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谷崎潤一郎 その20

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秘書 伊吹和子

松子夫人の『倚松庵の夢』には、
「夫と永劫の別れを告げる十日ほど前に、私は禁句を舌端に載せてしまった。
それもいそいそと最後に気に入られていた人を連れて行こうとする人の背に。
これだけの気力を取り戻したことを喜びながら、『長い間心配ばかりした私をおいて』
と言いながら、顔を覆い寝室のベッドに打ち付した」と記されている。

この「最後に気に入られていた人」というのは、
その頃お目見えしてまだ日の浅いトンちゃんという新潟出身のお手伝いさんであった。
ヤスさんから聞いたところでは、
先生がいつもの通り新人を珍しがって映画や散歩と連れ出され、
トンちゃんは事情がよくわからないまま
先生の言いつけに逆らうわけにはゆかず付いて歩いていた。
松子夫人はそれでヤキモキしておられたらしい。
ヤスさんは「奥様、ベッドで泣いていらっしゃった。ヤキモチもあったかも知れないけど、
そんな本気で焼かんならんようなこと、先生できる身体じゃなかったよね。
お腹に穴開いてたんだもの」と言った。

私はもう何年も前、小滝氏に言われたことを思い出していた。
あの時私は「あんまり先生の役に立つと松子さんを怒らせる」
という同氏の言葉の意味が全く理解できなかったが、小滝氏の言は松子夫人自身が
その随筆の中で嫉妬と呼んでおられたものを指していたのではなかったろうか。
私は松子夫人が、ほんとにあなたのお陰様ですわと言い、
主人が喜んでいます、よろしくねと言われるのをただひたすら真に受けて、
その裏にある微妙な翳りに気づかず松子夫人の神経を逆なでしていたのかもしれない。
秘書もお手伝いさんも、あのKさんやTさんの場合も
結局は松子夫人の優しい言葉をそのままに受け取り、
先生を喜ばせればそれがまた松子夫人をも喜ばせることになると信じていた。
知らず知らず松子夫人を傷つけていたTさんが
三人前のメインディッシュを無理にお腹に詰め込むのを見て、
夫人には密やかに快感に近いものが走ったのでもあったろう。
彼女たちは松子夫人の言葉の裏に隠された悲傷に気づかなかった。
私の場合「書く機械」になり切ってきても、それはそれでまた
先生にも松子夫人にもそれぞれの異なった意味で目障りになることがあったのだろう。

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by vMUGIv | 2011-04-20 00:00 | 大正
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