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by vMUGIv
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カテゴリ:昭和戦前( 19 )

太宰治 その18

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武蔵野病院担当医 中野嘉一

Q 入院の際、事前に武蔵野病院と交渉されたのはどなたですか?
A 武蔵野病院は精神科専門の病院でしたが、太宰が入院するひと月前
昭和11年9月に警視庁麻薬中毒救護所が同病院内敷地に特設され、
主として朝鮮人の麻薬中毒患者が収容されていた。
当時警視庁指定の洋服屋だった北芳四郎がいち早くこのことを知り、長兄の名代として
上京する中畑慶吉を待ってこっそりと病院と連絡交渉していたとのことです。
これは当時院長の渡辺鍵太郎先生から聞きました。
Q 監禁室には何日ぐらい入室していたのですか? また、広さ、入院料は?
A 太宰は狂暴性はなかったので、いわゆる監禁室には入っていません。
10月13日午後6時初診、不安・逃走・自殺企図あるため、
翌日本館二階病室から第1病棟3号室に移されていますが、
各病室は日本間で障子が閉めてあり、患者は自由に出入りするようになっていて、
長い廊下を歩き回れるようになっていました。病室は6畳、畳敷き、寝台はない。
広い窓があって、鉄格子の外側にガラス戸がはまっていました。
入院料は個室・特等室で4円50銭でした。
Q 『HUMAN LOST』の中で、入院して3日間泣いていたとありますが?
A それは本当です。私の記したカルテを見ると、
『10月14日 不安、医師の診に対して苦悩性を発揮す。興奮状を呈す。
顔面潮紅し落涙することあり』とあります。
Q 病室の壁にいたずら書きをしたのは本当ですか?
A 本当です。壁に何か書いていたのを見ました。
Q 聖書を読んでいたというのは本当ですか?
A 聖書など読んでいるのを見たことはありませんでした。
聖書についての話もまったく聞きませんでした。
Q 先生は太宰からどんな印象を受けましたか?
A ひどく痩せていて蒼白い顔の男だった。
左側肺結核もやっていたし、パビナール中毒で1日4、50本も注射を打っていたので、
ひょっとしたら助からないと思った。
彼もこんな病院で死ぬのは嫌だ、早く退院させてくれと言った。
私は太宰より2歳年上だったが、ずいぶん早熟な男だと思った。
「不当監禁だ、病院を出たら告発してやる」と言って何度も脅かされたが、
退院する時は平身低頭、こんなつまらない物ですがと言って、
『晩年』という本を記念にくれたのです。
Q 入院中、太宰はどんな服装をしていましたか? また所持することを許されていた物は?
A 入院中ずっと和服でした。本人の希望をいれて、
鉛筆(赤・青)・万年筆・便箋・封筒など看護人に買わせていたと思います。
また彼の依頼で新聞は朝日を読みたいと言うので特別に病室に入れるようにしました。
雑誌なども中毒症が治ってから読んでいたようです。『改造』とか『新潮』とか。
Q 首を吊ろうとして看守に見つかったというのは事実ですか?
A それは事実です。
入院した晩に兵児帯で首を吊ろうとしたのを看護人に見つけられたのです。
自殺のおそれがあるというので、翌朝鍵のかかった病棟に移されたのです。
Q 入院中、酒類を要求しませんでしたか? 煙草は?
A 要求しませんでした。
パビナールを打っていたので、ずっと酒は飲んでいなかったとのこと。
また、煙草も喫っていなかった。
Q 太宰は病院をどう思っていたか?などお尋ねしたい。
A 退院したらパビナールうは恐ろしいから絶対に注射しないことを言い聞かせた。
パビナールをやっている時は全然酒はやめていた。退院したら酒は飲みたいと言っていた。
以前は大酒飲みで、飲酒一升に及ぶとカルテにも書いてある。
入院中毎日微熱があった。以前から時々血痰も出ていたという。
これは左側肺結核のためだった。
退院したら、結核の治療にどこかサナトリウムに入院された方がいいと勧告した。
太宰はそれを承知していた。「私は富士見高原病院に行きたかったが、
こんな病院に連れて来られてしまった」と言っていた。
パビナール中毒は思ったより順調な経過で治ったが、
もともとからあった不眠症は治らなかったのでそれを気にしていた。
カルモチンとかペロナールはほとんど毎晩頓服として出していた。
「狂人との共同生活はつらいね」と初めのうちはこぼしていたが、
退院の日が決まった頃には病院の悪口もあまり言わなくなった。
心の中では思っていたかもしれないが。
余談ですが、「こんな病院なんかに勤めている医者にろくなものはいない」と言った後で、
「先生だけはごみ溜め下りた鶴のようですね」と言った。
嫌な気分だったが、私は黙って聞いていた。それは私の機嫌を取るためのお世辞で、
一日も早く退院の手続きを取ってくれという魂胆からであったように思われます。
もともと麻薬中毒の入院患者には医者にこういったお世辞を言うのが多い。
太宰の場合もその例外ではなかったと思います。
Q 太宰は病室の患者に話しかけたりしたと書いてますが?
A 中毒が治って落ち着いてきた1週間目頃から、
患者の姓名を聞いてメモを取ったり、出身学校を尋ねたりしている。
Q 退院する際、どなたが太宰を迎えに来ましたか?
A 郷里の長兄が来られました。
弟の中毒が意外に早く治ったことに大変感謝されていました。
太宰は長兄に「この方が入院中いろいろ話し相手になってくれた先生です」
と私を紹介した言葉を覚えている。
長兄の他に初代夫人など、2、3人来ていたようですが、誰であったかよく覚えていない。
Q 『HUMAN LOST』に、入院中家兄一人が面会に来て一時間対談とありますが?
A 郷里から誰か来られたということは覚えています。どなたかは覚えていません。
初代夫人は太宰を心配するあまり、面会謝絶とわかっていても、
船橋から根気よく毎日病院通いを続けていた。
太宰の姿を見かけるかもしれないという秘かな期待を持っていたのかもしれない。


私は医学部を出て間もない頃、板橋の武蔵野病院に勤めていた。
太宰治がパビナール中毒の患者として入院してきて、私がその主治医になったわけである。
カルテには津島修治殿28歳と書かれていた。
この男が太宰治であることを知ったのは少し経ってからである。
入院した晩、逃亡の恐れありというので開放病棟から鍵のかかった病棟に収容された。
1週間くらいは落ち着きなく、おそらく夢中であったろう、
不当監禁・インチキ病院・虐待・命保たず、救助タノム・詐欺・裏切り者など、
壁紙やガラス戸に色鉛筆で書きなぐっていた。
看護日誌には、廊下徘徊、逃走要注意などと書かれてあった。
回診に行くと「内緒でここから出して下さい」と平身低頭したり、
私や看護人が廊下を通ると動物園の猿のように鉄格子につかまって、
出してくれ出してくれと怒鳴った。
ひどい禁断症状が取れると、彼は別人のように黙って座り考え込んでいた。
夜明けに眠れないで廊下を歩いたり、薬包紙に「先生、なんとか良い薬を盛って下さい」
と書いて看護人に渡し、医局に眠り薬を取りに来させた。

昭和10年4月初旬、太宰は突然腹痛を訴え、阿佐ヶ谷の篠原病院に担ぎ込まれた。
診断は急性盲腸炎ということでさっそく手術されたが、
苦痛を訴えて眠れず、唸ったりわめいたり叫んだりした。
「止痛剤を打て」と言ってきかない。医師はそれではというのでモヒ剤を注射したのだという。
太宰はこの病院に1ヶ月いたが、
少しでも痛むとその都度医師にパビナールを要求したという。
篠原病院で患部鎮静の目的で打ったパビナールは、
経堂病院に移ってからも医師や看護婦の目を盗んで秘かに続けられていたようだ。
そのため2ヶ月ほどして退院した時には完全にパビナール中毒になっていた。
退院する前に1日の分量はすでに20本を越していた。
パビナールは当時1本30銭くらいであったが、
中毒症状が強まるにつれて経済的にも苦しくなったという。
経堂病院を退院してから、長兄の配慮で船橋へ転地療養することになった。
入院カルテに中毒治療のため、芝の済生会病院に入院したと書かれているが、
太宰は昭和11年の2月佐藤春夫の厚意で済生会に入院したのである。
ここには春夫の弟秋雄が内科医師として勤めていたので、
この機会にパビナール常用の習慣を断ってもらおうと入院させたのである。
しかしこの時は佐藤春夫への甘えもあって、深夜に無断外出し壇一雄や山岸外史たちと
酒を飲み歩き、隠れてパビナールを買い込んではこっそり注射したりして、
医師や看護婦も呆れ返るといった始末で病状はますます悪化した。
太宰をこういった窮状から救うためには、
精神病院に強制入院させるより他に方法がなかった。
結局武蔵野病院に太宰が入院することになったのは、
太宰が入院するひと月まえに警視庁麻薬中毒救護所がこの病院内に併設されたのを、
太宰の長兄の代理人の北芳四郎がたまたま警視庁指定の洋服屋をしていた関係で
いち早くそれに気づき、長兄の名代として中畑慶吉の上京するのを待って
武蔵野病院へ連絡を取り、入院の運びとなったのである。

太宰が入院当日は言ったのは、病院本館2階の特別室であった。
良家の患者ということで、見晴らしのきく明るい開放病室を用意していた。
しかし自殺企図のおそれがあるので、中1日置いて閉鎖病棟に移した。
禁断症状は相当ひどかった。不眠・興奮が続いた。
不当監禁だ、告訴すると言って、私など何度も脅かされた。
特別室に帰してくれれば金をやると言って、畳に平身低頭、哀願された。
廊下を徘徊、「不当監禁、不当監禁」と叫んだりした。
隣室の妄想性痴呆の老人とはよく世間話をしていた。

入院中は小説などは書かせなかったが、
患者の要求があれば鉛筆やノートを与えたこともあった。太宰は狂暴性はなかったので、
間もなく彼の要求に従って、机・便箋・鉛筆・新聞などを与えた。
途中から雑誌や書籍なども許可したが、
手紙は外部からのも内部からのもすべて検閲することになっていた。
入院中、彼の初代夫人は病院まで来ていた。
面会謝絶とわかっていても毎日のように病院通いを続けていた。


<病床日誌>
『氏名 津島修治』 『年齢 28歳』 『病名 慢性パビナール中毒症』
『現病歴 昭和10年4月5日虫様突起炎兼腹膜炎にて手術後、腹部疼痛のため
医師より麻薬注射をほとんど毎日受、多きは1日4筒に至れることありきと。
同外科病院入院中4月11日頃血痰出でしため、
5月1日経堂病院に転じ6月30日退院せるも、その間腹痛・不眠等のため
隔日に1回くらいずつ医師より麻薬注射を受けたりと。
その後現在の船橋に転居し、7月7日頃より腹痛のため毎日医師より麻薬注射
(主としてパビナール)を受け習慣するに至り、本年2月まで多きは1日3筒くらい。
本年2月中約10日間芝済生会病院に入院(麻薬中毒禁断のため)、全治退院せるも
約1ヶ月後再び最初は船橋の某医によりパビナール・アトロピン注射を始め(皮下)、
まもなく自ら注射し現在は1日10~30筒に及ぶ』
『現症 左腕上?部にパビナール注射の跡点々と無数にあり』
『合併症 左側肺結核(左胸全般に乾湿性ラ音)』

現病歴は10月13日夕方、初診時当直医の牛山篤夫が
付添人の陳述に基づいて記載したものである。
『済生会病院に入院、全治退院せるも』とあるのは、
『未治のまま退院』と訂正しなければならない。
またパビナールまたはパビナール・アトロピンの注射本数も
『1日10~30筒』とあるが、後でこれよりもはるかに多いことがわかった。
一日30筒~40筒ないし50筒ぐらいにまで及んでいたろうと思われる。



『昭和11年10月13日午後6時入院』
10月14日
『不安、医師の診に対して苦悩性を発揮す。興奮状を呈す。顔面潮紅し落涙することあり』
入院する前に注射しただけなので、この日は薬が切れて禁断症状が最も強く現れた。
ネオポンタージン20cc3筒、グレラン20cc、スパミドール注射、プロームグレランなどの
鎮静鎮痛剤注射を施行した。
10月16日のカルテには「強制的に入院せされられた、恨んでいる」とか
「苦しくなり死にたくなります」と記されている。
回診する院長とか担当医であった私などに
「インチキ病院、インチキ医者、退院したら警察に訴えてやる」など脅し文句を並べたりした。
また『感情転換性、かなり誇張的苦悶性』『病識なし、自覚して治そうとせず』
と記されている。さかんにパビナールを打ってくれと要求するのである。
麻薬中毒の治療薬スパミドール注射は10月19日まで行われた。
その後は不安・悪心・下痢などの禁断症状もなく平静となった。
10月25日のカルテには
『平静となり、病識相当あり。注射の要求なし。なお不眠を訴う』とある。
10月29日のカルテには『不眠あり。胸部よりの夕方熱認めらる』
不眠症に対しては、カルモチン・ベロナールを投与していた。
11月12日全治退院。
入院約1ヶ月の体温表を見て注意されることは、
午後37度2、3分の微熱が続いていることである。
これは太宰自身も気にしていた結核性の微熱である。進行性の結核性病変が考えられる。


<看護日誌>
10月13日 『本日午後御入院。御入院後、格別容態苦痛の御様子も見受けず、
床上に横臥、安らかに睡眠をとられたり』
10月14日 『午前中徒然のまま読書専念の時を過ごされ
格別御容態に御変状見受けざりしも、午後3時半より苦痛の御様子にて激しく悪感あり』
10月15日 『稍々苦痛の態を見受くも格別特筆すべき御容態なし。終日床上に横臥、
徒然なるがまま雑誌等専念に読まれ無聊の時を御過ごしに相成られたり』
10月16日 『午前9時より20分間苦痛の御様子にて悪感ありしのみ。他に格別
特筆すべき御異状見受けず。相変わらず読書に専念の時を御過ごし相成られたり』
10月13日から16日まで4日間の看護日誌を写してみたが、
この看護日誌を書いた看護人はその病棟の看護長である。
この男は27、8の華奢な男で、言葉もやさしく丁寧であった。
看護長も津島という患者が帝大中退の良家の息子さんであるからと言って、
他の看護人にも何かと気を使うように指図していたようである。

看護日誌で特に注目されるのは、
10月20日頃から精神的にも不安がなく体調も良く、『読書に専念され』とか
『漫談に打ち興じられ呵呵大笑されている』と記されていることである。
11月07日 『引き続き御同様にて新記入事なし。終日床中読書なされ、
時々石原氏〔他の患者〕のそばにて雑談を交え御元気なりき』
11月12日 『相変わらずの御状態にて格別のお変わりなく、
朝食後2時間院外散歩にお出でになられる。その他廊下徘徊などなされて落ち着かず、
昼食後兄上様のお迎えありて午後1時20分御退院遊ばさる』

退院する時太宰は非常に感謝的で、全快記念にと言って私に『晩年』初版本をくれた。
扉には次のような献辞が書かれている。
『君は私の直視の下では、いつもおどおどして居られた。
私をあざむいた故にあらずして、この人をあざむいているのではないかしらという
君自身の意識過剰の弱さのゆえであろうか。
私たち、もっときっぱりした権威の表現に努めようね』
彼は病室では私を先生と呼んでいたのに、献辞では君と書いている。
よくわからないが、私に対する複雑な皮肉・諧謔性を織り交ぜたものであろう。

私と津島修治との関係は医者対患者の関係から始まったが、
退院近くなってから漸く落ち着いて彼から文学の話が聞けるようになった。
私は当時『リアン』などに詩を書いていて親しくなった詩人福士幸次郎のことを話したら、
自分と同郷の詩人だからぜひ一緒に訪ねようと約束したが、
退院後は何の音沙汰もなくそのままになってしまった。
太宰と交渉があり、『斜陽』のモデルになった太田静子さんは
私たちと新短歌をやっていた仲間でありまんざら知らぬ間柄ではない。
ふしぎな因縁であるとも言える。

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by vMUGIv | 2011-05-18 00:00 | 昭和戦前

太宰治 その17

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青森在住の太宰の御目付役 中畑慶吉

昭和23年の6月の14日でしたか、文治さんから電話がかかってきまして
「修治が飛び込んだらしい。どうも今度は本当にやったらしい気がするので、
ご苦労だがまた東京へ行っちゃくれないか」 私は嫌だと答えました。
いい歳をしてまたぞろ狂言自殺かなにかわからない事件だと馬鹿臭いと思ったのです。
ところが文治さんは「いや、今回だけは感じるものがあるから、ぜひ行ってくれ」
そうまでおっしゃるんでしたら、
「ようがす。ただ、死体が上がってからにしましょう」とお答えしました。

19日の朝に北さんから電報があって死体が上がったという。
同時に津島家の執事さんが3万の大金と
「中畑さんの気の済むように処置してきてください」という文治さんの伝言を持って
私の家にやってきましたので、取るものも取りあえず出立したのです。
朝東京へ着き、井伏さんのお宅に土産のリンゴを届け、
たしか〔井伏の〕奥様とご一緒に三鷹へ向かいました。

私は三鷹へ行くたびに、2ヶ月に1度くらいでしょうか、
酒を2本とか牛肉をぶら下げて三鷹警察署に立ち寄っていました。
「三鷹に住んでいる太宰という文士がおります。彼は自殺の憂いが無きにしもあらずなので、
いつあなた方の手でお世話になるかもしれません。よろしく警戒くださいますよう」
このような挨拶をしていたのです。
三鷹警察署に寄って署長さんに挨拶してこの度の事件のお詫びを申し上げたところ、
「あなたが心配していた通りになってしまいました。
きっと後始末においでになると思ってました」
「どうもとんだことになりまして、本当にお世話になります」
「あなたにお目にかかりたいと思っておりました。さっそく現場に案内させましょう」
私は刑事さんに連れられて縄を張ってある入水の場所に行きました。
そこは丁寧に保存されていました。見ると下駄を思いっきり突っ張った跡があります。
しかも、手をついて滑り落ちるのを止めようとした跡もくっきりとついておりました。
所長さんから「中畑さんはどのように思われますか」と尋ねられた時、
「私には純然たる自殺とは思えません」とお答えしてしまいました。すると署長さんは
「実は警察としても自殺とするには腑に落ちない点もあるのです」とおっしゃるのです。

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筑摩書房編集者 臼井吉見

さっちゃんは知能も低く、これという魅力もない女だった。
文学好きなどという種類のものではなかった。
ただ妙に思いつめるようなたちで、酔った太宰のお世辞を真に受けて
たちまち魅入られたかのように太宰に寄りついて離れなかった。

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評論家 亀井勝一郎

自殺の報を聞いた時も、私は信じることができなかった。
自殺の理由がどうしても考えられなかった。直接の死因は、
女性が彼の首にヒモを巻きつけ無理に玉川上水に引きずり込んだのである。
遺体検査に当たった刑事は、
太宰の首にその痕跡のあったことをずっと後になって私に語った。

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作家 井伏鱒二

先日私は亀井勝一郎君に会った時、意外な話を聞いた。
ある一人の刑事がこう言ったそうである。
太宰という作家が身投げしてその遺骸が見つかった時、
自分は検視の刑事として現場に立ち会った。
検視の結果、太宰氏のノド首に紐か縄で絞められた跡がついていた。
無理心中であると認められた。
しかし、身投げした両人の立場を尊重し世間に公表することは差し控えた。
そんなような意味のことを、その刑事が話したそうである。

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しかし、亀井勝一郎と井伏鱒二は当日ともに太宰の検視に立ち会っているのだ。


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新潮社編集者 野平健一

太宰の死について心中・情死という言葉を避けたい人はいるにしても、
だからと言って富栄さんが殺したという根拠があったとは思われない。
中にはすでに亡くなったある批評家のように、
太宰と親しかったがゆえに遺体の検視に立ち会い、
その時はっきり太宰のクビが細引で絞められているのを見た
と公言してはばからなかった人がいたが、これは嘘だ。
ありもしなかったことを事実のように伝えた真意は計りかねるが、
ともかく変な人であったことは確かだ。
確信ありげに私が言うのは、二人の遺体が玉川上水に上がった時、
私も遺体を収容した<3人の若い男>の一人だったからである。
細引は二人の腰を繋いでいた。その細引は、
川底から堤の上に運び上げるため<3人の若い男>の一人がナイフで切った。
太宰はノドなど絞められていなかったのである。

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新潮社→角川書店→筑摩書房 編集者 野原一夫

太宰さんと富栄さんの遺体は6月19日の早朝、通行人によって発見された。
私たちは土堤の道を走った。道はひどくぬかるんでいて
滑って転びそうになりながら走った。
激しい勢いで流れている中流に、杭にでも引っかかっているのか
太宰さんと富栄さんが折り重なって揺れていた。
太宰さんが上に覆いかぶさるようになってワイシャツの背中を見せ、その下に富栄さんがいた。
抱きかかえるようにして遺体を引き上げる時、むせるほどの異様な臭いが鼻をついた。
膨れ上がって白くふやけた遺体は指先がめり込むほどで、
こすれると皮膚がはがれ私たちの雨着に付着した。
私たちは遺体をシートの上に寝かせムシロをかけた。
二人の身体が、腰のところで赤い紐でしっかりと結ばれていたことだけを言っておこう。

霊柩車が来るまでにはかなりの時間がかかった。
寝棺を下に降ろし遺体をおさめ、
丸太を組んだレールを斜面にはわせて綱で寝棺を引き上げる作業が始まった。
寝棺を霊柩車におさめようとした時、警察から待ったがかかった。
この場で検視を行うと言う。止んでいた雨がまた落ちてきた。
相談の末、検視は屋内で<千草>の土間を借りてやることになった。
豊島与志雄氏・井伏鱒二氏・亀井勝一郎氏・今官一氏・山岸外史氏らが、
土間から一段高くなった座敷のヘリに一列に並んだ。
私は検視医のすぐ横に立った。
山岸さんが下駄をつっかけて座敷から下り、私のわきに来た。
太宰さんの死顔をしっかりと見ておきたかったのだろう。

亀井さんはよく存じ上げている。太宰さんの生前にもよくお会いし、一緒にお酒を飲んだ。
いつも微笑を絶やさない穏やかなお人柄だった。
親友を亡くした亀井さんの無念さはよくわかるつもりだが、
同行した女性を殺人者にしてしまうのはあまりにも穏やかでないように思われる。
もし検視医が首筋に絞められた痕跡を発見したら、
黙って見逃すことはなかったに違いない。
そのことは、少し離れてはいたが亀井さんは見て知っていたはずである。
断じてそのような痕跡は無かった。
私はすぐ間近で、検視医とおなじくらいの間近さで太宰さんに見入っていたが、
その首筋には絞められた痕跡など断じてなかったのである。

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評論家 山岸外史

その日は実にひどい雨だったことを思い出す。
僕は無言でそのムシロの塊を見ていた。そばに立っていた青年たちは、
新潮社のN君〔野平健一〕と展望社のK君と筑摩書房のN君〔野原一夫〕であった。
「今朝方4時半頃に通行人が発見して、すぐ交番に連絡してくれたのです。
それですぐ駆けつけて引き上げたんです」N君がそう言った。
「引き上げた時、太宰先生と富栄さんの腰に赤い腰紐が結ばれていたのですが、
その紐はナイフで僕が切りました。このことは誰にも言わないでおいて下さい」
K君が早口にそう言った。
「ことに、新聞社には絶対秘密にしておいて下さい。お願いします」
N君もK君も口をそろえてそう言った。
「わかりました」僕は答えた。
太宰の腰にそんな紐のあったことは意外だったが、
誰にも教えたくない気持ちは僕にもよくわかった。
さすがに若い編集者たちにとって、
赤い腰紐の情死ということでは世間体を憚る苦痛があるのだと思った。

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作家 豊島与志雄

昭和23年4月25日日曜日の午後、電話があった。
「太宰ですが、これから伺ってもよろしいでしょうか」
声の主は太宰自身ではなく、さっちゃんだ。
さっちゃんというのは我々の間の呼び名で、本名は山崎富栄さん。
私のところに少し酒があったが、入手はなはだ困難だ。
太宰はさっちゃんに耳打ちして電話をかけさせる。
さほど遠くないところに懇意な筑摩書房と八雲書店とがある。
「もしもし、私さっちゃん・・・」そう自分でさっちゃんは名乗る。
お酒が手に入るまいかとねだる、お代は原稿料から差引きにしてと言う。
八雲から上等のウイスキーが届けられ、
夜になって筑摩からも上等のウイスキーを白井君が持参された。
太宰は酒を集めてくれたばかりでなく、
さっちゃんをあちこちに奔走さして色々な食物を買ってこさした。
私の娘が病気で伏せっていたのへも、お見舞いとしてバタや缶詰を買ってこさした。

さっちゃんは太宰がどんなにワガママなことを言おうとどんな用事を言いつけようと、
片言の抗弁もしない。すべて言われるままに立ち働く。
積極的に細かく気を配って身辺の面倒をみてやる。
もしすきま風があるとすれば、その風にも太宰を当てまいとする。
それはまったく絶対奉仕だ。
家庭外で仕事をする習慣のある太宰にとって、
さっちゃんは最も完全な侍女であり看護婦であった。
家庭のことは美知子夫人が立派に守ってくれる。太宰はただ仕事をすればよかったのだ。

それきり私は太宰に会わなかった。会ったのは彼の死体にだ。
死は彼にとっては一種の旅立ちだったろう。その旅立ちに
最後までさっちゃんが付き添っていてくれていたことを、私はむしろ嬉しく思う。

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玉川上水を捜索する富栄の父
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by vMUGIv | 2011-05-17 00:00 | 昭和戦前

太宰治 その16

昭和22年01月上旬 太田静子が三鷹の仕事部屋を訪問。
昭和22年02月21日 太宰が下曽我に滞在、静子が斜陽ノート渡す。静子この時妊娠する。
昭和22年02月26日 下曽我から伊豆へ移動、
旅館で斜陽ノートをもとに『斜陽』書き始める。
昭和22年03月07日 伊豆から帰京の途中、下曽我を訪ねるが静子は留守だった。
昭和22年03月中旬 太宰が下曽我を訪問。静子は妊娠を告げる。
昭和22年03月27日 山崎富栄と出会う。
昭和22年03月30日 二女里子誕生。
昭和22年05月24日 静子と弟が相談のため太宰を訪問。
昭和22年11月12日 静子出産。
昭和22年11月15日 静子の弟が太宰を訪問して認知証をもらう。
昭和22年11月下旬 喀血始まる。
昭和23年02月25日 武蔵野税務署から所得税の納付書が届く。
昭和23年06月13日 太宰、富栄と入水心中。


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愛人 山崎富栄の日記

昭和23年5月22日
「ごめんね、あのね、苦しいんだよ。恋している女があるんだ」
3年くらい前からのお付き合いで、ファンレターからお見合いが始まり、
この間手紙が来て結婚を強いられている由。それでこの30日にお会いしたいとのこと。
「何でも言えって約束してたから言うんだよ、ごめんね」
前に一度聞いたことのある女の人、26歳。
女子大卒で美人。スラリとしていておとなしく申し分ないような人らしい。
阿佐ヶ谷に住んでいて、お嬢様の由。
「僕には女があると言ったんだが、問題にしねえんだ。
美容師ですって?ってよく知ってるんだ、お前のことを。その女、僕に会うとすぐ泣くんだ。
だから言ったじゃないか。お前がいつもそばから離れずについていてくれなきゃダメだって。
僕はどうしてこう女に好かれるのかなあ!ちょうどいいらしいんだね、僕は。
あまり堅くもないし、場持ちは上手だし。あなたはいつも小説に
御自分のことをまずい顔だとお書きになるけど、ずるいとも言うんだよ」
ずいぶんな人です。
『死ぬ気で僕と恋愛してみないか。責任を持つから』と言われて、
親も兄弟も捨てて世間も狭く歩いている私。
女子大のお嬢様で、父君は医者で、何から何までブルジョアであり、
修治さんの言う手足が小さく背がスラリとして道行く人がみな振り返る美貌であり、
学あり、フランス語も話し、衣装も常にパリッとしていて・・・。
私より前にお付き合いしていた女子大生。それから伊豆〔太田静子〕。それから私。
それからまた女子大生の手紙に戻る。
いろいろ考えてみても、修治さんのおっしゃる通り胸を開いて心を読ませてくださるのは、
私ひとりきり。伊豆の人は据え膳で、愛情はまったくないとのこと。
女子大生の人には、伊豆に子供のあることも言っていない。私ひとりきりなのだ。

昭和23年5月23日
夫が病んでいます、私の夫が。
生まれて初めての恋だよと、むかし夫は私に言いました。
仲良くしてたその時でも、夫はあの人の幻を胸に描いていらしたとか。
私を一番愛しているから、信頼しているからと、すべてを打ち明けてくれました。

昭和23年5月25日
私の容貌など、三鷹へ来た頃と、
修治さんとお付き合いしてからと全然変わったと人に言われる。

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太宰治 『グッドバイ』

愛人が10人もいる主人公田島周二は、
美貌の永井キヌ子を連れて順々に10人を訪ねて手を切ろうとする。
田島が真っ先に手を切るのは青木という30前後の戦争未亡人の美容師である。
女子大出のお嬢様がキヌ子のモデルで、富栄が青木のモデルである。

二人の行進は日本橋のあるデパート内の美容室に向って開始せられることになる。
おしゃれな田島はふらりとこの美容室に立ち寄ってパーマネントをしてもらったことがある。
先生は青木さんといって三十歳前後のいわゆる戦争未亡人である。
ひっかけるなどというのではなく、むしろ女のほうから田島について来たような形であった。
青木さんは寮からお店に通っているのであるが、
収入は女ひとりの生活にやっとというところ。
そこで田島はその生活費の補助をするということになり、
今では寮でも田島と青木さんとの仲は公認せられている。
けれども田島は青木さんの働いているお店に顔を出す事はめったにない。
田島の如きあか抜けた好男子の出没は営業を妨げるに違いないと、
田島自身が考えているのである。
それがいきなりすごい美人を連れて彼女のお店に現れる。
「こんちは」というあいさつさえもよそよそしく、
「今日は女房を連れて来ました。疎開先から今度呼び寄せたのです」 
それだけで十分。青木さんも目もと涼しく肌が白くやわらかで
愚かしいところのないかなりの美人ではあったが、
キヌ子と並べるとまるで銀の靴と兵隊靴くらいの差があるように思われた。
二人の美人は無言で挨拶を交わした。
青木さんはすでに卑屈な泣きべそみたいな顔になっている。
もはや勝敗はあきらかであった。
田島は女に対して律儀な一面も持っていて、
女に自分が独身だなどとウソをついた事がない。
田舎に妻子を疎開させてあるということは始めから皆に打明けてある。
それがいよいよ夫のもとに帰って来た。
しかもその奥さんたるや、若くて高貴で教養の豊からしい絶世の美人。
さすがの青木さんも泣きべそ以外手がなかった。
青木さんはキヌ子に白い肩掛けを当て髪をときはじめ、
その眼には涙が今にもあふれ出るほどいっぱい。
セットの終ったころ田島はそっとまた美容室に入って来て、
一寸くらいの厚さの紙幣の束を美容師の白い上衣のポケットに滑りこませ、
「グッド・バイ」と囁いた。
青木という女は他人の悪口など決して言わなかった。
お金も欲しがらなかったし、よく洗濯もしてくれた。

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新潮社→角川書店→筑摩書房 編集者 野原一夫

私が最後に太宰さんに会ったのは、もう6月に入ってからのことだった。
私は千草の戸を開けた。「先生はこちら?」
おばさんは耳元で囁くように「先生はね、前〔富栄の部屋〕にいらっしゃいますよ。
だけど特別な人の他は、もう誰とも会っていないようだよ。
いえね、先生が会いたがらないんじゃなくて、山崎さんが会わせないんだよ。
こないだもね、どこかの出版社の人が山崎さんに玄関払いを食わされて
追い返されたそうで、うちにみえてさんざん山崎さんの悪口を言うの。
ヤケ酒だヤケ酒だってあおるようにお酒を飲んで、フラフラしながらウチを出ていって、
山崎さんの部屋の窓に向かって、山崎のバカヤロウって大きな声で怒鳴るんだよ。
私もハラハラしちゃったけどね」

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◆昭和23年06月13日 入水心中


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愛人 山崎富栄の遺書

私ばかり幸せな死に方をしてすみません。
御家庭を持っていらっしゃるお方で私も考えましたけれど、
女として生き女として死にとうございます。
あの世へ行ったら太宰さんの御両親にも御挨拶して、きっと信じていただくつもりです。
愛して愛して治さんを幸せにしてみせます。
せめてもう一、二年生きていようと思ったのですが、
妻は夫とともにどこまでも歩みとうございますもの。

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昭和23年6月16日
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by vMUGIv | 2011-05-16 00:00 | 昭和戦前

太宰治 その15

昭和22年01月上旬 太田静子が三鷹の仕事部屋を訪問。
昭和22年02月21日 太宰が下曽我に滞在、静子が斜陽ノート渡す。静子この時妊娠する。
昭和22年02月26日 下曽我から伊豆へ移動、
旅館で斜陽ノートをもとに『斜陽』書き始める。
昭和22年03月07日 伊豆から帰京の途中、下曽我を訪ねるが静子は留守だった。
昭和22年03月中旬 太宰が下曽我を訪問。静子は妊娠を告げる。
昭和22年03月27日 山崎富栄と出会う。
昭和22年03月30日 二女里子誕生。
昭和22年05月24日 静子と弟が相談のため太宰を訪問。
昭和22年11月12日 静子出産。
昭和22年11月15日 静子の弟が太宰を訪問して認知証をもらう。
昭和22年11月下旬 喀血始まる。
昭和23年02月25日 武蔵野税務署から所得税の納付書が届く。
昭和23年06月13日 太宰、富栄と入水心中。


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弟子・大学教授 堤重久

昭和22年12月20日~12月30日の10日間、
疎開などで東京を離れていた堤は3年ぶりに太宰を訪問する。

私には奥様のお顔が少し尖ってきたように感じられ、
お肌の色も蒼ずんで冴えないように見受けられた。乱れたお髪のせいか、
以前にはあんなに白くふくよかだったお顔がまるで違ったように感じられるのだった。
部屋を見回すと、障子の桟がへし折れている。紙が破れている。
襖は赤く焼けてシミで大きく汚れている上に、無残な感じでめくれ上がっている。
大袈裟な言い方をすれば、狐狸の棲家のように荒れているのだった。
人一倍働き者で清潔好きの奥様としては、以前にはなかったことである。
太宰文学の旭日昇天の名声に対して、この荒れ方はどうしたことであろう。
私はそうした荒廃の中に、理由もわからず何か異様なものを感じたのであった。

太宰さんが俺の仕事部屋に案内しようかと言って、狭苦しい路地に入り込んだ。
案内されたのは2階の襖で仕切られた学生の下宿程度の貧相な6畳間だった。
モンペをはいた背の高い27、8歳の家政婦のような人がお茶を持って上がってきた。
「これが堤だよ、例の」と、太宰さんがその女の人に言った。
女の人は軽い調子で頭を下げてから
「堤さんのお噂はしょちゅう伺っていましたわ」
「どうせろくな噂ではないでしょう」
「先生は陰口をきくような方じゃありませんッ!」
と女の人が起ったような口調で言ったので私は驚いてしまった。

太宰さんは私がハラハラするほどの速度でウイスキーを飲んだ挙句に
ヨロヨロと立ち上がった。袂をさぐるような仕草をしたのでピースを差し出すと、
「いや俺はね、日本の煙草は飲まんのだよ。味が重くてね」
女の人が進駐軍の煙草を持ってきた。
それを袂に入れておぼつかない足つきで階段を下りかけると、
女の人がサッと駆け寄って横から支える様子を見て、
気のきく家政婦さんだなあと感心してしまった。
太宰さんが闇市風の食料品店の前で立ち止まった。
高価らしい食料品をアレとアレとアレとと言って店内のいろんな箇所を指さすのだった。
すると例の家政婦のような女の人が、それを次々に店の主人から受け取って
財布からどんどん支払ってゆくのだった。わずか10分かそこらの間に、
3軒ほどの店先で普通の勤め人の月給を楽に越す金銭が消えたのである。

太宰さんが不意に声をかけてきた。「どうだね、東京の美人の印象は」
「美人?」と私は問い返した。「実は、その美人が見当たらないんで困ってることなんですよ」
太宰さんの顔がたちまち不快気に歪んだ。
その時はわからなかったが、歪むだけの理由があったのである。
太宰さんが唇をへの字にして言った。「どうやら堤は、田舎回りで勘が鈍ったな」
女の人が布団を敷き終わった後、
太宰さんが腹が空いてきた、おむすびを作ってくれと女の人に言った。
料理には一箸もつけずにお酒ばかり飲んでいたからだった。
太宰さんも私の隣で横になったが、もういくらなんでも帰るだろうと思っていた女の人が
太宰さんの布団の中にスルリと入り込むのを見て驚いてしまった。
さすがに勘の鈍い私もここに至ってははあと思ったのだった。
通称さっちゃん、山崎富栄さんであった。中世的な竹を割ったような性格に見受けられ、
よく見ると容姿もスマートで悪くなかったが、なにせ冗談が通じない人なので
かりそめにも太宰さんをからかうような言動は厳に慎むことにした。

二人きりになった時、太宰さんは顔を近づけてきて、泣きべそのような表情で囁いた。
「ひでえことになってるんだよ」
「ひどいことって何ですか?あの富栄さんのことですか?」
「それもある。だけどそれどころじゃあないんだ。何もかもひでえんだ。
お話にならんのだよ。ほら、伊豆の女にだねえ」
「伊豆の女って誰ですか?」
「なんだ知らんのか。太田静子さんだよ、お前も知っている。
アレに子供ができちゃってねえ。先月弟さんがやってきたんだ。
毎月送金してるんだが、つい今さっきも多額の金を要求した手紙が来てねえ。
俺は子早んだ。不幸な男だよ」
太田静子さんとは意外であった。寝耳に水で驚いてしまった。
身体のひ弱な愛欲とはほど遠いあまりにも精神的な女性と思っていたからである。
しかも、子供まで生まれるとは。我が師ながら、ただただあきれ返った。
「だからね、その弟さんが子供を認知してくれと言うもんだから、
俺はね、一筆書いたんだよ。そうしてその女の子にだね、
太宰治の治を取って治子と命名したんだ。治子、ちょっといい名前だろう。
治の字をやったと言うんで、富栄のヤツが怒るもんだから、俺、言ってやったよ。
まだ修治の修の字が残っているじゃあないかとね」
ここに至って、私は太宰さんを軽蔑したくなった。

「こいつはねえ、毎日克明に日記をつけているんだよ。
俺と一緒に名を残そうとしているんだねえ。」
「あら、違うわ。書くのが好きだから書いてるだけよ」
太宰さんはそれを無視して
「女房にはもうバレているのにさ。俺が帰る時、垣根のそばまで送ってくるんだからねえ。
夜、家の周りをうろついたりしてさ。やっぱり俺と一緒になりたいのかねえ」
「結婚はあきらめているのよ。ただ、あなたを誰にも渡したくないのよ。それだけ」
「この富栄はねえ、俺を脅かすんだよ。俺に捨てられたら即座に死ぬんだそうだ。
青酸カリを持ってるんだよ。ほんとに持っているんだ」

三人で省線に乗ったのだが、乗るや否や富栄さんはサッと鷹のような目つきで
満員の車室を見回して、たちまち20センチほどの隙間を見つけて
左右の人に頼んで少し空けてもらって太宰さんを座らせた。
その献身ぶりもさることながら、太宰さんも実際に身体が弱ってきているらしく
富栄さんの介添がなければ一人では到底外出不可能な様子であった。
「俺のこの肺には大きな穴が空いているんだよ。
肺浸潤の末期なんだ。もう1年ともたんのだよ」
「お医者さんには診てもらっているんですか?」
「いや、診せない。診せたら絶対安静に決まっているからね」
太宰さんの自裁から6ヶ月前、これが太宰さんとの最後であった。

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愛人 山崎富栄の日記

昭和23年1月10日
太田静子さんのお使者がみえてお手紙をお手渡しする。
「読んでごらん」
「今までの中で一番下手なお便りですね」
「うん、一番ひどいよ。うぬぼれすぎるよ。斜陽のかず子が自分だと思ってるんだなあ。
面倒臭くなっちゃったよ」
「二人でなんとかしていきましょう」
修治さん、急に泣かれて「さっちゃん、頼むよ。僕を頼むよ」
「一人で苦しまないで。喜びも苦しみも一緒にしたいのです」
「僕を夫だと思ってね」
「そう信じてますわ。信じて生きておりますわ」

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愛人太田静子の娘 作家太田治子

私が生まれて太宰が入水するまでに、およそ7ヶ月の期間があった。
その間に太宰は一度も来ることはなかった。
「静子がしたことは、これから二十年経って子供を女一人の手で育て上げた時に、
初めて世間が認めてくれる」
母から赤ちゃんができたことを告げられた時、太宰はそう言ったという。
太宰がついに来ないと分かった途端、母は高熱が出て起き上がれなくなった。
息も絶え絶えな母は、太宰に電報を打たずにはいられなかった。
太宰からはすぐに1万円の電報為替が届いた。
富栄さんが太宰に言われるままに、きちんと処理していたのである。
それにしてもこの頃の母は、身体を壊したといってはすぐに電報を打っていた。
お金の無心と思われても仕方がなかった。
度重なる送金はかなりの無理があったかもしれない。
そこまでのことは当時の母には分からなかった。
彼女は『斜陽』という作品のアシスタントとして、
『斜陽』の印税の一部をいただいていいものだと無邪気に思っていたと言うのである。
送金があると母はすぐに太宰にお礼の手紙を書いた。それを開封して最初に読むのが
太宰ではなく、富栄さんらしいこともまったく気にならなかった。
母は二人の関係がわかってからも、富栄さんへの思いに変わりがなかった。
自分に代わってすべてをお任せしているという安心感があった。
二人の住む下宿へ次々と電報や手紙を出していたのはそのせいだった。
美知子夫人への申し訳ないという思いも、まだわいてきていなかった。
芸術を生むための出来事として、理解していただけたかもしれないと考えるのだった。

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愛人 山崎富栄の日記

昭和23年1月13日
私と一緒なら、お酒もタバコもやめて、もっともっといいものを書くんだがなあ
とおっしゃった修治さん。
誰も僕たちがこれほど好き合っているなんて知らねえだろうなあ
とおっしゃった修治さん。
10年前に会いたかったなあとおっしゃった修治さん。

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新潮社編集者 野平健一

昭和23年2月下旬

私は『如是我聞』の第1回口述筆記のため、富栄さんの部屋に太宰を訪ねた。
最初の一句、ノドまで出かかったその瞬間、
出鼻をくじく見事な一言がそばの女性の口をついて出たのである。
「野平さん、先生がかわいそうだと思ったらあきらめなさいよ。死んでしまうわよ」
彼女の目は先生を見ていたのではない。見ていたのは針の糸目であった。
先生はフッと口をつぐんだ。けれども気を取り直して
口元はもう一度言葉で震えかけたのを、彼女はさらに盲目の追い打ち。
「書きたくないものを、無理に責めてはだめよ」
先生は機を見て女性に用事を言いつけ買物に出し、
留守中ねらって『如是我聞』は始まった。

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◆昭和23年02月25日付の武蔵野税務署から所得税の納付書が届く
前年の所得金額21万円、所得税11万7千円、納期限03月25日


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妻 津島美知子

結婚式の席上、北氏・中畑氏は財布は家内に渡すようにと主張して彼に約束させた。
2年半後長女が生まれて産褥に付いている時ごく自然に財布は取り上げられ、
それからずっとそのままになった。
約束を持ち出して抗議したが、取り合ってもらえなかった。
必要の都度言い出して、もうないのかと言われるのは実に屈辱的で嫌なものだ。
小学生でもお小遣いは1ヶ月分まとめて渡してもらうではないか。
どのぐらい収入があるのだろう、私にはまったく知らされていないのだ。
私の仕事である検印紙の枚数からもおよそ想像できるけれども、
銀行も郵便局も金の用事は全部自分で取り仕切り、
右から左に闇商人の手に渡ってしまうのである。

昭和23年の2月、所得税の通知書が我が家に舞い込んだ。
通知書を受け取って1ヶ月以内なら審査の請求ができると注意書にあるのだが、
彼は税金のことを放置したまま熱海に行ってしまって、帰京した時は期限が切れていた。
今まで所得税のことなど考えたことがなかったのでショックが大きかった。
太宰は税務署の通知書を前にして泣いた。その頃心身ともによほど弱っていたのだと思う。
正月にも井伏先生のお宅に年始に伺って、
それもしぶっているのを毎年の例だと押し出すようにしたのだが、
帰ってから茶の間で泣いた。みんなが寄ってたかっていじめると言って泣いた。
なんとかなだめて元気を回復したように見えたが、
税金のこととなると普段いくら入ってどのように消費されているのか知らないのだから、
私も途方に暮れるばかりである。

自分のように毎日酒と煙草で莫大な税金を納めている者が
このうえ税金を納めることはないと駄々っ子のように言う太宰に、
私はもうあきらめてそれでは何か書いてくださればそれを持って行きますからと言った。
私は太宰の描いた<審査請求書>を武蔵野税務署に持参したが、
これで終わったわけではなくて話はこのあと国税局に回った。
6月2日昼に国税局の係の方が来訪したので、太宰の行きつけの店<千草>に案内した。
このとき係の方と太宰との間にどんな話し合いがあったか私は知らない。
未解決の問題をいくつか残して太宰は14日に死んだ。
国税局の方々も驚いたことだろう。

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愛人 山崎富栄の日記

昭和23年3月27日
私たち夫婦が初めてお会いした
その一周年記念の日

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新潮社編集者 野平健一

亡くなった年の3月、
太宰さんは私の前でわざわざ山崎富栄さんと接吻して見せてくれたことがあった。
二人の結びつきについて私がそんなことはないだろうと疑わしい顔をしているから、
その疑いを晴らすためにしてみせたのだとその時太宰さんは説明した。

富栄さんがしばらく席をはずした時、
「野平君、この部屋のどこかに青酸カリが隠してあるんだ。探し出してくれよ。
別れ話になったら、玉川上水に飛び込むって脅かすんだねえ」
玉川上水に投身した現場と推定された土堤の上に、遺留品として最初に発見されたのは
この青酸カリが入っていたと思われる空き瓶だったのである。
私はこの瓶が草むらの中にあるのを最初に見た一人だった。

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愛人 山崎富栄の日記

昭和23年5月16日
昨夕帰りに御一緒のところを奥様に見つかってしまったとか。びっくりしてしまう。
「あれ誰?女の人と歩いてたでしょう?あなた方は気がつかなかったようですけど」
ああ、神様。
「あら、ごめんなさい。どうしたらいいかしら。お怒りになったでしょうねえ、悪いわ」
「夕べ気まずくてね。今朝もいけねえんだ」
今日はもうじっとして落ち着いてなどいられない。
修治さんはウイスキーの残りと鱈を持って帰られる。いつもと違う道を通ってお送りする。
神様、いったいどうしたらよろしいのでしょう。
私は太宰治という人を知らなかったんですもの。
知っていたのは津島修治であって、
その頃は御家族を持っていられることもなんにも知らなかったんです。
愛してしまってから、初めて奥様やお子様のおありになることを存じ上げたので、
その時はもう私は自分の愛情を抑えられなかったのですもの。

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新潮社編集者 野平健一

「家の近くで女房に見つかったよ。こっちは二人とも近眼だから気がつかなかったんだ。
あの人はどなたですと言っていたけれど、
あのとき二人の間は一間ぐらい離れていたから俺は知らないと言った。
女房の方で気づいてすぐ曲がってくれたらしい。」
そうして女が買い物から帰ってくると
「俺の女房はやっぱり気品があるね。この人とは違うな」
と私に言われるので、私は誰の顔も見ずにうなずいた。

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富栄の部屋
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by vMUGIv | 2011-05-15 00:00 | 昭和戦前

太宰治 その14

昭和22年01月上旬 太田静子が三鷹の仕事部屋を訪問。
昭和22年02月21日 太宰が下曽我に滞在、静子が斜陽ノート渡す。静子この時妊娠する。
昭和22年02月26日 下曽我から伊豆へ移動、
旅館で斜陽ノートをもとに『斜陽』書き始める。
昭和22年03月07日 伊豆から帰京の途中、下曽我を訪ねるが静子は留守だった。
昭和22年03月中旬 太宰が下曽我を訪問。静子は妊娠を告げる。
昭和22年03月27日 山崎富栄と出会う。
昭和22年03月30日 二女里子誕生。
昭和22年05月24日 静子と弟が相談のため太宰を訪問。
昭和22年11月12日 静子出産。
昭和22年11月15日 静子の弟が太宰を訪問して認知証をもらう。
昭和22年11月下旬 喀血始まる。
昭和23年02月25日 武蔵野税務署から所得税の納付書が届く。
昭和23年06月13日 太宰、富栄と入水心中。


before
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after
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◆昭和22年03月中旬 太宰が下曽我を訪問。静子は妊娠を告げる。
◆昭和22年03月27日 山崎富栄28歳と出会う。
◆昭和22年03月30日 二女里子誕生。


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妊娠を告げられた太宰から太田静子への手紙

昨日はありがとうございました。
昨夜帰宅したら、ミチ〔美知子夫人〕は変な勘で全部を知っていて、
手紙のこともあなたの本名も変名も、泣いて責めるので参りました。
お産近くであり癇が立っているのでしょう。しばらくこのまま静かにしていましょう。
手紙も電報もしばらく寄こさない方がいいようです。どうもこんなに騒ぐとは意外でした。

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妻 津島美知子

昭和22年の3月末、二女が生まれた。この頃まではピンとしていた。
出生届に元気よく役場に出かけた姿が目に残る。
その姿勢が崩れ始めたのは5月頃からである。
被害妄想が昂じて、むやみに人を恐れたり住所をくらましたりする日常になっていた。

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愛人 山崎富栄の日記 

昭和22年3月27日
今野さん〔同僚の美容師〕の紹介でお目にかかる。場所はなんと露店のうどん屋さん。
私たちから見れば、やっぱり特殊階級にある人である。
貴族だと御自分でおっしゃるように上品な風采。
先生は現在の道徳打破の捨て石になる覚悟だとおっしゃる。またキリストだともおっしゃる。
なにか、自分の一番弱い所、真綿でそっと包んでおいたものを
鋭利なナイフで切り開かれたような気持ちがして涙ぐんでしまった。
戦闘開始!覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。

昭和22年5月03日
「死ぬ気で!死ぬ気で恋愛してみないか? 君は僕を好きだよ」
「うん、好き。私が先生の奥さんの立場だったら、悩む。
でももし恋愛するなら、死ぬ気でしたい」
「そうでしょう!」
「奥さんやお子さんに対して責任を持たなくてはいけませんわ」
「それは持つよ、大丈夫だよ。ウチのなんか、とてもしっかりしているんだから」
「先生、マ・ユ・ツ・バ」

昭和22年5月19日
愛してしまいました。先生を愛してしまいました。
どうしたらよろしいのでございましょうか。
お会いできない日は不幸せでございます。
御病気でもなんにもできない私は悲しゅうございます。
先生にお会いしたいばっかりに、町を歩き店をのぞいて帰る。
女なる身が悲しゅうございます。

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◆昭和22年05月24日 静子と弟が相談のため太宰を訪問。


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愛人太田静子の娘 作家太田治子

母は妊娠4ヶ月の頃に上京して太宰を訪ねた。
直接会ってこれからのことを相談したいと思った。弟の通が一緒だった。
久しぶりに会った太宰は、母の目にはそれはよそよそしく見えたという。
山崎富栄さんとの関係が始まって間もない頃のことであった。
母の妊娠とともに、『斜陽』はもはや太宰の頭の中で完結していた。
久しぶりに会った太宰のかたわらには
常に新潮社の編集者の野原一夫氏や富栄さんがいた。
どうしても二人きりになることができなかった。太宰がそのように仕向けたのである。
ワイワイと酒を飲む男性に混じって一人ポツンとうつむいている母に、
なにも知らない富栄さんは別室で一緒にうどんを食べるように勧めた。
なんてよく気の回る女性かしらと母は感心したという。
よもや太宰とただならぬ関係に入ったばかりの女性とは思わなかった。
およそ化粧っ気のないキビキビとした婦人に見えた。
一方富栄さんの方も、太田静子のことを『斜陽』の日記の提供者としてのみ考えていた。
太宰がそれだけしか教えていなかったのである。

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新潮社→角川書店→筑摩書房 編集者 野原一夫

私が太田静子さんと初めて会ったのは昭和22年5月24日の夜。
<すみれ>をのぞいてみると、
太宰さんの隣に黒っぽい和服を着た女性が座り、その横に浅黒い顔をした男性がいた。
しかしその人たちが太宰さんのお客とは気がつかなかった。
太宰さんは私とばかりしゃべっていたのだ。
そのうち他社の編集者も顔をのぞかせ、私たちはすみれを出た。
出る時に太宰さんが隣の二人に声をかけたので私はオヤと思った。
連れ立って千草に行った。
私たちは座敷に上がって食卓を囲み連れの男性も座ったのだが、
女性は食卓から少し離れて座り目を伏せ身体を固くしていた。
どのような人なのか見当がつかなかった。親戚の人かとも思ったが
態度が打ち解けないし、ファン・愛読者と考えても少し様子がおかしい。
太宰さんは私を手招きし「奥名さんのところにいいウイスキーがあるんだ。
もらってきてくれない?」と言った。奥名さん、すなわち山崎富栄さんである。
奥名氏の戦死の公報が届いたのはこの年の7月で、
旧姓の山崎に戻るのは秋になってからである。
富栄さんは千草の真向かいの野川さんという家の2階の6畳間に下宿していた。
それまでにも3、4回顔を合わせたことがあり、下宿の部屋に上がって飲んだこともあった。
しかし太宰さんと富栄さんとの仲について、その時私はなにも知っていなかった。
富栄さんは自分が持っていくと言う。富栄さんは台所との間を行き来して、
料理やお酒を運んだり食卓の上をテキパキと片づけたりした。
まるで世話女房のようではないか、妙な人だなと私は思った。
その間、例の女性は少し離れたところに座ったまま、
仲間に入るように勧めてもさびしげな微笑を返すだけだった。
太宰さんは私のそばに来て
「今日は帰らないで、終いまでつきあってくれよ。頼む」と耳元で囁いた。
9時頃千草を出てすみれに席を移した。
静子さんは千草の時と同じように無言で目を伏せていた。
重苦しい空気がそこだけにあった。
すみれを出て、太宰さん・静子さん・私は女流画家桜井浜江邸に向かった。
途中の夜道でも太宰さんは静子さんに一言も語りかけなかった。
さすがに私も変なものを感じ始めてきた。

桜井さんのアトリエに落ち着くと、太宰さんはいかにも疲れたふうにぐったりと肩を落とした。
静子さんは壁にかかっている数枚の壺の絵を眺めていたが、濃い赤い壺に目を止め
「あの壺、メンスになっているみたい」 あどけないほどの自然さで言った。
桜井さんは目を丸くした。翌朝は朝から雨だった。
何かと話題を探そうとしていた桜井さんは「ね、歌を歌おう。さ、歌おうよ」
静子さんは合唱に加わったが、急に声がとぎれた。小さく肩を震わせて泣いていた。
雨が上がり、太宰さんと私は静子さんを三鷹駅まで送った。
静子さんは小走りに改札口を抜け、そのまま振り返らずに階段をのぼっていった。

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愛人 山崎富栄の日記

昭和22年8月29日
太宰さんは私には過ぎたる夫。そして私にはなくてはならない夫でした。
「僕の妻じゃないか」とおっしゃって下さったお心、忘れません。
「10年前に会いたかったなあ。君と一緒になりたかったよ。君をもらった人は幸せだよ」
私も10年前にお会いしとうございました。

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新潮社→角川書店→筑摩書房 編集者 野原一夫

私が危ないと思い始めたのは8月になってからである。
その頃私は太田静子さんの懐妊を知らされていた。
「たった一度で出来るとはね。俺はなんて子早いんだろう。我が身を恨むね」

太宰さんはキャメルという外国煙草を私にくれて、「この煙草はアレ〔富栄〕の稼ぎでね。
進駐軍の兵隊からお金を取る代わりに煙草をもらって俺にまわして寄こすんだ」
アレという呼び方をした。そうだったのかと私は思った。

「先生は、死にたいなんて言ったことありませんか?」
富栄さんは目を伏せてしばらく黙っていたが、
「ええ、たびたび」と言った。
富栄さんは手箱から写真を一枚取り出し、それを私に見せた。
「眼鏡をかけてるのが嫌なんですけど。先生は眼鏡をかけた女が嫌いなんですって」
そういえば富栄さんは太宰さんと一緒の時は眼鏡をはずしていた。
「先生が亡くなられたら私は生きているつもりはありません。
その時この写真をもし許されたら先生のお棺の中に」

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◆昭和22年11月12日 静子出産
◆昭和22年11月15日 静子の弟が太宰を訪問して認知証をもらう。
富栄は静子の出産を初めて知る。


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証 太田治子
この子は私の可愛い子で いつでも父を誇って すこやかに育つことを念じている
昭和22年11月12日 太宰治

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愛人 山崎富栄の日記

昭和22年11月15日
斜陽の兄君〔弟の間違い〕みえる。
どうとやらこうとやらを御存知なくておいでになられた御様子。
太宰さん、直接でかえって良かったよとホッとされた御様子。


<どうとやらこうとやら>太宰と富栄の関係を知らずに、
<直接で良かった>妻のいる自宅ではなく、
仕事部屋と思っている富栄の部屋の方に来てくれて助かったという意味である。

昭和22年11月16日
斜陽の子ではあっても、津島修治の子ではないのですよ。
愛のない人の子だとおっしゃいましたね。
「ごめんね、あれは間違いだったよ。斜陽の子なんだから陽子でも良かったんだ。
遅いよ、君のは。君に会ってさえいたら、伊豆へなんかいかなくてもよかったんだよ」
「私は奥様と同じように、あなたが斜陽の人に会うことは嫌です。もし会ったら、私死にます」
「会わない、誓う。一生会わない。これっぽっちも愛情がないんだよ」
泣きました。顔が腫れるぐらい泣きました。
「さっちゃん、つらかったかい?」
いいえ、そんなお言葉どころではありませんでした。

「治子、この名はどうでしょう。さっちゃん、どうだろう?」
斜陽の兄君〔弟の間違い〕を前にして嫌ですなんて申せませんし、
何とも言えない苦しさでした。
ご自分のお子様にさえ、お名前から一字も取ってはいらっしゃらないのに。

「そんなこと形式じゃないか。お前にはまだ修の字が残ってるじゃないか。
僕は修治さんじゃなくて、<修ちゃ>だもの」
「イヤイヤ、お名前だってイヤ。髪の毛一筋でもイヤ。
私が命がけで大事にしていた宝だったのに」
「ごめんね、あれは間違いだったよ。斜陽の子なんだから陽子でも良かったんだよ。
お前に僕の子を生んでもらいたいなあ」
「子供を生みたい。やっぱり、私は負け」

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新潮社→角川書店→筑摩書房 編集者 野原一夫

太宰さんが太田治子さんへの認知状を書いたのは、昭和22年11月15日である。
私は偶然その場に居合わせた。
夕刻富栄さんの部屋に行くと先客があった。
5月下旬に静子さんと一緒に三鷹に来た男性、弟の通さんだった。
和紙に筆太の字で書かれたそのお墨付きを、太宰さんは私に手渡した。
私にも証人になれということだったのか。お墨付きは富栄さんにも手渡された。
富栄さんは一瞥しただけで固い表情をしていた。
静子さんが太宰さんの子を身ごもったということを富栄さんは知らなかったのだと思う。
<伊豆の女の人>は単に日記を借覧しただけのことで、
太宰さんとの間に愛情関係があろうなどとは考えてもいなかったに違いないのだ。
ましてその人が太宰さんの子供を生んだとは、青天の霹靂だったろう。

「いや、ひどかったね。一晩中泣かれてね。なぜ私に黙っていたんだって。
そう言われてもねえ、甚だ陳弁に困るね。それから治子って名前が気に入らない、
あなたの大事な名前をあげたのがくやしいって、目を吊り上げるんだよ。
だからお前にはまだ修の字が残ってるじゃないか、なかなか悪くない名前だ。
そしたら少し機嫌が直ってね。私もどうしてもあなたの子を生むって言うんだよ。
ギョッとしたね。この上できたら首くくりだ」 そう言って太宰さんは唇を曲げた。
今後静子さんとは一切交渉を持たない、必要な通信は富栄さんが代筆する、
治子さんへの養育費の仕送りも富栄さんが手続きをとる、
ということで富栄さんを納得させたらしい。

静子さんという愛人がいること、その人に子供を生ませたこと、
そのことを知ってから富栄さんの気持ちにはある変化が生じたように思う。
富栄さんが妻の座に座りたがっていたとは思えない。
それはもう始めから諦めていたことだろう。
太宰さんは富栄さんの部屋で仕事をすることが多くなり泊まる回数も多くなっていたのだが、
それでもやはり自宅にいる回数の方が多かったように思う。
富栄さんもそれは当然のことと考えていたようだ。静子さんの出産があってからは、
太宰さんを自宅に帰すのを嫌がるようになってきたのである。
自分に隠れて静子さんと交渉を持たれるかと思うと
それが耐えられなかったのではなかろうか。
美容院を辞めたのはその頃だったはずである。
富栄さんはすべてを捨てて太宰さんに尽くした。
かなりあった貯金も太宰さんのために使ってしまったらしい。

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新潮社担当編集者 野平健一

当時いわゆる<斜陽の子>にはかなり当惑していたらしく、
私ごとき者にも「子早いのにはあきれた」という川柳風でもらしていました。
そうして「俺のは、据え膳くわぬは男の恥というやつだ」ということも力説していました。

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愛人 山崎富栄の日記 

昭和22年11月25日
母のように、乳母のように、妹のように、姉のように、子供のように、
恋人のように、妻のように、愛して愛して愛していく。

昭和22年12月11日
二人が10年前にお会いしていたのならなんにも言われることもなく、
周囲の人たちも泣かないでこんな幸せなことはなかったことでしょうに。
でも私はあのお方に初めて恋というものをお教えできた女として、あのお方のわびしかった
一生の晩年を飾るアーチの菊の役目をして誇らかに生きて行きとうございます。
私が本当に心から幸せを感じる時は一つだけ。ほんの短い時。
それを信じておりますの。それがあるから苦しい生活にも耐えているのです。
それはあのお方の恋した人として、ご一緒に永遠の旅立ちをする時なのです。

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by vMUGIv | 2011-05-14 00:00 | 昭和戦前

太宰治 その13

昭和22年01月上旬 太田静子が三鷹の仕事部屋を訪問。
昭和22年02月21日 太宰が下曽我に滞在、静子が斜陽ノート渡す。静子この時妊娠する。
昭和22年02月26日 下曽我から伊豆へ移動、
旅館で斜陽ノートをもとに『斜陽』書き始める。
昭和22年03月07日 伊豆から帰京の途中、下曽我を訪ねるが静子は留守だった。
昭和22年03月中旬 太宰が下曽我を訪問。静子は妊娠を告げる。
昭和22年03月27日 山崎富栄と出会う。
昭和22年03月30日 二女里子誕生。
昭和22年05月24日 静子と弟が相談のため太宰を訪問。
昭和22年11月12日 静子出産。
昭和22年11月15日 静子の弟が太宰を訪問して認知証をもらう。
昭和22年11月下旬 喀血始まる。
昭和23年02月25日 武蔵野税務署から所得税の納付書が届く。
昭和23年06月13日 太宰、富栄と入水心中。



昭和16年7月、太田静子は自作の小説と手紙を書き送る。


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太宰から太田静子への手紙

お気が向いたらどうぞお遊びにいらしてください。毎日ぼんやりしていますから。
ではお待ち申し上げております。

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同年9月、静子は女友達と三人で太宰を訪問する。うち一人はのちに静子の弟・通の妻となる。
太宰はその日静子に小説ではなく日記にするようアドバイスする。
その頃の太宰は、『女生徒』『正義と微笑』『パンドラの匣』『トカトントン』など、
読者や知人の日記を再構築して小説にする手法を取り始めていた。
静子の日記も小説にするつもりであった。

同年12月、太宰は静子に会いたいと電報を打つ。
東京駅の花屋の前で待ち合せ、新宿でフランス映画『乙女の湖』を観る。
「4、5日したら、都合のいい時と場所を知らせてほしい」と太宰が言ってその日は別れた。


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愛人太田静子の娘 作家太田治子

『新宿駅の待合室で、明後日の午後2時にお待ちいたしております』と母は手紙を書いた。
太宰との約束を守ったという晴れ晴れした気持ちだった。
「今度の手紙は早すぎた」当日太宰は開口一番そのように言った。家を出る時に
美知子夫人から厳しい声で「どちらにお出かけになりますの」と聞かれてしまった。
今度は『次郎物語』を観た。母は涙があふれてきた。
『太宰は私に会いたくなかったのだ』と思うと泣けてきたと言うのである。

太宰が愛弟子の堤重久氏を母に紹介したのは、それから数ヶ月経ってからのことだった。
母は翌日、太宰の家を訪ねた。「結婚をする気のない方とお付き合いはできません」
そのようにはっきりと断ったと言うのである。
美知子夫人は太宰と静子との交際に、危険なものを感じていたと思う。
それだけに堤氏との見合いがうまく行くことを望んでいたことだろう。
一方太田きさ様もまた、母親として太宰のことが気になっていたようである。
「太宰という名前はどうも重いのです」 そう母に話していたという。

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弟子・大学教授 堤重久

「2、3回訪ねて来てねえ。27、8かな。
病身で御主人と別れたとか言うんだが、なんだかまだお嬢さんみたいな感じでねえ。
夢の中で夢を見ているというのか、おっとりしすぎるんだが、センスはいいらしいよ。
お母さんと弟さんがいるのかな、のんびり暮らしているらしいな。
どうかね、ひとつ、太田君とつきあって見んかね?」
「僕がですか」
「そうだよ、お前がだよ。女がいなくて寂しいんじゃあないのかね」
「別に寂しかあないですよ。いろいろと忙しいもんで」
「何が忙しいものか。どうかね、その気があれば紹介するがね。
それじゃあ、ひとつ、紹介の労を取ろうか。お前たちは新宿駅で会えよ。
ええと、まだ顔を知らんのだから、目印にその『千代女』でも持っていくか」
「嫌ですよ。キザに見えるし、重いし・・・」
「傲慢すぎるぞ、お前は。周旋屋じゃねえんだ、俺は」
「文庫本を手に持っていきます。岩波文庫でも」
「よし、それで決まった。人の恋路の世話をするのも楽じゃないね」
「太田さんの方はどうするんです」
「お前が文庫本を持っている。その本で太田君がお前を認知する。
片方がわかればいいんだ。
じゃあ明後日、新宿駅東口の切符売場の前、午後2時、わかったな」
「ですけれど、太田さんの方はそれでいいんですかね」
「俺が決めれば太田君はそれに従うよ。何にも用事のない人だからね」

束髪の小柄でほっそりした和服の女性が立っていて、
はにかんだような微笑を浮かべて近づいてきた。
太田さんは片手に薄緑のパラソルをさげ、エンジと黒の綾織りの和服を着ていた。
か細い身体つきのせいか声も動作も静かで、
一緒に歩きだしても足音の立たない感じであった。
「太田さんは、どんな音楽がお好きですか?」
太田さんはその真っ白な小造りの聡明そうな顔に静かな微笑をたたえ、
まだ若い瞳をあげて言った。
「音楽と名のつくものはみんな好きですわ。音楽というもの、そのものが好きなんですの」

電車はかなり満員で、太田さんは薄化粧の鼻のあたりにうっすらと汗をにじませて、
吊革を握って窓外の流れ移る屋根の連なりをうつろに眺めていた。
何かに疲れたような放心したような自分だけの世界に浸っているような、
そんな雰囲気を感じて私は沈黙していた。

そのとき私の下駄の鼻緒がプツリと切れた。
太田さんは炎天下のアスファルトの道端にしゃがみこんで、
絹のハンカチを裂いて鼻緒をすげてくれた。
その細い白いお嬢さん育ちで不器用な手先を見下ろしながら、
もしかしたら太田さんは、優しい、この世で生きられないほど優しい心の人なのではないか、
そんなことをぼんやり考えていた。

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太宰は「チェーホフの『桜の園』のような小説を書きたい」と言っていた。
それに対して静子は「私の母は『桜の園』のラネーフスカヤ夫人のような人なの」と言った。
昭和18年、静子は母親と二人で小田原市下曽我に疎開するが、
すぐに母親が体調を崩して長期入院した。仕事で熱海に行った太宰は静子を訪ねる。 


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愛人太田静子の娘 作家太田治子

「〔お母さんの〕病院へ行こう」 会ってすぐの太宰の言葉に母は慌てたという。
よもや彼が祖母の病院へ見舞いに行くことになるとは考えてもみなかった。
太宰は静子がラネーフスカヤ夫人に似ていると言った太田きさ様に会っておきたくなった。
『桜の園』のような没落貴族の行方を小説に書くつもりなのである。
この目で登場人物を確かめる必要があった。

太宰が泊まった翌朝のことである。二人は朝食の後に庭を散歩した。池のそばに
並んで座っている時、太宰は美知子夫人がこの夏に出産予定であることを話した。
「男の子だといいな」 そのように言ったという。
すぐ近くに細い百日紅の木があった。「男の子だったら、正樹という名前になさるといいわ」
「どうして?」
「あなたはあの百日紅の木のように心がクネクネとねじ曲がっています。
男の子は仏像のように真っ直ぐな木がいいのよ」 太宰は声を上げて笑った。


実際、太宰はこの時生まれた第2子の長男に正樹と名付けている。
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昭和20年の暮れに静子の母親が死亡。
昭和21年の年明けに静子は母の死を知らせるハガキを出す。


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郷里青森に疎開していた太宰から太田静子への手紙 昭和21年1月11日

いつも思っています。ナンテへんだけれど、でもいつも思っていました。
正直に言おうと思います。お母さんが亡くなったそうで、お苦しいことと存じます。
青森は寒くて、なんだか嫌に窮屈で困っています。
恋愛でもしようかと思ってある人を秘かに思っていたら、
十日ばかり経つうちに、ちっとも恋しくなくなって困りました。
一番いい人として、ひっそり命がけで生きていて下さい。コイシイ。

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太田静子から太宰への手紙 昭和21年9月2日

売る物もいよいよ無くなり、私もこれまでのような生活を続けることは
できなくなりましたので、これから私の生きてゆく道を3つ考えました。
①私より若い作家と結婚して、マンスフィールドのように小説を書いて生きてゆく生活。
②私をもらってやろうとおっしゃる方のところへ再婚して、
文学なんか忘れてしまって主婦として暮らす生活。
③それから、名実ともにM・C様〔マイ・チェーホフ=太宰〕の愛人として暮らす生活。
この3つのうち1つを選んで進みたいと思います。どの道が一番よろしいでしょうか?

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太宰から太田静子への手紙

下曽我はいいところじゃありませんか。もうしばらくそのままいて、
天下の情勢を静観していらしたらどうでしょう。もちろん私もお邪魔にあがります。
そうしておもむろに百年の計を立てることにしましょう。
あわてないようにしましょう。あなた一人の暮らしのことなど、どうにでもなりますよ。

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美知子夫人の手前、太宰は静子に偽名を提案する。


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太宰から太田静子への手紙

これから手紙の差出人の名を変えましょう。
小田静夫、どうでしょうか。私は中村貞子になるつもり。
これからずっとそうしましょう。こんなこと愚かしくて嫌なんだけれども、油断大敵。
今までとは違うのだから。それではまた、お手紙を下さい。

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太田静子から太宰への手紙 昭和21年9月

考えついたことは、行くところまで行きたいということでございました。
私はもう小さいことは考えないことにいたします。赤ちゃんがほしい。
今度下曽我へいらっしゃいましたら、日記を見ていただきたいと存じております。

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この頃、美知子夫人は第3子を妊娠中であった。
しかし太宰はそのことを静子には知らせていなかった。


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太宰から太田静子への手紙 昭和21年10月

静夫君もそろそろ御苦しくなった御様子、それではなんにもならない。
よしましょうか、本当に。かえって心の落ち着くコイ。
なんにも気取らず、はにかまず、おびえない仲。
そんなものでなくちゃ、意味ないと思う。
お互いのために、そんなものができたらと思っているのです。
やっぱりこれは会って話してみなければいけませんね。
よくお考えになって下さい。私はあなた次第です。赤ちゃんのことも。

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この受け身な返事に失望した静子は太宰に別れの手紙を送る。


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太宰から太田静子への手紙

今度のお手紙、すこうし怒っていらっしゃいますね。ごめんなさい。
私の仕事を助けていただいて──秘書かな?──
そうして毎月御礼を差し上げることができると思います。
毎日あなたのところへ威張って行きます。きっといい仕事ができると思います。
そうしてそれには付録があります。小さい頃、雑誌よりも付録の方が楽しゅうございました。
11月中旬に東京へ移住します。移ったら知らせます。もうこちらへお手紙寄こさぬよう。

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◆昭和22年01月6日 太田静子が三鷹の仕事部屋を訪問。
二人は3年ぶりに東京で会った。


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愛人太田静子の娘 作家太田治子

「静子の日記がほしい」 
太宰のその一言に、母は目の前が真っ白になった。
この人が言いたかったのはこのことだけだった。だだ日記だけをほしかったのだ。
「小説が完成したら、1万円〔当時〕あげるよ」
母はその時ぼんやりした頭で、1万円もらえたらどんなにいいだろうと思ったという。
これから先、物を売っての生活はもはや半年しか持たないところまで来ていた。
『あなた一人の生活など、どうにでもなりますよ』という太宰からの手紙がなければ、
叔父の勧める見合い話に乗っていたはずだった。
「日記は下曽我へいらして下さったらお見せします」母は低い声で言った。
「わかった。2月中にはそちらへ行きます」

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◆昭和22年02月21日 太宰が下曽我に滞在、静子が斜陽ノート渡す。静子この時妊娠する。

太宰は静子からノート4冊の斜陽日記と少女時代の日記の断片を受け取った。
太宰は静子の家に5日間滞在する。この時、静子は妊娠した。


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愛人太田静子の娘 作家太田治子

「日記はどこにあるの?」「二階のテーブルの上に」
「二階に行って読んでくる」太宰はそう言うとリュックを手に一人で二階へ上がって行った。
「静子、静子」母は燭台を取って蝋燭に火をともすと、二階へ上がって行った。
階段の上に太宰が立っていた。「よかった。僕が思っていた通りの日記だった」

「僕は短編をひとつ書いてしまいたい。午前中に郵便局から出版社に送っておきたいんだ」
わずか一、二時間のうちに書き上げられるものなのだろうか。
「二階へおあがりになるのね。掃除をしますから」途端にひどく険しい声が飛んできた。
「なんて言ったの?もう一度、言ってごらん」 
あまりの不機嫌さにびっくりしながら、今言った言葉を繰り返した。
「<おあがり>なんて、そんな言葉はないよ。まるで志賀直哉の<お殺せ>と同じだ。
志賀の小説に<お父様に兎がお殺せになりますの?>というところがある。
どう考えてもおかしいんだ。文法的にもおかしいんだ」
いっそう語気を強めてそう言うと、一人でさっさと二階へ上がって行った。
彼の優しさに慣れていただけに、ただあっけに取られてしまった。

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◆昭和22年02月26日 下曽我から伊豆へ移動、旅館で斜陽ノートをもとに『斜陽』書き始める。
◆昭和22年03月07日 伊豆から帰京の途中、下曽我を訪ねるが静子は留守だった。

この日は静子も太宰に会おうとして伊豆に向かい、完全なすれ違いになったのである。
太宰に会えないとわかった静子はその足で東京の弟の家へ向かった。


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新潮社編集者 野平健一

『斜陽』は昭和22年2月伊豆三津浜の旅館安田屋で書き出された。
田中英光が疎開して住んでいたからである。
太宰さんは田中英光氏と私を同行、長岡温泉で終日遊び、翌日沼津で汽車に乗った。
旅をするのに目的地へただまっしぐらに馳せつけるのは不健康、
いやになったら直ちに下車だと言いながら国府津駅で降りた。
始めからそのつもりでいたのであろう。
「野平、お前が『斜陽』を書かせているんだから、
お前も『斜陽』のモデルを知っておく必要がある」
支那風の可愛い家は留守だった。ちょうど東京へ行かれたのだそうである。
太宰さんはそこへ泊るつもりであったらしいが、
仕方なく国府津駅まで引き返して国府津館の泊まった。

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愛人太田静子の娘 作家太田治子

弟の通が東京の練馬区で新婚生活を送っていた。
「赤ちゃんができたらしいの」
真夜中近くに弟の家へ着くなり、二人の前でそのように言ったという。
太宰が下曽我に来てからまだ2週間も経っていなかった。
「あの方も赤ちゃんがほしいと言われたの」
文学塾で一番年下の友達だった新妻は毅然とした口調で言った。
「太宰さんと静子さんの恋愛はいいと思うの。でも赤ちゃんは別よ。
太宰さんの奥様の気持ちをどうして考えないの?」
「これは芸術を生むために必要なことだったの。
奥様も芸術家の妻として、そのことが分かって下さると思うの」
「私にはわからないわ」

太宰との関係はお妾さんではないと母は思った。
『斜陽』という一つの作品を完成するための愛人であり、
アシスタントになったのだと思っていた。
もし太宰との間に赤ちゃんが生まれたら、それも作品の中からの誕生ということになる。
すべては芸術のためなのだと、芸術家の妻の美知子夫人も分かって下さる。
太宰もウチの妻は大丈夫と言っていたのである。

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by vMUGIv | 2011-05-13 00:00 | 昭和戦前

太宰治 その12

★愛人 山崎富栄
1919-1948 大正08-昭和23 29歳没


■父 洋裁師 山崎晴弘 東京出身


■母 美容師 黒川信子 滋賀県出身


●武士  丸山ヨシコと結婚
●年一  太宰と同じ年で同じ弘前高等学校出身 ただし一学年先輩 早逝
●輝三男 戦病死 両親の美容学校卒業生で美容師のイトコの黒川ツタと結婚
●富栄


◆大正08年 東京生まれ。洋裁師の父と美容師の母は、洋裁と美容を教える
政府認可第1号の学校<東京婦人美髪美容学校>の創立者。
一般にお茶の水美容洋裁学校と呼ばれ、戦争による閉校まで1万人の卒業生を送り出した。
富栄は美容師として洋裁師として次代校長として、両親から様々な教育を受けた。
和装の伝統を身につけるために幼い頃から日舞・華道・茶道の稽古に通った。
女学校卒業後は、本場海外の洋装の知識を得るために
日本大学付属第一外国語学院でロシア語、アテネフランスでフランス語、YWCAで英語を学んだ。
また衣紋道も習得しており、華族や女官の十二単や束帯、おすべらかし等の御支度を務めていた。
◆昭和13年 19歳 銀座で<オリンピア美容院>を経営する。
◆昭和19年 25歳 三井物産社員奥名修一と結婚するが、
夫は新婚10日でマニラ支店に単身赴任したのち現地で召集され戦闘で生死不明となる。
◆昭和20年 26歳 富栄の美容院も父親の美容学校も焼ける。母の郷里滋賀県に疎開。終戦。
両親は疎開先の滋賀県で洋裁教室を始める。
◆昭和21年 27歳 上京して兄嫁山崎ツタと卒業生池上静子が経営する鎌倉の美容院
<マ・ソワール美容院>に勤める。
卒業生塚本サキが経営する三鷹の<ミタカ美容院>へ移る。
◆昭和22年 28歳 同僚の紹介で太宰38歳と出会う。
夫奥名の戦死が公報に載り死亡確定、奥名富栄から山崎富栄に復名する。
太宰と不倫関係となるが、同時に太田静子34歳が治子を生んだことを知り、動揺する。
◆28歳 太宰39歳、肺結核悪化、再三喀血する。 
昭和23年6月13日、二人は腰を紐で結び玉川上水で入水心中をする。
出会って1年3ヶ月後の死であった。『斜陽』執筆から『人間失格』執筆の期間に当たる。

学校再建のため昼はミタカ美容室で夜は進駐軍の美容室で働き
生活を切りつめてきた富栄には十数万円の貯金があった。
現在の千数百万円にあたる。太宰と出会って一年足らずの間にすべて消えた。
高い酒・カニ・カキ・鯛など、太宰の好物を買い求めた結果だった。
当時は闇でしか手に入らない物も多く、
日本酒は一升550円〔現在の55,000円〕、ビールの大瓶は1本100円〔現在の1万円〕だった。
進駐軍の美容室では代金の代りに太宰の欲しがる貴重な洋酒とアメリカ煙草を手に入れていた。


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山崎富栄の従姉妹 滋賀県在住

富栄さんが疎開して来たのはもう60年以上前ですやろ。
あの頃はまだ田舎で、富栄さんはここいらでは見かけんようなきれいで垢抜けた人でした。
銀座で美容院やってはったぐらいでしたからね、ハイカラさんでした。
背丈もあってスラッとしててね。手先も器用でね。
戦後は中原淳一さん風のしゃれたワンピースをチャチャッと上手に縫って着てはりました。

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映画監督 出目昌伸

富栄さんが滋賀県に疎開されていたのは、小生が国民学校6年生から中学1年生の時期。
私の生家とは50メートル足らず、いわゆる隣組でした。
とかく暗いムードの町内に、突然降ってわいたような江戸っ子女性の出現は事件でした。
メガネがよく似合い歯切れのいい東京弁を話す富栄さんに、
都会女性の典型を見る思いでした。
今も明朗闊達で垢抜けた印象ばかりが記憶にとどまり、
モンペ姿の富栄さんが思い浮かばないのです。戦争末期、機銃掃射も何度か体験しました。
富栄さんは老人や子供を引率して近くの山に避難させる役をしておられました。
そのテキパキした立ち居振る舞いから、
後年太宰をして<スタコラさっちゃん>と言わしめたのも納得です。

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山崎富栄の夫奥名修一の妹 梢

富栄さんは優しい品のいい人でした。兄と富栄さんの結婚式の日、
私は出られなかったもんだから後でお宅に遊びに行ったんです。
忙しいだろうにブラウスを縫ってくれたんですよ。お家には外国の家具がありましたね。
うちにはもったいないような立派なご家庭のいいお嫁さんでした。
兄が生きて帰っていれば、富栄さんは死なずに済んだと思います。
あの戦争さえなければ・・・。

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夫 奥名修一
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by vMUGIv | 2011-05-12 00:00 | 昭和戦前

太宰治 その11

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『斜陽』の元ネタであった愛人太田静子の日記

太宰は昭和22年2月21日下曽我の静子を訪問し、
ノート4冊の斜陽日記と少女時代の日記の断片を受け取った

大和田の叔父様から「加来氏のD山荘へ行ってはどうか」とお話があった。
お母様はかねがね東京から少し離れた所で日当たりのいい高台で、
明るい落ち着いた家、畑のある家に住みたいと考えておいでになった。
「今朝ね、叔父様から速達がまいりましたよ」と言って、
白い封筒を手に持っていらっしゃった。
『御殿場の下曽我に加来君の別荘がある。
いま空いていて誰かいい人に住んでもらいたいとのこと。
家は支那風の田舎家で眺めが良く、住めばきっといいところですよ。
思召しがあったら一度家を見に行かれてはどうか』
「叔父様がいいっておっしゃる所だもの、きっといい所ですよ。
叔父様がお話し下さるのだから、私はこのまま目をつむって行ってもいいような気がする」
と美しい顔をしておっしゃった。

お母様たちは3人きりの師弟で、
両親は3人の小さい時に亡くなって祖母と伯母の手に育てられた。
お祖母様が亡くなってからは、伯母さまが自分の子供のように大事にお育てになったという。
その伯母さまがたいへんお偉い方で、
お母様は大らかに大らかにと育てられたといつもおっしゃった。
そうして18の時お父上のところへ嫁がれて、文督様・トシエ様に真の娘のように愛されて、
そうして40年間お父上とともにお暮しになったのである。
お母様はいつも優しくおとなしく幸福なお母様だった。
火のような激しいものはなかったけれど、
大らかな深い愛情をいつもお父上に捧げていらしたことは常に私にもわかっていた。

お母様はいつも誰か人にすがっていなければ生きていけない方だった。
お父様亡きあと二人の叔父様を頼って上京していらしたお母様が、
上ノ畑の叔父様の思いがけない死に遭ってどんなにお嘆きになったか、
そのお嘆きの後でどんなに大和田の叔父様を頼っていらっしゃったか
私にはよく分かっていた。
お母様は叔父様を心から尊敬しておいでになり、
叔父様のおっしゃることはどんなことでも聞こうと思っていらっしゃった。
お母様はそういうつる草のような方だった。
その弱さこそ女の一番強い力となるのではないだろうか。
この弱さの徳を行いうる女は、一番幸福な女ではないだろうか。

でもお母様にもわがままさはあった。それは兄上たちとの別居であった。
二人の弟が兵隊に行ってしまった後、
本当ならば私たちは兄上と一緒に暮らすべきはずであった。
でも『桜の園』のラネーフスカヤ夫人は、
『三人姉妹』の長男夫妻と一緒にはどうしても住めなかったのである。
それで私たちは弟たちの出征後もずっとお母様と二人で東京に住んでいた。
「お母様はあなたのことだけが心配なの。あなたは一度お嫁に行って
お母さんになって女の一生はもう過ごしたみたいなものだけれど、まだ若いのだから。
お母様はもうだめだし、あなたは一人では暮らせない」
「ですから私、小説を書いて生きていけるといいと考えましたの。
そうしてお母様と二人で暮らしていけたら、もう結婚なんかしない方がいいのです」

二人きりで過ごした2年間。戦争は日に日に激しくなり、東京の生活は苦しくなった。
やがて空襲が始まり窮乏と混乱の生活が始まったが、二人はそうした
外界から遮断されたような世界でのどかな風景を相手にぼんやりと暮らしてきた。
そしてこの生活は終戦の近くまで続いたのである。
D山荘はお母様の最後の旅路のベンチであった。

「Kさんと別れて5年になるのね」
「満里子のことも忘れたようです」
「お母様がね、あのとき裏切られたって言ったのは、
あなたがKさんのお家を出てきたことじゃなかったの。
Kさんから『静子はMを愛しているのです』と言われた時なの」
「Kさんがお怒りになったのは当たり前でしたの。
静子はどうしてMのことが忘れられなかったのかしら。
こんなことを言っても信じていただけないと思うけれど、
静子はKさんと別れるつもりでKさんの所へ嫁したのではありません。
それをKさんが邪推なさって、満里子をMの子供だなんて」
「だけど、Mさんを愛していたと言えばお疑いになるのは当たり前です。
あなたはMさんを愛しているって正直な告白をしたのでしょう?
Kさんがお疑いになったのは当然なのですよ。
Kさんでなくても誰だって疑います。誰の前でも、平気でMさんを愛していたなんて」
満里子が死んで、Kさんと別れて、それから半年して
はじめてMの面影が薄れて行ったのだ。みんな静子がいけなかったのだ。

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by vMUGIv | 2011-05-11 00:00 | 昭和戦前

太宰治 その10

★愛人 太田静子 『斜陽』のモデル
1913-1982 大正02-昭和57 69歳没


■父 開業医 太田守


■母 上之畑キサ


●馨  医者
●静子 
●武
●通


◆大正02年 滋賀県生まれ。
◆愛知川女学校卒業後、東京の実践女学校家政科に進学。
ところが勝手に国文科への転科手続きをしたことが両親にバレて退学させられてしまう。
しかし静子は東京で学生をしている弟の通の下宿に同居して滋賀には帰らなかった。
◆昭和13年 25歳 父が亡くなったため家族も上京。弟の武の友人計良長雄と結婚する。
◆昭和14年 26歳 娘満里子を出産するが死亡。
◆昭和15年 27歳 計良と離婚。
静子が太宰31歳にファンレターと小説を送ると返事が来たため、
静子は金子良子・児玉信子と3人で太宰宅を訪問し、二人は不倫関係となる。
◆昭和18年 30歳 太宰が神奈川県に疎開していた静子を訪ねる。
◆昭和22年 34歳 終戦を挟んで3年ぶりに太宰と再会。
太宰から頼まれて『斜陽』の原案となる日記を太宰に渡す。
この時に妊娠した静子は弟の通と二人で太宰を訪ね妊娠の相談をするが
太宰38歳は冷たい態度だった。二人が顔を合わせたのはこの日が最後であった。
静子は一人で娘を生む。弟の通が太宰を訪れ、子供の認知と命名を要求する。
太宰は認知証を書いて<治子>と命名する。
◆昭和23年 35歳 太宰39歳が愛人山崎富栄29歳と入水心中したことを知る。
太宰に渡した日記『斜陽日記』を刊行。しかし逆に『斜陽』からの捏造ではないかと疑われる。
以降食堂などで働き女手一つで治子を育てる。


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太田静子の滋賀県時代のご近所さん・勝光寺の住職 野田暁春

太田先生のお家は万事がハイカラでした。往診の自動車はパッカードでした。
オースチンの時もありました。
三千坪近い敷地には紅白の蓮池があって、それぞれボートが浮かんでいました。
洋風のガラス張りの玄関を入ると、ピカピカに磨き込まれた廊下が長く続いていました。
静子様のお部屋は太田先生のお家の中でもとびきり明るく感じられました。
お部屋には蓄音器が置いてあって、レコードは別の部屋に並んでいました。
ブラームス・ベートーベン・ショパンと、
毎月のように京都でレコードを買っていらしたのでしょう。
レコード鑑賞の後はきまって紅茶とケーキをいただきました。
当時はこのあたりのどの家でもケーキを食べることなど考えられませんでした。
まことに夢のようでした。
静子様がどんなにか苦労されたというお話を聞いても、
私にはどうしてもそのお姿が浮かんでこないのです。

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作家尾崎一雄夫人 松枝

疎開先の山での勤労奉仕の時にも、
皆がそろってモンペ姿の中で静子だけがサンダル履きの洋装だった。
非国民を絵に描いたような姿に松枝もビックリした。

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他にもモンペではなくズボンをはいてバーバリーのレインコートを羽織って勤労奉仕に行き、
国民学校の男子生徒から「スパイだ、スパイだ」と囃し立てられてもいる。


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愛人太田静子の娘 作家太田治子

母は太宰のことを<太宰ちゃま>とメルヘンの主人公のような呼び方を私にさせていた。
「太宰ちゃまは偉い小説家だったの。ある日女の人と川に落ちてしまいました。
ハボタン〔治子の愛称〕も、水の中に落っこちないように気をつけてね」

「太宰ちゃまを信じて、私は言われるままに日記をお渡ししたのよ。
でも日記を渡す時は悲しかった」
母は『斜陽』の元になった日記のことを、何度も繰り返しそう話した。
「太宰ちゃまは悪魔だったのね。いいえ、神様だったのよ。
『斜陽』の中に私も生かされているの」 そう言いながら、きまって泣き声になった。

母は至って温和な性格であった父親の太田守のことを<まんもる様>と呼んでいた。
母親のことはフルネームで<太田きさ様>と呼んでいた。
太田きさ様はもの静かな女性だった。
しかしまんもる様が急死すると、三千坪近い滋賀の家を人手に渡して
子供たちのいる東京へサッサと向かうという大胆さがあった。
弟の武の勤める東芝の同僚と結婚後2ヶ月も経たないうちに別居した母が、
女の赤ちゃんを生んだのはその頃のことだった。
生まれつき身体が弱かった赤ん坊の満里子は、生後まもなく肺炎で息を引き取った。
相手の熱意にほだされての結婚だったが、母の方が気に入っていた
見合い相手のフランス帰りの画家のことを嫉妬しては手を上げた。
2ヶ月足らずで太田きさ様のもとに逃げ帰ったものの、お腹には赤ちゃんが宿っていた。
離婚したくても満里子が生まれてはそれができなくなった。
冬なのに窓を開けたまま、赤ん坊の枕元で呆然と夜を明かすこともあったという。
そのせいで肺炎になったのかもしれないと、彼女は苦しんだ。離婚して
太田きさ様との二人暮らしが始まってからの母は、小説を書きたいと思うようになった。

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愛人太田静子への取材

この稿を書くために、私は何回か静子さんの渋谷のアパートを訪ねた。

日本郵船で機関長をしていた叔父からMという画家との交際を勧められた。
Mはパリ・アントワープ・リヨンなどを転々としながら画業に打ち込んでいた
二科系の洋画家で、静子さんより一回り年長だった。
帰国したMと見合いをし交際が始まる。
ゴーギャンを思わせるようなMの野性味とたくましさに魅かれ、
Mも静子さんの童女のようなナイーブさが気に入ったが、
静子さんの家族はこの結婚に反対した。
生活の面でも、性情的にも、Mは不安定に見えた。
たまたま弟武さんの同僚の京大を出た電機会社の社員との間に縁談が持ち上がり、
母や兄弟たちは乗り気になった。静子さんは家族の強い希望に負けた。
昭和13年12月に結婚して新居を構えたが、この結婚生活は長くは続かなかった。
静子さんはMへの想いが残り、そのことをふと夫にもらした。
それ以来夫婦の仲は急速に冷え、暗い毎日が続いた。
女の子が生まれた。満里子と名付けたが、一月足らずで死んだ。
もう夫との生活を続けていることはできなかった。
静子さんは母のもとに帰り、やがて協議離婚した。

昭和16年9月の半ば、静子さんは太宰を訪ねた。
その時友人の一人が「あなたは太宰さんにお会いすると何か起こるのではないかしら。
ただでは済まないような気がする」と言った。
3ヵ月ほど後、太平洋戦争が始まって10日ほど経ったある雨の日、
突然太宰から電報が来た。『2時 東京駅 太宰』という簡単な文面だった。
時計を見ると01時10分だった。静子さんは大急ぎで紫の絞りの着物に着替えて家を出た。
東京駅に着いたのは02時半をまわっていたが、
二重廻しを着た太宰は駅前の花屋の横に寒そうに立っていた。
中央線で新宿に出て、武蔵野館でシモーヌ・シモンの映画『乙女の湖』を観て
日本料理店で御馳走になった。
太宰は静子さんにシモーヌ・シモンに似ていると言った。

その次やはり電報で呼び出されて会った時、
母がなにか勘付いて心配しているようだと静子さんが言うと、
太宰はこれからはそちらから手紙で日時と場所を連絡してほしいと言った。

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愛人太田静子の娘 作家太田治子

太宰の死後3ヶ月が経った頃、家事裁判所から遺産放棄の申述書の書類が送られてきた。
そのおよそ3ヶ月前、
津島家の代理として井伏鱒二氏・今官一氏・井馬春部氏が誓約書を持参した。
そこには金10万円也を受領することで、
今後一切津島家に対し金銭権利等の要求をしないようにと明記されていた。
その10万円は半年も経たないうちに雲散霧消してしまった。
母は小説を書くからと言って依然としてお手伝いさんを雇っていたのだ。
どうやってお金を儲けたらよいのか、しっかりと考えた形跡はない。
今まで一度も働いたことがないのである。
文章を書いて生活したいと夢のように思っていた。

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by vMUGIv | 2011-05-10 00:00 | 昭和戦前

太宰治 その9

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太宰の妻 津島美知子

花嫁探しの流れは、
太宰の御目付役北芳四郎&中畑慶吉→井伏鱒二→同郷で愛弟子の高田英之助
→婚約者斉藤須美子→斉藤須美子の実家→石原美知子の母

北さんと中畑さんに懇願された井伏先生は、
高田氏を通して近づきになった斉藤氏に書面を送って一件を依頼された。
斉藤家で周囲を物色し、この書面を私の母のもとに持参し紹介して下さったのである。

私は太宰治の名も作品も知らなかった。
当時太宰はすでに愛読者と支持者を持っていたが、
知名度ともなれば至って低いものであった。
そして相当ひどい評判や噂が彼を囲んでいたらしいが私は知らなかったし、
この縁談を伝え聞いて出版社に勤めているイトコの夫から
私の母に忠告があったことを聞いたが、それほど気にならなかった。
数え年で27歳にもなっていながら深い考えもなく、
著書を2冊読んだだけで会わぬさきからただ彼の天分に眩惑されていたのである。

太宰はほとんど毎日寿館〔下宿〕から夕方私の実家に来て、
手料理を肴にお銚子を3本ほどあけて、御機嫌で抱負を語り郷里の人々のことを語り、
座談のおもしろい人なので、私の母は今までつきあったことのない
このような職業の人の話を聞いて世間が広くなったようだと言っていた。
お銚子3本が適量だと言ってキリよく引き上げていたが、
適量どころか火をつけたようなもので、
このあと諸所を飲み回って異郷での孤独を紛らわせていたらしい。

それからこの話は順調に進んだのであるが、
当時の彼の書簡でみると太宰は一人気をもみ取り越し苦労をしていたらしい。
太宰は生家に自分を認めさせたく、それが彼の仕事への推進力にもなっている。
その一方、なにかというと生家をあてにして援助を求める。
郷里の家ではもはや太宰になんの期待も持たず話に乗らず相手にせず、
飢えさせないだけの仕送りをしてそれが適当な処遇と考えていた。
太宰が過去どれだけ生家の体面を汚し母を泣かせたか考えれば当然であるのに。
私の実家に対しての見栄もあり苦労性の彼はさまざま思い乱れていた様子であるが、
周囲の好意によって婚約披露も結納も滞りなく行われた。

犬のことでは驚いた。
その頃甲府では犬はたいてい放し飼いで、街には野犬が横行していた。
一緒に歩いていた太宰が、
突如路傍の50センチくらいの残雪の山に駆け上がったこともある。
それほど犬嫌いの彼がある日、あとについてきた子犬に卵をやれと言う。
愛情からではない。恐ろしくて手なずけるための軟弱外交なのである。
恐ろしいから与えるので、
欲しがっているのがわかっているのに与えないと仕返しがおそろしい。
これは他への愛情ではない。エゴイズムである。
彼のその後の人間関係をみると、やはり<子犬に卵式>のように思われる。

暑さの加わる頃から東京に移り住むことを考えるようになった。
太宰はもっと心置きなく語り合い刺激し合う先輩や仲間が近くにほしかったのだと思う。
太宰はこれまで家なり下宿なり自分で探し歩いて決めたことなどなく、
誰かが用意してくれた所に住んできたからこの家探しの時気乗りしない迷惑気な様子で、
私はさびしく頼りなかった。
仕事だけに専念して世俗的な用向きは一切関わりたくないというそれは理想ではあるが、
<家>のことともなれば一家の主人としてもっと関心を持ち
積極的に動いてほしいと思ったのだが、
彼の方は私や私の実家の力のなさに不満を持っていたのかもしれない。

一家を構えれば力仕事や大工仕事など女手に余る雑用が次々出てくるのに、
主人は一切手を出さない。
わかってはいても隣近所のマメな旦那さんをうらやましく思うこともあった。
私は心の中で<金の卵を抱いている男>というあだ名をつけていた。
いつも小説の構想を雌鶏が卵を温めている時のようにジッと抱えて、雑用には
決して手を出さずただ小説を生み出すことばかり考えている彼の姿からの連想である。

宿屋の選定・交渉などは全くダメな人であった。
太宰の場合、郷里では旅先にそれぞれ定宿があり、生家の顔で特別待遇を受けてきた。
旅立ちとなると、日程・切符・手荷物・服装に至るまで一切整えられて
身体だけ動かせばよいのだ。過保護に育ち、人任せの習慣が身についていた。
太宰は本当は若様のようにつききりで
身なりこと往復の乗り物のこと一切世話してくれる御供がほしいのだが、
子供でも老大家でもないから一人で外出しなければならないのが不満らしかった。

午後3時前後で仕事はやめて、夜執筆したことはない。
締切に追われての徹夜など絶えてない。
来客は初めのうちは前から知己だけだったのが、
次第に作品を読んで訪ねてくる方が多くなってきた。
電話がないから、来客があればいつでも応対する。
普段は客を喜ぶ太宰であるが、締切が迫っている時は困るのではないかと聞いたら
「人の話なんか聞いてないよ」と言った。

酒屋の主人は「奥さんが大変だ」と同情してくれたが、
べつに米代を飲んでしまうわけではないし、
勤め人の家庭と同じように考えて同情されるとかえって迷惑を感じた。
けれど健康に障りはしないかと気遣われてそれを言うと
「酒を飲まなければ薬を飲むことになるが、いいか」と言い、
煙草が多過ぎると言うと「深く吸い込まないから」と弁解した。
弁解が巧みで、到底かなわなかった。
金鵄という一番安い煙草が1日5、6箱必要で、現金が乏しくなっても
煙草銭と切手代だけは気をつけて残しておかなくてはならなかった。

長女が生まれた昭和16年12月8日に太平洋戦争が始まった。
それより1ヶ月ほど前に徴用のための身体検査を受けた。
太宰の胸に聴診器を当てた軍医は即座に免除と決めたそうである。
<肺浸潤>という病名であった。
助かったという思いと、胸の疾患をはっきり指摘されたことで複雑な気持であった。

昭和17年の秋、私は初めて太宰の生まれ故郷に行った。
母が重体なので生前に修治とその妻子を対面させておきたいと、
北氏・中畑氏がはからってくださったのである。
なんと言っても苦労人の両氏はありがたい存在であった。
我が家始まって以来の、太宰の大嫌いな買物をした。
私は95円也の駒撚りお召を買ってもらった。それから流行の黒いハンドバッグも。
私が太宰に身につける品を買ってもらったのは、後にも先にもこの時一度だけである。
太宰は一緒に買物に行っても自分の着物を買っていたが、
決してお前にも何かとは言ってくれず、婦人物の売り場の前は大急ぎで通過してしまう。

私は大家族の家長夫妻の負担の重いことを思った。
なによりも兄嫁を困惑させたのは食料だったと思う。
ちょうど米の端境期に弟一家が転がり込んだのだから、
兄嫁の被った心労は一通りではなかったろう。
そのうえ太宰には来訪者が多く、そのたび兄嫁に客膳の心配をかける。
私たちは母屋に寄りかかって何の心配もなく安穏な日々を送り、
おかげで太宰は戯曲にまで手を伸ばすことができた。

タケさんと私が廊下で挨拶していると、書斎にいた太宰が出てきた。
私に二言、三言言葉をかけると、早々に母屋の方に立ち去った。
タケさんは太宰の後姿を目で追いながら
「修治さんは心の狭いのが欠点だ」と言い、腰を下ろした。
タケさんの声がもう少し大きかったら、太宰の耳に入ったかというほどの間であった。
やはりというかさすがというか正に的を得ている。
そして太宰は素早くその人物評が女房の前で取り出されるのを予感して逃げたのだ。
太宰は皮をむかれて赤裸の因幡の白兎のような人で、
できればいつも蒲の穂のようなホカホカの言葉に包まれていたいのである。
結婚直後「陰で舌を出してもよいから、うわべはいい顔を見せてくれ」と言われて唖然とした。
針で刺されたのを、鉄棒で殴られたと感ずる人なのだ。
タケさんは太宰の性格をよく知っている。甘やかせばキリのない愛情飢餓症であること、
厳しい顔も見せなくてはいけない子であることを知っている。
一方、タケさんの率直な粗野な飾り気のない性格から、
いつ耳に痛い言葉が飛び出すかわからないことを太宰は知っている。

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by vMUGIv | 2011-05-09 00:00 | 昭和戦前


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