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by vMUGIv
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大正三美人 柳原白蓮 その5

◆大正11年 37歳 息子香織を生む、龍介の父宮崎滔天51歳没
◆大正12年 38歳 関東大震災を契機に宮崎龍介31歳と再々婚
◆大正14年 40歳 娘蕗苳を生む
◆昭和11年 51歳 継母柳原初子82歳没
◆昭和17年 57歳 龍介の母宮崎鎚子71歳没、北小路資武64歳没
◆昭和20年 60歳 息子香織23歳戦死
◆昭和21年 61歳 娘蕗苳21歳結婚
◆昭和22年 62歳 伊藤伝右衛門86歳没
◆昭和42年 82歳 02月22日白蓮死亡
◆昭和46年 宮崎龍介79歳没 
◆平成01年 息子北小路功光88歳没




■3番目の夫 宮崎龍介 弁護士・社会運動家 夫31歳&妻38歳で再々婚
1892-1971 明治25-昭和46 79歳没


●宮崎との間に息子 香織
●宮崎との間に娘  蕗苳


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■父 宮崎滔天
1871-1922 明治03-大正11 51歳没


■母 宮崎鎚子
1871-1942 明治03-昭和17 71歳没


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白蓮&宮崎龍介の娘 宮崎蕗苳

鎚子は熊本県に豪農の前田案山子の三女として生まれました。
案山子は細川家の槍指南から、
初代衆議院議員として自由民権運動に奔走した素封家、人徳のある人です。
鎚子は熊本にあった英語学舎で学びました。
さらに神戸へ行き、キリスト教の女学校を卒業しています。
イサク・アブラハムを介して滔天と知り合い、大恋愛のすえ周囲の反対を押し切って結ばれました。
晩年近い頃も外国からの来客に英語で対応するなど、カクシャクと言うんでしょうか、
しっかりしたところを見せていたのを覚えています。

孫文はいよいよ革命の計画を本格化させていきます。
滔天もそれに呼応して東西に奔走するようになって、
家族の家計については少しも考えてくれませんでした。
3人の子供を抱え生活に窮して滔天に訴えると、
「革命のための金はできるが、妻子を養う金はない。お前はお前でどうにかしておけ」
といっこうにかえりみてくれないので、
今までお嬢さん育ちであった祖母も慣れない内職をしたそうです。
明治37年には先祖伝来の田畑も売り払い、
すべてを滔天の活動費に注ぎ込まなければならない状態でした。
明治38年には熊本の家をたたんで、滔天のところへ上京しました。

鎚子は気丈な人でした。
のちに白蓮とは嫁姑という立場になりますが非常に和やかな関係で、
育ちが違いすぎていたのがかえって良かったと思います。
また矛盾するようですが似た点もあり、
思ったことを率直に言う竹を割ったようなさっぱりした性格と、
弱きを助けるのが好きなところが共通していました。
私の生まれる3年前に祖父は亡くなっていましたから、
執筆などの活動に忙しい母の代わりに、当時健在だった祖母が家族の世話を担っていました。
母は和裁は得意で私の着るものなどもよく仕立ててくれましたが、
普通の家事って言うんでしょうか、台所仕事やお掃除はできなかったんですよね。
戦時中にかまどに薪で御飯を炊いた時、
「生まれて初めてこういうことをするのよ」と言っていました。
そのあたりは、おひい様育ちがなかなか抜けなかったところです。

父は弁護士の仕事のかたわら社会運動にも参加しており、
母も人のお世話が大変好きな人でしたから、居候って申しますか、
父に共鳴する若い人達や困った境遇の方が、いつも何人も同居していました。
5,6人から10人ぐらいはいたでしょうか。
二人ともそうした暮らしが生きがいの一部だったはずです。
ですので私には、兄や両親・祖母といった家族だけで水入らずで住んだという記憶がありません。
他の家のことは知らないので、それが普通だと思っていました。
母は廃娼運動も支援しました。さながら駆け込み寺といったところです。
有名な出来事としては、
吉原から春駒という花魁が助けて下さいと母を頼って逃げてきたことがあります。
父も一緒になって身の上相談に乗ることもありました。

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白蓮の夫 宮崎龍介

たしか大正09年01月ことでした。
燁子に、私は九州で会ったわけなのです。場所は別府の別荘でした。
この時私は編集者として事務的な話をしただけで、特に印象に残るようなことはありませんでした。
ただ燁子は、初対面の私に向かって
「自分の生活はこうして物を書くだけで、他には何も楽しみがない」
というような簡単な境遇を話したことを記憶しています。
その後この本が発行され芝居になったりしたため、
燁子は何度か東京へ出てくるようになりました。
その度に会っては話をするようになり、だんだん私と懇意になったわけです。

燁子は貴族の生まれなのですが気取ったところは全然なく、
自分の思ったことを誰に対しても遠慮なくズバズバ言う気性の激しさを内に秘めた女でした。
燁子のような女性に会ったのは初めてでした。
個性というか自分の中に一つしっかりとしたものを持っている女性は、
当時としては珍しいことでした。不思議な女でした。
可哀想なものに対する同情、涙もろさを持つ反面、非常に強い自我を持っていました。
反抗心と言ってもいいものでしょう。何であれ自分の自我を押えようとするものに対しては、
徹底的に反発するというタイプの女でした。

私と燁子の文通もだんだん頻繁になっていきました。
そのうち燁子は「もう現在の境遇には耐えられない。
これまで何度自殺しようと思ったかしれない。
今の状態から一刻も早く私を救い出して欲しい」という意味のことを書いてきはじめました。
さすがに私は考え込みました。これは深刻な問題です。
下手すれば姦通罪に引っかかって、二人とも牢屋にぶちこまれる恐れだってある。
考えに考えたすえ、私は踏み切りました。
自分が今やっている政治運動、信奉する社会主義革命とは何か。
虐げられている者を救う運動ではないか。燁子も虐げられ苦しんでいる一人ではないか。
今から考えると、当時の私たちは一種の空想的社会主義者でした。
ロシア革命のニュースに接して、日本でも明日にも革命が起こりそうな気がしていました。
燁子と結婚しようという決心も、そういう時代の雰囲気に大きく影響されていたように思います。

大正10年10月、燁子は九州から最後の上京をしてきました。
表向きは親戚の入江東宮侍従長が殿下のお供をして無事ヨーロッパから帰ってきたので、
そのお祝いに行くということでしたが、
実はこれを最後に伊藤家から姿を消すという打ち合せがしてありました。
私は燁子との問題は家族の者にも一切話さず、
友人の赤松克麿君と朝日新聞にいた早坂二郎君にだけ打ち明けていろいろ相談しました。
彼らは私が燁子と結婚することには大賛成でした。
そして同じやるなら、ひとつ世間に衝撃を与えるようなやり方をした方がいいだろう
ということに三人の意見が一致しました。
それには多くの新聞社に共同発表するよりは
一社の特ダネの方が効果があるという早坂君の意見で、
発表は朝日新聞一社に絞ることに決めました。
朝日新聞社会面は全ページをいわゆる「白蓮事件」で埋め、
予想通り大センセーションを巻き起こしました。燁子の伊藤家に向けた絶縁状も載っていました。
この絶縁状は、燁子と赤松君と私と相談のうえ書いたものです。
この新聞を見て、父はたいそうびっくりしました。「いいのか、お前、こんなことをして」
しかし私の家はもともと自由放任主義でしたから、
別に叱られるというようなこともありませんでした。
父は一言、こんなことを言ったことがあります。
「どうしようもなくなったら、お前たち二人で心中してもいい。線香ぐらいは俺が仏前に立ててやる」

燁子は以降 私との間を断ち切るべく、柳原家の手で方々に監禁されることになったのでした。
半年ぐらい経った頃でしょうか、燁子は京都の尼寺に預けられいることがわかりました。
自分で二人の結婚届を作り、私の家に残していた燁子の実印を持ってその尼寺へ行きました。
お互いの合意の上で正式に結婚届を出してしまえば、燁子の監禁状態が長引いても
あとはゆっくり闘争すればいずれはこちらの勝ちだという気持ちでした。
この結婚届は燁子に大きな精神的安心を与えたようでした。
しかし、これですぐに燁子の監禁が解けたわけではありません。
柳原は今度は東京の中野武営氏の家に燁子を預けました。
私は燁子に子供が生まれているらしいということを風の便りで聞きました。
けれどもその子が男か女かわからないので、
「香織」というどちらにでも通用しそうな名前をつけて出生届を出しました。
この子は後に早稲田の政経学部に入り途中で学徒兵として取られ、
終戦の4日前に鹿児島で戦死しました。

燁子が中野氏の家に預けられている時、あの関東大震災が起こったのです。
目白の私の家は幸い焼け残り、
父の書生をしていた松本という男がまだ煙のくすぶっている町を歩いて見に行ってくれました。
中野邸は焼けてしまい、一家は駒込の松平という家に避難しているとの立札が立っていたと言う。
そこで私はこの際、強引に燁子を我が家に連れてこようと考えたのです。
書生に燁子の着替えと握り飯を持たせて松平邸へ行ってもらいました。
中野さんは「こんな状態になっているのに、柳原の方はうんともすんとも言ってこない。
それにひきかえ、宮崎の方はすぐに着物と食べ物を持って使いを寄こしてくれた。
この際あなた方の方に燁子さんを渡すのが一番いい。
非常事態のことだから、後で柳原からどうこう言われることはあるまい」
とあっさり燁子を私の方へ渡してくれました。
燁子は書生に連れられ、鉄道づたいに私の家まで歩いて帰ってきてくれました。
赤ん坊の香織は、私の母が中野さんの家へ行って連れて来たのでした。
これが大震災の翌日のことで、以来46年ずっと私と一緒に暮らすことができたのでした。

我が家は組合活動家で毎日あふれんばかりでした。
燁子はこれまでとはまるで違った生活にびっくりしたでしょうが、
伊藤家にいた時代とはまるで別世界、自由と言えばこんな自由な空気はない、
社会主義とか民主主義とか労働運動とかいう言葉の渦に巻き込まれて、
精神的には張りのある生活だったようです。
私のところへ来てどれだけ幸福にしてやれたかそれほど自信があるわけではありませんが、
少なくとも伊藤や柳原の人々よりも燁子の個性を理解し援助してやることができたと思っています。
できるかぎりは燁子の個性を伸ばすように手助けしてやることができたと思っています。

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宮崎家は父滔天の時代から、中国からの留学生や食客が大勢いた。
白蓮は社会派弁護士となった龍介と懐の大きい姑鎚子と
大勢の社会運動家たちに囲まれて暮らす。
息子香織が戦死したのをきっかけに熱心な平和運動家にもなった。
一方、美智子皇后が皇太子妃に決まった時には強硬に反対し、
右翼団体まで動かして反対運動をした。


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樺山愛輔伯爵の娘/白洲次郎の妻 白洲正子

*白洲正子の母と白蓮の兄嫁が姉妹という関係である。

柳原白蓮が家出をしたのは大正10年のことだが、
駆け落ちの相手は共産主義者の宮崎龍介で、
柳原家と私の実家とは姻戚関係にあったため、
裁判沙汰が終わるまで白蓮さんを家で預かったりして
調停に立った父は大分苦労したようであった。

そのまま何十年も音沙汰なくすぎるうち、ある夜勢い込んで電話がかかってきた。
「あなた、今度のことどう思う?」
「今度のことってナァーニ?」
「美智子さんですよ。あんた、このままほっとくつもり?」
美智子さんとは現在の皇后陛下のことである。私はしばらく言葉に詰まってしまった。
「どう思うって、全然見たことも会ったこともない方のこと何も言えないわ」
電話の向こう側では怒り心頭に発したらしく、ガチャンと切ってしまった。
ナンダ、白蓮さんは共産党員と意気投合して何十年も経った今日では
骨の髄までマッカッカに染まっていると思ったのに、あれはみんな嘘だったのか。
それが人間というものなのか。

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by vMUGIv | 2015-02-18 00:00 | 大正
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