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by vMUGIv
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大正三美人 柳原白蓮 その3

◆明治41年 23歳 東洋英和女学校入学
◆明治44年 26歳 伊藤伝右衛門50歳と再婚、福岡県へ
◆大正04年 30歳 別府別邸竣工、サロンの女王となる




■2番目の夫 伊藤伝右衛門 炭鉱王 夫50歳&妻26歳で再婚・夫60歳&妻36歳で離婚
1861-1947 万延01-昭和22 86歳没

●伊藤伝右衛門との間に子供ナシ
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■前妻 士族辻徳八の娘 ハル 夫29歳&妻24歳で結婚・夫50歳&妻45歳で死別・子供ナシ
(年齢順)
■養子  金次 伝右衛門の甥/妹キタの三男 深川製磁社長の娘艶子と結婚 
■異母妹 初枝 伝右衛門の父伝六&ユキとの庶子 山沢男爵の子鉄五郎と結婚
■庶子  静子 伝右衛門&キヨとの庶子 堀井秀三郎と結婚
■養子  八郎 伝右衛門の妹/妹キタの八男 冷泉蓮子と結婚


★幸袋本邸

★天神別邸 敷地3000坪 建物500坪 通称:あかがね御殿

★別府別荘 敷地3540坪 建物6棟300坪


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伝右衛門の養子 伊藤八郎

伝右衛門は抜群の記憶力の人でした。
メモをしなくても頭の中にすべて記されていて、判断は慎重そのものでしたね。
よく豪快で果断といった評価がされているようですが、
慎重に見通しをつけて次々に手を打つ、実務肌の父です。
学校に行かずとも、生活の資を得る日常そのものが学問だったようです。
その点 母の燁子の文学の世界は、父には到底理解できぬことだったように思われます。

明治44年03月、当時私は小学校1年の終わり頃である。
継母〔燁子〕が父に連れられて幸袋に初めて来た日のことを記憶している。
私は誰かに連れられて直方まで迎えに行った。
久留米絣の着物に小倉の袴、これは当時男の子の礼服であった。
父が「これが八郎」と言ったようだったが、
継母は口の中で「そう」とかいうようなつぶやきだけで表情も崩さず何も声もかけてくれなかった。
私も無愛想な顔で、じっと新しい継母となる人の顔を見ていたようである。

家族間の呼び方はそれまでと一変させられた。
「おとっちゃん」「おっかしゃん」は「お父さん」「お母さん」に、
「あんちゃん」「あねしゃん」は「兄さん」「姉さん」に。
言葉遣いは使用人に対しては大変厳しかった。
父母をはじめ家族のことは「お上」で、使用人は「お下」というように厳しくしつけられ、
女中は父母が寝室に入ると正座してフスマを閉め、
「おやすみあそばせ」と額を畳につくぐらいに下げて言っていた。

父が胃潰瘍で天神町の別邸で療養していたのは、その翌年の春か夏であったろう。
私の勝手な想像を加えると、継母と結婚して一年前後の頃にあたる。
継母は継母なりにまったく異質の地域と家庭に一人で嫁して大変な苦心があったであろうし、
父は父として外見的には華やかな結婚をしたものの、
継母と家庭、また家庭を取り巻く周囲との間で大変な心労をしたのであろう。
顔に出す者はいなかったであろうが、
周囲の人々は一人としてこの結婚を内心祝福してはいなかったと思う。
若い頃の父は表面に優しさを出すようなところはなかったが、
内心はナイーブなところがあって、このことでも心労していたことと思う。

〔その後伝右衛門は〕結婚することはなかった。
口には出さない人だったが、白蓮事件で懲りたのかもしれない。
京都の野口さととの関係は終生続いたが、それはいわゆる妾として終わった。

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伊藤伝右衛門の母方のイトコ 桑原源次郎

白蓮さんの家出に対して、白蓮さんの手記に
「10年に渡ってついに心からの味方を得られなかったその第一が夫からの愛情」
とあったそうだが、それは白蓮さんに大きな責任があった。
というのが、白蓮さんが勧められて京都の野口おゆうさんと里子さんを伊藤家に呼び寄せ、
自分が夫に充分尽くし得ない夜の務めを公然と任せてしまってあった。
白蓮さんをしてこんなはめに陥れたものは何であったか。
それは短歌そのものではなかったかと思う。
白蓮さんの自記に「私は飾りものか」「主人は味方と思っていたのに」とあるも、
主人より何より歌作りが一番可愛かったもので、「悲しき妻の座」とも言われているが、
実はそれが自慢であり、身上であり、詩作上の一枚看板ではなかったかと思う。

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大阪毎日新聞 福岡支局 新聞記者 北尾鐐之助

*北尾夫妻は福岡市内のあかがね御殿のすぐ近所に住んでいて、
白蓮は本邸から福岡へ出てくるとまず北尾の家に立ち寄るのが習慣だった。

彼女の周囲には絶えず何者かの異性がいた。
甘い手紙が絶えず彼女の空虚な心に軽い満足を与えた。
彼女はそれをまた、そういう男達の手紙を平気で人に見せた。
私など、ずいぶんだと思われる物をしばしば見せつけられた。
中には知名の人がたくさんあった。
今度の宮崎氏のものも実はその一つであった。
「今の若い人達には困ってしまう」と、思い上がったようにつぶやいたことを私は記憶している。

彼女を取り巻く異性も始終変わっていた。ほとんど枚挙にいとまがなかった。
「あまり多くてどれがどれやらわからぬから、結局良いじゃないの」
こんなことも、ある時 放言していた。
年来の激しい復讐心、悪魔のような残虐性をいらだたせている一方では、
すべてのものに愛を及ぼそうという慈悲心、
女性らしい優しい心持ちとが始終あふれている人であった。

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*筑紫の女王と呼ばれた白蓮は、取り巻きと恋愛遊戯を繰り広げた。
医学博士の久保猪之吉、白蓮は彼に恋文を送り続けるが、
妻のいる久保は結局白蓮と駆け落ちはしなかった。
陸軍中尉の藤井民助、白蓮は彼に恋文を送り続けるが、
婚約者がいる上に姦通罪を恐れた藤井は結局白蓮と駆け落ちはしなかった。


★野田茂重 夫は福岡鉱務署野田勇


★久保より江 夫は九州帝大耳鼻咽喉科教授久保猪之吉
松山生まれ。伯母の家に下宿していた夏目漱石に可愛がられ、正岡子規にも紹介される。
上京してからは泉鏡花とも交流があった。夫猪之吉は歌人としても有名であった。


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大久保猪之吉の弟子 日本医科大学名誉教授 大藤敏三
 
久保先生のお宅が、仏壇のローソクの火を猫が倒したことが原因で全焼した時がありましてね。
私はすぐに焼け跡に駆けつけたのです。
その折、半分黒コゲになった手紙の束を発見しました。
相当に分厚い束で、久保先生の紛れもない筆跡、それも白蓮さんからの手紙に応えたものです。
ほどけばボロボロになってしまいそうな紙ですから大事に保存してありますが、
公表はできないのです。

その書簡、久保先生の文面から察しますと、
切々とした白蓮さんからの手紙が寄せられていて、
それに対して先生の香りある筆で淡々と抑えた返事が記されておりましてね。
その間の心のやりとりは、確かにうかがえるような気がいたします。

宮崎さんとのことが起こって白蓮さんが身辺を整理された時に、
ひとまとめにお返しになられた書簡ではないでしょうか。

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伝右衛門の孫/静子の子 伊藤伝之祐

白蓮が去ってからも、白蓮が女中らにしつけた「こんばんは」「おはよう」「ごきげんよう」
という公家言葉はずっと残っていました。
食事の洋食、オートミール・トースト・紅茶などもそうでしたね。

伝右衛門の趣味といえば義太夫でしたから、相当な域に達していたと思います。
昭和のはじめにNHK福岡放送局のラジオ放送が開局しますが、
伝右衛門はその記念放送に義太夫で出演したことがあります。
自分で字を書かないし読めもしないということで世間に通していましたが、
義太夫の台本は読んでいましたね。

野口さとは伝右衛門唯一の女性と言えるでしょう。
女優の太地喜和子に似たふくよかな京美人で、伝右衛門とは肝胆相照らす仲だったようです。
結果から見れば、燁子・伝右衛門双方に良かったと思います。

金次さん・八郎さんは炭鉱一筋で大正鉱業、父の秀三郎と私は幸袋工作所ということで、
伝右衛門はそれぞれの性格をよく見抜いていたようです。
炭鉱は掘ってしまえばいつまであるかわからん、
工作所はコツコツやればずっとあると言っていましたが、
炭鉱の行く末を見ていたのでしょうか。

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by vMUGIv | 2015-02-16 00:00 | 大正
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