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森鴎外 その15

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鴎外の後妻 森しげの小説 『産』 明治43年5月発表

富子の大きい大きい張り切れさうな腹からは、今にも産があるかもしれない。
恐ろしいことである。物心を覚えてから病気と言つたら、
12の時大磯へ避暑に行つてゐるうちに軽い麻疹をしたのと、
去年の春インフルエンザの念入りなのをしたばかりで、
20になる今日までおできらしいおでき一つできたこともない。
それだから苦しいことには経験がない。経験がないのでますます案じられる。
さういふ時に限つて腹の中で赤ちやんがひどく暴れる。
ゆるゆる腹を撫でまはすとやっとおとなしくなる。
生まれてからは可愛いものかしらぬが、腹にいる間は実に気味の悪いものである。

産をする場所は夫の家だの病院だの里の家だのといろいろの説が出たが、
とうとう青山の里で生むことに決まつた。
そこでついこの間富子は大きい腹を抱へて、夫の家からここへやつてきたのである。
母親はどう慰めてくれても産は心配せずにはゐられない。
しかしそればかりならまだいいが、その他に一つつらいことがある。
それは見舞つてくれる夫を待ち暮らす心持ちなのである。
女中が小走りにやつてきて曙町の旦那様がお出でになりましたと言ふと、
隠し切れない嬉しさが富子の顔にあふれる。
「どうしたい。小僧はまだ出て来ないかなあ。いいあんばいだ。
丹波君が帰つて来るまで生んではいけないよ」
「そんな無理をおつしやつては困るわ。
さつきお瑩さんが来ましてもう生まれるかもしれませんと言ひましたから、
今夜から泊まりに来てくれるやうに頼みましたの」
「それはいい。あの人がゐてくれれば安心だ」
「丹波さんはどうなすつたのでせう。
こんな身体でドイツから帰つて来る方を待つてゐるのですもの。危ない話ね」
「なに、いよいよ医者の手が要る時になればどうにでもするよ。
しかしまあ、なるだけ丹波の帰つて来てからの方がいい」
母親は大野の好む菓子を持つて入つて来た。
「今日は友子が子供を連れて俊雄の両親のところへ行きましてね。
帰りが遅くなつたから泊まつてくると申しましたのです。
それで富子は寂しがつてゐたところでした」
真面目な母親に出てこられたので、たとひ夫ではあつても男の来たのを
嬉しがつてゐるのが恥づかしいやうに思ふので富子は顔を赤くしてゐる。
友子といふ妹は一月ばかり前に玉のような男の子を生んだのである。
小説などでは生まれる子をみな玉のやうだと形容するが、
実際これまで見た赤ん坊といふものは
色沢が汚らしくつて薄毛がもぢやもぢや生えてゐて気味の悪いものである。
妹の生んだ赤ん坊はそれとは違ふ。小さいなりに、目鼻が目鼻らしくできてゐた。
あれなら玉のやうなとも言はれるのである。

「しめた、しめた。丹波君が昨日帰つてきたさうだ。
明日は午前のうちにここへくると言ふのだ。もう御都合でも何時でもお生みなさい」
「まあ、良かった。それでは私が生みさへすればいいことになりましたわね。
どうか友さんのやうな子が欲しいと思ひますわ」
「亭主が悪いから駄目だよ」
「さうでせうか」
「明日また来るがね、今夜は松井君が来るはずになつてゐるから、俺はもう帰るよ。
なんだい、その顔は。しやうのないお嬢様だね。
今に赤ちやんが生まれると、おっ母さんだ。いいかい」
「だつて、私寂しいのですもの」
「俺だつて寂しいよ」
「嘘、嘘。本ばかり読んでいらつしやるくせに」
「本ぐらひ読むさ。本のヤキモチを焼く奴があるか。
俺はさう色道専門になるわけにはいかない」
「まあ、口の悪い方ね。まったく別れてゐては寂しいのですもの」
「それだから、俺が世話をしてやらう、曙町で生めと言つたのに、聞かないのだもの。
寂しいくらひ我慢しろ。さうして早く身軽になつて帰つてくるさ」
「さうおつしやると、なんだか子供を邪魔になすつていらつしやるやうですわ」
富子の心にはふと結婚した頃、子がいる、子がいらぬと言つて争つた時のことが浮かんだ。
「誰が邪魔にするものか。生まれてごらん、お前より俺の方が可愛がるから」
「お腹にゐるうちは邪魔で、生まれればお可愛がりなさるの」
「とにかく、その腹の迫り出した風はあんまり立派ではないよ」
「嫌な方」
「好きな奴」
「ほんとにお帰りあそばしては嫌よ」
「では、もう5分間」

富子は大野を送り出して、湯に入つて横になつた。
うとうとして目を覚ますと、腹が痛くなつたやうで大変に苦しい。
富子は女中を呼んだ。「お瑩さんにちよつと来ていただいておくれ」
お瑩さんはニコニコして入つて来た。「ちよつと拝見いたしませう」
お瑩さんは内診をした。「奥さん、もうお産になりますよ」
富子は十月の間覚悟をしてゐたことだが、いまさらのやうにぎつくりした。
顔色も変わつたのである。母親とお瑩さんが産褥の支度をする。
「お母さん、あなた生んでしまふまで、ここへいらつしやつては嫌よ」
「ええ、ええ、来ませんよ」と言つて、母親は出て行つた。

そのうち大野も来た。「とうとう生まれるね。だいぶ陣痛の間が近いね」 
大野は苦しむ富子を優しくいたはつてゐる。
間もなく西洋から帰りたての丹波博士が来た。大野は丹波博士を隣の間に連れて行つた。
二人は西洋では二年ほど一緒にゐた親しい間柄なのに、久しぶりで会つたので
もう産婦のことなんかは忘れたやうに何やら話し合つて笑ひ興じている。
富子はもつと親切にしてくれてもよさそうなものだと思つたが、いやいや、
笑つてゐようが座睡をしてゐようが、産科の技術では日本に他に真似のできない
丹波博士がゐてくれるのだからありがたいと思はなくてはならない。
しかし憎らしいのは夫である。人の苦しむのを他所事のやうに思つてゐるのだらうか。
そんなことを思つてゐたうちは、
まだまだいろいろなことを思ふだけの余裕があつたのである。

大野も来て富子の両手を握つてゐてくれる。苦しい最中に几帳面な夫は、
富子の頭が枕から落ちさうになるのを枕の真ん中へ持つていかうとする。
「どうぞそのままにしておいてください」と言ひたいのだが、
それだけの言葉数はとても口から出ないのである。
「おぎやあ」とあまり冴えない声で泣いた。
母親が入つて来て、富子に水を飲ませた。
富子はやうやうのことで、ほつとため息をついた。
お瑩さんの話に、初産には珍しい軽い産であつたさうだ。
富子はそれでは重かつたら、どうだらうと思った。
母親は赤ん坊を連れてきて見せた。
富子は一目赤ん坊を見て失望せずにはゐられなかつた。
それなのに、母親も大野も平気な顔でその赤ん坊を眺めている。
なぜ変に汚い子だと言はないかと富子は不審に思つた。
だんだん人が帰つたとみえて、富子の周囲はひつそりしてくる。
黙つて目をつむつていると、枕元で母親と大野とが話をしてゐるのが聞こえる。
「友さんの子があまり綺麗だったので不平なんですよ」
察しのいい夫はもう富子の心持ちを知つてゐるのである。
「生まれたばかりでわかるものですか。
お祖父さんもなかなか丈夫な賢そうな子だと言ひましたよ」
賢い子か不肖な子かいくらお祖父さんにでも、そんなことはわかるまいと富子は思った。

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by vMUGIv | 2011-01-15 00:00 | 明治

森鴎外 その14

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鴎外の後妻 森しげの小説 『内証事』 明治43年9月発表

花嫁の豊子はお里付の玉を丸い綺麗な手で差し招いて
「すまないけれど、私どうしたのか、眠くつてたまらないの。
今朝もあの方に起こされたの。
それからまだ間もないのに、眠くつて眠くつてたまらないの。
あんまり眠いので胸が悪くなるのだもの。
少し寝るからお前そこで番をしてゐて、誰か来たら起こしておくれ」
豊子はいつたい寝坊なのであるが、
この二十日ばかりは特別で寝ても寝ても限りなく眠いのである。
今まで覚えのないことなので、自分でもただ不思議に思ふより他はない。
お里付の玉に帳番させて花嫁は夫の紫檀の机の上に大きなひさし髪を載せるやいなや、
たわいもなく寝入るのである。
「奥様、どなたかが上がつていらつしやいますよ」
豊子はびつくりして顔をあげた。上がつて来たのは姑である。
「豊さん、いま菅野の奥さんから電話でね。暇なら遊びに来てくれとおつしやるのだが、
お天気もいいし清雄の退ける頃までに帰つてくれば良いから、出かけてごらんなさいよ。
先だつて見せた帯を、下手だが私がいま仕立上げたから、締めてみて下さいね」
菅野さんの奥さんと言ふのは、自分より三月ほど前に勧業銀行の評議役菅野道之助と
結婚した学校友達の畠山稲子さんのことである。
姑に勧められて豊子は支度をして出かけた。
さすが19の花嫁なのだから、まさか俥の上で居眠りはしない。
朝御飯を済ませたばかりで昼には2時間も間があるのに、
スカスカとお腹が空いて我慢が出来ないようにひもじいのである。
豊子は三度の食事の他に食べるのは水菓子くらゐのもので間食が嫌なのである。
普段はその三食も待ちかねるといふようなことはなかったに、
この眠いのが始まると同時に恐ろしく食ひしん坊になつてしまったのである。
かうやつて俥に乗つてゐる間も、西洋料理店や鰻屋の看板がひどく目につく。
往来に立つて焼き芋をかじつてゐる子供がうらやましくなる。
今まで例のないことなので病気かとも思つてみるが、
眠いのと食べたいのより他に苦しいところは少しもない。

「ああ、暑い。ゆつくり入つてゐたの。そりやあいいお湯屋よ。
後でもういつぺん御一緒に行きませう」
「もうよつぽどお目にかからなかつたのね。お帰りはいつ頃」
「夕方でなければ帰らないの。
帰つたつて友達なんかに来ていただくのが大好きなんですもの、喜びますわ」
稲子さんは手をたたいてシユウクリイムだのココアだの栗だのいろいろ取り寄せた。
「さ、召し上がれよ。私そりやあ食ひしん坊になつたのよ。一日食べ通しなの」
豊子は目を見張った。「ちよつと、そりゃあいつ頃からなの」
「もうこの頃だんだん下火になつてきたのよ。一番激しかつたのが先月半ば頃だつたわ。
一時はみつともないくらゐ」
「まあ、詳しく聞かせてちやうだいよ。
私も急に食ひしん坊になつたので、自分であきれているのですもの」
「あら、あなたもなの。私も初めは驚いたわ。
そんならもしかすると、あなた大変よ。そして眠くはないこと」
「ええ、眠くつてよ。大変つてどうなるの」
「お話ししなくつても、あなただつてもう少し経てばおわかりになるわ」
「だつて不思議でたまらないのですもの。やつぱり一種の胃病なんでせうか」
「実はね、少しおかしいことだから内証よ。それはツワリのせいですつて。
ツワリと言つても人によつていろいろ違ふそうですが、
お腹が空いて眠くなるのがあるんださうですよ」
豊子は夫がこの前江の島へ泊りがけに連れて行つてくれたのである。
毎月決まつてある嫌な日に当たるので、ビクビクしながら出かけたが、
いいあんばいに無事で家に帰つてきた。
それからいまだにその嫌な日は来ないのである。
今までは思ひもよらなかつたが、それでは妊娠したのかしらと
恥ずかしいよりは恐ろしく思つた。
「まあできたものなら生むより他しやうがないわ。私病院で生むつもりなの」
「私わからなくつてよ。今までまるで気がつかなかったのですもの。
あなた大変気楽なのね。私姉がお産するときそばにゐて、そのうなり声つてないのよ。
ちやうど庭に植木屋が入つてゐた時だつたの。みつともないからあんな声を出して
くれなければいいと思ふのに、うならないわけにはいかないのですつて。大変なものね」
「脅かしては嫌よ。私も初めは驚いたけれど、この頃は覚悟してしまつたの。
あなたは男と女とどつちがいいの」
「さうね、うちは軍人なのだから、男の方がいいでせう」
「私は女の方がいいと思うのよ。だつてね、
あんまり頭を使つた者の子は駄目だと言ふぢやありませんか」
稲子さんの夫は去年法科大学を優等で卒業した俊才なのである。

女中が溜塗の高膳を運び出した。
「もう御飯時でせうか。相変わらず御厄介になるのね」
「少し時間は早いのですけれど、おひもじいだらうと思つて気を利かせたのよ」
「思ひやりのいい方ね。どこのお料理。大変結構ね」
「こんな身体の時はまづい物はないわね。私も盛りの時分銀座まで買い物に行つたのよ。
もうお腹が空いて家まで帰れないのでせう。
それでも一人で食べ物屋へ入るわけにはいかないわね。
親類の家に寄つて西洋料理を取つてもらつて食べましたの」
久しぶりで会つた二人はいろいろ話があるはずだが、
眠いのとお腹の空くのとを繰り返して話し合ふのである。
豊子のお腹は御馳走で一時満足した。
そのうち次第に眠気がさしてきて、美しい稲子さんの顔がぼやけてくる。
「私今日はもうお暇いたしますわ」
「それではご気分が悪くなるといけませんからお留申さないわ。
お母様にも大隅さんにもよろしく」
「私こそお留守へ出て御厄介になりました。お帰りになりましたらよろしく」
豊子はそこそこに暇乞ひをして、待たせてある俥に乗つた。

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鴎外の息子 森於菟

父はもっぱら祖母を立ててはいたが、母の言う理屈も世間一般の標準から見て
わがままとしか思われぬの中にかえって面白い観察があるのを感じたと見え、
「お前なんぞはお祖母さんの言う通りで他に考えはないと思っているが、
そうばかりも行かないものだよ」と言ったことがある。
また母がこの頃数篇の小説を書き父の補筆を得て雑誌に発表したのも、
父から「まあお前の思ってる通りのことを書いてごらん」と言われたのに端を発し、
父が心理学的見地から、いつも鬱積して同じことを繰り返す不満を
筆にしたら気が晴れるということも考えたのではなかったか。

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by vMUGIv | 2011-01-14 00:00 | 明治

森鴎外 その13

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鴎外の後妻 森しげの小説 『波瀾』 明治42年12月発表

富子は法学博士大野豊と東京で結婚式を挙げた。ともに再婚であった。
翌日大野の赴任地小倉へ出発する。

しばらく黙つて歩きながら、「初めつからお前と結婚すれば好かつたなあ」と言って、
大野は富子の手を堅く握つた。
「そんなに早くではわたくしは子供ですもの」と富子は甘えるように言った。
「さうだつた。俺もちつと若すぎるように思つたが、婆さんすぎるよりましだからね」
と大野は笑った。
「女は子供を産むとすぐお婆さんになると申しますもの」
「子を産むのは良し悪しだ」
富子は思ひがけないので返事ができなかつた。
「女は子を産むと損ねる。
せっかく綺麗な顔や髪をだいなしにしてしまふのは馬鹿馬鹿しいではないか」
大野は当たり前のつもりでかう言った。

「小倉の家へ行つたら慣れている下女もゐるのだから、お前はなんにもしなくつても好い。
美術品だから損ねないように大事にしておくよ」
妻にもらつた者に子を産まなくてもいいと言つたり、
なんにもしなくていいと言ふ大野の気持ちが分かりかねたが、
どうもなんだか嬉しくなかつた。
「わたくしはなんにもできませんが、そのうち慣れませうからどうぞ御指図あそばして」
大野はかう言つた。「俺は妻と下女を共通にするのは嫌だ」

大野は九日の日から事務所へ出勤した。
富子は待つといふことを始めて覚えたので、今まで約束をした友だちなんぞを待つたのは
あれは待つたといふものではないとまで思つた。
約束どおり三時少し過ぎに帰つてきた大野は
嬉しそうに出迎えた富子の頬を両手で押へてキツスをした。

大野を送り出して、二階へ駆け上がつて自分たちの床を上げかけた。
その時富子は何か変つたことを発見したらしい様子で、
急に真青になつてしばらくは身動きもしなかつた。
富子の目からは冷たい涙がこぼれた。



ここはわかりにくいが、要するに富子は布団の下から避妊具を見つけたのである。


夫はたしかに優しくしてくれる。可愛がつてくれる。
しかし夫のは可愛いから可愛がるのではなくて、義務で可愛がるのではあるまいか。
うかうかと罪もなく喜ばせられてゐるとき、
ふと夫は自分をおもちやにする、一時の慰みにするといふ風に思はれることがある。
それが今こそは夫の心持ちを確かめることができたのである。
これでは全く自分は死の宣告を受けたに等しい。
しかしこの身体を無駄なものにしてしまふのは嫌だ。
自然に背いたことをしているのは恐ろしい。
こつちでは一日も大野なしには生きてゐられないやうに思つてゐるのに、
大野が平気でこんなことをしてゐるのは
あまりに残酷だ、情けない、男らしくないと富子は思つたのである。

富子は眠られなかつた。夫は寝入つたのか静かにしてゐる。
富子ひとり目を開いて大野のことをいろいろ研究してゐる。
夫はありふれた洋行帰りとは違つてよほど長い間外国にゐたので、
世間で言うハイカラアとは気風が変わつてゐる。どこか深く西洋化してゐるらしい。
それで東洋風の道徳の上から見るとできないやうなことも平気でするのではあるまいか。
今の出来事で見ると、
妻を妻と思つてゐない、家庭といふものを尊重しない夫の軽薄な考へがよく分かつてゐる。
こんな風に分かつているうちはまだ良いが、この上またどんな事があるかもしれない。

「なるほど、妻があつて子供を欲しがらないと言ふと冷酷だとも言えば言えるがね、
実はお前のためを思つたのだ。
お前の髪が抜けたり萎びたりするのを、あまりに惜しいやうに思つたのだ。
せっかく綺麗なお前と夫婦になつたのだから、
所帯じみさせないで一年や二年は気楽に散歩でもしてゐたかったのだ」
「では、わたくしは散歩のお供に参つたのでごさいませうか」
「そう曲がつて聞いてはいけない。
フランスなんぞの女は少しでも容色の衰へることは決してしない。
お前をなるだけ損ねないように保存して置かうと思つたのだ。
俺はいったい考へが世間並ではない。先が見えすぎる。
あまり先の見えるのは人生の幸福ではないかもしれない。
だがお前のためを思つたのには違いない。
それに子供ができると多少生活にも影響が及んでくる。
俺はもとから貧乏人の子だ。貧乏暮しなどは少しも恐れない。
ただお前にはあまり苦労をさせたくないと思つたのだ。」
「あなた初めに御結婚あそばした時には、ぢきお子さんがお生まれになつたでせう」
「その時は俺も若かつた。目の前のことだけで世間を渡つてゐた。
それに前の妻は別嬪ではなかつた。一緒に散歩をしようなどとは実はあまり思わなかった」
「それでも子供が無くつては、もしあなたに見捨てられてしまいました時
わたくしは一人ぼつちになつてしまひますわねえ」
「見捨てるも見捨てないもあるものか。
俺の方で嫌になるか、お前の方で飽きるか、自分たちにだつてわかるものではない。
お前が子供をたくさん産んで醜い女にでもなつたら、
それこそ俺の方で嫌になるかもしれないではないか。
子がかすがいになつて夫婦の縁が固まるといふのは、
夫婦の恋愛といふ話とは矛盾している。
恋愛が無くなつて別れたいのに、かすがいがあつては困るわけだ。
それではかすがいではなくて、西洋で囚人の足を繋ぐあの鎖だ。
かすがいのたとえは、義務から出てゐて恋愛からは出てゐない」
「しかしさう煩悶するには及ばないよ。お前がさう思ふならもう余計な遠慮はしないから」
富子はちょっと赤い顔をした。
「わたくしよく分かりませんからどう致してよろしいか存じませんが、
どうもあんなことはなんとなく恐ろしいやうに思ひますわ」
「それはみんな誤解だ。もう少し一緒にいれば分かるよ」
本能に支配せられている富子には、三人の子を産んで一人の子を流産して
髪は抜け皮膚は弾力を失つて昔のおもかげが無くなるまで、
大野のその時言つたことがはつきりとは分からなかつたのである。

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鴎外の娘 森茉莉

この森しげの小説は
彼女の夫の森鴎外が朱筆で元の文章が見えないほど真っ赤に直したのを、
森しげが真っ赤のまま本屋に渡したものである。
森しげが真っ赤のまま出したのは馬鹿馬鹿しいほど正直な人間だったからで、
鴎外は彼女の真正直を愛していたのである。
森しげは考えるのに小説を書かなかった方が良かったのである。
本人も晩年すごく後悔していた。
たしかに母は詩的な感情の人であって、
一緒に暮らしていて母の感覚が詩的だということは私も知っている。
だがその感覚を文章の中に出すことは上手くはなかったからである。
この『波瀾』を読んでいると、
これがあの母が書いたものだろうかと不思議に思われてくるのである。
心理も細かく深く働く人であるからだ。
なんだか批評らしい批評が書けなかったが、私には批評する興味が持てなかった。
とにかく甘い新婚の生活を、
克明に日記のように書き込んであるというだけの小説なのだからである

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by vMUGIv | 2011-01-13 00:00 | 明治

森鴎外 その12

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鴎外の後妻 森しげの小説 『あだ花』 明治43年1月発表

しげの最初の結婚のモデル小説である。

官僚の娘で美貌の井上富子には多くの縁談が舞い込んだ。
平凡な夫ではなく何か特色のある人物を夫にしようと思う富子は、
多くの縁談の中から豪商の息子橋尾達三郎という美男と見合いをして婚約した。
ある日達三郎が芸者と深い仲であることが新聞に載った。
富子の両親は心を痛めたが、富子は特に嫉妬も何も感じなかった。
橋尾家が芸者とのことは過去のこととして懇願するので、
富子の家も折れて結婚式が挙げられた。
しかし結婚間もなく達三郎は外泊するようになる。
女からの手紙が袂に隠されていたりもする。
達三郎にすれば嫉妬しない富子に対する当てつけなのだが、
当の富子は何も気づかない。
富子には何の不満も無い結婚生活だったのだが、
実家から付いてきた女中が達三郎の放蕩を報告したため
実家から叔父が迎えに来て富子を実家に連れて帰ってしまう。
たった15日間の結婚生活であった。

富子の方ではこんなことを思つてゐた。
東京で有名な金持ちなら、日本で幾たりと言はれる財産家だ。
かう思つて橋尾の息子と向島の百花園で見合いをしたのである。
類のなるだけ少ない人をと思つてゐる富子は男なんか片目でも菊石でも驚かないとまで
極端な考へをしてゐたが、見合いをして橋尾の息子の美しいのには驚いた。
富子はずいぶん器量自慢の娘だ。仲人の奥さんが達三郎さんと富さんなら
実に好い取り合わせだと言つたのを、いかにもさうだと思ふわけにはいかなかつた。
いよいよ橋尾の達三郎を夫に持つとして見れば、
はじめ思つた金持ちで類がないといふ資格に
今一つ容貌で類がないといふ資格が加はつてくると思ふのである。


ある朝、富子は御飯を済ませて新聞を読み始めた。すると紙上でこんな記事を見出した。
日本橋芸者のおカネは、下谷辺の金持ちの息子で達三郎といふ好い男を生捕って
大浮かれに浮かれてゐると書いてあるのである。
富子はこれを読んでもわずかも驚かない。嫉妬といふやうな心持も起こらない。
富子は達三郎が芸者をどうしようと別に心配をしない。
富子は男の顔を気をつけて見るやうにはなつてゐるが、
それはただ美しいと思つて絵を見るやうな心持になつて見るのである。
恋愛といふものは無い。恋愛が無いので嫉妬も無いのであらう。
富子はさういふ風で平気でゐるが、この記事を見た両親の心配は一通りではなかつた。


井上家の書生との会話
「富子さん、僕は少し話がありますがね。あの達三郎といふ人のことですね。
新聞にあんな記事が出ましたが、あれが事実でもあなたは行くのですか」
「さうね。芸者がどうとかだといふのでせう。
どうせああいふ境遇の人はそのぐらいの事はあるものなのではないでせうか」
「あなたはいったいどんな考へで夫を決めたのです」
「わたし本当はよくは分からなくてよ。ただどうせ夫を持たなくては済まないのだが、
つい平凡な人を持ちたくはないでせう。なにか特色のある人をと思ふの。
そこでいろいろ考へてみるうちに、
つひ位だの学だのといふ方面から富といふ方面に転じてしまつたの」
「さうすると富なんといふものを、
学やなんぞと同じやうな価値のあるもののやうに思ふのですね」
「さうよ。金持ちにだつて容易くはなれないわ。
それに初めわたしの考へにはまるでなかつたことなのですが、ずいぶん美しい人なのよ。
美もやっぱり一つの特色ではないでせうか」


父の弟である叔父との会話
「義姉さん、橋尾の方は断ることに決まりましたか」
「いいえ、まだはつきり決まりませんの」
「何をぐづぐづしてゐるのだろう。金持ちなんてくだらないではありませんか。
あまり貧乏でも感心しないが、
橋尾の財産のやうに金といふものがたくさん入るもんではないのですよ」
「さうですとも。それにわたしは達三郎の年の若すぎるのが心配でね。
あの年頃では何がなんだか分かるものではありませんからね。当分はまあいいとしても、
富子が後になつてから苦労をするやうなことがありはしなからうかと思つてね」
「僕はどうも橋尾へ行くのは感心しないのだよ。
痛いこと知らずの金持ちの息子を夫に持つのが幸せだと思ふのかい。
金持ちのお嫁さんといふものが良いものだとは僕なんぞには思はれない」
「だつて叔父様、わたしは洋食が食べられませんもの。
交際社会へ出る人の所へは行かれませんわ」
「洋食が食べられませんものは振ってゐるね。
何爵夫人になつて交際社会へ出るのも幸せではない。大人物を夫に持つのも考へものだ。
お前は好い女だと思つて虚栄が出てゐる。それはいけない。
つまり僕なんかはお前の悪く言う平凡な人が一番良いと思ふのだ。
特色もない代りに欠点もない人の所へ行くのがお前のために幸せなのだ。
華々しいことはなくつてもしつかりとした人で、お前を愛して保護してくれる人が良い。
富だの位だのより、夫には適当な人物を選ばなくてはいけない。
金持ちの息子が女の好いくらいを有難がるものか。すぐ変わつたのが欲しくなる」
「叔父様あんまりよ。
わたし女の好いのを有難がられに橋尾へ行かうと思つたのではなくつてよ」
「お前がさう思はなくつても、女が悪ければ橋尾ではもらわない。
しかし綺麗な女を幾人でも勝手に手に入れることのできる橋尾へ行くより、
相応な家へ行つた方が御自分のためだ。お前は求めて苦労をするのだ。馬鹿な奴だなあ」


仲人鶴岡夫人との会話
「ほんとうに先だつてからの新聞のことで大変おつ母さんにも御心配をかけましたわね。
おつ母さんにもよくわけをお話し致しますがね、
橋尾さんの方でも今日になって息子が不品行だからといって、
嫁の里から破談を申し込まれては困るとおっしゃって大変な御心配なのです。
なに、なんでもない事なんですよ。
よつぽど前にちよつと冗談を言つたことがあつたのをあんな風に書いたのださうですの。
達三郎さんも、いつそ僕がこちらへ行つて話してもいいのだが、
きまりが悪いなあなんかと言つてゐましたつけ」
達三郎はかう言つたというのである。
『私もあの女と再び関係する様なことは決してありません。大丈夫です。
富さんをもらう以上は、自分の身と同じやうに大事に保護してあげますから安心して下さい』
これで橋尾問題は一頓挫には出会ったものの、とうとう決まった。


初夜のこと
しかし、ああこの顔。この顔がどうして夕べは恐ろしくなつたのだろう。
美しい美しいと思つてゐた人の顔が、忽然異様に醜くなつたのではつと驚く。
もしや病気かと慌てて枕元にあつた湯冷ましを勧める。正直な看護婦の心である。
里の母に用があると言ひ出す。もうとつくにお帰りになつたと言はれる。
そんなら付いてきた女中をと言ふ。花が寒さうな寝巻姿で出て来る。
それを帰さずに置いたので、花はぶるぶる震へてゐたのである。


翌朝、達三郎との会話
「俺はものを隠すの嫌だから話すが、実は俺の両親にもお前の御両親にも
あの女と関係を断つた様に言つたが、まったくさうはいかないのだ。
いいだろう。商売には似合はない可愛い女だからね、お前も可愛がってやっておくれ」
「わたくしが可愛がってはおかしかないでせうか」
「なに、おかしかないよ。俺も無闇に惚れられたものだから仕様がないのだ」
花嫁に対しての話としてはずいぶん変わつた話である。
しかし富子には嫉妬などは起こらない。
嫉妬といふものが起るほど情生活が発展してゐないのである。


達三郎の思い
達三郎はふいとおカネのことを思ひ出した。
たとひ女房は持つてもお前は一生見捨てないと堅い約束をして、
今度のことが起つてから痩せるように苦労するおカネをやつとのことで承知させたのである。
そんな面倒な思いをして持つたこの女房がどうも無神経なやうに思はれてならない。
男に目の肥えてゐる玄人のおカネが命懸けで惚れてゐる俺ではないか。
その俺を亭主に持つて別段ありがたいとも思つてゐないやうだ。
貧乏士族の娘のくせにあまりいい気になつてゐる。ああ、つまらないと思つた。


女中花との会話
達三郎が帰つてきた。
「男は行きたいと思ふと我慢ができない。すぐ行かなくつてはならないものだ。
女とは違ふ。仕様のないものだねえ」
「わたくし女でも行きたい所へはすぐ行くのが好きでございますわ」
「お前さん達の行きたい所とはすこし違ふよ」
達三郎はかう言つてひとり笑つた。

翌日から達三郎は父の橋尾銀行へ出勤した。
この銀行通ひを富子は無心で送り無心で迎へてゐるが、
達三郎が銀行の退ける頃に帰つてきたのは最初の二三日だけで、
おいおい11時になり12時になる。しまひには泊まつてくる日もあつた。
ある日女中の花がかう言った。
「若旦那様のお召をたたみますと、お袂にいつも芸者の手紙が入っております」

達三郎は寝巻に着替へて、今まで着ていた着物を富子の前へ投げ出した。
「この着物は綻びてゐるから縫つておいておくれ」
「わたくし裁縫が下手ですわ」
「そこの破けてゐる所を直すぐらい難しくはないだらう」
達三郎は大きな足音をさせて出て行つた。
「花、このお召を縫つておくれよ」
「そのお袖にも、きつと手紙が入つておりますわ」
花は袂を探つてゐたが、果たして一本の手紙を取り出して富子に見せた。
○○とかいふ待合で待つてゐるといふ女の手紙である。
富子はちよつと見たが、別に何とも思はないらしい様子である。
二人とも世慣れない娘である。
達三郎がこの手紙を袂に入れて綻びを繕はせに出した真意を知らうはずがない。
ただ無頓着か物忘れかのやうに思つてゐる。
競争者のあるのを知らせて女を刺激するとか口説きの種をまくとかいふ手段が、
達三郎のやうな性の男には尋常のことであるとは知らない。


やきもきする周囲
ただ富子は妹が遊びに来るのを待つてゐる。
そして今日か明日かと思ふのに来ないので、どうしたことかと思ふのである。
富子はこんなことばかり思つてゐて、
達三郎が次第に夜更けてから帰るやうになつたのを別に何とも思はないのである。
富子と達三郎とが夫婦になりながらどうも夫婦らしくないといふことは、
夜遊びに耽る達三郎の挙動から人の注意を促して
橋尾家では老夫婦の間に幾回かの秘密な対話があつた。
達三郎が参考に呼び出されたこともあつた。しかしどうも要領を得なかつた。
また富子の里では女中花の通信でやはり夜遊びのことを知つて、
ここでも井上老夫婦の間に幾回かの秘密な対話があつた。
こちらへは媒介をした鶴岡の奥さんさへ呼ばれたことがあるのである。
橋尾の方では、
いかに達三郎が明白な答を避けるやうにしても嫁が大事にもてなしさへすれば
倅があんな挙動をするはずがないと思ふやうになって、
怪訝の目を以て富子を見るやうになつてくる。
井上の方では、新聞に書かれた事件があつたのを
先方の弁解を聞き入れて大事な娘をくれてやつたのに、
婿の無体が言語道断であると思つて憤慨が甚だしい。
両家の密談が度重なる。機関の歯車は回転してゐる。
ただそれに導火を点じた本人の富子だけがぼんやりして、
妹はなぜ遊びにきてくれないのかと待ち暮らしてゐるのである。

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要するに富子は幼くて嫁入りしたもののセックスの知識がない。
初夜の時に達三郎の性欲をにじませた表情を初めて見て、
富子は気分が悪くなったと勘違いして水を飲ませるやら女中を呼びにやるやら大騒ぎをする。
結局達三郎はその夜富子を抱けなかった。次の夜も不首尾に終わる。
とうとう達三郎は新婚3日目にして夜遊びを復活させる。
心配した達三郎の両親が息子を問い質すが、達三郎はまだ抱いていないとは言えず誤魔化す。
達三郎は富子がプライドの高さから自分に身体を許さないのだと勘違いしている。
幼い富子はきれいな顔の達三郎とのままごとのような結婚生活に満足しており、
達三郎が自分をそんな風に思っているとは思ってもいない。
達三郎の外泊が続くにつれて事は大きくなり、結局富子が実家に連れ戻されて離婚となるが、
処女のままの富子を含め登場人物全員が破綻の原因を知らないという物語である。


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鴎外の娘 森茉莉

志げの初婚の相手は、役者のような美男で放蕩三昧の男である。
彼は志げと結婚した当時、玄人の女を一人囲っていた。
美人の嫁をもらったら放蕩が止むかもしれぬというので、
男の母親が見合いをさせたのである。
志げとの結婚後も男の放蕩は止まなかった。
男が家にいたのは三日ぐらいで、女の所に通う生活が再び始まった。
一ヶ月ほどで志げは実家に帰ったのだが、この時に妙な女中が介在している。
だいたい昔の若い女中には空想好きなのが多かった。また、彼女たちは手紙魔だった。
志げに付いて婚家に行った若い女中がちょっとした小説家で、
志げがいかに涙の日々を送っているかを
志げの実家の母親に宛てて三日にあげず書き送った。
母親が驚いて引き取ると言い出し、志げの異母兄が人力車で迎えに行って連れ戻した。
婚家の方の事情はそれほど差し迫ってはいなかった。
夫は帰らないが志げはむしろほっとしている状態で、姑とは平和にやっていたようだ。
たまたま風邪で床についていた姑の部屋で、水薬の分量を間違うまいと
薬ビンの目盛に目を凝らして薬を茶碗に注いだりしていたのである。
異母兄が来た時には志げも姑も驚いたのだが、
何やら訳のわからぬままに人力車に乗せられて帰ったのである。
実家に着くと妹が泣いて取りすがったので志げは驚いたらしい。
そのうちに志げを嫁に迎えた理由もわかり、
そういう所には置けぬと父親も思ったので志げはそのまま婚家には帰らなかった。

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by vMUGIv | 2011-01-12 00:00 | 明治

森鴎外 その11

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鴎外の娘 小堀杏奴

若い時私は青春時代の父について批判的でさえあった。
父がその恋人に到底あきらめることのできないほどの深い恋情を抱きながら、
その恋に殉じようとせず祖母の命にのみ従順であったことである。
ドイツから帰国した父は、これまた祖母の命ずるままに
赤松男爵の娘登志子と愛のない結婚をし一子を挙げている。
父は次第に痩せ衰えてきたので、このまま放置し万一のことがあったらと気遣うあまり、
祖母は自ら勧めた結婚ではあったけれど、今度は率先して離婚を望むようになった。
それ以降父の長い独身生活が始まる。
そうして、またしても祖母の意思に基づき、父と私の生母志げとの結婚問題が台頭する。

小倉で父は東京へ帰ったら親兄弟と別居して、二人きりの生活をしようと言っていた。
しかし父はその約束を守らなかった。父は嘘をついた訳ではないのであろう。
その時は本当にそんな気持ちでいたのだと思う。
東京へ帰ってくると、すべての事情が違ってしまった。
父は極端な親孝行で、母親の命令には絶対服従であった。
父はなぜ死ぬほど好きであったドイツの恋人を、
祖母の反対のためとはいえ断念しなければならなかったのであろうか。
それだけならまだ良い。日本に帰ると、またその祖母の勧めるまま登志子さんを迎え、
ドイツの恋人をも登志子さんをも同じように不幸にしている。
それだけではない。またしても自分の意志によるものではなく、
これも祖母に勧められるまま志げと結婚し、志げを不幸にしている。
親といえど人間である以上思い違いや誤りを犯すことはあるのだから、
時には親に逆らうまでに至らなくても、
説得して自分の意志を通すくらいの男らしさを持たなかったのであろうか。

父は俸給なども袋のまま祖母の手に渡し、それは祖母が亡くなるまで続いた。
母が何かして下さいと祖母に頼むと
「林には親も兄弟もあるのだから、お前さんたちのことまでにはとても手が届きませんよ」
と言われ、
(それなら私や子供は林太郎のいったい何なのだろう)と情けなく思ったと言う。
初めてのお産の時も、
「茂ちゃん、荒木さんではもう立派に御支度ができたでしょうね」と先手を打たれてしまい、
結局実家の方で全部出産の準備を整えた。
実の親であるとはいえすでに嫁に行って他の家の人になっているのに、
いつまでも金銭上の世話になり続けているのが母にはいかにも心苦しく思われたらしい。
祖母は善良でしっかりした偉いところもある人だが、
物欲に強いことが最も欠点だったと思われる。
魚屋でもなんでも来ると必ず値切って、一銭でも二銭でも負けさせなければ承知しない。
魚屋の方でも心得てしまって、はじめから少し高く値段をつけて来るのを、
祖母は知らずに負けさせてやったと言っては得意になっていた。


私は俥に乗ってある屋敷の長い土塀の前を走っていた。
静かな道にシトシトという車夫の足音がいつまでも聞こえていた。
それほどその塀は長くどこまでも続いていたのである。
前を走っている俥に乗っていた父が振り返って、
ちょっと意味の深そうな微笑をたたえながらしきりとこっちを見ている。
何か面白い物を見つけた時、父がよくする動作だった。
父はステッキを上げ、塀を指して2、3度振って見せた。
私は振り返って母を見た。母は私の後ろの俥に乗っていたのである。
いつも真面目な顔ばかりしている母は、
その時いっそう生真面目なほとんど怒ったような表情をして脇を向いていた。
よほど大きくなって私は母にその家について聞いてみた。
その家は母が父の家へ来る前に嫁いだ人の家であったのだ。

母は17歳の時、その美貌を望まれて当時有名なある銀行家の息子に嫁いだ。
夫となった人は評判の美男子で日本橋の芸妓などと深い関係を結び、
母との結婚が原因となってその女が騒ぎ出して新聞種となり、
まだ若い母は訳もわからぬままに20日余りをその家で過ごしたきり、
ひどく立腹した祖父母に引き取られてしまった。

まず祖母が絶世の美女であった志げを見初める時点から話は始まる。
父の家に来る人の話で、渋谷あたりに広大な屋敷を持っている荒木という人が京都から
舞妓を2人落籍せて囲っているという話が出て、その舞妓というのは間違いで実は2人とも
その家の令嬢だったという話を聞いてひどく面白いと思って縁談を持ち出したものらしい。
当時父は小倉に左遷せられていたのだから、
この縁談は父のあずかり知らぬところで少しずつ具体化せられていった。
母はこの話を私にしながら、
父があれほどの人でありながらなぜ結婚に対してこんないい加減な考えを持ったのか、
ほとんど母親任せといったようなその態度について不平を漏らすのである。

父は当時小倉に勤務していたので、まず祖母と母とが上野で初めて会うことになった。
この時の祖母の母に対する印象は父に送った手紙の中に表れている。
これは父の小説『独身』の一節で、
もちろん原文通りとは思われぬが下のようなものであった。
『前便に申し上げ候井上の嬢さんに引き合わせてくれんと谷田の奥さんが申され候ゆえ、
今日上野へ参りただいま帰りてこの手紙をしたため候。
私と谷田の奥さんと先に参りおり候ところへ、富子さん母上と御一緒に来られ、
俥を降りて立ち居られ候高島田の姿を、初めて見候時には実に驚き候。
世の中にはこの様なる美しき人もあるものかと不思議に思われ候ほどに候。
この人を見せたらばいかに女嫌いのお前様も嫌とは申さるまじと存じ候。
性質は怜悧なることは確かに候。ただ一つ不思議に思われしは、
茶店に憩いて1時間ばかりもいたるに、富子さんは一度も笑わざりしことに候。
ちょうど西洋人の一組同じ茶店にいていろいろおかしきことなどありて
富子さんの母上も私も笑い候に、富子さんは少しも笑わずにおられ候。
何はともあれ、お前様の一日も早く御上京なされ候て、
私の眼鏡の違わざることを御認なされ候をひたすらに待ち入り候』
私が面白いと思ったのは
一見非常に生真面目で滅多に笑うことなどないように見える母は実は大変な笑い上戸で、
どうかした拍子におかしいことでもあると到底我慢ができないことを
私はよく知っているからである。母に聞いてみると、
いつも母親から笑いすぎては叱られるので死ぬ思いで無理に我慢していたのだそうだ。

森家では祖母が「林太郎は母親の私さえ承知すればそれでいいのだから、
当人同士の見合いをするには及ばぬ」と言ってきたのだが、荒木の祖父はそれに対し
「当人同士の見合いを済まさぬうちは大切な娘を他家には渡せぬ」と言い張って、
ついに父の方が折れて小倉から上京することになった。
これが二人の会った最初で、明舟町の荒木家で見合いが行われたのである。
母が部屋でお化粧をしていると、遠縁のお稲さんという娘さんが入ってきて、
「お茂さん大変、色が真っ黒で鼻の頭がテカテカ光ってて、
まるでお化けのような人ですよ」と知らせに来た。
ところがお稲さんの心配に反して、母は父を一目見て気に入ってしまった。
顔も嫌ではなかった。態度と声が非常に気に入ったと答えている。
父の声は少し濁りを帯びて、低く柔らかい響きを持っていた。

母は長女として皆から大切にされて育ち、学習院の女学部に通学し
さまざまの稽古事で日を暮していた。母はその頃の文学少女の一人で、
他の人の小説中に登場する男性には心を魅かれるほどの人がいないのに、
鴎外の小説中に現れる男性は実に好ましく非常な魅力を覚えたというのである。
母は父の小説『舞姫』の太田豊太郎に恋をしたのだが、
幸いにして父その人を見て少しもその夢を破られなくて済んだ。
母方の祖父母はこの縁談に不賛成であった。
祖母は「林太郎には先妻との間に一子があるが、
もしお茂さんが子供があるということで気が進まぬなら、
幸い弟の篤次郎夫婦に子供がないので養子に出しても差し支えないのだから」
とまで言い出し、母方の祖父母はますます腹を立て、
「どこの国に長男を他家に養子に出す親があるか。そういう勝手気儘を言う人間は
自分の都合次第で何を言いだすかしれたものではない」と言い、
この結婚を希望してやまむ母を懇々と諭し、
結婚したらお前はあの母親のことで必ず苦労すると説得したが、
若い母はその忠告に耳を傾けようとはしなかった。

結婚して間もなく父は母をつれて二階の観潮楼に登り、「おい、海が見えないか」と聞いた。
母は長い間見ていたが「どうしても私には見えません」
「お前は正直だ。俺がそう言うと、ああなるほど見えます見えますなんて言う人がいるが、
どんな人にだって見えるはずはないんだよ」と笑いながら言ったそうである。
これは父にしては皮肉な逸話であるが、
生真面目な母の性格が思われて私にはひどく面白い。

結婚後二人はただちに父の任地である小倉に出発して、
そこで半年ほどの楽しい月日を過ごした。
母のいつも私に話して聞かせる一生で一番楽しかった時、いろいろな面で
恵まれぬ境遇にあった母の一生を通じての幸福な思い出の生活であったろう。
父と母、女中に東京から母が連れてきた女中を加えて4人の生活が始まった。
人手の要らない夫婦きりの生活の上に女中が2人もいるのだから、
ずいぶん楽でのん気な生活であったらしい。
朝父が出かけると母は髪を結ったり着物を替えてみたりして、
お昼になると女中と2人で兵営に父のお弁当を届けに行くのが毎日の楽しい日課であった。
二人は日曜日ごとに散歩に出かけたりした。
東京でも人目を引かずにはおかない若くて美しい母の姿が、
田舎人の目を驚かせずにはいなかったろうと思われる。
父母姉妹に取り巻かれた賑やかな都会の生活から田舎の寂しい生活に移った
母にとっては、連隊からの父の帰りが何よりも待ち遠しいものだった。
一日待って待って待ちくたびれて帰ってくる父を迎え、
楽しい夕飯を済ますとすぐに来客がある。
またかと思って恨めしい気持ちを抑えることができなかったと母は笑いながらよく話す。
とにかく小倉での二人の生活は、なんともいえない和やかな楽しいものであったらしい。

東京へ帰ってからの母の生活は決して幸福ではなかった。
曾祖母・気の勝った祖母・父の末弟潤三郎・先妻の遺児である長男於菟を加えた
大家族が一緒に暮らしている上に、父の月給は袋のまま祖母の手に渡される。
母は子供の頃から食べ物の好き嫌いがひどかったので
三度の食事も口に合うものが少なく、たまに実家へ帰った時に一度にたくさん食べる
というような不自由な思いをしたものであった。
小倉で妊娠した母は東京へ帰ってきてしばらくして出産のため一時実家へ行って
そこで長女茉莉を生んだ。間もなく母は肥立って父の家に帰ってきたが、
祖母との間がどうも上手くゆかず、ともすれば家庭の平和は失われがちであった。
こうした事情の中にあって、よく母をかばってくれた人に曾祖母清子があった。
祖母と母の仲が上手くゆかないのを心配して、
曾祖母はどれだけ二人の間を和らげようと努力したかしれない。
ついに和解は実現できず母は生まれて間もない娘を抱いて明舟町の実家へ帰り、
祖父の持家の一つに娘と2人で別居生活を送るようになった。
父の生活の中心は曾祖母や祖母と共にいる千駄木の家にあった、
2、3日おきに明舟町の母の家へ訪れて来るのであった。
勿論会計は祖母の手に委ねられているので、
荒木家の爺やが毎月千駄木の祖母のもとへ出かけては
35円ずつ母たちの生活費をもらってくるという風であった。

一生で一番楽しかったと50を過ぎた今日まで繰り返している母に、
もう一度小倉での生活と同じ生活が蘇ってきた。
それは晩年の父との生活であった。二人は喧嘩することがまったくなかった。
「お母ちゃん」と懐かしげに呼んでは何かを言っている父の様子を見ると、
母にも再び春が来たような気がして私は嬉しかったのに、
その次に来たものは父の死であった。


小さい頃、私は母が嫌いであった。
母は私たちのためを思ってしてくれることなのだが、それが私たちの苦痛になる。
一つには父と母の役回りにおいて、父は常に有利な役回りにあった。
父は優しかった。決して怒らなかった。
私は何事にでも叱ったり怒ったりする母の存在を憎らしいものに思った。
母は対子供についてかわいそうな立場にあった。いやこれは子供に対してだけではない。
人生にとってかわいそうな立場にあったと私は言いたい。

父は偉大な人間であった。子として父を愛し誇り得るだけでなく、
いろいろの人に愛され敬われている父を持つ私は幸福者である。
しかし母はどうであろうか?どんな夫を持つより、それはある点不幸であると私は信じる。
父は人間性においてはるかに母より優れていた。
父は無意識の中で母にとってあらゆる点で勝利者になってしまった。
父は怒らない。嫌なことも言わない。
しかし母は普通の人間、普通の女であった。
父は以前はともかく、母と結婚してからは絶対に良き夫であった。
しかしそれは父が母を愛して守った道徳ではない。
おそらく父は母の代りにどんな女が妻となってもまったく同じことだったろう。
父にとっては何よりも仕事が第一で、
言い換えれば父は細君など頭から問題にしていなかったのである。
父の仕事、これは到底母などの計り知られぬものである。
しかも母は激しく父を愛した。
自分が父を所有しているという一つの喜びも与えられないではないか。

「お母さんは結婚してから、いつが一番楽しかった?」
母は少し困ったような笑い方をしながら
「そうだねえ、やっぱり二人きりで小倉にいた時だったろうねえ」と言った。
そして母は女丈夫であった祖母や曾祖母やその他の人々と一緒に住んでいて、
会計から何から全部祖母一人の手に委ねなければならなかった
若い嫁としての自分の立場を嘆いているようであった。
「嫌だなあ、私だったら一日も辛抱できやしないよ」
私がそう言うと、そばから姉が
「お前なんかには半日も辛抱できやしないよ」と笑った。
姉も姑・小姑の苦労をされられてきている女の一人である。
母はそういうことに対する父の無理解な態度を訴えるようであった。
「そんなことしたら出て行ってしまうって脅かせばいいのに」
私がそう言うと、母は寂しく笑って「パッパは私が出て行っても平気だよ」と答えた。


母と兄との間はその自然な運命に任せておけば、
それほど憎み合う何物も持っていなかった。
そのことは兄も心の底でははっきり認めていたと私は思う。
ただ運命は祖母をはじめ父方の親戚の女たちをして、兄の立場を守るという形式で
母に対する敵対心をほしいままにしたに過ぎなかった。
それに兄が自身選んだ最初の妻と事情あって別れ、
父方の親戚の一人によって選ばれた兄嫁が出現したため、
事態は母のためにも兄のためにも、ますます悪いものになっていった。
面白いことに母と兄とはそのような悲しむべき運命に左右されて最も憎悪し合う
状態にいながら、互いに相手の人間性の良さを感じ合っていたことである。
「於菟は金銭にきれいな男だから」と母はよく言った。
兄の方はそんなことを口には出さなかったが、
何かの事情で自分の子供をそばから離すというような場合には、
絶対的専制下にあった兄嫁の親戚ではなく母の許に子供を託し、
そのことについて母はそっと私に
「兄さんは私を憎んでいるのだけど、心の底では信頼しているんだね」
などと言ったことがある。
兄の長男である真章を、母は純粋に特別な深い愛情を持って愛していた。
後に兄嫁の気持ちからその子に対する愛情からも
引き離されなければならなくなった時に、母はどんなに寂しがったことであろう。


父の知っている孫は、兄のところの真章・富、それから姉の生んだ爵の3人であった。
真章はまた母の寵児であった。母は孫の中でも一番彼を愛していたようだ。
母がこの子を可愛がること非常なもので、この子もまたお祖母ちゃんに一番なついていた。
のちに隣にいた兄が大宮に引っ越し、
真章と離れなければならなくなった母はたいぶ寂しがっていた。
まもなく姉夫婦が外国から帰ってきたが、姉が山田家を出るに及んで
爵やその弟亨との縁も切れてしまった。母はどうも孫には縁の薄い方である。

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by vMUGIv | 2011-01-11 00:00 | 明治

森鴎外 その10

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鴎外の娘 小堀杏奴

父の死後14年を経て母もまたこの世を去った。
この14年間は母にとって苦痛に満ちた14年間であったろう。
私にとってもそれと同じことが言える。ああ、この14年間にわたる暗い日々、
どうして母や私たちは周囲の人々からあれほどまでに
冷たくいじめられなければならなかったか、今思っても不思議な気がする。

14年にわたる母の苦悩は、
父が萎縮腎のため昏睡状態に陥った瞬間から始まったと言ってよい。
その時母は既に意識を失っている父のそばにただ一人座って泣きながら、
思わず声に出して「パッパ、あなたに今死なれたら、
小さい子供を抱えて私はとても生きてはいられません」と言ってかきくどいた。
そうしたら思いがけなく父が、かすかな声で
「おう・・・いき・・・なおる」と呟くように言ったのである。
母はあまりの思いがけなさにハッと息を詰めたが、
それが「もうじき治る」という言葉であることを知ると、
夢中で別室にいた父の親友賀古鶴所のもとに駆けつけ、
「賀古さん、喜んで下さい。パッパが今ものを言いました。もうじき治ると言っています」
と叫ぶように言った。すると賀古氏は「なにを馬鹿なッ」と大声で一喝し、
「病人はね、耳が一番最後まで残るものなんですよ。
そんなくだらないことをして、余計な神経を使わせるなんて」
となおも物凄い剣幕で母を罵られた。
この時を境に賀古氏の母に対する態度は一変し、母のいうことなどはてんで取り上げず、
何事にもまず小金井夫人〔鴎外の妹喜美子〕に御相談してと言うようになった。
賀古氏は父の小説『ヰタ・セクスアリス』に古賀という名前で書かれていて、
当時15歳であった父と知り合い、父が61歳で没するまで45年間の交友を続けた。
賀古氏の叱責が友人を思うあまりの結果であったとしても、
この突然の豹変ぶりが母をどれほど驚かせたか。
父の棺がいよいよ運び出されようとする時であった。
私は人々の群れを離れて父の書斎に入っていった。
意外にも書斎には小金井の叔母とその息子良一がいた。
「お母さんいいの?杏奴ちゃんがあんなに泣いて、身体を悪くするといけないね」
良一さんがそう言うと、「あ、そう、かわいそうね。それはそうとあれはどうしただろう。
確かあそこに置いてあったはずだけど」叔母はまったく上の空でソワソワしながら、
何かしきりに父の持ち物の中から探し出すのに余念がなかった。

父の初七日であったか親戚だけが集まっていたのだが、
今までと同じ気持ちで思都子叔母〔鴎外の弟潤三郎の妻〕と話していた。
すると叔母は突然わざとクルリと私に背を向け、
隣にいた兄嫁〔於菟の妻〕にヒソヒソ話を始めた。
日常の生活はもとより、父の年忌というような日には
私たちは辛い思いをしなくてはならなかった。
私たち母子の動静はいつの間にか兄嫁から
小金井の叔母〔小金井喜美子〕に伝えられ、
会うたびにひどい皮肉を浴びせられずにいなかった。
教授夫人であり、明治の女流作家として有名で、和歌を嗜むこの賢夫人が
私たちに取った意地の悪い態度をいちいち取り上げたら際限の無いことと思う。

賀古氏は私にとっても馴染み深い人であった。
彼はお酒が好きで、彼が家を訪れると、母は必ず日本酒を出してもてなした。
彼についての思い出はまだいくつもある。
それほど私たちの家庭と彼とは長年の間親しい関係であった。
私たちの家では毎年12月25日に盛大なクリスマスが行われる習いであったが、
彼はそのたびに「サンタクロースのおじさんより」として
立派な玩具や大きなボンボンの箱を届けさせてくれた。
父の死んだ翌年のクリスマスは火の消えたように寂しく、
もちろんサンタクロースのおじさんもそれ以降贈り物を届けることを忘れてしまっていた。
彼は当時神田に病院を開いていたが、手術はたいてい彼でなく副院長が行って、
医者としての手腕はほとんど認められていなかった。
父の亡くなった翌年、私はアデノイドの手術のために彼の病院に入院したことがある。
入院中彼は一度も部屋へ顔を見せたことがなかった。
それが退院も迫ったある日珍しく職人を連れて私の部屋を訪れ、
この窓に簾をかけてくれとかここの造作を直してくれとか指図していた。
ちょうど母の実妹である山口の叔母〔栄子〕が来ていて、賀古氏に対して遠慮なく
「今度Xさんがこの部屋に入るんですってね」とからかうような口をきいた。
彼は昔美しかった若い彼女に結婚を申し込んで拒絶されたことがあり、
彼女には頭が上がらぬように見えた。
賀古氏にとって最も大切な顧客である富豪の某氏が、
私のいた部屋に後にすぐ入ることになっていたのである。

40年間にわたる親しき友であり、最後までその友を信じていた父に報ゆるために、
彼の態度はあまりに冷めた過ぎはしなかったろうか。
40年にわたる親しい交友であっただけに彼は森家のどんな微細な事情にも通じていた。
祖母をはじめとして父の弟妹たちの母に対する嫉視反感はよく了解していたろうし、
遺言書も彼に宛てて記し、後妻であり直情で人を容れることのない母と、
頼りない小さい私と弟を託すことのできるただ一人の人として彼を心から信じていた
父の気持ちを思うと、私はやはり彼の友に対する不信を憎まずにはいられなかった。
「人格的に信頼するというより何より、15の歳からの友だちで
寝ころんで話ができるということが、パッパにとって何よりも嬉しかったんだろうよ」
と母は言うのだが、父の方では唯一の親友として絶対の信頼を託していたし、
彼の方は父の死後の行動から観察すれば、世間一般の利用と保身をもととする
交友関係に過ぎないとしか思われぬからである。
母がよく「パッパは好かれる人には好かれるけれど、
また憎まれたとなるとひどく憎まれるらしいよ」と言っていた。
彼はその後二度と私の家を訪れることもなく過ぎて行った。
ある時与謝野寛先生御夫婦のための集まりがあり、
来賓の中に久しぶりに彼の姿を見出した。
彼は相当女好きであったにもかかわらず生涯独身で過ごしたが、
見たこともない40過ぎの女の人が甲斐甲斐しく彼の身の回りの世話をしていた。

父の最初の妻は男爵赤松則良氏の娘で、この縁談が父の意志を無視した
祖母の半強制的な手段によってまとめられたものであった。
祖母に絶対服従を示していた父は煩悶のあまり日々痩せ細っていったので、
さすがの祖母も驚いて離別を承知するよりなかった。
次いで私の実母である。第2の妻荒木茂子との間に縁談が起った時、
母方の祖父荒木博臣は最初この結婚に非常な反対を示した。
その原因となったものは、気に入ったとなったら一も二もなく嫁に欲しいという
性急な祖母の性格の表れであり、実に彼女の面目躍如たるものがあるのだが、
「林太郎は母親である私が承知をすれば否やを言う気遣いはないのだから、
見合いの必要はない」と言ったことが一つ、また
「先妻の登志子には於菟という男の子があるが、入籍もしてなく、
その子はいずれ林太郎の弟篤次郎の養子にしたいと考えている」という申条である。
祖父は非常に怒って「見合いの必要はないなどと言いながら、
後で当人が見合いもせずにもらったものだと言って難癖をつけられたら堪らない。
本人同士の見合いを済まさぬうちは絶対に娘を嫁にはやれぬ」と頑張り、
もう一つの条件については「たとえ入籍していないとはいえ、
どこの国に長男を他家に養子に出すという誤った考えの人間があろうか。
そんなことを平気で公言する人間のところへ大切な娘はやれぬ」と言うのである。
いったん嫁にもらいたいとなったら自分の望みを通すために
こんな非常識な言葉を吐いて恥じない祖母が、今度はその嫁を排斥するために
逆に孫の於菟を楯にして母を苦しめたことを考えると実に皮肉な感じがする。

まず何よりも母が優れた美貌の持ち主であったということが、
彼女の性格、果てはその運命にまで決定的な影響を与えたということを書きたい。
この稀にみる美貌は、彼女に自負の念を与え虚栄心を成長させた。
母は単純で正直な珍しい美しい性格を持っていたが、
一方に女らしい優しさ、慎ましやかな性質に欠けていた。
幼い時にロシアの皇后陛下になることを望んだという逸話を持つ母は
(それもロシアが地図で非常に大国であったからである)、その結婚の相手として
いかなる職業にせよ日本で一人というような人を夫に持ちたいと思った。
母は何でも立派なもの、美しいものが好きであった。
母はよく「於菟ちゃんがもっと器量の良い子であったら、よほど可愛がったろうに」と言い、
「男は年を取ると立派になるよ。この頃の於菟ちゃんは髭を生やしたので口元の欠点が
隠れてなかなか立派になった。子供の時もせめて真章〔於菟の息子〕くらい
可愛いと良かったのだけど、いかにも醜い子でね」と言っていた。
この無邪気な言葉に私はつい吹き出してしまい、兄もこういう子供のような母を知ったら
もっともっと母に対して人間的な同情を感じたろうにと思う。

例えば母は私を叱り飛ばした上、泣くと余計に怒って
「器量の良い子が大きな目に涙をいっぱいためているのはいいものだけど、
不器量のお前が泣いて小さな目を腫れぼったくしていると、
なおさら不器量になってみるのも嫌になる」などとズケズケ言うのだ。
あんまりだと思って死ぬほど悲しく思ったことがよくあった。
こんな母が兄に対して思いやりのある優しさを示したことはなく、
真実の子の私でさえ継子ではないかとひがみたくなるほどであった。
いつであったか兄に向って「お前は頼朝みたいな男だ。
あの秋田のズーズー弁の女に騙されて何でも言いなり放題になっている。
今に北条家に滅ぼされたように森家もひどい目にあうのだ」と言い、
おとなしい兄もムッとして「いくらなんでもあんまりです。
私も富貴子にそうまでいいようにされてはいないつもりです」
と怒っていたのを聞いたことがあった。
母の驚くべきこの単純な、その代り陰日向というものがまったくなく、
継子だからいじめるとか、あるいは自分はいい顔をしていて上手に人を使って
苦しめるとか、そういう陰険さは少しもなかった。
しかし兄は小さい時新しい母としてどんなにか期待していたであろう母に
こういう態度を示され、それを理解しないのも無理はないと思う。
母がやはりヒステリーを起し兄のことを悪く言ったらしく、父が
「そんなことを言ってかわいそうに。
於菟は新しいお母さんが来ると言って喜んで踊っていたのだ」
と暗い顔をして言っていたことがある。
父の死後急に気が弱ってしまった母は、
今更に兄を頼りにして幼い私や弟の面倒を見てもらおうと望んだ。
母としては実にありのままの正直に振る舞ったわけで、
心から兄や私たちきょうだいの間に差別をつけていなかったから、つまり自分では
全然悪いことをしていると思っていないからこういう気持ちになれたのであろうが、
兄にとってはそうあっさり全てを許すほど寛大でありえたわけがなく、
それを私は決して無理とは思わない。

ある日母は姉を連れて外出しようとして、黒繻子と友禅の腹合せになっている帯を
締めさせていたのだが、母は「お前は器量が悪いから、紅い方を出しては似合わない」
と言うし、姉は若い娘のこととて黒い方を出すことはひどく嫌だったらしい。
どうしても言うことを聞かなかったので母はひどく怒り、
とうとう姉は声を上げて泣き出した。父と私も同じ部屋にいてそれを見ていた。
それまで黙って苦い顔をしていた父は、
この時いきなり平手で母の頬をピシリと音のするほどひどく叩いた。
おそらく長い結婚生活を通じてこんなことは初めての経験であったろう。
なぜなら母はまったく呆気に取られてしまって真っ青になってポカンとしていたし、
私は子供心にも急にそんなことをした父が憎らしく
「お母さん、お母さん」と叫んでワアワア泣いたことを覚えている。
こうした母のヒステリーが先天的のものでないことは、
私が成長した後で母が語ったところによると、
父が結婚当初の約束を少しも守らなかったこと、
即ち祖母たちとの別居生活の約束を履行せず、
針の筵にいるような日々を送らせたことなどから生じたものらしい。
何か話す時ブツブツと唾を飛ばす癖のあった祖母が手づかみで物を食べたりする、
そういうことが潔癖で神経質な母に堪えられなかった。
学問を鼻にかける祖母に何かと弟篤次郎の妻と比較され、源氏物語などを例に取って
紫の君のように女として完全な人には子が無いものだ、子を生む女は駄女だと罵られた。
物欲が強く何事にも倹約を旨とする祖母と、
気位が高くて金銭に大まかな母とが上手く行かないのも当然のことと考えられる。

こんな状態にある私たちにとって不幸の上に不幸を加えるように、
突然姉の茉莉が10年住み慣れた婚家に2人の幼い男の子を残して帰ってきた。
義兄は当時東大のフランス文学助教授を務めていた。
姉が山田家を去ったのには当然の理由があったのだが、
母も姉も残してきた子供の父親の名誉のために一言の弁解もせず今日まで過ごしてきた。
しかし義兄は姉ばかりでなく母をはじめ私や弟のことまで執拗な悪宣伝を長年続けてきた。
なお悪いことに姉は勧められて2度目に嫁いだ先で再び失敗を重ね、
今度は先方から離婚されたために私たちに対する非難はますます激しく、
その噂を理由づけるような結果になった。
こうした境遇にあった私は到底良い結婚を予想できず、
母の不評判・姉の2回にわたる結婚の失敗、その上嫉妬から来る親戚の中傷を考えると、
生涯独身を覚悟するよりほかないように思えた。
母は伸びる盛りの年頃を腐らせるにしのびないという気持ちから
私たちを留学させる決心をつけた。
それを知った小金井の叔母はさっそく私たちの家を訪れて
「まあ、杏奴ちゃんと類ちゃんが洋行をなさるそうじゃございませんか。
本当に世の中は面白いもので、馬鹿でもキチガイでもお金さえ出して船にさえ乗せたら
ちゃんと洋行できるんですから。何にしてもまあ結構なことでございますよ」

一方山田の義兄からの悪宣伝も私たちの耳に入ってきた。
私が偶然知り合ったF理学博士の令嬢から『山田さんのお話しによると、
杏奴さんのお姉様ってものすごい発展家なんですってね。
森さんのお家の方はみな悪い方たちだってとても評判よ』などと聞かされたし、
また私たちが洋行した時同船し仲良くなったY子さんの叔父様の石川欣一教授は
山田の義兄とは親しい友であった。初めのうちなんとなくY子さんの態度がよそよそしく
妙に軽蔑的なものを感じていたのだが、思いがけなく打ち解けるようになり、
石川教授からY子さん宛ての手紙を見せてもらったところ、
同船している森という人間はあまり良くない人間だから
つき合わぬようにという注意書きが添えてあった。
また結婚後知り合いになった女流作家N女史も、
何気なく義兄に私と友だちになったという話をしたら、
「あなたは小堀杏奴を御存知でしたか」と大変驚いた様子で、
またひどく私たちのことを悪く言って以降決してつき合わぬようにと言われたと話し、
「でもなにも山田さんに私の交際まで干渉される必要ないと思ったわ」と言っていた。
義兄との結婚に最初から反対であった母や当の姉に対してはともかく、
何も知らぬ私や弟のことまでそのように中傷する彼の気持ちがまったくわからなかった。
N女史も、もう20年近い年月が経っているのにあまりクドクドと言われるので
なんだか執念深い気がしてかえって嫌な気になったと語られた。

姉が山田家と離婚になると同時に於菟兄は今まで住んでいた隣家の
観潮楼を去って、谷中に一時住居を移し埼玉県の大宮に家を新築した。
母にとって弱り目に祟り目といった出来事であったことは事実で、
母としては兄夫婦が不幸にあった私たち親子を見捨てて逃げ去る如く思われ、
ことに兄の長男である真章に深い愛情を感じていた母はつらい思いをしたらしかった。
しかし兄夫婦のかかる行為も、たとえ悪気がなかったにせよ
母の思いやりのない激しい性格から来た当然の結果であり、小金井の叔母によって
医者の娘として選ばれた兄嫁と母の決定的な不和からもそれは避けがたかった。
私は兄嫁の気持ちもよくわかるし、自分を彼女の立場に置いてみて、
なんの愛情も感じない古ぼけて不便なだだっ広い観潮楼に
やまかし屋の母と隣同士に住むことは堪えられなかったと思う。

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by vMUGIv | 2011-01-10 00:00 | 明治

森鴎外 その9

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鴎外の息子 森於菟

私の生母登志子と父との結婚は、同郷の大先輩で政府の要人であった西周の媒酌であり、
登志子は海軍中将かつ男爵を授けられている赤松則良翁の長女であったので、
名門との婚姻という廉で祖父母はおおいに意進み、洋行帰りの父に慫慂したのである。
父自身は元来家のことすべて両親ことに母親任せであり、
別に異議なくこれに従ったまでであろう。父は赤松家の持家を借り
祖父母たちとは別居したのであるが、新家庭はだんだん面白く行かないようになった。
新家庭には父の弟篤次郎・潤三郎と、母の妹登久子・加津子が同居した。
父は弟たちに対する妻の態度に飽き足らぬものがあったらしい。
ある時父が役所から帰ると、妻は妹たちと外出して留守である。
小さい弟と膳につくと、自分と弟のおかずが違っている。
女中に聞くと「奥様のお言いつけでございます」と答えたのが著しく父を憤激させて、
「潤は俺の弟だ、なんと思っている」と声を荒げたこともあった。
また赤松家の新華族としての習慣があまりに事大主義で、花嫁につけて寄こされた老女が
奥様は良いとして、祖父を大殿様・父を殿様・父の弟を若殿様などという大袈裟な呼び方が
父の気に障っていたことなどもあったろうし、花嫁の父の家で花嫁の妹たちが来ていたこと
なども養子のような取扱いとして父の気に入らなかったのであろう。
その頃の父の月給は100円で毎月家計に不足するということが、これまでつましく暮らし
100円は大金と思う祖母などに「家族のお姫様には困る」と思わせた。
また何かにつけて里方の権門の噂をして事ごとに言うのが、
ひどく父の癇に障ったとのことである。父は不快が内に積もり積もって、
ある日突然弟たちをつれて家を出て3人で借家を借りてそれに入った。
赤松男爵はこれを聞いて怒り、お気に入らぬ娘ならば引き取ろうと申し出たのに対し、
父も同意し破断は急速に成立してしまったのである。
赤松男爵の夫人が「娘にふつつかの所、お気に入らぬ所があれば、
あなたから私に一言でもおっしゃって下さったら叱っても叩いても直させましたのに、
突然表立ってああなされては赤松も男でございますから」と怨み言を言われたのに、
祖母は返す言葉がなかったという。父もこの間に苦しんで非常に痩せ、
大事な父を病人にしてまでこの結婚生活を続けさせる考えも祖父母になかった。

父はその後長く独身を続けており祖母はそれを苦に病んでいた。
その頃叔父篤次郎は久子を娶ったが、美人で、そのうえ快活で話好き、
いわゆる箸のころげたのにも笑うという風であった。
従って叔父との仲も良く、祖母にも真実の娘のように隔てがなかった。そこで祖母は
父の最初の不縁の原因の主なる点は、妻の醜いところにあったと信じたのである。
祖母は母のことを「なにしろ鼻が低くて、笑うと歯茎が丸見えだから」などと父を弁護した。
「久ちゃんはあんなに美しく可愛らしい。お登志さんも少しも悪い人ではないのだが、
もっと器量が良かったら林も嫌わなかったろう。美しいというのは大切なことだ。
今度林の嫁にはきれいな人を探さなければいけない。
林と仲良くして篤の嫁と2人きれいな人がそろったら、私はどんなに幸福だろう」
祖母は相当の良家の教養ある令嬢の中で美しい人をと懸命に尋ね出した。

周囲の特に祖母の絶えざる懇願を退けていた父に決心させた大きな魅力は、
この母がすぐれた美人であったところにあったことは疑うべくもない。
丈はスラリとして肌は浅黒く、髪は豊かに顔立ちは凛々しく、品は良いが愛嬌は乏しく、
現代的知性美とは異なるが明治上流の代表美、
下町育ちとか聞く母方の血を受けて粋なところがあった。
また父は女の饒舌と欺瞞を最も憎んでいたから、その寡言と正直さをその美点とした。
彼女はまったく正直であったが、世間ありきたりの習俗さえ気に入らねば
つとめるということをしなかった。よく「私は嘘だけはつけないから」と言ったが、
それは文字通りの事実で表面を取り繕うなどということは考えも及ばなかったのである。
かくして父は帰京して茂子を娶り、新婦を伴って再び小倉に帰任した。
父が親友の賀古鶴所に送った手紙に『いい年をして少々美術品らきし妻を相迎え
おおいに心配し候ところ、万事存外好都合にて御安心下されたく候』とあったごとく、
やはり母の美しかったことがその主なる原因であったろうと思える。
この点では祖母の予想は正しく的中したのである。私は父の結婚直後、
初めて親戚知己が集まった会合で母の隣に席を設けられ、母が手を引いてくれた時に、
こんなきれいな人が母であることを得意がる気持であった。
まもなく父が再び小倉に出発するのを停車場に見送り、
歩廊を歩く時また母が手を引いてくれるだろうと思ったところ、
母は父と並んでズンズン先へ行ってしまい私一人とり残された。
このとき母の妹のこれも美しい栄子叔母が私の手を優しく取って小走りに後を追ってくれた。
母は実になにごとにも「つとめる」ということのなかった人なのである。

父はこのすぐれて美しい無邪気な少しわがままな人形のような若い妻を
最初充分愛したであろう。母は全身全霊をあげて父を熱愛し、
そこに不安を感じさせる原因となるものには激しい反感を覚えた。
前からの習慣で祖母から父に送った私の写真を書斎の卓上に置いていたのが、
小倉の住居に着いた新婦の気に障り、まずそれを取りのけてくれと言ったという。
小倉での二人きりの新婚生活は彼女にとっても非常に幸福であった。
母はこのままの生活が、いつまでも東京に帰っても続くものと考えた。
しかし小倉で夫婦水入らずの生活を楽しんだ母を迎えた東京の家は簡単でなかった。
心の広い父はその祖母・母・弟・先妻の遺児のいずれにも温顔を向けて
愉快に語ろうとする。そのほか別に家を成している弟妹・賀古鶴所をはじめ
昔からの友・一般知己・訪客の数も小倉とは比較にならない。
長い間家庭の主宰者であり、衰微の境にあった森家を回復し、
父を立派に育て上げたという自信を持ち、さらに将来のことまで計画をめぐらさずには
いられぬ勝気な祖母がまず母と感情の対立する位置にあった。
これはすでに祖母と父との尋常ならぬ親しみに意識せずして嫉妬を抱いていた
母にとって重大なる侮辱であった。母の父に対する愛はかえがたき人としての信頼と
恋人への愛着とを合わせた絶対のもので、その愛を不当に奪うように
己が瞳に映ずるものは、家の内でも外でもみな嫉妬の対象となり敵と感ぜられた。
己れの感情をそのまま行為に表す性質と、
理知的で一家の主権を握る祖母とは到底折り合えなかった。

母が祖母を嫌ったのは「その声がやかましくて癇に障るから」というのがはじめ、
私に対しては「なんてみっともない子でしょう」から出発したそうで、
祖母に向かって父は「於菟は終生の敵なのだそうだ。いい奴なのにかわいそうに」と言った。
かくのごとき状態で東京へ帰ってからの父の月給袋はそのまま祖母に渡され、
母の手にはわずかの小遣いしか与えられなかった。
この主婦の位置を渡す渡さぬが繰り返し問題になって、
「それなら俺が会計をしたらよかろう」と言って自分で算盤をはじくが
何度やっても答えが違い、紙に書いて試みても元来計算にうとい父は
やっぱり辻褄が合わぬのを顔をしかめながら繰り返しているのを見た。
もっともこれは1、2ヶ月で投げ出したらしい。
かくて美しい眉の間にはいつも縦に二本の皺襞が寄り、
姑と顔を合わせねばならぬ席には出てこないようになった。
やがて一家そろって食事をするというようなことも少なくなる。
祖母が食事の席に遅れてくると、今まで父や私たちと並んで膳についていた母が
急に箸を置いて立つ。父が「ペストのように嫌わんでもいい」と言って顔をしかめる。
あとの者は白けた気持ちで残りの飯を砂でも飲みこむようにして早々に席を立つ
というようなことがある。やがて母は自分の部屋で一人食事し、
父と母は同じ家に住む夫婦でありながら食事を共にせぬという不自然な状態になった。
母はいつもイライラしてなにごとも思うように片づかぬという訴えを繰り返した。
いつか楽しい日が帰ってくるように思えて、それが待ち切れなかったのである。
ある冬、母が興奮して庭に出たまま佇立して動かぬので、
父も心配して夜通し起きて見守っていたこともあった。

日露戦争が勃発し、父は軍医部長を命ぜられ出発した。
同時に母は娘をつれて別居し、明舟町にある荒木家の借家に入った。
前々からの事情で別居ということは問題となっており、
親友としての賀古鶴所および青山胤通から父に向って妻に対して断固たる処置を
取ることを要求する忠告もあったと聞くが、父は一家を二分するということを賛成せず、
戦争で留守にするため別居が実現した。いろいろの事情はともかく、
父が己れの従軍の留守における衝突を心配して母の家と妻の家を分けた結果、母が
幼い娘一人つれていつ帰るともわからぬ父の留守を守ったのはいたわしいことであった。
この別居は父の帰国後も半年あまり続き、父は祖母たちとともに千駄木の観潮楼に住み、
土曜から日曜にかけてだけ妻と娘との住む明舟町の家に行った。
土曜ごとにあたかも妾宅を訪ねるごとく来る父を幼い妹が不審がって
「パッパのお役所は長いのねえ」と言ったと父から聞いて私ももののあわれを感じた。
母は周期的に感情が昂ぶり、
走馬灯のように同じことを繰り返して父を悩ます理屈と同時に激しく涙を流す。
それを小さい妹が「お母ちゃんがあんなに泣くから、パッパ我慢して」と言う。
「実に俺は茉莉がかわいそうで」と父が祖母に言うのを私は聞いた。
日露戦争の後までも、
祖母は重要な家事の相談など家で父に話すことを避けて役所を訪ねたし、
私もドイツ語について質問したいこともためておいて役所で父に会うようになり、
それがまたあいにく役所で母と出会って余計気まずい状態になったことなどもある。

祖母が亡くなり、叔父潤三郎は別家し、私も結婚により別居して、
遠い昔の小倉時代のように父と二人、己れが生んだ愛児のみを交えて
生活を楽しもうとしてから3、4年経つか経たぬかに父を奪われた母の悲しみは大きかった。
絶大の庇護者であった父を失った後の母に対する世間の風は冷たかった。
母は急に年を取って、暗く寂しい人になった。
それは肉親の者にとっては見かねるほどの痛ましさであった。
子供たちの他、ごく少数の親戚、さらに少ない友だちしか母を慰めるものはなかった。
もとから気の合う人は少なかった。母は深慮よりも直感を重んじた。
感じの良い人悪い人ということが常にその好悪を支配した。
感じを鋭くしこれに忠実なことは芸術上には大切であるが、世間に生活する場合には
周囲を狭くするので、それが母の不幸の一つの原因であったと思う。

子供を非常に可愛がったが、これは他人の子供でもほとんど同じである。
祖母なぞはこれを博愛だと不平らしく言ったこともある。
父の心には学問に対する熱情が大部分を占めている。
己れの全部を与えるべく女はあまりに小さい。
父の女への愛はしたがって人形に対するようなものになる。
父を愛する女性は、いつまでたってもその全体を己れの物にしたという気にはならない。
そこで必然の結果として嫉妬を起す。
それが真面目に受け取られず茶化されるから、ますます憤激するのである。
このことについては祖母が洞察したような言葉を私に聞かせた。
「林の奥さんになる人はみな不幸せで気の毒なのよ。
久ちゃん〔鴎外の弟篤次郎の嫁〕のような人だって
お喜美さん〔鴎外の妹〕のような人だって、
林の奥さんになれば上手くいかないに決まっているのだから」


父は好男子でもなく、ほどのいい口をきく技巧を持つ人でもないが、
とにかく女性に嫉妬された。
前の結婚の場合にもそれが常にあり、
この時は父の方で妻を見るのも嫌という状態に達したらしいが、
後の結婚の場合には周期的に繰り返して現れる興奮発作に悩まされながらも、
琴瑟相和していたことは確かである。
祖母と潤三郎叔父と腰を据えてしゃべるうち、中学生の息子がいるにもかまわず
「いやはやお登志〔前妻〕なんぞは女だというばかりだったが、
あのおカミさん〔後妻〕は大変だ」
なぞと言ったが、たぶん交情こまやかという意味だったろう。


母の実家荒木氏を訪ねたことも数回ある。荒木博臣翁は物静かな立派な老人であった。
もっとも舅としての荒木翁は大事なところを押さえる法律家だけに、
単純な好人物の赤松翁より父にとって扱いにくい人であったらしい。
老婦人あさ子刀自は昔美人と言われた名残をとどめ、親切に私をもてなしてくれた上に、
私と母との仲を心配し母をなだめる側になってくれた私にとっては有難い人であった。
子供の時に母から物をもらってもあまり嬉しそうな顔をせぬので
「ほんとに物喜びしない可愛げのない子ね」と言われたこともあり、
長じては私が近づこうとした時には母が横を向き、
母が親しもうとすれば私が敬遠するといった状態を繰り返し、
「於菟ちゃんと私とはいつも気持ちが食い違うのを」と嘆息されたこともある。


私の妻は不幸にしてお気に入らず、
母から見ると「冷たい、理性に勝った声」が気に障るらしかった。
妻が母の機嫌に触れて悄然としていると、
後からわざわざ父が来て紙にくるんだ菓子を与えた。
それはまるで幼い娘に対するような態度であった。
「また今日もお父さんからお菓子頂戴か、困るな」
それがその頃の私の妻に対する揶揄の言葉であった。
ともかく父の晩年のある時期には、私は父母の所へゆく足を遠慮がちにした。
私は初めてドイツ語で小論文を草した。それを父に直してもらおうとすると、父は非常に
喜んだが、お前がしげしげ来るとお母さんが機嫌を悪くするから役所へ来いよと言った。
私は毎日午前11時頃、父を訪ねて上野公園の博物館に行った。
ある日私は父と私が悪いことでもするようにしているのはみっともないことではないか
と言った。私は父が家庭のことをもう少しテキパキしたらと考えたのである。
すると父はただ「女は気の狭いものだから、そのつもりでいなければいけない。
お前は自分の考え通りで何でもゆけると思うが、
世の中にはいろいろ別の考え方もあるのだから気をつけなくてはならぬ」と言った。
父は不幸な気持ちの齟齬があった場合にも、決して私に母のことを悪く言わぬ。
また母にも私のことを悪く言わぬのである。
この論文訂正が終わった翌々日の朝である。
すでに結婚して別家したために父の家を半分わけてもらって裏合せに住んでいた
私の家の門口を開けて父が入って来た。
いつも用があれば呼ばれるので、こんなことは例がない。
私が驚いて出てゆくと、父は出勤の途と見えて背広服に手提げ鞄をさげている。
不安そうな目つきで私を招く。小さい声で
「お母さんが大変怒っている。当分ウチへ来てはいけない」
「どうして」
「なに、昨日お前の論文ができたのであんまり嬉しくて、
つい日記に書いたらそれを見られてしまったのだ」
父は泣き顔と苦笑とをごたまぜにしたような変に歪んだ顔をしている。私は一言も出ない。
父はすぐ後ろ向きになって、トボトボ歩いてそっと門を開けて出て行った。


帰朝して観潮楼の主人となった翌々年の暮れには、
私はやむを得ない事情でこの家を去ることになった。
事情というのは、母と私たち夫婦との間が次第に面白くなくなり、
母が感覚的に我々を嫌うため、父の在世当時のある時期と同じように母の神経がいらだち、
私どもがその近くにいることさえその危険な妄想を激発させそうになったためである。
「私を殺す気だろう」などと言われ、
「家から逃げ出すとは不見識ね」と冷笑されながら借家へ移り、
世間へは子供らの健康のためと言いつくろって大宮郊外に家を作るような次第になった。

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by vMUGIv | 2011-01-09 00:00 | 明治

森鴎外 その8

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鴎外の妹 小金井喜美子

兄が洋行して帰った時、さっそく縁談を言われたのは西周氏です。
御養子紳六郎氏の姉君赤松男爵夫人の長女で登志子という方でした。
「小さい時から知っている。林の嫁はあれに限る」と言われるのでした。
その話は順調に進んで、結婚の翌年男の子が生まれました。
そのお子が於菟さんです。
御婚礼の日には私は風邪をひいて出ませんかった。
袿姿の立派な御写真を見て、式に伺われなかったのを残念がりました。
そのご風邪が治ってお訪ねした時は新しいお荷物が並んで、
床の間には袋をかけたお琴や三味線もあり、老女と女中とがいて賑やかでした。
お姉様は三味線をお持ちになったのです。
長唄のなにか一くさりを弾いてお聴かせになったのでしょう。
お姉様の長唄を聴いた者はその音締めに感じ入ったのでした。
お父様お母様の御満足が思いやられます。
間もなく不運なことが起ころうなどとは誰も思いもかけませんかった。
家には弟も同居して神田の学校へ通っていますし、
赤松のお妹さんが二人きれいな方でしたが、やはり来ていられます。
下宿していた次兄もたいてい来られていて食事の時などなかなかの騒ぎです。
お妹の加津子さんとおっしゃるお嬢さんは元気な方で、
後ろからお兄様に飛びついたりなさいます。私などは幼い時からお兄様は大切の方と
ただ敬っているばかりいるのでしたから心の中でマアと思いましたが、
お母様など「登志子さんもあんな気風だったら」などおっしゃるのにまた驚きました。
お客様でいつも夜が更けます。
「良いお茶碗はお人数に足らないし、お菓子もどうかと思う」とお姉様はオロオロしていらっしゃる。


この事件〔エリス来日事件〕のあと一月ほどしてやっと落ち着いた気分になりました。
上野の精養軒で西周さんお二人を主賓にして
近しい人々30人ばかり集めてお兄様の御帰朝祝いがありました。
お客をしたお礼にと西さんがお兄様の縁談をお勧めになりました。
前からチラチラとはおっしゃいましたけれど、
ハッキリお話になったのはその時からだと聞きました。
西さんのおっしゃるのは御自分の御養子林洞海氏の六男で
のちに海軍の将官におなりの方のお姉様赤松男爵夫人の長女で
登志子さんというお嬢さん、小さい時からよく知っているあの娘ならと思うとのことでした。
「本人の気持ちに任せておきます」と御返事すると、今度は直接にお兄様にお話になる。
お兄様はまた「両親の気持ち次第に」とおっしゃる。お互いにそんなことを
言い合っているうちに、仲人の熱心さがいつか勝ちを占めるようになりました。
12月になって千住へ行きますと、話はだいたい決まったらしいのです。
「なにしろ毎日お役所のあとは、いつも書き物が忙しくてゆっくり話もできない」とお母様は
言っていられましたが、初めて嫁を迎えるというので嬉しそうにしていられました。
帰ってから主人にエリスのあと間もないからと案じますと
「あれは問題ではない。早く決めた方が良かろう」と申しました。

3月9日の結婚式はたいそう立派なことでしたが、
私はちょうど風邪を引いて熱が出て出られませんでした。
あとで打掛姿の写真を見てその美しさをしのぶだにほんとに残念に思いました。
お姉様は長唄をよくなさるし、踊りをよほどお稽古なすって、
そんな趣味もおありになったのです。
近くの榎本子爵別邸へ行くことになり、広いお庭のそこここを見せていただきました。
私とお姉様だけ人から離れて歩いていた時、西洋婦人の話をされましたから
「それはちっとも御心配には及びません。
兄はそんな人ではございませんから御安心なさいまし」
「私もそうだと思います」 他の人が来たのでそれきりになりました。

花園町へ移られてからは家の様子がすっかり違って賑やかになりました。
赤松の御両親もよく来ていられました。行き届かぬからと
老女と下働きの女と2人つけて寄こされたのです。老女が今までの習慣で、
お父様を大殿様、お兄様を殿様、篤次郎お兄さんをも若殿様と呼びました。
弟が来て神田の学校へ通い、赤松家のお妹さんも2人来ていられるし、
篤次郎お兄さんは下宿をなさいましたけれどたいてい来られていました。
そんな訳で人の出入りが多く、
夜は更けるのが常なのに朝はそれぞれ時間に出さねばならず、
種々の人たちの集まった家庭は男の思いも寄らぬ心遣いがあったことと察せられます。
主婦は若し、老女は赤松家の家風にこそ慣れておりますが、
この複雑な家政を処理するにはよほど骨が折れるらしく、
無理はないと知りながら歯がゆく思われる時もありました。

お兄様は長男の於菟さんが生まれて間もなくお別れになりました。
ちょうど私も産をしましたので、細かい話を誰も私に聞かせる人はありませんでした。
ゴタゴタと日を送っているうちにお気の毒な便りを聞きました。不意にビックリした私は
一時乳の出が悪くなったのでしたが、それではどうしようという考えも浮ばず、
大事なお兄様もその時だけは憎らしく、あのなんのこだわりもなくありのままのお姉様や
御両親のお心を思いやって泣けて仕方がありませんかった。
やっと落ち着いてからお母様がおっしゃるには「今度のことはお父様も私も決して
こちらばかりもっともと思ったのではなく誰にも済まぬことはよく知っているが、
家のために大切な長男が近頃ひどく血色も悪し気もふさぐらしく、
あのままおけば患うに決まっている。そうなると取り返しがつかないから、
涙を飲んで言うままにしたので、その代り孫は私の命にかけて育て上げるから
どうぞ許して下さいと言ったのだよ」 そのご於菟さんが成人するにつれ、
何か良いことがある度に登志子さんにも聞かせたいといつも私に話されました。
産後初めて千駄木町を訪ねました。
お兄様にお目にかかってなんとお話したものかと案じながら入りますと、
なんとなくそこらの空気が晴れやかで居心地の良いのも不思議でした。
「どうも仕方がない。これまでの御縁だったのだろう」 帰る道で私は考えました。


友禅の切れは母が久しぶりに迎える嫁の料にと求めた切れの見本です。
「お前はまだ見たことがないがそれは美しい人だよ。
あの人が来てくれたらこんな着物を着せてそこらに座らせておいたら、
兄さんはもとより私がどんなに楽しみだろうと思ってね」
夢見るような目つきをなさったのを今でも忘れずにいます。
夢想と現実の違うのが世の習いですが、
希望の大きかっただけにその後の落胆の度も強かったのでしょう。
美しい方でしたからまだお若い時にある富豪に望まれてお片づきになったのです。
その御支度をするとて京都に滞在していられたように聞きました。
そこはすぐに不縁になって里に帰っていられるうちに縁があって森の家へ
来られることになったので、その時の御支度をそっくり持ってこられたのです。床の間には
定紋の縫いのある袋に入れた琴や金砂子の蒔絵の厨子なども置いてありました。
富豪へお嫁入りなすった時に先方の母親が「お着物を拝見しましょう」と言われ、
見終わってから「官員様のお父様としては、よくお揃えになりましたね」と言われたので
恥ずかしい思いをしたと話されたそうです。
物には段階があるもので、我々などの夢にも知らぬあたりのことです。
その頃は誰も遠慮がちなので、静かな家庭のようでした。
それがいつまでも続けば良かったのですけれど、そうはいかなかったのです。


いつでしたか夜分になって訪ねましたら、お義姉さん〔志げ〕はお留守です。
まだ小さかった類さんは病気で寝ていました。
ちょっと話をしていますと電話のベルがしきりに鳴ります。
女中が取り次いでも兄は頭を振るだけで出ようとなさいません。
「どうしましょう」と伺うと「捨てておけ」とおっしゃいます。
電話はいよいよ鳴ります。女中が出て何とか言って切ったようでした。
お義姉さんはどこかへお出かけでその晩はお帰りにならないのですが、
さすがに類さんが心かかりで様子を問おうとせられた電話なのでした。
そんなことはよくあるのだそうで、なんだかお気の毒で早々にお暇しましたが、
帰りしなに女中に聞きましたら
「行くなとおっしゃるのに、お出かけになったのです」と女中も不服そうでした。


「お前は近頃石本さんに会うかい?」
石本さんとおっしゃるのは石本新六大臣の夫人です。
お茶の水女学校の出身者のうちでは有力な方でした。
「あの方は会にはいつでもお出でになりますから、私さえ出ればお目にかかられますよ」
「お前も知っている通り、俺は勤向きのことでは人に避難されるようなことはしないがね。
ただ家庭のことでかれこれ言われると困るのでなあ。折りがあったら話しておいてくれ」
「ええ、それは誰でも親しい者は知っていることですから」
石本氏は立派なお方でしたけれど、強いところもおありになるのでしょう。
お兄様は充分控えめにしていつも謙虚な態度でいられますが、
時には衝突なすったこともあるように聞きました。
あたりに人がいなくなったので控室に戻ると夫人が一人でいられます。
良い折りと声を低くして「兄がいつも御主人様の御世話になります。
正直すぎる人なので、いっこくですからさぞ失礼をも申すでございましょう。
よろしくお取り成しを願います」
「いいえ、いっこくと言えば主人こそお話になりません。
どなたにでも無遠慮にズケズケと物を言いまして、はたの者がハラハラいたします。
奥様はお若いのですってね」
「はい、美しい良い方ですけれど、お育ちになった御家庭が我々とちがいますから」
「そうですってね。皆さんからチョイチョイお噂を聞きますよ」
お兄様がお気になさるのはそうした人の噂でしょう。人はどんなことを言うのだろう。
もっと聞きたいと思ううちに、皆さんの足音がするのでそこを離れました。

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by vMUGIv | 2011-01-08 00:00 | 明治

森鴎外 その7

★後妻 荒木志げ バツイチ同士再婚
1880-1936 明治13-昭和11 56歳没
華族女学校卒業


■父 判事 荒木博臣
1837-1914


■前妻 津天


■後妻 浅子


●前妻の子 虎太郎 法学者
●後妻の子 三雄  
●後妻の子 茂子/志げ
●後妻の子 栄子  鳥山氏と離婚・法学者山口善六と再婚


★前夫 渡辺財閥明治屋治右衛門商店の三男渡辺勝太郎 離婚

*勝太郎の女性問題から実家が志げを連れ戻した。20日余りの結婚生活であった。


★後夫 森鴎外 バツイチ同士の再婚


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仏文学者 後藤末雄

夫人は丸髷に結って黒縮緬の羽織を着ておられた。
夫人は34、5であったろう。年頃としては渋好みの身なりであった。
細面で色の浅黒いのが目についた。
眉毛は濃く、目にはさしたる特色もなかったが口元が小さかった。
そして話しをされると、言葉が唇からこぼれるかと思われた。
やさ形で手先も華奢であった。
そして衣装といい、態度といい、端然として一分の隙もなかった。
整った目鼻立ちに薄化粧なのが品良く見えたが、
色の浅黒いせいかどこか顔に険があった。
奥方という言葉の内容から野暮な要素を抜き取り、
御新さまという言葉の粋な分子を奥方の語義に加えたのが鴎外夫人の外貌であった。
「粋で高等」という形容詞はかなり矛盾しているから、
こういう女性に出会ったことがなかった。
鴎外夫人こそまさにこの形容詞をもって修飾すべき唯一の存在であろう。
夫人は闊達でよく笑われた。
話しぶりにも、東京人の人に特有な洗練と流麗があった。

鴎外先生の月給は袋のまま母堂の手に渡されたそうである。
そのせいか夫人の勝手許は、さほど豊かではなかった。
夫人は渋谷に荒木山といいう広い空地を妹さんと一緒に持っていた。
夫人は子供の物を思うように買えないから、
一文の所得もないこの地所を手放したいと言って、
私の知人に紹介を頼まれたことがあった。

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孫/鴎外の息子於菟の子 森真章

お祖母さんは姿勢が真っ直ぐな人で、孫の僕から見ると、
例えば『半日』や大人の話から聞くのとはだいぶ違うんです。
非常にきちんとしているのです。
端正な感じで絶対に取り乱さないような感じの人で、落ち着いていて非常に品が良くてね。
お祖母さんと話をすると、お祖父さんがそばにくっついているような感じがするんです。
それでいつもお祖父さんを一番感じるのは、父の謹厳な話よりも、
また茉莉叔母さんの面白い話からも感じられましたけれども、
一番身近に感じられたのはお祖母さんを通してです。
別に直接話さなくても、そばに寄り添っているような感じでしょうか。
今もその感じが残っています。
とにかくお祖母さんは、人の噂に出てくる話とは違ってまったく立派な人でした。

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女子左から 茉莉 不明 志げ 杏奴 峰子
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by vMUGIv | 2011-01-07 00:00 | 明治

森鴎外 その6

★妾 児玉セキ
1867-1941 慶応03-昭和16 74歳没


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鴎外の息子 森於菟

私がおセキさんを見かけたのは、
父が初めての結婚に失敗した後、第二の結婚生活に入る前のことであり、
自然の生理的必要に対する解決のために契約したので、
やはり祖母が父のために勧めたのが主な動機と考える。
心がけの良いおとなしい美しい、そしてもう一つ進んで言えば子供を生みそうにもない
婦人であったが、その他に格別取り柄もなく父の配偶としはふさわしくない。
こんな関係がある期間惰性で続き、終わりにその人の生来を傷つけずに解消し、
周りの者が心配した父の名誉も損なわれなかったが、
この件を父自身後悔したのは、ずっと後になって私に
「性生活の処理は結婚以外は一つの対象に集中してはいかぬ。散らしにしておけ」
と奇抜な忠告をして私を苦笑せしめたので明らかであると思う。
妻のない空白期間に役に立った木偶のようなもので、なんとも気の毒である。
祖母や父が一人の女を器械として取り扱ったという点で
非難する人があればやむを得ないだろう。
ただ私としては明治時代の貴顕富豪その他一般紳士が
どんな生活をしたかを考え合せてもらいたいと思う。

一言にして言えば、あの時代に多くある忍従の世界に生きた知性も教養も低く、
善良で相当に美しい気の毒な人なのである。
おセキさんは年より少し老けて、粋ではあるがまずおとなしやかな地味づくり、
着物も普段着は小奇麗な銘仙という所であった。
元士族で千住で相当の位置にあった人の未亡人だという。
夫の没後も多少収入もあり、裁縫をよくするので仕立物など頼まれ、
つましいながら身ぎれいに暮らしていた人とのことである。
祖父は北千住に医院を開業していたので祖母が心安くなり、その人柄に好感を持って
家での仕立物、ことに祖父や父の男物をおセキさんに頼んだという。
おキンちゃんという娘一人を連れていたが、おセキさんが祖母のメガネにかなった条件の
一つが石女らしいというところにあったから、おキンちゃんは養女であったのだろうと考える。

その頃の父はは酒杯を手にする機会は多くても
芸妓その他いわゆる玄人関係の女と気の合うことはなく、
家の女中などはもちろん素人関係の女に手を出す父でもなかった。
それを心配した祖母が、なかなか縁談が決まらぬので
おセキさんを勧めたのではないかと私は考える。
そのうちに祖母が世話をして千駄木の家の近くに
おセキさんが小さい借家を借りて住むようになった。
おえいさんの話では「旦那様はお宅にいらっしゃればいつも御書見か書き物です。
芯が疲れるからと御隠居様が御心配になって
『林さん、もうずいぶんおセキの所へ行かないから、気晴らしに行っておいでよ』
と繰り返しお勧めになっても、旦那様は『うん、うん』とおっしゃるきりですが、
時には10時頃になって御普段着にちょっと御羽織を召したきりでお出かけになります。
お泊りになることと思っていると、ほんの1、2時間、12時頃にはお帰りでした。
やっぱりお話が合わなかったのでしょう。
家で書き物をしている方が面白いからとおっしゃってでした。しかしおセキさんは
おとなしい良い人でしたね。年の割に地味づくりでしたが、きれいでした」

おセキさんは父をどう思っていたか知れぬが、封建時代の主君に仕えるがごとく仕える。
御隠居様の所には旦那様の留守に御機嫌伺いに来る。
それで父との関係については近所の人も気づかず、家の女中さえ知らなかったらしい。
あるいは心の底ではこうしているうちに
何かの拍子で奥さんになれると思っていたのかもしれない。
小倉から東京へ帰任の前年の暮に父は東京に戻って結婚し、
素晴らしい新妻を伴って任地に赴いた。
おセキさんとの間はそれよりずっと前から円満に話が着いていたいたという。
ただおセキさんは、新しくお迎えなさる奥様をよそながらでも拝みたいと言ったそうである。
評判の美しい奥様が御輿入れというその日、近所の人も並んで待っていた。
その時電信柱の陰におセキさんが一人ヒッソリ立っていたとの話である。
その後は急に老い込んだ姿になったのを大正5、6年頃まで町で見かけることはあったが、
おセキさんは私に見向きもしなかった。

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鴎外の息子 森類

この間同窓会で友だちに会ったら、
「君のお父さんのお妾さんって児玉セキさんだろ。僕の家の前に住んでたんだよ。
僕ちょいちょい君んとこへ遊びに行ってたから、
セキさんに時々呼び止められて君のお父さんの様子を聞かれたよ。
その頃のセキさんは40代の終わり頃だったろうから、
子供の僕から見ればお婆さんだったけど、
どうしていろいろ聞かれるのかさっぱりわからなかったよ。
きっと鴎外さんの近況が知りたかったんだろうねえ」って言うんです。
セキさんは24、5歳、父は33、4歳と兄が書いてますから、
父が軍医学校長になるちょっと前頃で、僕の母が嫁に来る6年前です。
今度来たお嫁さんは鴎外より20も若いってことも、
初めて生んだ子供が女の子で茉莉ちゃんっていうことも、
全部一方的に知られていたかもしれない訳です。
父とセキさんの縁は切れていても、祖母や出入りの者たちとは懇意でしたから
知らぬは細君ばかりなりだったんでしょう。
僕は女に生まれなくて良かったと思ってます。

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by vMUGIv | 2011-01-06 00:00 | 明治


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