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夏目漱石 その16

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『草枕』のヒロイン那美のモデルと言われた 前田卓子


■父 政治家 前田案山子 『草枕』の「志保田の隠居」のモデル

●下学 『草枕』の「兄さん」のモデル
●清人
●卓子 本人
●槌子 政治運動家の宮崎滔天の妻
●行蔵
●九二四郎


卓子氏は本年69歳、二十有余年来、令弟前田九二四郎氏とともに
目白の奥の雑木林の中の一つ家に静かに老いを養っておられる。

『草枕』の出ました時分、私は二度目の縁家先からも戻ってもう東京へ出ていました。
小天の湯の宿にも度々いらして懇意にしていました五校の生徒さん方で
東京の帝大へ入っていらした人達が、
「おばさん、おばさんのことが小説になったよ」とわざわざ言いつけに来てくれるので、
私も気になるから神楽坂へ行ってその雑誌を一冊買って参りました。
その時分はいまだモデルなぞということの少ない頃ですから、
一時はあまり気持ち良くはなかったのでございます。

初めて先生にお目にかかったのは、たしか明治30年の暮れも大晦日近くでございました。
山川信次郎さんはその前にも一度いらしたことがありまして、
二度目にいらしたとき先生をお連れになったように覚えています。
山川さんとお二人でいらした時、床の間に若冲の書が掛けてあったのも
青磁の鉢に羊羹を入れて差し上げたのも、宅の老人が骨董が好きで
それをお見せするために度々お茶にお呼びしたのも本当でございます。
そんな時よくお話になるのは山川さんで、先生は滅多に口をおききになりませんでした。
あの湯殿の場、私が夜遅く女湯へ入ろうといたしますとぬるまっておりましたので、
誰もいないと思って男湯の方へ入って行きました。
すると奥の方でお二人がクスクス笑っていらっしゃる声がするじゃありませんか。
私はもうビックリしてそのまま飛び出してしまいました。それだけは事実でございます。
ですが、白隠和尚の遠良天釜が
私の普段寝起きする部屋に置いてあったというのは事実ではありません。
私は出戻りの身でございますので絹物は一切身に着けないと決心して、
たいてい盲縞のむきみやばかり着ておりました。
それが小説の中では振袖を着て御覧に入れたことになっていますから、
作家の頭の中の連想というものは不思議なものだと思いました。

要するに『草枕』の女主人公は、私の気持ちと申してよろしいか気性と申してよろしいか、
そんなものを取ってお書きになったものとは存じます。
こんな女でごさいまずから、『草枕』の中で私がキ印だとされるのは仕方もありませんが、
母までが気違い扱いされているのはどうも残念でなりません。
私の口から申してはなんですが、
母は昔気質のまことに優しい典型的な日本の女でございまして、
これだけはどこまでも弁護してやりとうございます。
それから私の家が代々狂人筋だなぞということも、まったく事実無根でございます。
弟が高等学校へ入って早稲田のお宅へ出入りさせていただくようになってから、
私も二、三度お伺いしましたが、しみじみ私の身の上をお話し申し上げますと、
「そういう方であったのか、それではひとつ『草枕』も書き直さなければならぬかな」
と仰ってでございました。本当に私という女が解っていただけたのだろうと存じます。

それから先生がお亡くなりになってからのことでございますが、
ある婦人雑誌に私が先生の初恋の女でもあったかのように書いたことがあります。
しかもそれが、私の口から出たように書かれているのだからたまりません。
嘘の予告が出た時から雑誌社に注意を与えて置きましたが、
いろいろ詫びてきながらとうとう出してしまいました。
私もカンカンに怒って、弟の友人の弁護士さんにお願いしてとうとう訴訟を起こしました。
先生も御迷惑だと存じますし、私一人なら構いませんが、
これから私のように迷惑を蒙る方が何人あるかしれないと存じまして、
女だてらにそんなこともする気になったのでございます。
法廷では先方の弁護士はただもう謝る一方でしたが、
判事さんの仲裁で雑誌には取消の記事を載せるが、
新聞に広告することだけは勘弁するということで妥協しました。

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by vMUGIv | 2011-02-16 00:00 | 明治

夏目漱石 その15

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鏡子夫人の弟 中根倫

洋行から帰って後はガラリと様子が変わって、
近頃はどうも仕事をしたくねえ、10万円ほしい、学校へも行きたくねえ
というようなことを始終口癖のように言い出しましたよ。
どうも世の中に気に入らないことばかりがあるようで、
社会は盲目だとか、官吏や会社員には不当な報酬があるが
学者はたとえ社会に裨益してもその割合に報酬がないとか言っていました。
その自分からだんだん神経衰弱がひどくなっていったんですね。
耳には絶えず自分の悪口が聞こえていたらしい。
縁側に立って前の下宿屋の二階にいる書生と口論したり、
姉の留守に女中を二人とも追い出してしまったりしたのもその時分のことでしたよ。
どうしても姉に出て行けと言って聞かないから、仕方なしに姉は
上の二女を連れ栄子を腹に抱えたまま実家に戻ってきたようなこともありました。
英国じゃ立派な精神病をもって目されていたそうですが、
かかりつけの医者の尼子さんなぞも全然狂人だと思っていました。
御本人から言えば俺を狂人だなぞと言うのはけしからんと本当に思っていたでしょうし、
また他人さまもきっとそう思われたことでしょうが、
しかし内々の行動は実際ひどいものがあった。
夜は全然眠らないし、ちょっとでも気に障ることがあればいきなりランプを叩きつける。
姉もそれには苦労をしましたよ。呉博士の診断では、
これから文学的にはいよいよ犀利になって著述はますます良くなるだろうが、
この状態は漸次進行して次第に悪化していくということでした。
催眠剤を無理に飲ませたと言う人もあるようですが、
なにしろ夜間全然眠らないのだからどうにも仕様がない。
身びいきで言うわけではないが、
はたから見ていて姉の仕打ちがひどいとは決して言われない。
それほど外部に表れた義兄の行動は並外れていましたよ。
どういうものか夜分床へ就く時には必ず枕元へ書物を持っていく癖がありましてね。
それが決して寝ていて読むというわけではない。
そのままグウグウ眠ってしまうこともありました。
そんな時は家中の者がホッとして楽をしたものです。
それから明治42年に修善寺で吐血をして再び胃腸病院へ戻って療養を続けていた時、
僕が病室まで行くとあれは体内の血がひどく出たせいでしょうかな、
その態度が洋行前とすっかり同じようで、元々通りの親しみのある人になっていました。
僕も何とも言えない気持ちで帰ってきましたが、
あれで心底は本当に優しい人であったんですね。

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鏡子夫人の弟 中根壮任

ロンドンから帰国して千駄木に住んでいた頃の漱石は、
精神的に最も不安定な時期であった。
鏡子の弟妹たちにまで手をあげることはなかったが、
鏡子や幼い二人の娘たちにはしばしば狂気の沙汰を演じた。
漱石がまだ赤ちゃんであった恒子を物のように引っつかんで庭に放り投げ、
鏡子が白足袋のまま庭に飛び降りて恒子を拾い上げて抱きしめるのを壮任は見たという。
筆子も漱石に理由もなくぶたれたりしたが、自分の留守中に生まれた恒子には
今一つ愛情を注ぐことができず筆子よりひどく当たったらしい。

そんなことを壮任は事細かに見て知っているらしく、
「俺、漱石なんて、でえ嫌え。ありゃ狂人だよ。姉貴は本当に気の毒だった。
決して悪妻なんかではなかった」

「姉貴って木曜会の時でも平然として長襦袢のまま寝床に寝そべって
『キング』なんていう大衆雑誌を読みふけっていたんだから、
あんなところを弟子に見られた日にゃ大変だよ。たちまち悪妻って言われちまうよ。
右往左往立ち働いているのは女中たちだけなんだからさ。
でも一日中客が来たりして座る間もないんだから、
ああでもしなければやっていけないだろうけどさ」

「安倍能成と小宮豊隆と岩波茂雄は小説家を諦めるようにと漱石から言われていた。
特に岩波は嫌な奴だったよ。漱石を利用することしか考えてない、とんでもない野郎だった」

落ち目になった鏡子が電話をしたり葉書を出して呼びつけては、
「壮さん、これ買っとくれ」と言って漱石の遺品などを買ってもらっていた。
壮任はいとも気安く高値で買ってくれた。しかし壮任は大の漱石嫌い。
姉貴が気の毒で言われるままに買うもののまったく愛着はわかない。
そこで行きつけのナイトクラブやキャバレーの席でホステスにタダでバラ撒いた。
漱石の物が高いのは女給さんたちも知っていて、
みんな群がって飛びつくので面白かったと壮任は言う。

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by vMUGIv | 2011-02-15 00:00 | 明治

夏目漱石 その14

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漱石の息子 夏目伸六

何一つ意識らしい意識さえ持ち合わさなかった幼い頃から、私はずっと父を恐れてきた。
父がニコニコ機嫌良く笑っていた顔も、私たち子供たちと一緒に大口を開いて笑った顔も、
私はいまだはっきりと覚えている。
しかしこうした父らしい姿を見ながらも、
私はその裏に隠れたかすかな不安をどうすることもできなかった。
当時の私にとっては、いつ怒鳴られるか、それが父に対する最大の恐怖だった。
私は心の底ではどうしてもこの父に真の親しみを抱き得なかった。
私はこの意味において父をずっと偽り通してきた。
そして父はそれを少しも知らずに死んでしまったということを考えると、
私は知らず知らず父に対して、病気を離れた真実の父に対して、
本当に申し訳なかったという侘しい後悔の念を感じるのである。

幼稚園から帰ってきたばかりの私と兄に、母が「久世山へでも行って遊んでおいで」
と女中をつけて遊びに出した時のことを覚えている。
暗い部屋の仏壇の前で、母は何かじっと拝んでいた。
家の中はシーンと静まり返って、コソッという物音一つ聞こえなかった。
私は襖を一つ隔てた隣の書斎に、父がじっと虎のようにうずくまっているのを意識した。
仏壇の前で祈っていた母は泣いているようだった。
その横顔に流れる涙を見ながら、小さい私も一緒に悲しくなった。
おそらくこの時の母の気持ちは、
暫時なりとも小さい子供を陰険な父の前にさらさせまいと思う親心から、
わざわざ女中までつけていち早く私たちを外へ遊びに出したものだろう。

正常な時の父は、みだりに訳もなく怒るような人間では決してなかった。
ただ私が機嫌の良い時の父と頭の悪い時の父の区別を
はっきり識別することが出来なかったまでである。だいたいは推察し得ても、
この上機嫌の陰からいつ何時恐ろしい父の姿が飛び出してくるか、
私はそうした不安をどうしても心の底から払いのけることが出来なかった。

「その怖いったらなかったわね」 私は一番上の姉と二番目の姉とがよく笑いながら、
父についてこんな思い出話をしていたのを知っている。
「だから私たち、お父様とどこかへ一緒に行くのとっても嫌だったわ」
おそらくこの姉たちは、私たちより数段の恐ろしさを身にしみて感じていたに違いない。

私がまだ小学校の1、2年の頃、道草を食い帰ってくる途中で、
よく父と兄が向こうからニコニコ笑いながらやって来るにに出くわした。
「あ、お父様、伸六ちゃんが来たよ、伸六ちゃんが」
兄が一生懸命父の手を引っ張って私の方を指差していた光景さえ、
ありありと目に見るように思い出す。
「どこへ行くの」
「これからね、お父様に洋食食べに連れてってもらうの」
「それなら、僕も一緒に連れてって」
そうして父は私たち2人を引き連れて当時は相当に有名だったのだろうか、
小さい西洋料理屋へ連れて行ってくれた。
御馳走を食べるのはうれしかったけれど、あれほどイギリス嫌いの父が
洋食の食事作法に関する限りまことに英国式でむやみと口やかましかったから、
それが怖くて美味さの方はおおかた減殺された。

私がまだ小学校へ上がらない小さい時分の事だったろう。
私は父と兄と3人で散歩に出たことを覚えている。
私たちはいつの間にかいろいろと見世物小屋の立ち並んだ神社の境内に入っていた。
当時としては珍しい軍艦の射的場があり、兄がしきりと撃ちたい撃ちたいとせがんでいた。
父は私たちに引っ張られて、むっつりと小屋の中へ入って来た。
「おい」 突然父の鋭い声が頭の上に響いた。
「純一、撃つなら早く撃たないか」 兄はその声に怖気づいたのか尻込みしながら、
「恥ずかしいから嫌だあ」と父の背後にへばりつくように隠れてしまった。
父の顔は上気を帯びて妙にてらてらと赤かった。
「それじゃ伸六、お前撃て」 そう言われた時私も咄嗟に気後れがして
「恥ずかしい、僕も」と私は思わず兄と同様父の外套の下に隠れようとした。
「馬鹿ッ」 その瞬間私は突然恐ろしい父の怒号を耳にした。
はっとした時には、すでに父の一撃を割れるように頭に食らって湿った地面に倒れていた。
父はその私を下駄履きのままで、踏む、蹴る、頭と言わず足と言わず、
手に持ったステッキを滅茶苦茶に振り回して私の全身へ打ちおろす。
兄は驚愕のあまりどうしたらよいのかわからないといったようにただこの有様を眺めていた。
その場に居合わせた他の人たちも、皆あっけに取られて茫然とこの光景を見つめていた。

父の真実性に対する渇き切った執着と周囲を取り巻く偽善者への憤懣は、
病気の進むにつれて必ず加速度的に異様な方向へ進展していくのが常だった。
正常における真実性の渇仰も病気にともなう極度の警戒心に歪められて、
いつか騙されはしまいかという不安に満ちた疑惑に変り、
その疑惑はたちまち自分を騙そうとしているのに違いないという奇怪な断定までに到達する。
ロンドンの下宿のおかみさんにも向けられたらしい父のキチガイじみた憎悪と焦燥は、
帰朝後、自分の妻であるという封建的な隔てのない関係から、
よりいっそう露骨に母の一身にぶちまけられたろうし、
下宿のおかみさんが抱いたと同様な母の父の精神状態に対する疑惧の念は、
ますます父の異常な神経をそそけ立たせたに違いない。
父が鈴木三重吉さんに宛てた手紙の中で
『癇癪が起こると、細君と下女の頭を正宗の名刀でスパリと斬ってやりたい。
妻はなんだか人間のような心持ちがしない』という一節がある。
私はそこに潜んでいる異様な気味悪さを感じるのである。
父は自分を冷酷にさせるのは、すべて妻がそうさせるのだと考えた。
子供の寄りつかぬ自分自身を省みても、
妻が故意に子供たちを父に近寄らせぬように仕向けているのだと断じて責めるのである。
自分の不健康さえ、寄ってたかって他人が自分をこんなに弱くしていまったのだと
相手のない腹立ちに苦しんだ。
おそらく当時の父は真面目にそう考えていたのに違いない。

父は母が自分に復習せんがために子供を愛撫し、
自分の仕事を邪魔せんがためにわざわざ子供を名に喚かすのだと解釈した。
自分は絶えず迫害されているという観念は、
すでに怪しげな被害妄想の域に一歩踏み込んでいるとしか思えぬのである。

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by vMUGIv | 2011-02-14 00:00 | 明治

夏目漱石 その13

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漱石の息子 夏目純一

今カーッとして裸足で学生を追いかけて行った父が、
帰ってくるとその自分を他人のように面白おかしく書いているなど、
その神経はどう考えても私にはわからない。弟子たちに囲まれ、
にやにやしながら黙って話を聞いている温厚な姿からはとても想像できないことだ。

父は私が生まれた時、初めての男の子だというので大変喜んだそうだが、
それにしては可愛がられたという記憶は全然ない。
よく西洋料理を食べに連れて行ってもらったことがあるのだが、
食事中の行儀のことも大変うるさかった。すべて正しいことなのだが、
当時は美味い物を食わせてもらっても食った気なんか全然しなかった。

とにかくいつ爆発するかわからなかった。
現代の医学でいう高度のノイローゼなのだが、
当時そんな病名は、親父はもちろん誰にもわからなかったので、
周囲の者はただ戦々恐々としていた。

親父の弟子たちはこんな親父のキチガイじみたことは一切認めようとはせず、
悪いことはすべて母のせいにして悪妻にしてしまった。
しかし後年母の口ぶりから察するに、母は心の底から親父を尊敬し信頼していたようだ。
母の口から親父に対して愚痴らしい言葉を聞いたことは絶えて一度もなかった。


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漱石の長男純一の息子 夏目房之介

鏡子夫人は漱石と違って長命だった。
亡くなったのは僕が中学生になってからだから、祖母の人となりはよく覚えている。
僕やイトコたちは「おばあちゃま」と呼んで親しんだ。
今はない東京の広い地所の家に何匹いるんだかわからない猫とともに住み、
どしんとした存在感の人だった。
猫については格別好きというわけでなく、猫の小説で食べられるようになったので
粗末にしないという縁起かつぎのようなものだったらしい。
ニコニコして物にあまり動じない人のように覚えている。
後年祖母が熊本時代にノイローゼで入水自殺をしかけたと知って意外の感に打たれた。
妊娠による心理バランスの崩れだったらしいが、
僕の記憶の限りでは不安定なところのない人に見えた。

祖母には菩薩のような懐の深い愛情があったかもしれない。
少なくとも子供たちはあの母だから漱石のような夫でも家がもったのだと語り、
終生彼女の母性を尊敬していたように思う。
祖母は感情の器の大きい女性だったのだと思う。
漱石のように感情の底を掘り崩してしまうようなタイプには、
このくらい感情の深く大きい女性が必要だったのかもしれない。

父から聞いた話で後年とてもいい話だなと思って覚えているのは、
鏡子夫人の夫への愛情についてである。
祖母は時々とんちんかんなことを言っては子供たちに笑われたらしい。
そんな時、彼女がこう言ったというのだ。
「お前たちはそうして馬鹿にするけど、お父様は馬鹿にしなかったよ。
ちゃんと優しく教えて下さったよ」


漱石の長男だった父夏目純一は、18歳から32歳までヨーロッパに遊学していた。
大正15年、18歳でベルリンに留学。
以降ウィーンやブダペストに遊学し、ヴァイオリンを習った。
ベルリンでジプシー音楽に魅せられ、好きな演奏者を追っていたら
いつの間にかプタペストまで行っていたという。
まことに羨ましい話である。最終学歴はブタペスト音楽院というところであった。
昭和14年、32歳の時に帰国。第二次欧州大戦が始まり、やむを得ず帰ったのだという。
「戦争がなければ日本へは帰らなかった」とよく言っていた。

漱石のイギリス嫌いとは対照的に、父にはヨーロッパの水が合ったようで、
父にとってヨーロッパは青春の最も輝かしい時期を過ごした場所で、
生涯そのことを楽しそうに語った。
確かにヨーロッパでの体験を話す時の父はイキイキと嬉しそうで、
人生で一番楽しい時期だったろうと聞いていても思えた。
向こうの知り合いの貴族の城に泊まって、テニスに乗馬、狩りと、
日本からお金を送ってもらって遊んでいた。そりゃ楽しかろう。
漱石の印税収入は長男の遊興にかなり消えたものと思われる。

ヨーロッパでさんざんテニスをしていた話を聞いていたので、
なぜ日本でやらないのか聞いてみたことがある。
「だってお前、日本じゃボールを自分で拾わなきゃいけないだろ」
向こうでは貴族の城などでやるので、
領地の子供がボールボーイをやってくれるのだそうだ。
その時も、あきれて開いた口がふさがらなかった。
かように父の物事の基準はヨーロッパに、それも社会的にかなり上の層にあった。

真面目で几帳面で粋な遊びなどとはあまり縁のない漱石に対し、
金を生み出すこと、働くことは苦手だが、使うことは得意な人だった。
よく言えばディレッタント、漱石の憧れた高等遊民だった。
が、大人になり切っていない所があり、漱石の長男、漱石家の家長として
甘やかされた結果、スポイルされたのだろうと思わせた。
わがまま気ままで周囲は大変だった。

元来まともに働いてこの世を渡るようにはできていない人なんだとしみじみ思った。
私はずっと父がヨーロッパに行ったのは、
漱石の長男というプレッシャーから逃れようとしたのだろうと思い込んでいた。
いつだったかそんな話をチラリとしたら、
「そういうプレッシャーみたいなのを感じたことはなかったなあ」
まことにのんびりした口調だったので、拍子抜けした。
父が漱石のことを話す時「とにかく怖かった」とは言っても、
プレッシャーを感じたようなことは言っていないのだ。
「親父は機嫌の良い時は、何しても怒らなかったなあ」とも言っていた。
父や叔母たちから聞く漱石像はだいたいかくのごとしでロクなものはない。
ただ漱石は弟子たちにはとても評判が良かった。
父などには鏡子夫人が弟子たちから悪者にされているという不満があったようだ。
子供たちにすれば、
これであの母親がいなければ逃げ場がないというほどの気持ちがあったろう。

戦雲急を告げるヨーロッパからやむなく帰国した父は、
東京フィルハーモニー楽団結成に参加、初代のコンサートマスターを務めた。
日本での戦争が激しくなっても音楽家の仕事というのは十分あったようだ。
楽団の練習場でフリーのハープ奏者だった母を見初め、戦時中に結婚した。
かくて戦後、姉と僕が生まれる。

音楽のみならず、絵画・服装・スポーツ・家具など、
趣味性の発揮される分野では抜群のセンスを持っていた。
父の最も基本的な価値基準は、趣味と快楽、芸術と道楽だった。
良い悪い、好き嫌いの判断において、ほとんど迷いがない。
「俺は好きでヴァイオリンを弾いてるんだから、本当は仕事でなんかやりたくないんだ」
何のてらいもなくそう話すのを聞いた時にはさすがに呆れた。
批判の口は達者なくせに、
世間に揉まれていないせいか実際的な処理能力がまるで無かった。
多分に母の苦労と彼女の父批判が僕に伝わってのことと思う。
まして母は父と逆に働き者で、金銭感覚も実務能力もある人だった。
女にしておくのがもったいないと周囲から言われ、
本人も男だったらと思っていたようなタイプだったので
相対的に余計父の像は零落してしまったのだろう。

私は圧倒的に父親に反抗しようとしたタイプで、
母親にはさほどの反抗心を持った覚えがない。
母はフリーのハープ奏者で、かなりハードに仕事をしていた。
父があまり働かなかったためであるらしい。
楽団の地方巡業で家にいないこともあった。
幼い私からすれば、ハープの練習で自室にこもってしまったり、
ハープという華麗だがひどく重くて体力のいる楽器を人前で弾く母親というのは、
家にいてヌカミソ臭くて愚痴やら小言ばかり言っている母親とは
まるで違う存在であったと思われる。むしろカッコ良かったのかもしれない。
着る物はいつも洋装で、戦前にはダンスホールに親に内緒で通ったというから
モダンガールというか、そういう颯爽たる感じであった。
性格もサッパリしていて、意志が強くて我慢強く、行動的であった。
父と一緒の時に母が駅の階段を転げ落ちたことがあった。
父が慌てて下の踊り場に駆けつけた時には、もうとっくに立ち上がって
遠くの方へサッサと歩き去っていたというのは父の談である。


三田平凡寺は奇人の蒐集家として有名だった。
本人は耳が聴こえず話はすべて筆談。気難しく偏屈、人の好き嫌いも激しかった。
戦時中の話。三田平凡寺の末娘嘉米子はハープ奏者として活躍してた。
彼女はヨーロッパ遊学から帰った漱石の長男ヴァイオリニスト夏目純一と出会い結婚する。
純一が娘をもらいに三田家に出向き平凡寺と相対した時のこと。
平凡寺は趣味の人である。
そこらに置いてあった屏風を指して「純一君、この歌には裏がある」と言ったらしい。
純一、何を思ったか、そろそろと這い出しておもむろに屏風の裏を覗いたという。
平凡寺は「うーん、純一君は素直だ」と感心してしまった。
かくて純一と嘉米子はめでたく敗戦直前に華燭の典を挙げ、戦後男女2児をもうけた。
純一もまた人の好き嫌い激しく、相当の偏屈であることは息子の私が保証する。
戦後、海外旅行が可能になっても父はヨーロッパに行こうとしなかった。
「何もかも変わっちゃったからね。今のヨーロッパは見たくないんだ」


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漱石の孫/漱石の長女筆子の娘 半藤末利子

叔父純一は度外れたワガママな人であった。
漱石は男の子たちには相当に厳しく接した。
漱石は純一が10歳の時に亡くなったのだが、
その反動からか鏡子夫人は純一を甘やかし放題に甘やかした。
おかげで純一は心根は優しいのに、このうえなく自己中心的に育った。
自分のオシャレや趣味には湯水のごとく大金を費やすのに、
家族を養うのは妻の役目と勘違いしているフシしがうかがわれた。
あの叔父と暮らすことのできる女性は叔母しかいなかったと、
叔母の苦労を思いやって通夜の席上私たちイトコは叔母を絶賛しあった。
純一は戦前15年間もベルリンに居住してバイオリンを学んだ。
帰国後は交響楽団に入り、そこのハーピストであった叔母に一目惚れして二人は結ばれた。
当時はハープそのものが珍しい楽器だったのでハーピストは希少価値で、
叔母のギャラはコンサートマスターをしていた叔父より高かった。
叔母はスカッとした性格で、頭の切り替えも早い。
時代が経つにつれて若手のハーピストたちが台頭してくる。
いつもでも自分ごとき老体がはびこっていてはいけないとサッと引退して、
自宅付近に喫茶店を開いた。
純一が亡くなった後も、純一が遺した漱石に関する遺産を
一つ残らず神奈川近代文学館に寄贈した。金に換算したら莫大な額になろう。
叔母は私のような俗人と違って、
一つぐらいは取っておこうなどとケチ臭い考えを抱かない人であった。
一つとして私物化せず公共に供した叔母の思い切りの良さには脱帽する。


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ヨーロッパにて
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純一&嘉米子夫妻
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左側伸六夫妻 右側純一夫妻
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by vMUGIv | 2011-02-13 00:00 | 明治

夏目漱石 その12

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漱石の孫/漱石の長女筆子の娘 松岡陽子マックレイン

父松岡譲は、新潟県長岡市近郊の浄土真宗の寺に生まれた。
長男で本来なら寺を継ぐ立場だったが、漱石の長女と結婚し
とうとうお寺を継がず東京に残ってしまった。昔の寺はお寺様と呼ばれ、
寺を継ぐ長男が大学へ行く時の月謝は村の檀家が出したそうだ。
その長男が村に戻らないのだから、村人たちが父の行動を喜ばなかったことは想像できる。
また父が母と結婚した当初は、他の弟子たちの嫉妬のせいか
あまり平和な結婚の出だしではなかったようだ。
ある弟子からもう少し待っていれば自分が結婚してやったのにと言われたとかで、
母は後年になっても憤慨していた。
また他の弟子からは芥川龍之介にならやってもいいと自分の娘でもないのに
勝手なことを言われたと、これまた憤慨していた。
芥川は母にまったく興味がなかったようだ。
漱石の娘4人のうち、三女の栄子ならまあいいと芥川本人が言っていたと
母から聞いたことがある。栄子叔母は美人で、フランス語に堪能で、
生け花もピアノも教える能力があった人だから、芥川の言葉にも納得できる。
しかし栄子叔母は一生独身を通した。彼女は祖母の大のお気に入りで、
好きでもない男性との結婚を勧められ、それが嫌でとうとう結婚しなかったと母から聞いた。
祖母は娘たちに対して、少々強引なところがあったようだ。

久米正雄が母を父と争って自分が負けたと『破船』という小説に書き、
父を友人を裏切った悪人のように書いているので世間ではそのイメージが流布していた。
ある家庭では、私の姉を指してそんな父親の子供とは遊ばせないとまで言ったそうだ。
何を言われても父は沈黙を通したが、それを聞いて家族のために弁護することを決め
『憂鬱な愛人』という小説を書いた。晩年母は、父を好きになったのは自分の方で、
父にはむしろ迷惑をかけた結婚だったのではと話したことがあった。
父も一度だけ私に、母と結婚したことは文学的には損をしたと語ったことがあった。
ある出版社は父の作品を一切出版しないとまで言ったという。
男性の嫉妬は男女間の嫉妬より強いと聞いたことがあるが、
父の場合まさにこれであったらしい。


祖母は漱石の死後印税収入があり、
母の弟妹たちもその恩恵を被りかなりの贅沢ができた。
長男純一は小さい頃からヴァイオリンが上手だったそうで、
中学を卒業してすぐヨーロッパまで勉強しに行った。
次男伸六は夏休みにシベリア鉄道で兄に会いにドイツまで行ったという。
今と違って、外国旅行など大変な贅沢であった。
栄子叔母は若い時身体が弱かったので、祖母が鎌倉材木座に一軒家を持たせ
一人の女中さんと住んでいた。私たち甥姪は、
夏休みになるとよく彼女の家に遊びに行って何日も泊まって海で泳いだ。
新大久保に祖母の家があった時、2人の叔母たちは流行の最先端だったパーマをかけに、
家から車で伊勢丹の美容院によく出かけていた。
当時のパーマネントは、外国から入ったばかりでかなり高価だった。
母の弟妹たちは父親の印税収入のお蔭で、このようなゆとりのある生活をしていた。
しかし漱石が生きている頃の夏目家は慎ましく暮らしており、長女であった母は
いつも小さい弟妹たちの世話に追われ贅沢一つしたことはなかったという。
結婚してからも私の父の松岡譲は大衆小説のようなお金儲けができる作品は
何一つ書かなかったから、家はいつも貧乏だった。
母はもともと貧乏に生まれついた人だったに違いない。

父は77歳で脳出血で突然逝った。母は父の死後20年もの間生きてきたが、
最後の数年は妹に献身的に世話をしてもらって余生を過ごした。
週一回は妹の家へ行ったが、母は少々ボケ始めていて
私と妹の見分けがつかないことがよくあった。
そんな状態でも母はいつも丁寧な言葉遣いで、
私たちは「お育ちがいいのに」などと冗談交じりに笑っていた。
当時の母は寝たきりで不便を感じていただろうが、
怒ったり威張ったりすることがまったくなく、
ちょっとのことでもいつも感謝し遠慮がちの人だった。
祖母のような剛胆なところはまったくなく、むしろ苦労性の方だった。
母は90歳という高齢で他界した。


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漱石の孫/漱石の長女筆子の娘 半藤末利子

筆子は並はずれた苦労を背負わされた人であった。
久米正雄が祖母鏡子に筆子を欲しいと申し出た時には、古参の弟子たちは猛反対した。
芥川龍之介・久米正雄・松岡譲など第4次新思想同人が漱石の門をくぐったのは
漱石の最晩年のわずか1年間にすぎないが、
彼らは華々しくありすぎて先輩たちにはとかく面白くない存在であった。
そこへもってきて目立ちたがり屋の久米が
漱石の一周忌も待たずに筆子に求婚したとあっては、古参軍が許すはずがない。
いっぽう39歳で夫に先立たれた鏡子は6人の子を抱え途方に暮れていた。
そこへ筆子に熱を上げた久米からの申し込みがあったのである。
「本人の意思を確かめた上で」という前置きをつけながらも、
むしろいそイソイソとそれを受け入れた。鏡子の頭の中には、
長女の婿には腹心の部下のような気のおけない、しかし頼れる男性を迎え
同居させて家のことを任せようという未来図が描かれていたのであろう。
鏡子は「お前は久米さんと結婚するんだよ、いいね」
と筆子に有無を言わせぬ勢いで申し渡した。
なにしろ明治生まれの17歳の令嬢のことである。
母親の言いつけに背くなんてとんでもないと筆子は思い込んでいた。
久米と結婚しなければいけないと自分に言い聞かせはしたが、
一目見た時から好きになってしまった松岡に対する愛は
日ごとに深まるばかりで諦めようもない。
肝心の松岡は筆子と顔を合わせれば「もっと久米に親切にしてお上げなさい」
と言うばかりで相談できるでなし、筆子は一人若い胸を悩ませていた。
なかなか筆子から色よい返事がもらえぬ久米は焦れるあまり、
二人の恋が成就することをほのめかすような小説を発表したり、
婚約も間近などというゴシップを自ら雑誌に載せさせるなど、
下手な小細工をやらかして次々とバレて、
最初は味方だった鏡子の心までがどんどん久米から離れて行った。
代りに漱石から<北国の哲学者>と言われていた松岡への
鏡子の信頼は増す一方となった。
しかし寺の長男でゆくゆくは跡を継ぐ身である松岡を、
鏡子は娘婿の対象として最初から除外していた。
しかし筆子のひたむきな愛を知らされその愛を受け入れようと決意した松岡は、
越後まで両親を説得に行き弟に僧籍を譲り許可をもらって帰京した折には、
鏡子は嬉しさの余り有頂天で松岡を迎えたのである。
しかも久米の時には反対の大合唱を繰り広げた先輩たちも、
松岡の時には特にウルサ型の最たる小宮豊隆さえ拍子抜けするほど反対を唱えなかった。
とにかく当の筆子が好きな相手なのだから仕方がないし、
反対のしようがなかったのかもしれない。

しかし払わされた代償は大きかった。
当時10歳であった長男純一が一人前になるまで夏目家を護り、
女の鏡子一人では手に余る諸々の雑務を自分が代行するということに異存はないが、
妻と自分の食い扶持ぐらいは稼ぎたいと就職しようとした松岡に
「あなたには家の仕事をしていただかねば困ります」と鏡子はそれを許さなかった。
働き盛りの大の男が一日中家にいてしなければならないほどの商売を
やっていたわけではなし、鏡子の命令で松岡がイヤイヤやっていたことといったら、
門下生に貸した金の取り立てやら、鏡子が一度ならず人に騙されて出資して始めた
会社の倒産の後始末など、およそ松岡に似つかわしくない仕事であった。
松岡はこうして7年近く夏目家で暮らした。
松岡としては書きたい書かねばという気持ちに駆られたが、
「お父様は40歳から書いてあそこまでおなりになったのだから、
あなたも下手な小説など今書いてはいけません」と鏡子は釘を刺した。
おまけに筆子の妹弟たちも成長するにつれ、
居候してタダ飯を食っているとあからさまに態度や言葉に出すようになり、
松岡はもちろんだが筆子も間に入って居づらい思いを味わった。
鏡子は太っ腹で優しい人なのだが、松岡と筆子の微妙な立場を思いやり
周囲を丸く収めようなどと細かい気配りをする人ではなく、
漱石亡きあとは一種独裁者で人の諫言に耳を傾ける人でもなかった。
こうした事情もあって、世間からは恋を勝ち得た上に夏目家の婿に納まって
のうのうと暮らしていると思われている分、松岡は気の毒だった。

大正13年、両親は結婚7年目にしてようやく夏目家から独立して一家を成した。
こんなに晴れ晴れと暮らしていいのだろうかと思うほどの
解放感と幸福感に浸ったと筆子は述べていた。
叔父伸六に赤紙が来た時もそうだったが、
重大事には鏡子は決まって電話をかけてきて松岡を呼びつけている。
松岡は鏡子にとっていつまでも気のおけない頼れる腹心の部下だった。
叔母栄子は「お祖母ちゃまはね、純一夫妻が一番大事で、筆子夫妻が一番可愛いの。
『これ、筆子に送っておやり』なんてすぐ言うのよ」とちょっと腹立たしげによく言っていた。


漱石門下であった父と久米は漱石没後、夏目家と深い関わりを持つようになった。
父にとって筆子は高嶺の花以上の冒すべからざる神聖な領域に属する存在で、
己の配偶者にしようなどとは露考えも及ばないことであった。
一方久米は筆子に恋心を抱き、結婚を申し込む。
奥手で女性に免疫のない父は、ゆくゆくは友と結ばれるかもしれない筆子に
装うこともなくむしろ無防備に接してきた。ところがあろうことが、
その筆子の自分に対するひたむきな愛を知らされてしまうのである。
父の驚愕はいかばかりであったか。筆子の気持ちを受け入れようと決意するまでの
父の迷い、苦渋、懊悩は計り知れないものであった。
しかし父は筆子の命がけの愛に応えんがために、あえて祝福されない結婚に踏み切った。
親友を失い、仲間から孤立し、先輩を敵に回し、甘んじて世間の非難を浴びた。
父と久米が漱石の長女を争い、
弱気でお人好しの久米がコケティッシュな筆子に弄ばれた結果、腹黒い父に奪われた
という久米に都合よく書かれた話が事実としてまかり通った時代もあった。
私自身、子供の頃から
「へーえ、あなたが筆子さんのお子さんなの。『破船』を読んだことあるわよ」
と含みのある薄笑いを浮かべた好奇な目で見られたことは一度や二度ではなかった。

文壇という大船に乗って創作を続けていれば安泰に一生を送れたであろう。
しかし父は母と結婚したことで、たった一人で大海を泳ぎ切って行かねばならなかった。
従って我が家の家の経済はたびたび逼迫した。
母はめげずによく耐え、身を粉にして父に尽くした。
父が逝って母と一緒に暮らすようになってから15年以上もの間、
「初めて見た時からパパが好きになってしまったの」
「私の方がずっとずっとパパのことを愛していたのよ」
「パパはきちんと座って障子や襖を開け閉めしたでしょ。
お祖父ちゃまのお弟子さんでそんなことをする人はいないから、
なんてお行儀の良い人だろうって好感を持ったわ」
と母の父に対する熱烈な想いを私は聞かされ続けた。
父の不運の大半は母に一方的に熱を上げ失恋した久米正雄が
父を悪者に仕立てて『破船』を書き、世間をして誤解せしめたことにある。
父ほど高潔な人はいないのに残念だ。
母はなんとかしてこの誤解を解きたいと繰り返し私に訴え、
「あんなに運の悪い気の毒な人はいなかった」と嘆き悲しむのであった。


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by vMUGIv | 2011-02-12 00:00 | 明治

夏目漱石 その11

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漱石の孫/漱石の長女筆子の娘 松岡陽子マックレイン

漱石は慶応3年、
名主の父夏目小兵衛直克49歳と後妻の母千枝40歳の末っ子として生まれた。
それまでは名主として幅を利かし裕福な長者暮らしをしていたのが、
明治維新による時代変遷で家運が傾き始めた父親にとって漱石はむしろ厄介者であった。
その上、母親は高齢出産を恥ずかしがったという。
母乳もあまり出ず、生後すぐに里子に出された。
次に里子から子のない夫婦に養子に出された。
養父母は生来ケチであったにもかかわらず、
漱石の愛を得ようと欲しがる物は何でも与えた。
そのせいで彼はとてもわがままな子供に育った。
夫婦が諍いを起した時は、養母は彼を味方につけようと、
漱石の眼前で養父を罵ったりもした。
また養父母に連れられて実の親を訪ねていたが、彼らを祖父母と教えられていた。
その時は機嫌良く迎えた実父だったが、養父母の離婚とともに
8歳で実家に戻った漱石に対しては厄介者が戻ってきたと態度を一変させた。
漱石には直矩の他に兄が2人いたが、皆早死にしている。
長兄大助は31歳、次兄栄之助は29歳で、ともに肺結核で他界している。
長兄は漱石より11歳年上だったが、なかなかの秀才で開成学校に進んだが
病気で退学した。警視庁で翻訳係などしていたように英語をかなり身につけており、
漱石ははじめ彼から英語を習っていた。
長兄は遊び人だった2人の弟より、末弟の漱石に人一倍目をかけていた。
漱石は後々まで、この兄に対しては一目置いていたと言われている。
次兄の栄之助は吉原通いや芸者買いをした道楽者で、
父親から勘当され従兄弟の家に住んでいたと聞く。
また三兄の直矩も、勉強嫌いの遊び人であった。
2人の異母姉も、やはり派手な生活を送っていたらしい。
こうして贅沢三昧に育った姉たちと退廃的な兄たちの間に育った漱石だが、
きょうだいの内でただ一人真面目で勤勉に育っていった。
初めは厄介者扱いにした父親も長男と次男が同年に続いて他界し、
三男も病弱だったので唯一の頼みの綱は末息子だと気づいてからは、
養子先の塩原姓を名乗っていたのを夏目姓に復籍させた。
しかし実父と養父の対立により、
漱石が夏目を名乗るようになったのは二十歳の時であった。
直矩は小さい頃は病弱だったそうだが、
きょうだいの中では一番長生きをして71歳で他界した。


祖母のすぐ下の妹時子は建築家鈴木禎次に嫁いでいる。
名古屋の松坂屋本店の前身いとう呉服店などの設計で有名な建築家である。
鈴木も漱石同様、イギリス・フランスに留学経験があった。
松坂屋各店の設計も手掛け、
関東大震災の時に上野の松坂屋だけが壊れずに残ったので有名になった。
東京帝大建築学科を卒業した鈴木は、名古屋高等工業学校〔現在の名古屋工大〕の
建築家教授として赴任していたので、母たちは名古屋の叔父さん叔母さんと呼んでいた。
私が知る頃は東京に住んでいた。

祖母の2番目の妹梅子は横浜の生糸商奥村鹿太郎に嫁いだ。
奥村は長い間横浜の長者番付に載るようなお金持ちだった。
横浜の家へ行ったことがあるが、屋上がある大きな立派な家だった。
母たちは横浜の叔父さん叔母さんと呼んでいた。

お正月や法事などで、この大叔母2人と祖母が一緒に揃うことがあった。
この3人が揃うと子供だった私の目からも3人ともひどく貫禄があり、
いかにも裕福な夫人たちという印象だった。
末娘の豊子は親戚の集まりにはあまり顔を出さなかった。
豊子は中根家が没落し始めてから成長したので、
上の娘たちのような贅沢はできなかったそうだ。
漱石は彼女を憐れんでか、小遣いを与えたり着物を買ったり実の妹のように可愛がった。
鏡子もあまりに漱石の機嫌が悪い時には、この妹を呼び漱石の機嫌を取らせたという。


恒子叔母は祖母の選んだ男性と結婚して子供を3人もうけたが、
結婚自体はあまり幸福なものではなかった。
夫は名のある金満家の子息だったそうだが、
あまり頼りがいのある人ではなかったらしく叔母は子供たちを連れて別れた。
叔母が結婚した時は、祖母もお金がある時だった。
また相手も金満家の息子だったので、盛大な結婚式を挙げたそうだ。
どこのお大名のお姫様の結婚式だろうと見物が出たほどだと母から聞いた。
私の父はこのお婿さんの頼りなさに早々に気づき、
祖母に「この結婚はおやめになった方がいいのではないですか」と忠告したそうだが、
祖母は相手の家柄とお金に目がくらんだらしく、父の提案に応じなかった。
叔母も気の毒だったし、子供たちも気の毒だったとははがいつも言っていた。


祖母が夫漱石を亡くした時は、たった39歳という若さだった。
漱石の没後1年に、岩波書店が漱石全集を出した。
その後円本ブームもあり、普及版を改造社や春陽堂も手掛けていた。
当時の大卒の月収が200円くらいだったが、
祖母は漱石の印税収入で毎月2,000円くらい得ていたと母から聞いたことがある。
お金ができてからの祖母はかなり贅沢な生活をしていた。
漱石の死後2年後にして漱石山房のあった借家を買い取った。
お金に不自由なく育てられた後で、一介の教師と結婚し、さらに子沢山で
いつもお金を倹約しなければならない暮らしは祖母にとっては窮屈だったのだろう。
その祖母が夫の死後印税収入により裕福になった時、
生来の性格が戻ってきたのも無理はなかったろう。
子供たちを不自由なく育てる他は、自分の好きなように気前よくお金を振りまくことが
祖母に与えられた唯一の楽しみであったのかもしれない。
節約など念頭になく豪快にお金を使った。
だから、税金を支払う頃にはお金が無くなってしまった。
時には税務署から検査官が来て家中の家具に赤紙を貼っていったそうだ。
その光景を思い出して、本当に嫌だったと母がよく言っていた。
そういう時は、祖母は出版社から前借りをして税金を支払ったという。
祖母は良く言えば気前のいい人、悪く言えば浪費家だったということだろう。

小さい頃の私が覚えている祖母はこんな生活だった。
冬はお正月過ぎてから湯河原の天野屋旅館で2ヶ月ほど避寒し、
春は京都の都ホテルに泊まって祇園祭を楽しみ、
夏は日光中禅寺湖ホテルで避暑、というような豪勢な生活を送っていた。
京都へ行く時はいつも駅に見送りに行った。
その頃では最高級の東海道線の一等展望車に乗っていた。
祖母は孫たちをいつも宝塚劇場に連れて行ってくれた。
家の前までハイヤーが迎えに来た。当時の車は今のようにヒーターなど付いておらず、
運転手が我々の膝の上に丁寧に毛布をかけてくれた。
叔母たちは歌舞伎などにも行ったのだろうが、幼い孫たちは宝塚くらいだった。
毎月祖母は上手な温灸師を関西から東京まで呼び寄せ、
その人が宿泊していた旅館に家族みんなを呼び寄せて治療を受けさせていた。
大変な出費だったに違いない。もう一つ思い出すのは、
クリスマスに家族全員を帝国ホテルに連れて行って、ディナーを御馳走してくれたことだ。

祖母は気が大きかった。また気だけでなく、大きな物も好きな人だった。
だからその家もたいそう大きかった。
祖母は賑やかなことが好きで、大勢の人が家に集まるのを喜んだ。
早稲田の大きな家にいた時は週末・祭日・ことに正月などには
親戚や叔父の友人などの泊り客でいつも家中一杯だった。
お正月などは20人も30人も集まっては、
夜更けまで百人一首のカルタ取りなどをして遊んでいた姿が今でも目に浮かぶ。
若いお客さんたちが食べ放題飲み放題で何日も遊んで行ったのだから、
女中さんが何人いても足りないくらい忙しかった。
早稲田の家では、女中さんがいつも7、8人はいたと覚えている。

漱石が他界した後は木曜会が九日会となり、
毎月9日にお弟子さんたちが漱石の書斎に集まり夕食会をしていた。
大人には神楽坂の川鉄から取り寄せた鳥鍋を振る舞い、
子供たちには親子丼のお重を取ってくれたので、
毎月9日に祖母の家に行くのが楽しみだった。
あの大きい家でいつも大勢の人が飲み食いしていたのだから、
祖母は大金を使っていたに違いない。祖母の気前の良さの恩恵を被った弟子たちが、
その恩を忘れ悪妻と呼んだのかと思うと皮肉なことだったと言える。

また祖母は小さいことをまったく気にしなかった。
漱石が死んだ直後、納棺が済むと家族以外は全員帰宅した。その時に弟子の一人が
漱石のラッコの毛皮のついた二重回しを着て帰るのに別の弟子が気づき祖母に伝えたが、
祖母は「ああそう」と言っただけで気にもしなかったそうだ。
それ以来、高価だったラッコの毛皮のついたコートは夏目家から消えてなくなってしまった。

祖母にかなりの収入があった時に、父が漱石記念館を建てたらどうかと
提案したことがあったが、祖母は興味を示さなかったそうだ。
弟子たちも祖母のお金遣いが荒かったためか、その計画の援助に賛成しなかったという。

祖母は漱石の弟子たちを経済的に援助したという。
そんなにまでしてもらった弟子たちが祖母を悪妻呼ばわりし、
それが世間に広まって行ったと私の母はよく憤慨していた。

贅沢三昧だった祖母は、戦争が始まると食べ物が乏しくなった。ほぼ毎日空襲もあった。
当時の日本人すべてと同じように、祖母も恐怖と飢えに苦しんだ。
また戦後には漱石死後30年経ち、版権も切れ収入も亡くなった。
その後の祖母はかなり切り詰めた経済状況にあった。


漱石の病気は周期的に起り、しばらくするとまた元に戻った。
病気が起こる前は顔がほてったのですぐわかったと母は言っていた。
その様子は家族以外にも気づかれていた。
野上弥生子氏も「先生がそういう状態になられる前は顔がほてった」と言っておられた。

漱石の病気が重い時は、電話がかかってきても
「電話はこちらからかけるためにつけた物だ。返事はしなくてもよろしい」
と言って家人に受話器を取らせなかったという。
鳴り響くベルを聞きながら、皆どうすることもできなかったと母は言っていた。
そのため母はかなりの年齢に達しても、
胸がどきどきして電話がかけられなかったと言っていた。

祖母の育児にも問題点があったことは確かだと思うが、
母や叔母たち叔父たちから祖母についての不平不満を聞いたことはほとんどなかった。
みなお母様お母様と敬意を持って対していたように覚えている。
伸六叔父が言う時はいつも「おかーま」と聞こえたので、
私たちはよくおかしいと笑ったものだ。

祖母は難しい結婚生活であったにしても、
常に誠実だった自分の夫に感謝し心から漱石を愛し尊敬していた。
「お父様はね、とても親切にいろんなことを教えて下さったんだよ」とか
「情け深い方だったんだよ」などと懐かしそうに話していた。
後年漱石の良い面だけを私に話してくれたことからそれがうかがえる。

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漱石の孫/漱石の長女筆子の娘 半藤末利子

鏡子ほど歯に衣着せず直截に物を言う人を私は知らない。
しかも年寄りにありがちな繰り言としての愚痴や手柄話の類や、
漱石に関しての悪口を、祖母の口から私は一度たりと聞いたことがない。
祖母はお世辞を言ったり自分を良く見せるために言葉を弄したり
陰で人の悪口を言うこともなかった。あれほど悪妻呼ばわりされても、
自己弁護をしたり反論を試みようなどとはしない人であった。
堂々と自分の人生を生きた人である。

いつか二人で交わした世間話が、漱石の門下生などに及んだ時、
「いろんな男の人を見てきたけど、あたしゃお父様が一番いいねえ」
と遠くを見るように目を細めて、ふともらしたことがある。
また別の折りには、もし船が沈没して漱石がイギリスから帰ってこなかったら
「あたしも身投げでもして、死んじまうつもりでいたんだよ」と言ったこともある。


鏡子も変わった人で、昼間は家事や育児や接客に追われてゆっくり休む暇がなかった
からかもしれませんが、夜になると寝床の中にお菓子を持ち込んで横になりながら
新聞を読んだり大衆小説をよんだりしてムシャムシャと食べていたそうです。
新聞の連載小説が読みたいばっかりに、鏡子は何紙もの新聞を購読していたといいます。
そんな不摂生をして87歳まで生きたのですから、
鏡子の方はよほど胃が頑丈だったのでしょう。
私が泊りに行っていた頃には、
鏡子は短く太い丸太のような身体を布団にごろりと横たえるや、
腹ばいになって一人トランプ、それも鏡子流のトランプ占いに興じるのであった。
寝る前の小一時間は頭を鎌首のようにもたげたまま、
肥えた身体を肘で支えっぱなしにしてトランプに夢中になっていた。
それにしても首や肘がよく痛くも苦しくもならないものだと、
私は感心して眺めていたものである。


漱石は兄直矩一家を好ましく思っていないようでした。
学生時代、直矩夫婦と同居していた時、兄嫁が冷たい人で冬の夜遅く帰宅しても
お湯も沸かしてくれず、火の気のない台所で一人で冷や飯を茶碗に盛り、
冷たい汁をかけて食べた寂しさがいつまでも記憶にあって、時が経っても
彼らを快く受け入れることができなかったのだといつか筆子が言っていました。
しかし過去の恨みを脇にどけて、
直矩の定年後ずっと生活費の一部を渡し続けていたのです。
「もうあなたたちへの御恩はとっくに返したはずです」と渋い顔をした漱石が、
うなだれている直矩に封筒を手渡している光景を、筆子は見たことがあるそうです。
もっと偉いと思うのは、人々に悪妻とみなされていた鏡子です。
彼女は漱石が逝った後も直矩一家に同額の仕送りを続け、
その上直矩の息子が大学を卒業するまでの学費を負担したり、
娘の嫁入り支度を整えてあげたりしたのだそうです。


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by vMUGIv | 2011-02-11 00:00 | 明治

夏目漱石 その10

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漱石の娘 松岡筆子

『安々とナマコのごとき子をうめり』
これは私の生まれた時の感想を詠んだ父の句ですが、
結婚して3年目にしかも以前に1度流産の経験もあってようやく子供を得た父にとっては、
この安々とという感慨はひとしお深かったものと思われます。
流産の後の頃と存じますが、若い母はひどいヒステリーを患っており、
夜中に家を抜け出し橋の上で投身自殺を企てたことがあるそうで、
それ以来父は毎晩母と手首を結んで寝たそうです。
父の驚きと心痛が並々でなかったことは想像に難くありません。
父は元来病院や困っている人々には
ことさらに親身になって優しく心を配ってあげる人でした。
母もまったく同じで、弱い人や病人に対してそれはそれは優しい人でした。
母は多くの方々に悪妻呼ばわりされ、ずいぶん無責任なことを言われて参りましたが、
私から見ますとあの母だからこそあの父とどうやらやっていけたのだと、
むしろ褒めてあげたいくらいな節が数多くあるのです。
父の神経衰弱のため、実際身の毛がよだつような危機が何度もあったのです。
それにしても母の人柄の良さや気っ風の良さを利用していらした方々までが、
平然として母を悪妻呼ばわりしているのをみると、
ちょっとあきれる感じがいたしてしまいます。

私の生まれた翌年の秋、父は文部省の命を受けてイギリスへ留学いたしました。
それから2年経った明治36年の1月末、帰朝いたしました。
この2年余の空白は私たち一家にとってかなり重大なものであったことを、
父も母も幼い私たちも解ろうはずもありませんでした。
つまりある意味で、父は前とは別人になっていたのです。
ロンドンから文部省に夏目発狂の急電が舞い込むほどの変化があったことを、
誰も知らなかったというわけです。
神経衰弱のために父自身がどれほど悩み、家族全体がどれほど脅かされ苦しめられたか、
それは計りしれないことでございました。

私が物心ついて父に接し始めたちょうどその頃からの数年間が、
父の神経衰弱の最高潮にあった時に当たっていたのです。そしてこんな時代に、
何の苦もなく『吾輩は猫である』を書き続けていたのですから不思議でなりません。
何の苦もなくと言うのは、父が創作のために呻吟しているのを見たことがないのですから。

ある日私は突然父に書斎にすぐ来るように言いつけられ、訳もなく正座させられて
父に睨みつけられました。父はいきなり力任せに私の額を押し飛ばします。
私はひっくり返って恐ろしさと突然ぶたれた悲しさくやしさで、
手足をバタバタさせて泣きじゃくりました。しかしこういう時は触らぬ神に崇りなしで、
家じゅうがひっそりと息をひそめ、母も女中も救いには来てくれないのです。
父はと言えばこづいたことも私がそばで泣きわめいていることも
それきり忘れてしまったようで、そしらぬ顔で机に向かって読書に耽っているのでした。
こうしたことはしばしばございました。私や妹のちょっとした仕草が
気に食わないからといっては、突然私たちを書斎に閉じ込めたりぶったりしたものでした。
私たちばかりでなく母も髪でもつかまれて引きずり回されたのか、
父の書斎から髪を振り乱して目を泣きはらして出てくるのをしばしば見かけたものでした。

それ以来父は怖いものという隔てができて、
機嫌の良い時でも何だか恐ろしくて口がきけないのです。
修善寺の大患の後で東京へ帰りました時に、
まるで学校の総代が見ず知らずの名士の前につん出た時のように
非常な勇気を奮って車に近づきおどおどしながら、
お父様いかがでございますと言ったものですが、
父は物憂かったのでしょう、何とも返事をしてくれませんでした。
修善寺の大患以降父の気持ちは落ち着いてきたのか、
何をしても怒らない優しい父になりました。
しかしどんなに優しくなっても、父の爆発の対象になった私とすぐ下の妹恒子だけは
父に対して相変わらず他人行儀な言葉を使っておりました。

上の弟の純一が生まれた時の喜びようといったら、これも大変なものでした。
続けて4人も女の子が生まれた後の初めての男児でしたから。
それほど待ち望んだ男の子たち長男純一と二男伸六の教育には、
父が自分で手を差しのべるなど本当に熱心でした。
小学校はフランス語を習わせるために暁星学園に入れたほどで、
中学では英語を高校ではドイツ語を学ばせる、そうすれば大学に入った時には
英仏独の三ヶ国語を自由にあやつることができると父は考えていたということです。
これは残念ながらまったくの期待はずれだったようですが。

本当に父に可愛がられたのはむしろ下の二人の妹たちの方で、それはこの妹たちが育った
時期がちょうど修善寺以降の父の最も気分の穏やかな時に当たるからなのです。
遊んでいる妹たちの部屋に顔を出して猫なで声で話しかけ、かえって栄子に
「アバタ面なんてあっちへ行ってろ!」と怒鳴られてスゴスゴ退散してゆく父。
私に対しては「筆」と呼び捨てにするのに、
妹たちには「栄子さん、愛子さん」とさん付けで呼ぶ父。
弟の部屋で弟たちと四つになって組み合っていることがよくありました。
お相撲は父の比較的好きなスポーツだったのです。
形勢不利になると弟たちは「助けを求む!」と叫ぶのでした。
すると下の妹たちが応援に駆けつけ、四対一の大相撲になるのです。
こんな時にも私と恒子の二人だけは笑って見物していただけで
決してこの取っ組合いにまざる気にはなれませんでした。

私の中に甦る父の記憶は愛情と重なって投影されることは少ないのです。
妹たちとは別のなにか近寄りがたい恐ろしい父の像なのです。
これは私にとってこの上ない不幸、同時に不孝なことでございました。



売れっ子作家といったら、長者番付の上位にランクされ、
広壮な邸宅を構え運転手つきの高級車にお乗りになり、
夏は軽井沢の別荘で執筆なさるという優雅な生活が連想される昨今ですが、
明治時代に一般に人々が小説家に抱いたイメージときたら、
裏長屋の一室で破れ障子を背にして、
顔色の冴えない男がゴホンゴホンと咳をしながら執筆している姿でした。
幸い父は物書きである以前から教師という定職を持っていましたから、
破れ障子の裏長屋よりはましな暮らしをしておりましたが、小説家になって
かなり名が売れてからも持ち家を買う余裕などなく、一生借家住まいでした。

今でこそ、アメリカだヨーロッパだとひとっ飛びに行ける御時世になりましたが、
明治の頃の洋行帰りといったらそれはもうたいしたハイカラで、
私の家でも食べ物からして父だけは特別待遇を受けておりましたようです。
洋菓子とかの到来物はハイカラなお父様しか召し上がれない物と決まっておりました。
お食事も父は私たちとは別に母に給仕をさせながらいつも一人で食べておりました。
私の母という人はだいたいが細かい神経を持たない人なのですが、
食事に至ってはその傾向が強く、熱かろうが冷たかろうが美味しかろうが不味かろうか
口に入れば結構というのですから、
味付けの雑なことと申しましたらてんでお話になりません。
父がスキヤキが美味しいともらしでもしようものなら、
10日でも20日でもあきもせずスキヤキを続けます。父もさる者で、
こいついつまで続ける気だ、いつまで続けやがるか見届けてやれというわけで、
素知らぬ顔をしてスキヤキ責めに耐えているようでした。
今から考えますと大変ユーモラスとも思えるのですけれど、
こういう所も母の悪妻と呼ばれる所以なのでしょう。
胃の悪いくせに、父は甘い物と脂っこい物とが好きなようでした。
散歩に出ると、ほとんど毎日のようにお砂糖のつけた南京豆の小袋を買って参りました。
それを机の上に置いたり、袂に入れたまま忘れてしまったりして、
母に見つかっては小言を言われていたようでございます。

父は半可通の文学好きの女を大変嫌いました。
常々自分の娘にあんな風になられては堪らないと口癖のように申しておりました。
そのせいか絶対に私たちに小説類を読ませてくれませんでした。
自分が小説家だけにキザな文学少女や、
当時流行った新しい女などという種類がひどく嫌いだったからでございましょう。
ことに父の小説ときたら、それが単行本になっていようが新聞に載っていようが、
まったく文字通りの厳禁で、新聞さえろくに読ませてくれませんでした。
弟たちの教育にはかなり熱心のようであっても、
私たち女にはあくまで放任主義でしたが、この一点ばかりはかなり厳格でありました。
ですから私が父の小説を読んだのは、父が亡くなってからでございます。

機嫌の良い時の父は本当に優しい懐かしみのある良い人でした。
その反対に悪い時の怖いことと言ったら、
家中びくびくもので足音を忍ばせて歩いておりました。
その悪いと言いましても、その日その日の気分で良くなったり悪くなったりするのではなく、
およそ10年ごとに長い期間の不機嫌の日が来るのでございます。
その時はまったく父を狂人だと思い思い致しました。
ひどい乱暴の絶頂などには、子供心にこのまま死んでくれたらなどと、
後から考えると申し訳のないほどこちらも残酷な気持ちになったこともありました。
母のその時の苦労を考えますと、おのずと涙が滲むほど悲しい気分にさせられます。
しかしその暗い雲が通り過ぎますと、また朗らかな日が長く長く続いて
いつも奥深い笑顔をたたえた父があるのでございます。

父はずいぶんのん気でした。敷島と朝日とどちらが値がいいのか知らなかったり、
田んぼをあるいて稲を見てあれは何という草だと連れの人に尋ねたという話も聞きました。
私たちがいろはカルタを取っていると父が時々入れてくれと言って入って来ました。
父はいつも『屁をひって尻つぼめ』『頭かくして尻かくさず』
といったおかしな札だけを自分の真ん前に並べて
これだけは絶対に誰にも取らせまいと真剣な気構えで座っているのでした。
私たちがまた、他の札が読まれる時にもまったくうわの空で、
父の前の札ばかり狙っているので私たちに取られてしまいます。
その時は両手で頭を抱えて参ってしまうのでございました。

父は一生書斎の人でした。
朝起きる時から夜寝るまで、ほとんどまったく書斎で暮らしておりました。
新聞に載る小説1回分がその日の日課のようで、
毎日午前中にきちっと書き上げておりました。
そしてそれを自分でポストに入れに行きました。
外へ出るのはそれと昼食後の短い散歩くらいのもので、
後は小説を書いていない時でも薄暗い書斎に閉じこもっておりました。
たいがい本を読んで飽きると絵や書を書いて楽しんでいた様子でございました。
お酒や煙草を嗜むわけでなく、女遊びをするわけでなく、
規則正しい生活を続けていながら始終不健康に悩み、
短命に終わった父が気の毒に思えてなりません。

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松岡譲&筆子夫妻
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松岡譲&筆子夫妻
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by vMUGIv | 2011-02-10 00:00 | 明治

夏目漱石 その9

●長女 筆子 作家松岡譲夫人
●二女 恒子 江副養蔵と結婚離婚
●三女 栄子 生涯独身で母鏡子の世話をした
●四女 愛子 仲地夫人
●長男 純一 バイオリニスト
三田村平凡寺の娘・ハープ奏者 三田嘉米子と結婚→子は夏目房之介
●二男 伸六 慶応大学独文科中退、文芸春秋社を経て随筆家 妻は信子
●五女 雛子 早逝


左から 伸六 漱石 純一
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左から 純一 愛子 筆子 恒子 栄子 伸六
枠内 雛子
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立つ左から 筆子 筆子の夫松岡譲 漱石の三兄夏目和三郎/直矩
座る左から 栄子 愛子 恒子
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雛子
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漱石の子供たちに対する態度は3グループに分かれる。

第1グループ 長女筆子&二女恒子 上の姉妹グループ
第2グループ 三女栄子&四女愛子 下の姉妹グループ
第3グループ 長男純一&二男伸六 兄弟グループ

筆子と恒子は「筆、恒」と呼び捨てであったのに対して、
栄子と愛子は「栄子さん、愛子さん」とさん付けで呼んでいた。
他の面でも上の姉妹グループと下の姉妹グループへの態度は天と地ほど違った。
兄妹グループは男子でもあったためか、上と下の中間といった態度であったようだ。


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漱石の孫/漱石の長女筆子の娘 松岡陽子マックレイン

母は少しずつボケてきて、昔よく知っていた人々のこともほとんど忘れてしまっていた。
四六時中献身的に世話をしていた私の妹のことさえもう見分けがつかないほどだった。
それにもかかわらずただ一つ母が忘れなかったことは、
自分の父親がいかに怖かったかということであった。
漱石の肖像のついた千円札を母に見せて「これ誰だかわかる?」と聞くと、
「お父様でしょう。とても怖かったわ」と、
まるで昨日のことのように言うので私も驚いてしまった。

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漱石の二男 夏目伸六

私が相応に物心がついてからの父については、
不幸にして、ただ恐ろしかったという記憶のみ鮮明である。
私ばかりでなく他の兄弟達も、当時の思い出はいずれ私と大差ないと思う。
ただ、私等兄弟のうちで、たった一人、少しも父をこわがらなかった子供がいる。
すぐ上の愛子という姉で、父の胸には、外の子供に比較して、
自分を少しも恐れぬこの子供の気持ちが、特に敏感に映じたのではないのか、
とにかく、父はこの姉を一番可愛がっていたようである。
この姉はよく父と一緒に寝たりしていた。
恐らく、私等兄弟の中で、ほとんど父から怒られたことのないのは、この姉だけで、
それはむしろ、それ自身私等には非常に不思議な事実としか思えないのである。

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漱石の孫/漱石の長女筆子の娘 松岡陽子マックレイン

祖母も母も叔父伸六も皆一様に、
四女の愛子が漱石の一番のお気に入りだったと言っている。
愛子という叔母は小さい頃ざっくばらんに何でも言える子で、
父のこともあまり怖がらず、平気で何でも言ったそうである。
母を「筆」と呼び捨てにするのに、この叔母のことは「愛子さん」と「さん」までつけて
優しい声を出して呼んだと母から聞かされた。

私は当時まだ健在だった叔母栄子と叔母愛子を訪ねた。
漱石のことが話題に上った時、
「叔母様たちは、ことに愛子叔母様は
お祖父様にとても可愛がられたそうだから、ちっとも怖くなかったのでしょう?」と聞いた。
驚いたことに、二人の叔母が同時に
「怖かったわよ。だっていつ突然怒られるかわからなかったんですもの」
と反射的に言い返してきた。
二人の叔母からこの答えを聞いた時、
漱石はなんと孤独な人だったのだろうとつくづく気の毒に思った。
家族の誰一人として、彼を恐れなかった人がいなかったのだから。

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枠内左から 鈴木三重吉 森田草平
後列左から
松根東洋城 森成麟造 東新 漱石 野上豊一郎 安部能成
前列左から
恒子 鏡子夫人 純一 愛子 筆子 栄子 小宮豊隆 坂元雷鳥 野村伝四
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3列目左から
小倉庫次 岩波茂雄 不明 不明 松根東洋城か 高浜虚子か 不明 不明 松浦嘉一 不明
2列目左から
千鶴子の夫 直矩二男孝 中根倫の妻 森田草平 真鍋嘉一郎か
小宮豊隆 野上豊一郎 鈴木三重吉か 阿部次郎か 中根倫長男岡一 
1列目左から
鏡子夫人の姪鈴木蕗子 中根梅子 直矩二女千鶴子 愛子 栄子 恒子 伸六
鏡子夫人 松岡譲 筆子娘陽子 筆子 筆子娘明子 近所の人 筆子息子聖一 
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by vMUGIv | 2011-02-09 00:00 | 明治

夏目漱石 その8

◆明治40年 40歳 教職を辞めて朝日新聞社に入社。長男純一誕生。
◆明治41年 41歳 二男伸六誕生。
◆明治43年 43歳 五女雛子誕生。旅行先で大量吐血<修善寺の大患>
◆明治44年 44歳 関西旅行中に胃潰瘍再発、大阪で入院。五女雛子死亡。
◆大正02年 46歳 第3回神経衰弱発病。
◆大正05年 49歳 12月9日死亡。


★第3次精神病期 46歳~48歳 『行人』『こころ』『道草』


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漱石の妻 夏目鏡子

今度の病気〔修善寺の大患〕で、
前のように妙にイライラしている険しいところが取れて大変温かく穏やかになりました。
人情的とでもいうのでしょうか、見違えるばかり人懐っこくなったものでした。
誠に病中人様にいろいろお世話になった、それが大変ありがたいと口癖に申しておりました。

頭さえ悪くない時にはずいぶんの子煩悩で、
子供たちが何をしようとにこにこ笑って見ているか、自分も相手になって遊ぶか、
でなければ割れるような騒動の中に座って澄ましていっこう気にもかからないらしく、
本を読んだりしていたものでした。
世間からは皮肉ばかり言っているつむじ曲がりで負けん気のしかめっ面した
怖い厳めしいおじさんのように思われておりましたようですが、本当に好々爺で、
子供たちとよく相撲をとったりなんかしますし、まったく他愛がありませんでした。
話でも非常にむっつりしてるかと思えば、調子に乗ると案外の軽口で
駄洒落や皮肉をかっ飛ばしておもしろがるという風で、
生粋の東京人のそうした一面をよく表していたかと思います。

雛子が亡くなりましてからというものしばらくの間は、あとの子供たちにも親切で、
以前にもほとんどそんなこともなかった一家総出でどっかへ行く
などということもいたしました。

機嫌が良くってニコニコしているのですが、暮れから妙に顔がほてって
テカテカしているので変だ変だと思っておりますと、またも例の頭がひどくなって参りました。
ちょうどこの前一番ひどかった時から10年目に当たります。
この年は正月から6月までは一番ひどくって、
挙句の果てにはとうとうまたもや胃をわるくして寝込んでしまいました。
胃が悪くなるとだんだん頭の方は治ってくるのでしたが、
この時は始めは両方でしたからずいぶん大変でございました。

お正月の2日か3日のことです。
女中に向かっていきなり、そんなことは言わないでくれと申します。
しかし女中は別に何も言わないのですから、怪訝な顔をして
何も申せませんでございますがと答えると、怖い嫌な顔をして黙ってしまいます。
後で私に「あんなこと言わせちゃ困るよ」とたいそう不興気にたしなめておりました。
ほてった顔といい、頓珍漢なことを言うことといい、まず耳から始まることといい、
またも例の恐ろしいのが襲ってきたのだと勘付きました。
子供が何かの拍子にゲラゲラ笑ったりします。
すると自分のことを笑ってでもいると思うのですか、
大きな声で怒鳴ったり、呼びつけて叱ったりするのです。
こうなってくると家中は急にひっそりかんとして、まったく虎の尾を踏む心持ちと申しますか、
みんなつま先立てて足音を盗んで歩くのです。
こちらでみんなこういう具合に警戒して触らぬ神に祟りなしと注意に注意をしておりますと、
夏目は夏目で一生懸命聞き耳を立てて、あらぬ妄想を構えて
疑いの上に疑いを築いて根掘り葉掘りとんでもないことを考えるらしいのです。
それも自分の狂った耳を土台にして、そこへ突飛な想像をつけ足して
いろいろなことを描くらしいのですからやりきれません。

例えば女中が何か自分の悪口を噂しているのを聞いたという風に感じますと、
それを私が放ったらかしにさせておくか、進んで私が言わせるという風に取るらしいので、
むきになって突っかかって来るのですが、また始まったと思うのですから
なるべく相手にならないようにしております。すると黙ってればいいかと思って
自分一人にしゃべらせて自分を馬鹿にしてると言って怒ります。
そうなってくるとしきりに難題を吹っかけるのですが、
どうしたって気に入るはずはないのですから、
こうなってくるといつもの式で、またも別れ話です。
別居をしろ、お前が別居するのが嫌なら俺が出て行くとこうです。
で、別居なんか嫌です、どこへでもあなたのいらした所へついて行きますから
と取り上げませんのでそれなりになるのですが、
いつも決まって小うるさくこれを言うのでした。そうしてしまいに胃を悪くして床につくと、
自然そんなこんな黒雲も家から消えてしまうのでした。
いわば胃の病気がこの頭の病気の救いのようなものでございました。

頭が悪くなると電話では始終問題を起しておりました。
時には自分で出て行ったりしますが、もしもし夏目さんですか?と
どっかからかけて来たから知りませんよと言って切ってきてやったなどと申して、
何が何やらわからずプリプリ怒っておったことなどもあります。
それほどですから間違った電話でもかかって来ようものなら大騒動です。
自分で電話口へ出て行って交換手を呼び出し、なぜ間違ったのか、どうして間違うのだ、
おおかた人を邪魔し馬鹿にするのだろうなどと遠慮会釈なくクドクドとやり込めるので、
聞いてるこちらがヒヤヒヤするくらいでした。
死ぬ前などにもこんな具合でしたもので、とうとう離れへ移したことがあります。

私が留守の間子供を外へ遊びにやってはいけないと夏目が言っていたのに、
子供のことですからどこかへ遊びに行ってしまったそうです。
すると出すなと言ったのになぜ出したといきり立って、
〔女中の〕一人を廊下から下へ突き落とし、〔女中の〕一人が門のところへ出たのを追うて、
道の上で人が見ているところでポカポカ殴ったそうです。女中2人は怒ってしまって、
いくら御主人でもあんまりだ、こんなことでは今に何をされるかわからないと言って、
私の帰らないうちに出て行ってしまいます。それを見ていたのが長女の筆子で、
いくら父でもあんまり無法なことをすると悲憤の涙にくれておりますと、
夏目が女中は出て行ったか、怪しからぬ奴だと言うので、筆子が憤然と、
それは出て行きますとも、あんなことなさるんですものと女中の肩を持ってしまったのです。
なんだ、この生意気な奴め、父に口答えするとはというわけでポカッと来ます。
私が帰って参りますと、女中はいず、筆子は泣いている、
夏目は夏目で女中はいないので筆子一人を目の仇にしてしきりと憤慨しております。
今にも刃傷沙汰でもしかねまじい形相なので、
これは危ないと見てとって矢来の兄さんのところへ逃がしてやりました。

頭が悪くなると朝早く4時半か5時に目を覚まして、
自分で起きて戸を開け「起きろ」と怒鳴るのです。
家中の者がピリッとしていっぺんに起きてしまいます。
怒鳴らない時にも湯殿へ入って、
安全剃刀を自動式の革砥でカチャカチャカチャカチャと研ぎます。
その音を聞くと皆飛び上がったものです。そうなると怖いんでてんでに寝床を上げます。
それを自分が監督顔に回って来て、何をグズグズしていると小言を言いながら
何でもかんでも取り上げてグルグルと丸めて戸棚の中に押し込みます。
蚊帳や布団がはみ出して落っこちそうになっているのを、
かまわずグングン唐紙を閉めるのでした。

この時もかなりひどくもありましたが、外国から帰って来てからの時に比べれば
よほど穏やかになっておりました。そうして病気の間も短うございました。
その後亡くなる年にまた起っておりましたが、
この時に比べればずっとまた静かになっておりました。
が、とうとう死ぬまで時々思い出したように起っておりました。

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by vMUGIv | 2011-02-08 00:00 | 明治

夏目漱石 その7

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漱石の妻 夏目鏡子

帰朝したらまた熊本五高へ舞い戻らなければなりません。
東京に留まりたい意向で、皆さんのお骨折りがあったのでしょう、
望み通り熊本に帰らないで一高で教鞭をとることになりましたが、
それだけでは生活にも困ろうとあって文科大学の講師ということになって、
小泉八雲先生のちょうど後にはいることになりました。
当人ははなはだ不服でして、抗議を持ち込んだりぐずついていたようですが、
まあまあとなだめられて落ち着きました。
4月の新学期から学校へ出ましたが、学校は根っから面白くないらしく、
自分では外国で計画していた著述でもしたい様子でしたが、
他に生活費を得る道もないので目をつぶって学校へ出ていたようです。
嫌だ嫌だと口では言っても義務観念の強いひとですから、
滅多に休んだり遅刻したりするようなことはありませんでした。
加えて頭の病気が少しも治らないので、なおさらすべてのことが面白くない様子でした。
6月の梅雨頃からぐんぐん頭が悪くなって、7月に入ってからはますます悪くなる一方です。
何が癪に障るのか、夜中にむやみと癇癪を起して
枕といわず何といわず手当り次第の物を放り出します。
自分一人怒り出しては当り散らしております。どうにも手がつけられません。
以前はあんなに無茶苦茶に怒る人じゃなかったのだが、
どっか身体なり頭なりに異状のあるのではあるまいか。不審でもあり心配でもあるので、
その頃私を診に来て下さった尼子四郎さんにお話をしまして、
うまく持ちかけて診察してやってくれませんかとお願いしました。
尼子さんも子細承知で引き受けて下さいました。
4、5日経つとよほど話がうまく運んだとみえて尼子さんが診察をされたというのです。
どんなでしたとお伺いしますと、どうもただの神経衰弱じゃないようだと首をかしげられます。
重ねてお伺いしますれば、精神病の一種じゃあるまいか、
しかし自分一人では申し上げかねるから呉博士に診ていただいてはというお話です。
そうなれば是非もありませんから、万事のはかりごとは尼子さんにお願いいたしました。

改めて見ると、どうもやることなすことが只事ではありません。
何が癪に障るのか女中を追い出してしまいます。私にはいよいよつらく当たります。
しきりに里へ帰れということを面と向かって申しますので、
こんなことが続いていっそう頭をイライラさせてしまっても悪いし、
万一子供にどんな危害が降りかからないものでもない。
ひとまず身を引いて様子を見よう。目の前から邪魔者がなくなるわけで、
かえって気が静まるかもしれない。
父に相談しまして、ともかく一時子供を連れてどいてみることにいたしました。
そうして7月にいったん里の父母の元へ帰りました。
その時尼子さんが、私が電話をあげるなりなんなりいいようにしますから、
その方は私に任せて心配なくと言って下さいました。
そのうちに尼子さんがお約束通り呉さんに診せて下さいましたので
呉さんのところへ伺いに参りますと、ああいう病気は一生治り切るということがないものだ、
治ったと思うのは一時沈静しているばかりで、後でまた決まって出てくると申されて、
それから病気の説明をいろいろ詳しく聞かせて下さいました。
私もそれを聞いてなるほどと思いまして、ようやく腹が決まりました。
病気なら病気と決まってみれば、その覚悟で安心していける。

どんな具合かしらと時々行っては覗いてみますが、
いつ行ってもどうも御機嫌はなはだ麗しくありません。
どうしたものかと思っておりますと、夏目の兄さんがどうか別れるの何のと言わず
そのまま黙って怒らずに帰ってやってくれというお話なのです。
私も別に怒っているわけではなし、夫婦別れをしようというのじゃなし、
そんなことで人様に御迷惑はかけないつもりですが、
ただ子供がいじめられたり打たれたりしたのでは子供のためにも良くないから
一時遠ざかってこうして別居してみたのだけれどもさっぱり験がない、
とすれば元通り帰るより他に仕方がありませんと言うので、
兄さんが夏目に私が帰りたいと言っているからととりなして下すったわけです。
すると夏目が「帰りたいと言うなら帰ってくるがいい。
が、だいたい中根の家では子供をワガママに育てすぎる。
だから鏡子なんぞもあのとおりワガママだ」と申しますので、
母を煩わしまして母から夏目にどうにか謝ってもらって、
ようやく9月に千駄木に帰ることになりました。
私はこの時、どんなことがあっても決して動くまいという決心をして参りました。

それから2ヶ月ばかりはだいぶいいので、これなら帰ってきた甲斐もあった
と思っておりますうち、10月の末に三女の栄子が生まれました。
11月に入ると、またぞろ前にも増して雲行きが険しくなって参りました。
わたしはお産でまだ床についております。私が臥せっている産室の屏風の陰に参りまして、
「貴様はお産で寝ているのだから、日が経ったら帰れ」と言うのです。
どういうわけか自分の頭の中でいろいろなことを創作して、
私が言わない言葉が耳に聞こえてそれが古いこと新しいことといろいろに連絡して
幻となって目の前に現れるものらしく、そうなりだすと何もかも悪意に取りだすので、
私のやることなすことが、話せば話したで、黙っていれば黙っているで、
何もかも夏目をいじめ苦しめるためにやっているとこう感じるらしいのです。
ですから屏風の陰へ来て、
「お前はこの家にいるのは嫌なのだが、俺をイライラさせるためにがんばっているんだろう」
などと悪態をついたりなどするのです。しかし私は覚悟は決めておりますし、
産褥半ばに動いたり気を揉んだりしては悪いと思うものですから、つとめて静かにしていて
ともかく21日間というもの、いかに毒づかれても動かずにおりました。
そこで自分の部屋以外に起っていたことを知らずにおりました。

母は実はと前置きをして、一部始終の顛末を物語ってくれました。
私が産褥にいる間に夏目が父にあてて再三私を戻すから引き取ってくれ
と申してやりましたが、そんなことを言ったって当人は今お産で寝ているんだから、
いずれ床上げでも済んだら私の意志も聞いた上でご相談しましょう、
こういう返事をその都度出しておいたものだと申すことでした。
私に聞かしては良くないというので今日まで黙っていたということ、
父は夏目の家に私がいることを良いとも悪いとも言ってはいないということ、
結局当人の私の意志一つでどうとも決するがいいということ、
ともかく治ってからゆっくり話をしようと言ってることなどを話してくれました。
夏目の兄さんもたいそう私を気の毒がって、飯も食わせないなんかというわけではないし、
ともかくあなたがいてくれなくてはどうにもならないんだからと
慰めたり励ましたりして下さいました。

その頃は朝洋服を着せようとすればあっちへ行っていろと頭から怒鳴りつけるので、
前の晩のうちにカラーからネクタイまで揃えておいて朝になるとそっと部屋へ置いておくと
一人で黙って着て出かけます。
出かけますと初めて箒を持って書斎へ入っていって掃除を始めるといった具合でした。
お金なんぞ一文もくれず、お小遣いももとよりくれません。
日用品は通いで取って月末にこれだけかかったと勘定を見せれば
払うのは嫌だとは申さないのだからいいのですが、
手元に小遣いを置いてくれないのには弱りました。
私を呼びますから行ってみますと、部屋の唐紙を開けるが早いか
煙草がないっていきなり煙草盆を放りつける。
お金をくれないのですから煙草の切れるくらいは当たり前なのですが、
ともかく何から何までがこの調子なのだからやりきれたものではありません。
それでもどんなことをされても私が動かないので、
また父のところへ引き取ってくれろ、連れ戻しに来てくれろと言ってやったものです。
父も再三のことではあるし放っておくつもりだったのですが、
それでは返って昂じさせてもと思い直して、
そんなことを言わずに置いてやってくれろと頼みに来ました。
すると、あいつは細工ばかりやって怪しからぬ奴だ、
そうそう頼むんなら当分試験のため置いといてやるかといった具合で、
後で私に申しますには「お前の親父は不人情だ。俺の言うことをうわの空で聞いているが、
おおかた俺をキチガイだとでも思って相手にしないんだろう、怪しからん」
とたいそうな剣幕です。ともかく親父が頼むから試験的に置くことにはしたが、
俺はどうもお前が気に食わないから、そのうちには帰ってもらおう。
私もそう言われてへえへえと負けているわけにはいかず
「私は悪いことはしないのだから、追い出される理由はありません。
それに子供を残しておめおめと出て行きますものですか。
私だってこの通り足もあることだし、追い出したってまた帰ってくるまでのことです」
と抗弁して、
するとしばらくして父宛の手紙を書いて持ってきて、これを里へ持って行けともうします。
離縁状に違いないので「手紙なら3銭の切手を貼って出さしたらいいじゃありませんか」
と言ったわけなのです。私がどうしてもその手にのらないので、
今度は歳暮へ行け、やれ年始にちょっと顔を出してこいと誘いをかけます。
ともかく私を邪魔にしてなんとか里へ追いやろうとするのです。

この頃は何かに追跡でもされてる気持ちなのかそれとも脅かされるのか、
妙に頭が興奮状態になっていて夜中によく眠れないらしいのです。
夜中ふいに起きて、雨戸を開けて寒い寒い庭に飛び出します。
息を殺して寝たふりをして聞き耳を立てていますと、やがて何事もなく戻って参ります。
かと思うと、真夜中に書斎でドタン、バタン、ガラガラと
えらい騒ぎが持ち上がることがあります。
これも仕方がないので出たいのをじっとこらえておりますと、
やがてそれも一時で騒ぎもひっそり静まってしまいます。
翌朝学校へ出るが早いか書斎に入ってみますと、ランプのホヤは粉みじんに割れている、
火鉢の灰は畳一面に降っている、鉄瓶の蓋はとんでもないところにごろついている、
二度と見られた部屋の模様じゃありません。
大掃除をしておくと、帰ってきてまたけろりとしてそこに入っております。

追い出された女中が家の内情をよく知っているので、私や子供が気の毒だとあって、
夏目が学校へ出た時間を見計らってこそこそ裏口から手伝いに来てくれて、
洗濯をしてくれるやら片づけ物をしてくれるやら、何かと面倒を見てくれて、
また夕方になって夏目が帰ってくる頃になると逃げて帰るなどという親切者もありました。

それよりもおかしいのは向かいの下宿屋にいるある書生さんに対する仕打ちです。
ちょうどその書生さんの二階の部屋から書斎が見下ろされる具合になっていて、
毎晩部屋の窓に明かりがついて、書生さんが相当高い声で音読するのです。
そこへ時たまお友達が遊びに来る、そうするとやはり大きな声で話をしているのです。
それがいちいち夏目の異常な耳には、穏やかならぬ自分の噂や陰口に響くらしいのです。
そうして高いところから始終こちらの方を覗いて監視している、それが気になって
仕方のないところへ学校の始まる時間はどこでもたいがい同じですから、
夏目が出かける頃になるとその学生も出かける支度をして夏目の後からついて行く。
あれは姿こそは学生だが、実際は自分をつけている探偵に違いない、
こう一人で決めているのです。学生さんこそいい面の皮です。
そこで朝起きて顔を洗ってこれから御飯という時になると、
まず下宿の書生さんの部屋の方を向いて大きな声で聞こえよがしに怒鳴るのです。
「おい、探偵君、今日は何時に学校へ行くかね」とか
「探偵君、今日のお出かけは何時だよ」とか
自分ではからかっているつもりか、そんなにコソコソついて来なくたって、
こちらで堂々と教えてやるよといった具合に、いっぱし上手に出たつもりらしいのです。
それを毎日毎朝やるのだから、
書生さんも変なキチガイオヤジだなぐらいに思っていたことでしょう。

その頃書斎に入ってみると、
机の上に墨黒々と半紙にこういう意味の文句が書いて乗せてありました。
「余の周囲の者、ことごとくみな狂人なり。
それがため余もまた狂人の真似をせざるべからず。
ゆえに周囲の狂人の全快を待って、余も佯狂をやめるも遅からず」
気味の悪いたらありませんでした。

この時以後気のついたことですが、
頭の悪くなる前には、まるで酒に酔っ払ったように顔が上気するのです。
初めはそんなことに気がつきませんでしたが、後ではそれが分かり、
子供たちまで上の方の娘などはそれを知っていくら前の晩にニコニコしていても、
顔がゆだったように火照っている時には、それ明日またと警戒しています。
ときまって翌朝になると、がらりと雲行きが変わるのだから不思議です。

父もとうとうしまいに、鏡子は理由がないから絶対に離縁は受けないと言うし、
私もまた同意だ、第一夫婦の離籍問題は双方合意の上でなければ法律が許さない、
どうあっても鏡子が嫌だから離縁なさろうと言うのなら、
正式裁判にかけて黒白を決してもらいましょう、
裁判所に願いを出して下さいとこう出たのです。

夏目は離縁話をやたらに持ち出した当時、
最後に父が仕方なしに法律云々を担ぎ出したのに対して、
おまえの親父は不人情だ、法律さえ担ぎ出せばいいと思っているが、本当に怪しからん、
俺はそんな奴は大嫌いだから今後絶対お前の親や親戚とは交際しないことにする
と申しますから、それからというもの婚礼葬式その他一切の親類間の交際は
私一人が引き受けて夏目は一切出ないことにしていたのです。
それが親類の間にも通りものになって、夏目だけは特別待遇にされていたのです。
ところが鈴木の妹のところのお父さんが亡くなられた時にはどうした風の吹きまわしか、
前の晩にお悔やみにも行くし、葬式の当日には俺も行こうということになって、
機嫌良くフロックコートにシルクハットで私と並んで俥で出かけましたが、
先方ではてっきり夏目は来ないものと決めておりますので、
お姉様の馬車の席は取ってあるが夏目さんのは取ってない、
すまないが夏目さんは俥で行ってもらえまいかと頼みますので、
私がそのことを伝えますと、よろしいと承知してくれました。
そこで私は馬車に乗って別れ別れに葬儀場へ行ったのです。
いよいよ読経も始まり焼香も始まろうというのに夏目の姿が見えません。
とうとうしまいまで姿を見せません。帰ってみると大変な怒り方です。
「なぜ俺を置いてけぼりにする」とまあこうなんです。
「だって一人で行って下さいとお頼みしたら、よろしいと承知なすったじゃありませんか」
「あの場合、そう返事するほか仕方がないじゃないか」
それから幾日か過ぎて、近所で鈴木に会いました。
「夏目さんが葬式以来大変怒ってられるというから、謝ってこようと思って」と申しますから、
「およしなさいよ、くだらない。また例ののが出たのです。
だから気にすることはありませんよ」
「病気だから仕方ないやね。一緒の馬車で行ったら行ったで
それじゃよそうと言うかもしれないし、お寺へ着いても
あの坊主のお経の読み方が気に食わないなんて怒り出すかもしれないんだから」
とそのまま笑って後戻りしたことがあります。

この年の暮れ頃からどう気が向いたものか、突然物を書き始めました。
長い間書きたくてたまらないのをこらえていた形だったので、
書き出せばほとんど一気呵成に続けざまにかいたようです。
書いているのを見るといかにも楽しそうで、夜なんぞも一番遅くて12時、1時頃で、
たいがいは学校から帰ってきて夕食前後10時頃までに苦もなく書いてしまう有様でした。
『坊ちゃん』『草枕』などという比較的長い物でも、
5日か1週間とはでなかったように思います。
多くは一晩か二晩ぐらいで書いたかと覚えております。
徹夜なんかしたり、はたで見る目も痛々しいほど苦しんでいる様子がとんとありませんので、
よく文学者の方がそんな苦心談をされるのが、
そんな経験のない私にはまったく腑に落ちないくらいのものでした。
だからこんな片手間な楽なことをして、それで書く当人はおもしろく、
私たちの生活がいくらか楽になるのだからこんなうまいことはないくらいに思ったものです。

夜中の3時頃に陣痛が起こって痛み出したのですが、
私はいつもお産が重い方なので明日の正午頃でなければ生まれまい、
まあまあこの時刻に人騒がせをするでもなかろうと我慢してますと、
4時頃にどうにも我慢ができません。夏目に起きてもらい
女中をお医者さんのところへ走らせて、かかりつけの産婆へ電話をかけさせました。
だんだん痛みは激しくなる一方で、これではならないというので、誰でもかまわん、
付近の産婆を起して連れてきてくれというわけでまた女中が走り出します。
5時にもなるとどやら生まれそうな気配ですからさあ困りました。
もうあなた生まれそうですというので、夏目の手につかまってウンウン言っているうちに、
とうとう生まれっちまいました。
私は当の産婦で動きもできず、夏目も取り上げ婆さんは初めてのことだから
どうしたらいいのかさっぱりわからない。
ともかく脱脂綿で赤ん坊の顔を押さえておいて下さいと申します。
よしきたとばかりに1ポンドの脱脂綿で夏目が上から押さえているのですが、
ナマコのようにいっこう捕えどころがなく、プリプリ動くような動かないような、
すこぶる要領を得ない動き方で気味の悪いたらない。
そこへ産婆が飛び込んできて、やっとのことで大役を明け渡したのですが、
これには夏目も度肝を抜かれたようでした。これが四女の愛子で、
「愛子さんはお父さんの子じゃない。弁天橋の下で拾ってきたのだ」
などと夏目がからかいますと、
「あら、いやだ。私が生まれた時、自分じゃ脱脂綿で私を押さえていたくせに」
とさも知っているのにと言わぬばかりにあべこべに食ってかかります。
「こいつ、つまらないことをいつの間に聞いているんだい」
などと笑っていたことがよくありました。

夏目が人様の世話をしてかなり面倒を見ては、
後で何だか裏切られたような気持にされたことが時々あったことを申し上げましょう。
夏目は涙もろい質で、人の気の毒な話などにはすぐに同情してしまう方でしたし、
また頼まれれば欲得を離れてかなり骨折って何かと面倒を見る質のひとでした。
他人なんかは頼りにならないものだと口癖に申しておりましたが、
頼まれれば嫌だとは言わないで損ばかりしていたものです。
ある時何かの拍子で私が「それほどにすることもないじゃありませんか。
どうせ人に親切を尽くしても、こちらの心は通わないで、
結局はつまらない目に会うぐらいが関の山ですから」
といつも裏切られることの多いのを申しますと、夏目は
「親切を尽くそうというこちらにまで不親切な心を起させるのは、つまり先方が悪いんだね」
としんみり申していたことがございます。
冷たい、理知的な、物を離れて眺めているだけの人のように取られもしたようですが、
元来ずいぶんと情け深い情味の厚い人だったように思われます。
何よりも恐ろしく几帳面でございました。だから約束なんかは本当に堅いものでした。
その代り、人がそれを破ったりするようなことがあると、
いっぺんにその人に対する信用をなくするというような傾きもありました。

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by vMUGIv | 2011-02-07 00:00 | 明治


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