますらおの道に目覚めはじめたのではないだろうか。

内藤さんの手料理を食べながら、数時間三島さんについてしゃべり合った。
青年の頃から親兄弟にもしゃべれないことを三島さんがみんな打ち明けてきた相手だから、
死の本当の原因を一番知っている人ではないかと、私は内藤さんの意見が聞きたかった。
しかし内藤さんは、「三島さんは死にたかっただけよ。ただ、それだけ」と言うばかりだった。
「ああいう風に派手に死ねたんだもの、本人はさぞ満足してると思うよ。
自分の腹に刃物を突きつけた時、きっと嬉しかったと思うよ。
あの人の長年の夢が実現したんだもの」
1年ほど前、三島さんと関係があった青年が内藤さんに三島さんになんとか
取り次いでほしいと頼み込んできた。よく知っていた子なので気軽に引き受け、
いつものように三島さんの書斎の直通番号にかけたが、
あいにくすぐ脇に夫人がいたのである。
次の日に三島さんは怒って電話をかけてきた。
「あんな内容の電話をかけてもらっては困る。これからはかけないでほしい」
内藤さんも頭にきて
「こちらも気が利かなくて悪かったけど、頭ごなしにそりゃないでしょう。
これまで長い間おつきあいいただているけど、どこの何様だか存じませんが、
電話の一つぐらいでそんなに偉そうに人を叱りつけるような方と
親友になった覚えはありません。これからは一切電話をかけません」
と言い返して電話を切ってしまった。
数日後一席もうけさせてほしいと手紙が来て、
内藤さんは気が進まぬながらその接待に応じて帰ってきた。
「一応おさまって別れたけど、その後は一度も会うことはなかったね」

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by vMUGIv | 2011-03-17 00:00 | 昭和戦後

三島由紀夫 その16

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今上天皇の御学友・作家 藤島泰輔

学習院が伝統的にホモセクシャルの温床であったことは、
それを在学中に限るという但書きつきで私は是認する。
公卿と大名の伝統が混然一体となったこの学校では、
明治以来ずっとその風習が続いて今日に至っている。
<稚児>という言葉は学習院ならずとも使っている共通の専門用語だが、
学習院では可愛がる方の上級生もしくは同級生を指して<稚児親>と言っていた。
そういう事実を真実だとするために必要ならば、
私自身にも稚児親がおり稚児がいたということを告白しなければならない。
三島氏の時代までは、稚児親と稚児の間に相聞歌や恋文のやりとりまであったらしい。

学習院という学校の特殊性は、少年たちが娘たちと交際することよりも
同性の美を讃えることの方に<みやび>を感じていたというところにある。
そして稚児親も稚児も、相互間の献身を最大の美徳となした。

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鎌倉文庫の編集長 木村徳三

代表作『仮面の告白』を発表する半年前ほどの日曜日の午後、
〔三島は〕私の家にやってきた。
私と同じ町内に住むある心理学者を訪ねた帰りだったと言う。
そのとき私は初めて三島君の倒錯性向を聞かされたのだった。
心理学者を訪ねたのも、それについて意見を聞きに行ってきたのだということだった。

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この<ある心理学者>は望月衛である。
望月の日記には、三島と会ったこと、銀座のゲイバー<ブランズウィック>について話したこと
などが書かれている。
ドイツ語が読めた三島は、ドイツの性心理学者マグヌス・ヒルシュフェルトの原書を望月から借りた。

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三島から鎌倉文庫の編集長木村徳三への手紙 昭和24年12月16日

僕、目下寝ても覚めてもブランズウィックのボーイの姿が忘れられず、
溜息ばかり出て思春期が再発したみたい。
恋心っていじらしいものですな、ヤレヤレ。

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新潮社編集者 菅原国隆への取材

『禁色』を書く前の三島が男色酒場に出入りし、
<ユウちゃん>という青年を可愛がっていたのを菅原氏は見ていた。
一時の三島は男色の世界に入り浸った。

昭和25年、執筆のために伊豆大島のホテルに向かう三島の見送りに行くと、
桟橋に花束を抱えた青年が現れて菅原氏を仰天させた。
三島はこの青年を<ユウイチ>とか<ユウちゃん>
と呼んで異様に思われるほど可愛がった。
当時ユウイチはある私大の学生だった。仕事の時以外には絶えず連れて歩いていた。
『禁色』の南悠一の名前が、このユウイチからとられたことは疑いを容れない。

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劇作家・映画『憂国』の演出家 堂本正樹

二人は三島が24歳、堂本が慶応普通部4年生15歳の時に、
銀座のゲイバー<ブランズウィック>で出会う。
ブランズウィックのボーイが、
三島の『中村芝翫論』を読んで絶賛していた歌舞伎好きの堂本を三島に紹介してくれたのだ。

当時私は学生服を着て両手をズボンのポケットに突っ込み、銀座を徘徊していた。
美輪明宏の証言では「正樹ちゃんは典型的な不良学生だった」と言う。


ある日、三島に和食の店に連れて行かれる。
そこで、自分を三島に紹介してくれたボーイが交通事故で死んだことを聞かされる。

私は突然涙に暮れた。三島はさっそく白いハンケチを出して涙をふいてくれた。
「マキはおかしな子だね。人は皆死ぬんだよ」
三島の身体がそのとき寄ってきた。「マキと二人で供養しなくちゃ」
二人は障子の奥の部屋に入った。


彼の死に至るまで、私から彼に電話したり手紙をだしたりしたことはなかった。
次回は常に別れるとき向こうから言う。こちらから会いたいとせがむことはしなかった。
後年同じ劇団の同志になってからは、事務所の決めた一人が連絡係になってくれた。

二人は外に出てタクシーを拾った。何度か行った岩風呂のある宿である。
ここではまず風呂に入る。兄弟ごっこで背中を流す。
切腹。それはここで兄弟の儀式として始まった。
私は紙を巻いた短刀を恭しく受け取ると、上着を粛々と脱ぎ正座する。
兄三島由紀夫は長刀の鞘を払って後ろに回る。
あとは歌舞伎の忠臣蔵の真似で神妙に勤めた。
そこで三島が小さくヤッと声を掛け、首筋に刃が当たる。
私は前にのめって伏し、死んだ。三島が私の死骸を仰向けにしてくれる。
三島は上半身裸になった。長刀を左腹に突き立てる。それから喉笛を掻き切る。
そしてドッと私の死骸の上に倒れ込んだ。
これが私たち兄弟の最初の切腹ごっこだった。趣向を替えて繰り返された。
おおよそは三島の発案で、ずいぶん愉快な設定があった。満州皇帝の王子と甘粕大尉、
沈没する船の船長と少年水夫、ヤクザと学習院の坊ちゃん・・・。

『憂国』を映画にしたいという話が持ち上がったのは昭和40年の1月であった。
鎌倉の澁澤龍彦氏の家に三島が来て、その帰りに耳打ちをされた。
「黙っててくれよ。とかく正樹はおしゃべりだから」
私は興奮を抑えてもう一度澁澤邸に戻った。
『憂国』は、夫婦としてあるのは方便で、実は美少年と美男の構図である。
『憂国』は、確かに私たち兄弟のための神話だった。
二人で組み換え、作り直し、練り上げてきたイメージが
『憂国』に結実している。それを私が演出できるとは。

二日にわたる撮影に、三島と私は帝国ホテルのツインの部屋を取って二泊した。
疲労は激しく、私はすぐ熟睡したそうである。もっとも朝は二日とも、
リハーサルを兼ねて以前の兄弟に戻り、思い切り遊んだ。

そのとき村松剛が私に、
「ほら、三島さんを一人にしちゃいけない。君がそばについていなくては」と言うので、
「それなら親友のあなたでしょう」と答えると、
「いや、こういう時は同じシンユウでもウカンムリに限る」と私を押した。
<ウカンムリ>とは何のことなのか、私にはわからなかった。
あとで三島に尋ねると、
<ウカンムリ>とは<寝友>ということで、村松の秘語だと教えてくれた。
こういうことを言いながら、
あとで村松が三島の同性愛を否定したのは文芸評論家として自殺行為だろう。

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昭和26年12月から三島は初めて海外旅行で世界一周に旅立つ。
ブラジルのリオデジャネイロには約1ヶ月滞在した。

リオデジャネイロの現地案内人を務めた朝日新聞南米特派員 茂木政への取材

茂木の最大の驚きは、三島のおおっぴらな同性愛であった。
三島は決まったように昼間のホテルに
公園でうろついているような種類の17歳前後の少年を連れて来ることだった。
茂木は三島がブラジル青年を伴ってホテルに入ってくるところに出くわした。
色の浅黒いずんぐりした特徴のない男なので、
ふーむ、こういうのが三島君の好みなのかと奇妙に思った。
翌朝顔を合わせると、まったく悪びれずに切り出した。
「ホテルの前の公園でぼんやり座っていたら目が合った。
この世界は、言葉など通じなくとも情が伝わるんですよ」

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昭和34年9月に切腹に造詣の深い作家中康弘通に手紙を送る。

切腹についてのお話しを伺いたい。・・・
切腹資料なるべくリアルな絵画・写真・できれば実況写真などでございます。
お取り揃えいただければ幸いに存じます。・・・


同年10月には京都の中康弘通を訪問する。
若衆や男や女の切腹コレクションを見て心を奪われる。
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昭和41年11月、『憂国』のモデルとなった青島中尉の割腹現場に駆け付けた
軍医川口良平に<切腹後死に至る詳細・臨床的経過および苦情の詳細など>
を手紙や電話で質問攻めにする。
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<私のなりたいもの>という雑誌の企画で白バイ警官に扮する三島
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by vMUGIv | 2011-03-16 00:00 | 昭和戦後

三島由紀夫 その15

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毎日新聞記者 徳岡孝夫

三島さんが唐突に言った。
「僕はXX子さん〔原文ママ〕と見合いをしたことがあるんです」
とっさに返す言葉が無かった。
三島さんが口にした女性の名は、極めてやんごとなきあたりに嫁がれた方のそれだった。
「と言ってもね、正式な見合いではなかった。まとまらなくてもどちらにも傷がつかないよう、
歌舞伎座で双方とも家族同伴で芝居を観て食堂で一緒に食事をした。それだけでした」
私は思いがけない話に呆気にとられるまま、
「それで、どちらが断ったんですか」とは聞かなかったのだろう。今かえりみて、
三島さんはもう少し詳しく見合いの間の模様を語ったような気もするが忘れた。

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元楯の会メンバー 村上健夫

川戸さんがニコニコ笑いながら、三島さんにとんでもないことを言い掛けました。
「『春の雪』を描いたのは妃殿下にフラれた腹いせって説もありますよ」
三島はこの質問に下を向きます。口をゆがめて黙ります。
「先生、見合いしたんですよね」
「正式のものではない。歌舞伎座で偶然隣り合わせになる形だ」
「先生、断ったの?断られたの?」
「君たちも知っているように、あそこのお母さんはああいう人だから」
三島はいつもの元気はどこへやら、
がっくりと肩を落とし頭を垂れて、本当につらそうです。
「あそこのお母さん」が「ああいう人」なことなどメンバーは一人も知るはずがないのに、
「君たちも知っているように」とはおかしな枕詞です。
「殿下や妃殿下に会うことあるんでしょう?」
「子供のことで学校に行った時に、
このままではいけないと思って声をかけようとして近づいても
『あっ、また』とか言って向こうに行ってしまわれる。逃げるのが上手だよ」
と、半分感心するように、今半分は嘆くように語尾を下げて言います。

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演出家・女優 長岡輝子

三島家の近所に住む長岡は、
事件からしばらくして手作りの惣菜を持って三島の母親倭文重を訪問した。

長岡「でもね、由紀夫さんは自分のなさりたいことは全部成し遂げて、
道長じゃないけどそれこそ望月の本望がかなった方じゃありません?」
母親「今度初めてやっとあの子が本当にやりたかったことができたのですから、
その意味では男子の本懐を遂げたことになります。
でも、あの子には二つだけ叶わなかったことがあります。
一つは、ノーベル賞をもらえなかったことです」
長岡「ノーベル賞は俺が取るぞって、意気込んでらしたからねえ」
母親「それが川端先生に決まった時、
弟の千之に向かって大声でくやしい!と叫んでいました。
それともう一つは、結婚問題です。本命の人と結婚できなかったんです。
お見合いをして不成立の縁談で、唯一心残りの方がありました」
長岡「それは、どなた?」
母親「正田美智子さんです。」

母親「のちに皇太子妃になられて、
時とともに公威の意中の人として消えがたくなっていったようです。
もし美智子さんと出会っていなければ、
『豊饒の海』は書かなかったでしょうし、自決することもなかったでしょう」
長岡「でも、どのみち畳の上では死ねなかった方よ。
どこかに死に場所を探されたでしょうけど・・・」

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親友・仏文学者 松村剛

三島は御成婚前の美智子妃をほんのわずかながら知ってもいた。
昭和32年に美智子妃が聖心女子大学を卒業された時には、
彼は倭文重さんと一緒にその卒業式の参観に行っている。

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親友・仏文学者 松村剛

『春の雪』の新潮への連載は昭和40年の8月(9月号)から始まった。
連載の終わりに近い頃、「あれは私小説なんだよ」
何かのおりに、ぽつりと彼は言っていた。

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by vMUGIv | 2011-03-15 00:00 | 昭和戦後

三島由紀夫 その14

◆昭和42年 1967 42歳

◆01月 『論争ジャーナル』
『英霊の声』を書いてから、俺には磯部一等主計の霊が乗り移ったみたいな気がするんだ。
書斎から刀を持ち出して抜き
刀というのは鑑賞するものではない、生きているものだ。
この生きた刀によって60年安保における知識人の欺瞞をえぐらなければならない。


昭和43年 1968 43歳


◆『論争ジャーナル』事務所で三島含む11人が血判状を作る。
楯の会結成。
一橋大学・早稲田大学・茨城大学でティーチイン。
都内各所で学生運動の衝突現場を見学。
自分ではなく川端康成がノーベル賞を獲り、落胆。


◆02月26日(2.26)
論争ジャーナル事務所で血判状を作る。
<・・・剣を持って起つことを大和魂をもって誓う・・・>
本名平岡公威で血書・血判
血杯


◆05月 
山本舜勝による講義と演習 
約1週間変装したり尾行したり張り込んだりの街頭訓練


◆10月05日
楯の会結成の記者会見。
制服を着た40人とともに


◆10月21日 
国際反戦デーのデモを新宿で取材。


昭和44年 1969 44歳


◆05月12日 
東大にてティーチイン。


◆06月 
映画『人斬り』に出演。切腹シーンあり。


◆08月 
楯の会分裂騒ぎ


◆10月 
川端康成に楯の会1周年パレードの参加を断られる。


◆10月21日 
国際反戦デーのデモを新宿で取材。昨年と比べて失望。


◆10月31日 
楯の会幹部 自宅 三島は実行困難と答える。


◆11月03日 
結成1周年パレード。


◆12月08日~11日 
北朝鮮武装ゲリラと124部隊の調査で韓国に行く。


昭和45年 1970 45歳


◆01月14日 
自宅にて最後の誕生日パーティーを開く。


◆03月 
三島と森田との間で決起計画が進行。


◆05月15日 
森田・小賀・小川を自宅に呼び、
楯の会が自衛隊とともに国会を占拠する計画を打ち明ける。 


◆06月13日 
ホテルオークラ客室で計画の打ち合せ。
「自衛隊は期待できないから、自分たちだけで計画を実行する」と三島が言う。
市ヶ谷駐屯地で、東部方面総監を人質にし、自衛隊員を集合させて三島の主張を訴え、
賛同する者を募って共に国会を占拠するという計画となる。


◆06月 
クラウンレコード 楯の会の歌・英霊の声


◆06月21日 
山の上ホテル客室で計画の打ち合せ。
人質を東部方面総監から第32普通科連隊長に変更。


◆06月30日 
『仮面の告白』『愛の渇き』の著作権を母親に遺す
という内容の公正証書による遺言書を作成。
もともと今までこの2作品の印税は両親に渡していたからである。


◆07月05日 
山の上ホテル客室で計画の打ち合せ。
決行日を11月の楯の会例会日に決定。


◆07月11日 
当日使う中古の白いコロナを20万円で購入。


◆07月下旬 
ホテルニューオータニのプールで計画の打ち合せ。


◆08月01日~20日 
毎年恒例の下田に家族で避暑。


◆08月28日 
ホテルニューオータニのプールで計画の打ち合せ。
実行メンバーに古賀を追加することになる。


◆09月01日 
計画に古賀が賛同したため、実行メンバーは三島・森田・小賀・小川・古賀の5人となる。


◆09月09日 
古賀と銀座のフレンチレストランで食事。11月25日決行を伝える。


◆09月15日 
両国の猪料理店で計画の打ち合せ。


◆09月25日 
新宿伊勢丹会館のサウナで計画の打ち合せ。


◆10月02日 
銀座の中華料理店で計画の打ち合せ。


◆10月17日 
元メンバー持丸博が保管していた
楯の会結成前に『論争ジャーナル』事務所で作った血判状を持ってこさせ焼却する。


◆10月19日 
制服姿の5人の記念撮影。


◆11月03日 
六本木のサウナ・ミスティで計画の打ち合せ。
「全員自決するつもりだったが、小賀・小川・古賀の3人は生きて人質を護衛せよ」
〔自決するのは三島と森田の2人だけ〕と三島に言われ、
死ぬ覚悟で身辺を整理してきた3人は複雑な思いを抱く。


◆11月12日~11月17日 
三島由紀夫展開催


◆11月13日 
夫妻で長男の学校参観へ。


◆11月14日 
六本木のサウナ・ミスティで計画の打ち合せ。


◆11月15日 
背中に唐獅子牡丹の刺青を彫るため二軒の刺青師に打診するが、
どちらからも決行日までには間に合わないと断られあきらめる。
刺青の件は他メンバーには知らせていなかった。


◆11月19日 
新宿伊勢丹会館のサウナで計画の打ち合せ。


◆11月20日 
写真集『男の死』に使う写真を選ぶ。しかし死後出版中止となった。


◆11月21日 
銀座の中華料理店で打ち合せ。
森田が第32普通科連隊長の予定を確認したところ25日は不在とわかり、
人質を東部方面総監に変更した。
三島はすぐに益田総監に電話をして11月25日11時のアポを取る。
刀を2本にするか1本にするか議論したが、
日本刀は一本にしたほうが美しいとの結論に達する。


◆11月23日 
パレスホテルにて当日の練習、必要品の準備。
白布に墨で檄を書き、七生報国のハチマキを作ったりなどする。


◆11月24日 
パレスホテルにて当日の練習、辞世の句を詠む。
料亭にて5人の最後の宴。
毎日新聞の徳岡記者・NHKの伊達記者に明日11時に取材に来てほしい、
詳細は明日再度連絡すると電話をかける。両名了承する。
新潮社編集者小島千加子に明日10時半原稿を取りに来るように電話をかける。
夜、両親の部屋におやすみの挨拶に行く。


左から 森田必勝 古賀浩靖 小川正洋 小賀正義
手前が三島
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◆11月25日水曜日 事件当日


■朝 
瑤子夫人は二人の子供を学校に送った後、乗馬のレッスンへ。
母親は調停委員として家庭裁判所へ。父親のみ在宅。


■08:00 
三島起床。死に化粧として入念に髭剃りをする。
新品の六尺ふんどしを締め、楯の会の制服を着る。


■10:05 
徳岡記者と伊達記者に11時に市ヶ谷会館に来てほしいと電話をかける。


■10:13 
小川の運転で4人が乗った白のコロナが三島宅に迎えに来る。
『天人五衰』最終回の原稿を小島編集者に渡すよう女中に預ける。
日本刀と道具類が入ったアタッシュケースを持って玄関を出る。
父親が窓から後姿を見る。


■車が発進した後、「あと3時間で死ぬなんて考えられんな。これがヤクザ映画なら
ここで義理と人情の『唐獅子牡丹』といった音楽がかかるんだが、
俺たちは意外に明るいなあ」と三島が唐獅子牡丹を歌い始めたので全員で歌う。


■10:40 
小島編集者が原稿を取りに来る。
女中が三島はもう出かけたと伝えて原稿を渡す。
三島から直接渡されると思っていた小島編集者は違和感を感じる。


■10:45 
徳岡記者と伊達記者が市ヶ谷会館にそれぞれ到着、ロビーで待つ。
もともと当日は10時半から楯の会の定例会だったため、会員88名中33名が参加していた。


■10:58 
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地正門を入る。
門衛にアポイントメントを取ってある旨をを伝えて通過。
本館正面玄関前に到着、沢本三佐が出迎え2階の総監室に案内する。


■11:00 
総監室で待っていた益田総監が執務机の席を立って三島たちを迎える。
三島は「今日は市ヶ谷会館で楯の会の例会がありますので正装で参りました」
と挨拶してから、「この者たちを表彰するのですが、
その前に一目総監にお目にかけたいと考えて連れて参りました」と4人を紹介する。


■11:03 
総監は三島と向き合って座り、4人には別の椅子に座った。
「先生はそのようなもの〔軍刀〕を持ち歩いて警察に咎められませんか」
「この軍刀は関の孫六を軍刀づくりに直したもので登録しております。
登録証を御覧になりますか?」三島は登録証をに示すとともに軍刀を抜いた。
「小賀、ハンカチ」と三島は言った。この言葉を合図に行動に出るはずであったが、
総監がちり紙を取ってきてやろうとして執務机に移動してしまう。
とりあえず三島は小賀から受け取ったハンカチで刀身を拭い、
軍刀を戻ってきた総監に手渡す。
総監は刀をじっくり眺めてから三島に返す。「いい刀ですね。三本杉ですね」
軍刀を受け取った三島は再び刀身をハンカチで拭い、小賀にハンカチを返した。
ハンカチを受け取った小賀は、総監の後ろに回ると腕で総監の首を絞めた。
そしてハンカチで口をふさぎ猿轡をした。
「三島さん、冗談はよしなさい」総監は抵抗しながら言った。
三島は抜き身をかざして総監を睨んでおり、
小川と古賀が総監の両手両足をロープで縛った。
「なぜこのようなことをするのか。私が憎いのか、自衛隊が憎いのか」
総監は抵抗しながら問いかけたが、椅子に縛りつけられる。
その間に森田が総監室の正面・幕僚副長室に続く西側・幕僚室に続く東側の3ヶ所のドアに
バリケードを築いた。
日の丸に七生報国と墨で書いたハチマキを全員が締めた。


■11:05 
市ヶ谷会館で待っていた徳岡記者と伊達記者に楯の会メンバーが三島からの手紙を渡す。
中には、檄文と5人の写真と私信が入っていた。
<・・・同封の激および同志の写真は警察の没収を恐れて差し上げるものですから、
何卒うまく隠匿されたうえ自由に御発表ください。
檄は何卒ノーカットで御発表いただきたく存じます。・・・>
写真は集合写真1枚・各人の写真5枚・そして森田の分だけ夏の制服を着た写真が1枚。
私信から互いにもう一人の記者がいると知った両名がお互いを見つけて合流する。
徳岡記者は三島の手紙を靴下の中に隠し、伊達記者はブーツの中に隠す。


■11:10 
総監室の異常に気づいた沢本三佐が幕僚室の原一佐に報告、
二人で正面ドアを開けようとしたが開かず、「入るな」と中から怒鳴られる。
ドアの下から「要求書」が渡される。要点は以下の通り。

●市ヶ谷駐屯地の全自衛官と市ヶ谷会館にいる楯の会メンバーを
本部玄関前に集合させること。
●三島が檄を散布し、演説するのを認めること。その間妨害を一切行わないこと。
●以上のことが守られるなら総監は無事引き渡す、
守られなければ即座に総監を殺害して自決すること。


■11:12 
防衛庁本庁に連絡、警察に通報することが決まる。
通報を受けた警視庁では公安第1課が臨時本部を設置、
機動隊120人と私服警官150人に衆道命令を出す。


■11:15 
西側ドアから自衛官5人が突入、
「出ろ、出ろ、外へ出ないと総監を殺すぞ」と三島は叫ぶと日本刀で斬りつける。
東側ドアから自衛官7人が突入、
「邪魔するな。出ていかないと総監を殺すぞ」と三島が答えてこれにも斬りかかり、
森田は短刀、小川は特殊警棒、古賀は椅子を投げて乱闘となり、
自衛官7人が負傷したので全員退去する。


■11:20 
牛込警察署長が到着。
高窓から中をのぞき「暴挙はすぐにやめなさい」と警告を繰り返すが、
三島は睨み返すのみ。


■11:25 機動隊一個中隊到着。報道機関がこれを知り動き始める。

廊下側の覗き窓のガラスを叩き割り、吉松幕僚副長が説得を続ける。
「今日は自衛隊に奮起を促すために来た。演説させろ」
などと三島は要求を主張し続ける。


■11:33 吉松幕僚副長が三島らに演説を許すことを伝える。
「君は何者だ。どんな権限があるのか」と三島が尋ねたので、
吉松幕僚副長は自分が現場の最高責任者だと答える。
三島はホッとした表情を見せて
「12時までに集めろ。13時30分まで一切の妨害行動をするな」と言った。
警官が中を覗くと「覗くな」「入ると殺すぞ」などと全員の怒号が飛び、
窓を黒布で覆った。


■11:40 
市ヶ谷駐屯地全自衛官に本館前に集合するようマイクで指示が流される。
徳岡記者と伊達記者が市ヶ谷駐屯地に到着。
100人ほどの自衛官が思い思いに立っていた。
それからすぐ自衛官は800人ほどになった。

新潮社に着いた小島編集者が封筒から原稿を取り出すと、
最後のページに<『豊饒の海』 完 昭和45年11月25日>と記されていた。
担当編集者である小島はもう完結するなどと聞いていなかった。
これでは入稿できない、三島に確認しなくてはならないと焦っていると、
テレビに三島を名乗る男が市ヶ谷の自衛隊に押し入ったというニュースが流れ始めた。


■11:55 
森田と小川が総監室の前のバルコニーに出て
6項目の要求を書いた垂幕を下げ、檄文十数枚を撒いた。


■12:00 三島と森田がバルコニーに登場。三島はマイクを使わずに演説を始める。
森田は一歩退いた位置に立っていた。自衛官の反応は冷ややかでさかんに野次を飛ばす。
報道機関のヘリコプターの音で三島の声は聴き取りにくい。
「隊員を静かにさせろ。静かにさせないと総監を殺す」などと原一佐に要求する。
報道陣が次々と到着、テレビ・ラジオが三島由紀夫が自衛隊に乱入と報道し始めた。

自宅にいた三島の父親は正午にテレビをつけて事件を知る。

いつまでも三島が来ないことを不審に思った市ヶ谷会館の楯の会メンバーは、
ラジオをつけて事件を知る。すでに市ヶ谷会館は警官隊に包囲されていた。
警棒を振り回して警官隊の包囲を突破しようとした西尾・今井・田中の3人が
公務執行妨害で逮捕される。
残りのメンバー全員は天皇陛下万歳を三唱したあと、参考人として警察に連行される。

三島の演説は続く。
「4年間待ったんだ。最後の30分だ」
「諸君の中に一人でも俺と一緒に立つ奴はいないのか」
野次<そのために、我々の仲間を傷つけたのはどういうわけだ>
「抵抗したからだ」 激しく野次が飛ぶ。
「一人もいないんだな。それでも武士かァ!それでも武士かァ!」
「諸君は憲法改正のために立ち上がらないと見極めがついた。
これで俺の自衛隊に対する夢は無くなったんだ。それではここで俺は天皇陛下万歳を叫ぶ」
三島は森田とともに天皇陛下万歳を三唱して、バルコニーから姿を消す。


■12:10 三島と森田は総監室に戻った。部屋に戻るなり三島は服を脱ぎながら
「仕方なかったんだ」「あれでは聞こえなかったな」とつぶやき、
総監に対して「恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです」と言った。
上半身裸になるとバルコニーに向かって正座した三島は、
叫びながら両手で握った鎧通しを左脇腹に刺した。
切腹と介錯の間に自らの血で色紙に<武>と書く予定だったができなかった。
森田が三島の首に刀を振り下ろした。三島の首は半分ほど切れ、身体は前に倒れた。
古賀らが「もう一太刀」と言い、続けて二度森田が斬りつけるも介錯しきれなかった。
総監は「介錯するな」「とどめを刺すな」と叫んだ。
森田から「浩ちゃん頼む」と言われた古賀が森田の刀を取って介錯を果たした。
小賀が三島の握っている鎧通しを取って血を拭い、首と胴を繋ぐ皮を切り離した。

次に森田が制服を脱ぎ三島の横に正座した。森田の介錯は小川がする予定であったが、
小川は正面ドアを押えていて離れられなかった。そこで森田は古賀に介錯を頼んだ。
森田は三島の血のついた鎧通しを腹に刺し、古賀が一太刀で介錯した。

3人は2人の遺体を仰向けにして制服をかけ首を並べて安置した。
戦時中友人の自決を見守ったことのある総監は
「君たち、おまいりしたらどうか」と言った。
3人は合掌しながら泣いた。「もっと思い切り泣け」と言った総監は縄を解かれると、
「自分にも冥福を祈らせてくれ」と言って2人の首に向かって正座し、瞑目合掌した。


■12:20 
3人は総監とともに部屋を出て、日本刀を自衛官に渡し、警官に逮捕された。


■12:23 
警官が総監室に入り、三島の死を確認。


■12:30 
記者会見。報道機関が2人の死を一斉に報道。


■17:15 
2人の遺体が牛込署に運び込まれる。


■夜 
瑤子夫人が楯の会メンバー倉持清に三島の遺書を渡す。
倉持宛の遺書が1通、楯の会全員宛の遺書が1通。


◆11月26日 
慶応大学病院で解剖のち遺体が自宅へ戻る。夜自宅で密葬。
諦聴寺で森田の葬儀。ここで楯の会全員宛の遺書を回し読みする。


ちなみに三島は最期まで知らなかったが、
当日は第32普通科連隊長だけが不在だったのではなく、
約1000名の前衛部隊のうち約900名がともに演習に出ていた。
バルコニー前に集まったのはほとんどが後方支援の自衛官であった。
前衛部隊の自衛官がいたら共に立ち上がったか、
逆に三島が切腹できずに鎮圧されていたか、それは分からない。
しかし、マイクやメガホンを準備していなかったことから、
最初から死ぬことだけが目的だったと思われる。
なお決行日が11月25日となったのは、
単に新潮の原稿締切日が毎月25日だったからである。


昭和46年 1971


◆01月24日 
築地本願寺で葬儀。


◆02月26日 
楯の会解散。


昭和47年 1972


◆04月27日 
18回の公判の結果、古賀・小賀・小川の3人に懲役4年の判決が下りた。


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by vMUGIv | 2011-03-14 00:00 | 昭和戦後

三島由紀夫 その13

◆43歳 自分ではなく川端康成がノーベル賞を獲り、落胆。
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NHK記者 伊達宗克

川端先生のノーベル文学賞受賞が決まった昭和43年10月17日夕方、
私は日本出版クラブで三島さんと待ち合せていた。

三島さんは待たせてあった私の車の中で自宅に戻り、ダークスーツに着替えた上、
今度は瑤子夫人と私の3人で鎌倉の川端邸へお祝いに向かった。
車中での3人の会話はとりとめもないものだったが、
三島さんがふともらした言葉が私の耳に甦る。
「この賞が次に日本人に贈られるのは、少なくとも10年先でしょう」

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::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
作家 瀬戸内寂聴

瀬戸内はテレビ局の取材でポルトガルのリスボンに行く。
そこでポルトガル大使である三島の弟千之と出会う。

大使は毎日のように私を招いて下さった。話はすべて三島さんのことであった。
ちょっと驚いたのは、三島さんが自決の前は川端さんを憎んでいたということであった。
すべてはノーベル賞が原因らしかった。
三島さんの父君の平岡梓氏が、川端さんのことをびっくりするほど悪く書かれているので
なにか三島家と川端さんの間では思いがけない齟齬が生じていたらしいが、
梓氏の文章ではなにか一方的に感情的で
川端さんを悪人呼ばわりしてわけがわからなかった。

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::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
毎日新聞記者 徳岡孝夫

私の親しい編集者が別の話を知っています。
それは三島の父親である平岡梓氏からの直話です。
梓氏によると、川端さんが珍しく午前中に例のコロニアル風の三島邸に来て
昼食をはさんで夕方までいた。
帰ったあと三島さんは同じ敷地内にある両親の隠居所に来てポツリと
「とうとうサインさせられちゃった。僕はいいから、ノーベル賞を川端さんにあげてください
という手紙にサインしちゃった」と言いました。
当時は川端氏はまだ存命中だったので、さすがの梓氏も書けなかった。
だが、「これを書かねば死んでも死にきれない」と言ったそうです。

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三島から川端康成への手紙 昭和44年8月4日 

・・・11月3日のパレードには、ぜひ御臨席賜りたいと存じます。
・・・小生が怖れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です。
小生にもしものことがあったら、・・・それを護って下さるのは川端さんだけだと、
今からひたすら頼りにさせていただいております。・・・

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親友・仏文学者 村松剛

国立劇場の屋上で行われた楯の会一周年記念の式典では、
三島は川端康成に祝辞を述べてもらうつもりでいた。
鎌倉の川端さんの家に行って彼がその依頼を切り出すと、川端さんは言下に
「いやです。ええ、いやです」
にべもない返事なんだよ、と三島はその口調を真似しながら言った。
断られるとは思っていなかったので、打撃は大きかったのである。
川端さんは政治嫌いだからと言って慰めると
「だって、今東光の時には応援に走り回ったじゃないか」
選挙の応援はともかく、
楯の会にまではついて行けないというのが川端康成の立場だったろう。

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三島の唯一の女友達 湯浅あつ子 『鏡子の家』の鏡子のモデル

それと、ノーベル賞のことは大きいですね。
あれは三島由紀夫にとって大きなショックだったと思いますから、
もしかすると一因になっているのではないでしょうかしら。
だって、自分では当然受けるつもりで授賞式用の礼服まで誂えちゃって、
はた目にもおかしいほどウキウキしてたんですから。
それが、恩師として立てていた人に横から取られちゃった形で、
私たちの前ではずいぶんくやしがっていましたし、恨んでもいました。

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川端康成を葬儀委員長とすることに三島の家族は難色を示したが、
葬儀の世話役松村剛のとりなしで川端が務めた。


右から 川端康成 瑤子夫人 父 母
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by vMUGIv | 2011-03-13 00:00 | 昭和戦後

三島由紀夫 その12

◆43歳 楯の会結成。

冬服
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夏服
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西武百貨店社長 堤清二 ペンネーム辻井喬

三島さんから私のところに電話があり、
「今度おもちゃの軍隊を作ることになったんだが、制服はうんと格好良くなくちゃいけない。
僕が調べたところド・ゴール将軍の軍服が一番いい。
あれを作ったデザイナーを調べてくれないか」と依頼されたのです。
調査の結果、そのデザイナーは五十嵐九十九という日本人で、
おまけになんと当時西武デパートに勤めていたということがわかりました。
さっそく電話でそう伝えると三島さんは大変喜んで、
「君のところで作って請求書と一緒に納めてくれ。費用はすべて僕が払う。
だだしできるだけ安くしておけよ」ということになり、
すぐに本人がデザインイメージを描いたものを送ってこられました。
徽章のデザインまで詳細に指示してあり、
文章だけでなく絵も上手いんだなと感心したものです。
言うまでもなく三島さんの指示通りにできるだけ安くして納めました。

三島さんの衝撃的な死を知った私は、
その夜お通夜に参加しようと三島邸に飛んでいきました。
そこへ父上の平岡梓さんが現れて私の姿を見つけると、
「あんなのところであんな制服を作ったから息子は死んじゃったよ」と叱られたのです。
梓さんの反応を見て、三島さんは父親にすら理解されていなかったのであろうと
私は感じましたし、今もそう思います。

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※金額は昭和40年代当時
楯の会の軍服は1着1万円、夏用・冬用を101人分注文した。
ボタン・徽章も楯の会のマークが入ったものを特注している。
軍帽は作ってくれる帽子屋が見つからず、三島本人が下町の職人を探し出して作らせた。
これにも夏用・冬用がある。さらに軍靴・戦闘服・隊旗、自衛隊体験入隊費用、
月1回の定例会の会場費・通信費・・・。楯の会学生長持丸博の記憶によると、
この2年間で三島が楯の会につぎ込んだ金額は1,500万円以上になったという。
三島は貯金が1/10になってしまったと女友達の湯浅あつ子にも愚痴っている。


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親友・仏文学者 村松剛

昭和45年1月22日に僕は日本を発ち、2月08日まで海外にいた。
帰国した翌日に三島から電話がかかり、佐藤栄作首相から楯の会を支援するという
申し出があったと聞いたのはこの時だったように思う。「毎月百万円を寄付すると、
木村俊夫官房副長官を通じて言ってきたんだよ。困っちゃってねえ」
昭和45年の三島にとっては、自民党政府そのものが日本人の魂を忘れて
敗戦後の体制を維持しようとする敵となっていた。当然ながら三島はこの申し出を謝絶した。

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状況を把握できない楯の会に、三島由紀夫の妻瑤子から連絡があり、
三島からの遺書があることがわかる。倉持と堀田が三島邸まで取りに向かう。
倉持宛の遺書と全会員にあてた遺書の2通だった。


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楯の会元メンバー 小野寺彰

先生の遺書は、翌日森田さんの葬儀の時にみんなで回し読みしました。
先生と森田さんたちの行動は、最初で最後の行動だと思いました。
元々楯の会は希望とか展望というものを持つ会ではなく、三島隊長がすべて判断していました。
一回は起つ、一回起ったらもうやらない。その時はもしかして死ぬかもしれない。
みんなそう思っていたのではないかと思います。
ただ、それがどういう行動になるかわからなかっただけです。
ですから、楯の会という名を使った運動はもうできないと思いました。会は解散すべきだと。

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楯の会元メンバー 佐原文東

翌年2月楯の会は解散しました。
みんなで先生の遺書を回し読んで「会としては解散する」と言われ、その通りだと思いました。
あれを境にして全部<個>に帰るべきであると僕は思いました。
つまり、基本的にグループじゃないというのが根底にあるんです。

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楯の会元メンバー 向井敏純

会員の中には「これから楯の会の会員が毎年一人ずつ自決すれば、百年続けられる」
と言った者もいます。私もそれは良い考えだと思いました。
世間を震撼させた三島事件を世の中の人々に忘れられないようにアピールし続けねばと。

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楯の会元メンバー 堀田典郷

堀田は誰よりも会の解散に反対し、「解散反対声明文」も書いた。
「先生に解散と言われて解散するのでは情けないと思った。
ここで解散するのはなく、覚悟を決めて続けようと。
しかし賛同者は少なかった。結局、私も解散に従いました」

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楯の会元メンバー 塙徹二

楯の会の解散に関しては、三島先生がそう言っている以上
それにきちんと従うのがいいんじゃないかという気持ちですよね。
三島先生の命令でもありますし、静かに解散してみんなそれぞれ社会に戻るなり
学校に戻るなりした方が三島先生の遺志に添うんじゃないのかなというのが私の気持ちでした。

基本的にこの事件は、三島先生の個人的な事件だと思っているんですよ。
クーデターをするならもっと違う方法もあったと。
あのやり方では自衛隊も理解できないです。突然ビラ撒かれて、垂幕さげて、演説聞かされて、
立ち上がれ!って言ったって、「それじゃ聞こえない」って野次言うのがせいぜいですよ。
ですから、あれは三島先生の個人的な事件だと考えているんです。
三島先生はずっと死に場所を作らなくっちゃって考えていたんだと思います。
事件後、本を読んでそう思いました。

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by vMUGIv | 2011-03-12 00:00 | 昭和戦後

三島由紀夫 その11

◆41歳 居合道始める。『論争ジャーナル』の学生編集者たちと出会う。
『憂国』のモデル青島中尉の割腹現場に行った軍医川口良平に
手紙・電話などで切腹について質問攻め。
◆42歳 自衛隊体験入隊始める。空手始める。
朗読レコード『天と海 英霊に捧げる七十二章』を作る。
◆43歳 楯の会結成。


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親友・仏文学者 村松剛

若者たちが三島の家に出入りするようになってから、彼はある日こんなことを言った。
「若い者が来たら、こっちはドテラなんか羽織って玄関に出て『おう来たか、まあ上がれ』
そう言ってほしいのだろうなあ、あいつらは。それは俺にはできないんだよ」
唖然とする思いで僕はこの言葉を聞いた。
磊落をてらうこういう泥臭さを、三島は何よりも嫌っていたはずではないか。
剣道の掛け声も生臭くてファナティックで耐えがたいと、少し前までの彼は言っていた。
「あの生臭い声。それから、試合に勝っても負けても腕を顔に当てて
ウーッとかいって泣くだろ。我慢できないな」
『奔馬』を書いていた頃の作者は、こういう嫌悪感をもう口にしなくなっていた。

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今上天皇の御学友・作家 藤島泰輔

昭和42年1月11日、三島氏の前には26歳と25歳の青年が座っていた。
中辻君と万代君である。
「僕は君たちの話を聞いて、破れないと思っていた書斎の壁が破れるような気になってきたぞ」
と三島氏は言った。
「『英霊の声』を書いてから、俺には磯部一等主計の霊が乗り移ったみたいな気がするんだ」
と真顔で打ち明けるのを聞いている。
そして氏は、書斎から日本刀を三振持ち出してきてそれを抜き放ち
「刀というのは鑑賞するものではない。生きているものだ。
この生きた刀によって、60年安保における知識人の欺瞞をえぐらなければならない」と言った。

『論争ジャーナル』の2青年に加えて、若い学生たちが三島家の客となるようになった。
後に楯の会のメンバーとなった青年たちである。
三島氏は青年たちに武人としてのシツケを徹底的に施すことを始めた。
午後6時を約束の刻限とし、6時半に夕食が供せられた。
夕食は青年たちにとって極めて贅沢な内容のものに限られていた。
ビーフステーキ・中国料理なども、フルコースとして青年たちの前に現れた。
いつの場合にも、フランス産の最上級のワインが出された。
夕食が終わると3階の展望の良い部屋に誘い、
キューバ産の葉巻の木箱を開けて青年たちに勧めた。
コニャックとスコッチが食後酒として用意された。

中心メンバーによる三島家訪問は定期的に続いていた。
三島氏はしきりに日本刀を書斎から持ち出して、一同に抜かせ素振りを教えている。
切腹の作法、歴史上の切腹の話なども次々と飛び出した。
時には絨毯に青年を正座させ、峰打ちで介錯の作法を教えた。
それを行うのは三島氏に限っており、必ず首の寸前で止めた。
初めはいい気のしなかった青年たちも次第に慣れて、
背後で刀を振り下ろす風を切る音が聞こえても平気でいられるようになった。

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新潮社編集者 菅原国隆

年齢もほぼ同年、育つ環境もほぼ同格という点において作者と一脈通じ合う気風があり、
作家と編集者の関係を超えて生活上の些事も打明け合う親友の間柄に達していた。
昭和42年7月の段階ですでに
「近頃の三島さんは、何を考えているんだかさっぱりわからないよ」
と嘆息まじりに漏らしていた。

昭和43年
三島は「今度、自衛隊に学生を連れて行くことにした」と述べ、
楯の会結成の細かいいきさつも説明したという。できれば菅原さんの賛同を得るとともに、
相談役として一肌脱いでもらいたい気持ちがあったらしい。菅原さんは反対した。
「三島さん、いったい何を始めるつもりなんですか」いきなりそう切り出した。
「とにかくご自分で作り上げた主人公になりきる習性があるから注意してくださいよ」
『禁色』を書く前の三島が男色酒場に出入りし、
<ユウちゃん>という青年を可愛がっていたのを菅原氏は見ていた。
一時の三島は男色の世界に入り浸った。
『美しい星』を書いていた頃の三島はなかば宇宙人になりかかっていた。

『美しい星』の取材に同行した菅原さんの話によると、
空飛ぶ円盤を見る目的で山で夜明しした時のいでたちが、
肩から毛布みたいなものを巻きつけ、もう一方の方には大きな望遠鏡をつけ、
自分でデザインした実に奇妙な帽子をかぶり、格好まで宇宙人を模して現れたので
危うく吹き出しそうになったと言うのである。
格好だけではない、真実宇宙人になったつもりらしい。

「ご自分で作り上げた主人公になりきる習性がある」
と氏が言ったのは過去のそのような経験による。
この言葉は三島の痛いところに触れたようで、彼は悪戯を見つかった子供のような顔をした。

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親友・仏文学者 村松剛

昭和44年の夏の頃、「中辻を呼んであるから、つきあってくれよ」と三島は囁いた。
中辻和彦は昭和41年の暮れに三島の家を訪問した万代潔の仲間で、
『論争ジャーナル』の編集責任者だった。
行き先は赤坂プリンスホテルの喫茶室だった。席に座るなり、彼は中辻君を面罵した。
「君は雑誌なんかやめて、リュックサックを背負って田舎に帰れ」

ある右翼系の人物から『論争ジャーナル』が財政上の支援を受けていたことが
三島を立腹させた原因だったと、これも後になってから聞いた。
多少誇張癖のあるその人物は楯の会は自分が養っていると吹聴し、
それが三島の耳に伝わったのである。楯の会を外部からの金銭上の援助なしに
独力で運営してきた三島にとって、これは許しがたい背信行為だった。
絶交宣言の立会人として、僕がその場に呼ばれたらしい。

この事件によって『論争ジャーナル』系の7人が楯の会を辞めた。
その中に持丸博という学生がいた。三島が<祖国防衛隊>の結成を
初めて告げた相手が中辻・持丸の2人であって、持丸は後で学生長に任命される。
三島には彼だけは辞めさせる気はなく、辞めもしないだろうと思っていた。
楯の会の仕事に専念してくれれば、生活は自分が保証すると三島は彼に提案した。
それを振り切って持丸は楯の会を去ったのである。この時も三島は電話をかけてきた。
「持丸が辞めるって言うんだよ。楯の会が成り立たなくなる」
悲しみようは尋常ではなく、大切な右腕を失った嘆きというよりも、
我が子に裏切られた父親の悲嘆を思わせた。
三島は森田必勝を次の学生長に任命した。

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持丸博は後任の学生長に自分と同じく実務的な能力がある倉持清を推薦したが、
三島が決めた学生長は森田必勝であった。

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by vMUGIv | 2011-03-11 00:00 | 昭和戦後

三島由紀夫 その10

◆38歳 写真集『薔薇刑』


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写真家 細江英公

「あなたが撮った土方巽の写真があるでしょう。
あんな写真を撮ってほしいと思って頼んでもらったんですよ」
「僕の勝手で撮ればいいのですね」
「僕はあなたの被写体になるから、好きなように撮ってください」
三島氏が僕に求めたものは、よくある作家の肖像写真などというシロモノではなく、
氏自身がダンサーとして僕の写真の被写体になりたかったのだ。
だから僕は当然のことながら、
舞踊家三島由紀夫をモデルとして細江英公作品を作ればいいのである。

父君の梓氏からゴムホースを取り上げ、氏の目前で令息の裸体をぐるぐる巻きにしたり、
土方巽を連れて行き家族団欒の場である庭園を突然裸の劇場にしてしまったり、
氏のお父さんから「あんたがた3人はキチガイだよ。三大馬鹿だね」などと言われたり、
僕の撮影のある日には教育上よくないからと言って
瑤子夫人とお子さん方が自分の家から追い出されてしまった。
「細江さんのせいで実家に帰らせられるなんて」と夫人から言われれば頭を下げるばかり。

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<三島氏に大理石のゾディアックの上にゴムホースを身に巻きつけたまま立ってもらい、
ゴムホースの一端を口にくわえ
右手には大型の木槌を持って頭を打つ格好でポーズしてもらった>

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<庭の片隅にあるスペインから持ってきたという石のベンチに仰向けに寝てもらい、
一輪の薔薇を胸の上に乗せてみた>

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<土方巽の協力も要請した>
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三島の大好きなグイド・レーニの『聖セバスチャン』
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by vMUGIv | 2011-03-10 00:00 | 昭和戦後

三島由紀夫 その9

◆31歳 文学座入団。
◆35歳 映画『からっ風野郎』主演。主題歌レコードも作る。
◆37歳 文学座分裂、三島は残る。
◆38歳 文学座を脱退。
◆40歳 映画『憂国』主演、切腹シーンあり。
◆44歳 映画『人斬り』に出演、切腹シーンあり。


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女優 岸田今日子

三島さんは本当に育ちのいい坊ちゃんという感じですごく折目正しかったですね。
ダンスなんかもちゃんと作法通りのステップで踊るわけね。
あの方は学習院から東大でしょ。きちんとした人たちとつきあってらしたと思うの。
だから私たちみたいにあまりお行儀の良くない学生と遊ぶのは楽しかったみたい。
ご自分が頭が良くて教養があって育ちが良かったでしょ。
だから育ちが悪くて強くて頭なんかないって男の子が理想だったんじゃないかしらね。
そういう子が好きっていうより、もう本当に自分がそうなりたかったんじゃないかと思うのね。

三島さんは文芸部員として文学座にいたんだけど、
あの頃の文学座は三島さんにとってとても楽しい息抜きの場だったと思うわ。
出版関係の方たちっていうのは三島さんに対していつも「先生」だったと思うの。
でも私たちはどもまでも「三島さん」だったし。
三島さんはチヤホヤされるだけじゃつまらなくて、いじめられたがっていたわけね。
ヨイショするチヤホヤじゃなくて、悪口を言っていじめてあげてたわけね。
みんなに笑い者にされるのをちょっと楽しんでたみたいですね。
下手だとかブキッチョだとか言われても全然怒んなくてとっても楽しそうだったわ。

三島さんのお宅で『からっ風野郎』〔三島主演〕の試写会をやった時には
みんな思いっきり悪口を言ってね。
三島さんは「ひでえなぁ」とか言いながらすっごく嬉しそうなの(笑)
だってあんなの誉めたらかわいそうって感じで本当に下手だったし(笑)、
ご自分ではそれは充分わかってるわけね。

結局私は三島さんを裏切る形で文学座を出ちゃったんですね。
それは私自身の中でも大きな傷になってのこってるんですけど。
福田恒存さんが文学座の若い男の人たちと図って劇団雲を作ることになって
私たちを誘ったわけです。
私は三島さんと一緒に行動したいと思ってたんで、福田さんにそう言いました。
そしたら福田さんは、もちろん自分は三島さんを誘って一緒にやりたいと思ってる、
だけどこれは俳優の口からは三島さんに言わないでほしいって言われたんです。
福田さんと三島さんはすごく仲も良かったし、福田さんからちゃんと誘ってくだすった方が
きっといいんだろうなと思って、私は三島さんに何も言わなかったわけですね。
そしたら福田さんは劇団雲ができるってことが新聞に発表になる前の夜
初めて三島さんを誘ったんですね。それまではまったく秘密で動いていたわけ。
私は三島さんにはもっと早く誘いかけてらっしゃると思い込んでいたのに
そうじゃなかったのね。
三島さんはもちろんプライドのある方だから、
そんな風には動けないって言って結局別れちゃったんですよね。
私は撮影で京都にいたんですけど、そういう新聞発表があって
三島さんが文学座に残るって書いてあるのを読んで本当にびっくりしたんですよね。
だけど、これから一緒に芝居を作っていかなければならない人たちが
芥川さん以下みんな劇団雲に行くことになってましたから、
今さら私が入るのをやめますって言うことはできなかった。
それで京都から帰ってすぐ三島さんのところに行って
「こういうことになるとは思わなかった」と言って謝ったんです。
そしたら三島さんは「双頭の鷲っていうのは成り立たないんだよ」っておっしゃったのね。
ご自分と福田さんのことなんだけど。
そして「きっとそのうちまた一緒に仕事をすることもあると思う」って言われて。
私はもう本当に悲しかったんですけど、「ごめんなさい」って言って帰ってきました。
その後『喜びの琴』の上演中止事件とかいろんなことがあって、
三島さんも文学座を出ることになったわけです。

私は三島さんが芝居というものからだんだん離れて行くことになった最初のきっかけは、
やっぱり劇団雲の事件だったと思うんですね。
大勢の人たちがほとんど文学座から出ちゃったわけですから、
三島さんが裏切られたと思っても仕方のないことだったと思うのね。
それにはいろんな理由があったにせよ、三島さんが芝居とか劇団とか俳優たちに対して
失望を感じたことの最初だったんじゃないかと思うんですね。

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俳優 北見治一

福田恒存から羽田の飛行場で「どうだ、僕の軍門に下るか」と言われた三島はNLTの結成を急ぐ。

この言葉に子供のようにカッカとムキにさせられた三島は、そんな福田の鼻をあかすべく
福田がアメリカから帰国する前に劇団としての実績を早急に作っておきたかったのだろう。

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親友・仏文学者 村松剛

三島も〔文学座の〕分裂に関して、事前になにも聞かされていなかった。
福田氏に対するわだかまりが生じたのはやむを得なかったかもしれない。

文学座が『喜びの琴』の上演を拒否し、三島自身が文学座を辞めてからあと、
氏が三島に「どうだ、僕の軍門にくだるか?」 軽い冗談のつもりだったらしい。
だがこの冗談が、三島の心にくすぶっていたわだかまりを一挙に爆発させる。
三島と福田さんの仲違いはそれから2、3年尾を引き、
間に挟まってこちらは時に閉口したものだった。

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32歳 文学座『ブリタニキュス』に出演
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35歳 映画『からっ風野郎』主演
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三島由紀夫作詞・歌の主題歌レコードもございます。
マンボのリズムに乗せて、からっ風野郎!のところは囁くようにどうぞ。
夢も涙も吹き飛ばし 人でなしでも人の子さ からっ風野郎! 明日も知れぬ命
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40歳 映画『憂国』主演、切腹シーンあり
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41歳 日生劇場『アラビアンナイト』に出演、歌う 
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44歳 映画『人斬り』に出演、切腹シーンあり
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by vMUGIv | 2011-03-09 00:00 | 昭和戦後


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