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by vMUGIv
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カテゴリ:明治( 61 )

日本初美人コンテスト 令嬢の部 その4

■父 末弘直方
1848-1920 弘化04-大正09 72歳没

*薩摩藩士出身の警察官僚。
函館区長・福岡県小倉市長・福岡県八幡市長などを務めた。


■母 柏田六右衛門の娘 イト


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イト夫人の遠縁 酒匂 津屋

〔直方は〕濃い濃い味噌汁をお好みになりました由。
夜中に目覚めて手洗水を飲む方なので、
手洗鉢はいつもきれいにしておくものだと私の祖母は〔イトに〕教えました。

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●直子  建築家山下啓次郎夫人→孫はジャズピアニスト山下洋輔
●育子  外交官阿部氏夫人
●貞子  写真家江崎清夫人
●ヒロ子 野津鎮之助侯爵夫人
●直志
●トメ子 


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酒匂 津屋

*直方が亡くなった後、直子・育子・貞子の三姉妹が鹿児島を訪問した。
東京生まれ・東京育ちの姉妹が、父の故郷を見るためだった。

3台の人力車が門前で止まりました。
中から同じお顔の和装のきれいなきれいな方々が降りて来られました。
山下様・阿部様・江崎様が氏神詣りがてら祖母に会いにいらしたのです。
祖母は「お上がりなさい、お茶でも」と申しましたが、
氏神様を拝んでお帰りになりました。

「娘の家に行くと取次が要るから〔末娘トメ子は〕高城の田舎に嫁にやる」
と言われた直方さんはあんまり勝手すぎたのではと思います。
学習院を出たお姫様が、田舎の四季折々の行事をなんでお分かりになりましょう。
お正月の行事・3月の節句のお菓子・お餅つき・5月のカララン団子とあく巻作り・
お盆・お彼岸・お味噌作り・醤油作り。田舎は本当にうるさいんですもの。

おトメさんはたびたび家にいらっしゃいました。直子様と相似形でいらっしゃいました。
頭が狂っていらっしゃるので、
玄関から真っ直ぐ鏡台の部屋に行かれ髪をきれいにされました。
実家のような気がしたのでしょう。いつも空の財布を出されました。
母は「高城から歩いては大変だった故、帰りは車でお帰り下さい。
お好きな物を買ってね」と、いくらかを差し上げました。


*「狂ったトメ子を夫が川の中につぶし込んで髪の毛を引っぱる」
という光景も近所に目撃された。
結局トメ子は直方の弟 龍岡新熊に引き取られて、そこで亡くなる。

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山下直子の孫 四柳与志夫

阿部のおばさまと呼んでいた方でした。英国大使の夫人でしたね。
いつも正装をしていたという記憶があります。
まるで鹿鳴館時代から抜け出したようなきれいな人で、子供心にも憧れたものです。
『どんなに暑くても、決して手袋を取らず、ハンカチを出さない人でした』と
直子お祖母様が言っていたのを覚えていますよ。


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山下直子の孫 ジャズピアニスト 山下洋輔

野津のおばさまを何度か見かけたことがあります。
こちらはまだ小学校にも入っていない子供でした。
そのように一時代を騒がせた人とは知るよしもありません。
曲った腰と丸くなった背中、両手にリューマチを患っている老女です。
かすかに足を引きずり、人目を避ける雰囲気がありました。
子供には近寄り難かったそれらの印象から、兄と秘かにカイブツと呼んでいたのです。
何という子供の残酷さでしょうか。時間の残酷さでしょうか。

第二次世界大戦直後です。
もやは侯爵夫人ではない野津のおばさまは人目を避けるようにして現れ、
出迎える姉の直子おばあちゃんと
手を取り合うようにして薄暗い応接間に入って行くのでした。
二人ともいつもきちんとした黒い紋付の着物を着ていました。
長い間、二人だけで過ごしていました。
出てくる時に、二人がハンカチで涙をぬぐっている時もありました。


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◆野津ヒロ子侯爵夫人
1893-1963 明治26-昭和38 70歳没

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■夫 野津鎮之助侯爵
1883-1942 明治16-昭和17 59歳没

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●美智子 ヒゲタ醤油 浜口久常夫人 
●真佐子 倉敷紡績 大原総一郎夫人→娘泰子は美智子皇后の弟正田修夫人
●佐恵子 京都ダイカスト工業 田中秀雄夫人
●高光  佐藤茂の娘緑子と結婚
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by vMUGIv | 2015-01-06 00:00 | 明治

日本初美人コンテスト 令嬢の部 その3

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一位となった末弘ヒロ子は薩摩藩士出身の警察官僚 末弘直方の娘。
当時父は福岡県小倉市長を務めていたので、
ヒロ子は東京にある姉夫婦の家から学習院中等部3年生に通学していた。

姉婿の江崎清は名写真師と謳われた人物で、
日頃からヒロ子をモデルに写真を撮りためていた。
その一枚をヒロ子に無断で応募したのである。
漢字などを変えて末弘ヒロ子を末広トメ子という偽名にした。

当時の学習院院長は乃木希典。学習院にスパルタ教育を持ち込んだ人物である。
華美に傾いているという理由で学監下田歌子を追放したこともある。
案の定ヒロ子が一位に決まった時、
美人競争の行為は学則違反との理由で退学を言い渡す。

これにマスコミが噛みついた。
実はヒロ子の写真は3回掲載されている。
第一次選考を通過した時、第二次選考を通過した時、
一位の結果発表の時の3回である。
学習院は一次、二次の際には問題にしなかったのにも関わらず、
ヒロ子が一位になった途端に問題としたことになる。
さらに学習院からはヒロ子以外の他の生徒も数人応募していたが、
彼女たちは不問に付されている。

学習院はヒロ子自身が応募したのではなく義兄が勝手に応募したことも、
ヒロ子以外の生徒が応募していたことも知っていた。
それなのにヒロ子一人が退学処分の対象となったということは、
一位になったということが問題だったのだ。

明治時代には修身の教科書においてさえ美人が公然と非難されていた。
美人は高慢、美人は勉強ができない、美人は堕落する、
不美人は学業に励み、善良柔順であるという正論が大手を振っていた。

しかし、いつの世も本音と建前は別。
女学校の女生徒は卒業を待たずに嫁いでいくのが一般的。
卒業を迎える女は在学中に売れ残ったというわけで、
「卒業面」と呼ばれブスの代名詞であった。

結局、彼女は父親同士が親友だったため
生まれた時から許婚だった野津鎮之助侯爵と結婚。
学習院の方はこの縁談を名目に自主退学という形に落ち着いた。
乃木希典が罪ほろぼしに結婚相手を見つけてやったという説は、
創作された乃木神話の一つのようだ。
当時舅となる野津道貫は死の床にあり、
嫡男の結婚を見届けたかったという事情もあった。
舅は花嫁姿のヒロ子を見て感激したそうである。

シカゴトリビューン社の世界一コンテストの結果はどうだったのか。
ヒロ子が6位だったとする説があるが、勘違いである。
日本からヒロ子の写真が6番目に届いたという記録があるだけで、
アメリカ人女性が1位になった以外の情報は残っていない。

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by vMUGIv | 2015-01-05 00:00 | 明治

日本初美人コンテスト 令嬢の部 その2

1位 福岡県 末広ヒロ子 16歳
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2位 宮城県 金田ケンコ 19歳
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3位 栃木県 土屋ノブコ 19歳
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≪ユニークな応募者≫


長野県 土屋ソヤコ
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東京市 宮下百合子
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神奈川県 下田リョウコ
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鹿児島県 藤田喜佐子
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by vMUGIv | 2015-01-04 00:00 | 明治

日本初美人コンテスト 令嬢の部 その1

明治40年(1907)
アメリカの新聞社シカゴトリビューンから時事新報社に連絡が入った。
シカゴトリビューン社では世界一の美人を決める催しをする、
ついては日本代表の美人写真を送ってほしいという内容であった。

そこで時事新報社は「容色をもって生業とするものを者を除く」
という条件をつけて一般家庭より応募者を募ることとなった。
これが日本で最初の「素人の」美人コンテストである。

時事新報社は全国の新聞社に美人さがしを依頼した。
時事新報社と地方紙22社を巻き込んだ苦難の道の始まりである。

仙台の河北新報は紙面で美人募集を行った。
我と思わん美人は奮つて写真を投与せられよ。
また、美人の親戚知友たるものは内気なる美人の為に其人に代りて投寄の労を取られよ」


しかし、募集要項を発表したぐらいでは応募者は集まらない。
美人コンテストに我も我もとやってくる現代とは違う。
何につけ「はしたない女性」というレッテルが貼られてしまうと、
それだけで一生お嫁に行けなくなる時代である。
目立つことはしないに限る。

困った各地方紙は地元の美人を探し出すための調査班を組織した。
社長までもが女学校などへ行ってキャンペーンに務めた。

河北新報は結果二位となる金田憲子を見つけた。
宮城県の水産検査場長の娘、良家の令嬢である。
しかし彼女をコンテストに引きずり出すまでには苦労があった。
彼女の美しさは近在で有名だったが、本人は出たがらない。
そこで親戚の銀行頭取に彼女を説得させ、写真を手に入れることができたのである。
応募写真の多くはこのように地方紙の記者たちによって集められたものだった。

時事新報はコンテストの発表後に彼女の父親の談話を載せた。
「御社の誌上に娘の写真が発表されてからといふものは、
諸方から結婚の申込みが非常なもので、今日迄に約二百通も参りましたよ。ハハハハハ。
此二百通に対して一々返事を出したのですから一時は目も廻はりさうな始末。
何うぞお笑ひ下さい」



翌明治41年(1908)に結果が発表された。

※当時の総理大臣の月給は1,000円

<一次審査入賞>
1等 18金ルビー真珠入り指輪 値30円
2等 18金真珠入り勝利形ブローチ 値15円
3等 18金結形根掛 値十円
4等 銀製鍍金草花図丸彫束髪用ピン 値5円
5等 同上

<二次審査入賞>
1等 18金ダイヤモンド入り指輪 値300円
2等 18金梨地無双ダイヤモンド入り婦人持懐中時計、
並びに18金ルビー真珠入り緒しめつき首掛け鎖一揃い 値150円
3等 18金白金金製桜花ニ流水図透かし彫りだしダイヤモンド入り帯留め 値100円
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by vMUGIv | 2015-01-03 00:00 | 明治

日本初美人コンテスト 芸者の部 その2

時事新報社が令嬢美人コンテストを開催した明治40年、
雑誌『文芸倶楽部』も美人コンテストを行った。

「大懸賞百美人写真大募集」と題され、全国から100人の芸者を選抜し、
読者の投票により順位をつけるというシステムだった。

このコンテストでは、赤坂の芸者、万龍/万竜/萬龍/萬竜が一位となった。

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by vMUGIv | 2015-01-02 00:00 | 明治

日本初美人コンテスト 芸者の部 その1

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明治24年(1891)浅草に建てられた12階のビル浅草凌雲閣で
芸者の写真展「百美人展」が開催された。
100人の芸者を撮影したのはアメリカで修業した有名写真家 小川一真。
公平を期するため、全員同じセットで同じ構図という条件で撮影されている。
これが日本で最初の「玄人の」美人コンテストである。

凌雲閣は日本初の電動エレベーターが目玉だった。
ところが警察からエレベーターは危険だと判断され、設置早々エレベーターは撤去されてしまう。
目玉を失った凌雲閣が考えた企画が「百美人展」だったのだ。

凌雲閣を登っていくと、各階に百美人の写真が飾られており、
それを見た入場者が投票するというシステムだった。
この写真展をもとに『東京百美人 GEISHA OF TOKYO』という写真集が作られ、
日本人はもちろん外国人にも大人気となった。

その後もは百美人展は3回開催されているが、対象はすべて芸者であった。




1位 新橋 玉菊 17歳
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2位 新橋 桃太郎 19歳
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3位 新橋 小豊 19歳
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4位 新橋 吾妻 17歳 
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5位 柳橋 小鶴 22歳
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芳町 三子 20歳
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新橋 寿々 
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新橋 ゑり子
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新橋 とん子 16歳
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新橋 桃子 15歳
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新橋 つま子 19歳
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by vMUGIv | 2015-01-01 00:00 | 明治

森鴎外の子供たち その19

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評論家 今日出海

私が結婚した時、辰野隆先生はお祝いをするから学士会館へ5時に来るようにと、
大学の研究室でおごそかに命令された。
「では、出かけるとしようか」といってどこへ出かけるのか見当がつかぬので、
私は黙々と先生に従った。タクシーは新橋の花柳街へ走った。
「この人はね、恋愛が成就して2、3日前めでたく結婚したんだよ」
と先生は並みいる芸者に披露した。
「おめでとうございます」「うらやましいわ」 芸者たちはそんなお世辞を言うと、
2、3日前結婚した男なんかには用はないといった風に私を床の間の置物同様に扱って、
関心は先生の方へ向いてしまった。
先生はいい心持ちで酔うほどに歌は出るしで大モテなのに、
私は新しい家に帰りたくモジモジしてきだしたが、
そんなことに同情も容赦もしてくれない。

夜更けになって、同じ大学の山田珠樹先生が突然現れ、
「では、おあと交替といたすかね」 今度は新橋から赤坂へお座敷が移った。
さすがに堅くなっていた私もこう飲んでは骨までとろけ、時はますます経つばかり。
もうどんなに慌てても家に帰ることはできない。
しまいに大座敷で雑魚寝ということになった。

山田先生は翌朝私に訓戒を垂れて言った。
「女房って奴は最初が大事だよ。あまりにチヤホヤすると、
もう後で取り返しがつかぬほどつけあがる。結婚初期に手当をしておくのが肝心さ。
辰野は君が女に甘いから、前夜後夜と分けて二人で
君および君の女房を教育しようっていうので、こんなお祝いをしたのさ。
結婚初期に家を一晩あけるくらいの度胸がなければ君も駄目さ。
女房は昨夕一晩まんじりともしないで君を待っていただろう。
これがいい薬になったぜ。君も今日は大威張りで帰って行くんだ。
こそこそ帰って女房に謝るようじゃ、九仭の功を一簣に欠くって奴でなんにもならないよ」
至れり尽くせりの教育ぶりである。

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森茉莉の息子 山田亨

鴎外が茉莉を愛し、茉莉が父鴎外を愛したように、
僕は父山田珠樹に愛されて育ち、そして今でも父を愛している。
父が僕を可愛がった理由の一つは、僕の容貌が茉莉と似ていたためだと思う。
その反面茉莉と似ているためか、僕は継母からひどく嫌われた。
父はフランス文学者だったが、茉莉が指摘したごとく本質的には明治の男だったようだ。
自己の再婚に際し、親戚・知人の全員に
「亨の母親が森茉莉だということを絶対口にしないように」と頼んだという。
したがって僕は、母茉莉のことを父の死まで知らなかった。
父の葬式の後、「亨、僕たち二人の母親は、森鴎外の長女である森茉莉という人だ」
と兄から言われたが、突然のことで実感がわかなかった。
茉莉は当時まだ作家として世に出ていなかったので、
僕は叔母である小堀杏奴の著書や雑誌を書店で購入するようになった。
そして杏奴と文通するようになり、終戦後のある日叔母から
「亨ちゃん、御馳走するからうちにいらしゃい」という手紙をもらった。
当日玄関で叔母が「亨ちゃんには知らせなかったけれど、茉莉を呼んであるの」と言った。
部屋に入ると僕によく似た女性がいて、「亨」と言って僕を抱きしめて激しく泣いた。
母親というのは子供を抱きしめるんだなと、抱かれながら思った。
僕は継母から一度も抱かれた記憶がなかったからだ。
父に抱かれた記憶は何度もあるのに。

茉莉の死後、兄から茉莉の形見分けを任された。
僕が著作権継承者代表であったため、手元に置いて考えた。
これらの物は僕に所属する物ではなく、母のファンに所属すべき物だろうと。
そこで、鴎外の遺品すべてを文京区立鴎外記念本郷図書館に寄付した。
僕の死後は、伯父森於菟にならい茉莉のすべての遺品を、本郷図書館と
津和野の森鴎外記念館とベルリンのフンボルト大学所属鴎外記念館に寄付することにした。
そして、それぞれの担当者に僕の意思を伝えた。
最後に、母の作品を愛して下さった方々に深い感謝を捧げたい。

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by vMUGIv | 2013-12-19 00:00 | 明治

森鴎外の子供たち その18

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鴎外の友人賀古鶴所から森於菟への手紙

今日午前に長尾恒吉氏と面談し候。
氏曰く、於菟さんには、その後山田老人〔珠樹の父〕も私も面会致したり。
要するに両人の意趣合致せぬというを以って離縁断行することとなせり。
老生曰く、現況の如くに立ち至りては、けだし止むることを得ず。
なお聞くところによれば、衣類だけはいつの間にか既に大概持ち去られ空き箱多し。
山田方にて作りたる物は残されあり云々。

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岩波書店重役 小林勇

森志げは悪妻であるという評判は、私の耳へも折々入った。
また山田珠樹と親しいフランス文学者の間に、
志げ夫人を悪しざまに言っている人がいたことを私は知っている。
杏奴さんが小堀四郎氏と結婚したのは、パリから帰って間もなくであった。
その頃私は折々森家を訪ね、夫人に会っている。
ある時夫人は「私が山田と具合が悪くなった時、幸い茉莉は家へ帰ってくれた。
けれども杏奴は小堀ととても仲が良いから、
もし私と小堀が喧嘩しても帰ってきてくれないと思うから困ってしまう」と言った。
私は驚いて、いったん嫁に行った子供を
いつまでも自分の物と思っていてはいけないでしょうと本気で諌めた。
その時夫人は「はあー」と言って、私の顔を茫然として見ていた。

斉藤茂吉氏はある時
「山田君は茉莉さんと一緒に風呂へ入り、爪を切ってやったというねえ」
と嬉しそうな顔をして話したことがある。
志げ夫人は美人である。その手は実に美しかった。
私はいつもそう思い、百済観音の手を思い浮かべた。

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by vMUGIv | 2013-12-18 00:00 | 明治

森鴎外の子供たち その17

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森茉莉から小堀杏奴への手紙 ※複数から抜粋

〔爵宅に〕4晩泊まった。
珠樹の顔は好きだった。珠樹の顔の中にあって笑う爵の顔に
見とれ見とれ見とれ尽くして眠って(並んで妻も子供も)は起き、
話しては食べ、食べては話し、眠っては起き、夜も昼もメチャメチャである。
爵がママに対する今までの躊躇はよくわかり、いい心だった。
ママも杏奴も変わらぬそうだ。類はもっと細かったが、好男子で驚いたそうだ。
爵がママと同じのお洒落で嬉しかった。旭谷夫人・朝子さんにも満足した。
彰〔爵の息子〕の名は〔茉莉の再婚相手と同名であるから〕ちょっと困ったが、
彰そのものは素晴らしい。しつけもいいし、ユーモアがいっぱいだ。
9つの爵がパパとママのあの時の心の関係を的確につかんでいて、
そのためにパパにママ同様に憎まれ小さい白い目で疑われたことがわかりました。
いじめられたのは恐ろしいが、狂喜。

爵も現在のところでは家庭があり、彼女があり、
その上に私であるから気の毒であると思う。
これは理性で、感情では爵にはまるでへだてがないので、
3,000〔円か〕では少ないと苦情を言い、困らせたが。

秋長の方〔モデル小説『記憶の書物』〕は恐怖がある。2つの恐怖である。
一つはいよいよ活字になると思いもかけず出来損ないであるかもしれぬという恐怖。
もう一つは爵の苦しみ。
あれからまた会った時、亨・類たちもいて、ああでもないこうでもないと話し合った。
その時私の長年書きたかったものだということ、
私としてはよくできたことなど言っている内に、
爵が「出していいよ」と何とも言えぬ平和な温かい愛情の笑い顔で言った。
たちまち私は気の毒さにゾッとし
「爵がそう言うとママは出さない、絶対に出さない」と言った。
「そうしたら亨に持って行かせる」 亨も笑っていた。
だがやっぱり悲しい顔で「出さないで」と言った顔が頭から去らない。
感情では「じゃあ爵は辰野隆さんとパパの方がママより好きなのね」
と言ってやりたかった。
けれども理性では私を〔成城の山田家に〕出入りさせることだけでも、
爵は辰野一派とパパを裏切ったのだ。

ともかく茉莉姉さんは、今度のこと〔類の原稿事件〕では杏奴にも類にも失望した。
両方でつつかれた感じで、一人前の人間のように扱われたとは思えなかった。
苦しんだ上に両方からやられた。
杏奴が桃子〔杏奴の娘〕の結婚について、いわゆる感心な非の打ちどころのない
家庭同士の結婚を望んているらしいのを私は初めて知った。
桃子の家は於菟兄上の家とはまったく違う。
違うところが良いところで、従ってそこから生まれる結婚も違うはずだと思っていた。
杏奴と四郎さんとの家は、やり方によってはもっと今より明るくさえなりうると思う。
そういう交際の間から理解のある感じの良い結婚ができそうに思う。
非の打ちどころのない家庭の可愛い奥さんとしての文章にファンが固定し、
その固定したファンによって動きが取れなくなっているからといって、
桃子の結婚までそのファンの想像するようなものにならなくてもいい。
五百〔類の娘〕たちなぞも、そういう線で行くことにしているようだ。
茉莉姉さんもそれの方に賛成だ。
仕方がないからそうするのではなく、その方がいいと思う。
完全も悪いものではないが、完全ばかりが良いとは言えまい。

神様のお恵みで爵は内緒で毎週来るようになった。
爵は少年時代青年時代に母が無かったので、
この頃になってその時代を取り返そうとしている。
そうして誰にも打ち明けぬ本心についてママと話をする。
ママの奇妙な小説を怒らぬようにけなしたり、ひどく褒めてくれたりする。
珠樹のいいキャラクテールだけを抜き出して創造した一人の別の珠樹のようにも見え、
9歳の爵のようにも見える。

火曜日にうっかり留守にしたら、爵が昼寝して帰ったらしかった。
爵は彼女に会うのを半分に減らすのは辛いし、
本屋に通いつつあるらしい。ハハハ。

去年の2月の痛い思い出と、今言ったことによって、
私の今後の生活は小説を書いていくよりないことを自覚している。
いずれはフィクションを書かなくてはならず、そうなればひどく落ちるから、
やがては雑誌社から見放され、元の随筆に帰れば、
生活していかれぬ程度になるのは目に見えている。
そうかといって、そうなったとしても書いていくよりない。
去年の2月の痛い思い出によって、於菟兄上には迷惑はかけられぬことが分明した。
類はもちろんこっちからお断り。
育てなかった息子たちに期待するという恥辱的なこともしたくない。
その頃心配してくれた杏奴にも、再び(千円でも)迷惑をかけたくない。
ここまでは私の理性。
だが私はもう誰も信じたいと思わないし、誰の顔も見たいとは思わない。
於菟兄上のところも杏奴のところも、結婚という世間の中の出来事が起こるし、
それが起こると私というものはマイナスを与えるだけの人間である。
そういうことになって、急に交わりを断つのもあまり愉快でない。
同情心があるから杏奴の方でも愉快ではないだろう。
於菟兄上くらい遠いとうまくいくが。
私はきょうだい・息子・どの人間にも、こっちからは幼児の心で対したつもりだ。
とにかく水の中で呼吸することになったに等しい今後の生活だからだ。
雑誌社・書店からの細い管には将来の保証がない。
また、きょうだい・息子は、良い人悪い人の別なく全部あてにならない。
こういう結果になったのは、結局は私に母性愛が無かったことと、
爵に子性愛が無かったこととが原因だ。
夫なぞは、どんな人でも別居ということがあったのだ。
死の時には、爵はどうなっているだろうか。
万事は神様のお心次第。

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by vMUGIv | 2013-12-17 00:00 | 明治

森鴎外の子供たち その16

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森於菟から小堀杏奴への手紙 志げの葬儀のため一時帰国して台湾に戻る船上にて

このたびの不幸〔志げの死〕は申すまでもありませんが、
それに次いできょうだいたちよく話し合うことができたのは大きい幸福と存じます。
私が長い間不満であったことは、母上が私をある程度まで信用はしておられても、
常に警戒しておられたこと、父上とある程度を越えて親しくすること、
同じく妹弟と親しくすることを好まれなかったことであります。
母上が女としての純情から夫の愛情を独占したいという自然の感情と、
周囲の事情により二次的に作られた反感とよりせらるるものであったと思われ、
成長した近頃の私から見れば無理ならぬことであるが、幼い頃の私には致命的でした。
そのうえ美貌の母上が怒られる時の顔は、血肉の親しみのない者からは
恐ろしいものであったことがさらに一つの素因でありました。

茉莉さんの小さい時および不律の赤ん坊の時、
私は祖母とともにずいぶん可愛がったものでした。
それがだんだん祖母と母との感情の対立が激しくなり、
子供たちがあまり来ないようになってから私も疎遠になりました。
杏奴・類となると私との本当の親しい時はほとんど皆無なので、
私が妹弟に優しくせぬことをいつか父から指摘されて
「叱ることのできぬ妹弟は可愛がれぬ」
と私にしては珍しい反抗的な返事をしたことがあります。
それは私が腹の底を言う勇気がなく
「妹弟を可愛がるようにお母さんが仕向けて下さらぬのだ」
ということを直言しえなかったためなのです。
その頃祖母が私を亡くなった生母の実家へ連れて行きまして、
父上の黙認があったとはいえ一時物議を起しましたが、
その後交際することを許されたのは母上の広い御心の表れと感謝しております。
私は元来そんなにセンチメンタルではないので、
亡くなった母を気の毒な人とは思っていても
「母をたずねて何千里」なんて感傷はないのです。

母上と私との感情は年とともに緩和されてきました。
ことに父上が亡くなられてからは、親戚が入れば混乱が起りますが、
直接の間は良くなっていく一方のようでした。
妻に対してお心の解けなかったのは何とも遺憾でありますが、
妻の外に対する表れの全部がお嫌いのみならず刺激的であったのは致し方なく、
ただ悪意ある者として憎まれたのは思い過ぎですが、今はやむをえません。
妻は一通りの女です。普通に親しまれれば、相当にお仕えして
そのうち一通りの親しみが生まれ得たのでしょうが、言っても返らぬことです。

私は今度改めて真の妹弟を得たような気がして、喜びと心強さを深く感じます。
あなたたちもそう思って下さい。
茉莉さん・類さんの将来を、あなたおよび四郎さんと相談したい。
茉莉さんの配偶を得るのが第一であるが、
どうも今までのは的が外れてお互いの不幸を招いたと考える。
ともかく少しノンキなこせつかぬ人でなければならない。
私ならいいが、兄妹では夫婦になれない。
類君も早く細君をもらった方が良い。
おとなしく夫を軽んぜず家のことをよくする人を。
もちろん茉莉を先にすべきだが、
類の方に良縁が先にあれば機会を逸することはできぬから
茉莉の別居とその経済的根拠について考えねばなるまい。

黙っている習慣になっていると何も言うことがなくて困るが、
一度言い出すと話したいことは多い。

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by vMUGIv | 2013-12-16 00:00 | 明治


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