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2017年 更新中
by vMUGIv
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森鴎外の子供たち その7

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鴎外の息子 森類

「森さんはみなさん変わっていらしゃる」
というのが僕たちきょうだいに対する世間の評判だそうだ。
あまり良い意味ではないらしいから喜んではいけない。
きょうだいは4人いて、父は森林太郎という文学者である。
みなさんと言うからには末っ子の僕も「変っていらしゃる」のだ。
時折兄の評判が耳に入ってくる。「実に良い先生だ」と言うのだ。
兄は随筆を書いて二、三出版しているが、「文学も鴎外先生より上だ」と言う人まである。
とにかく兄の評判は良い。
そこで「みなさん変わっていらっしゃる」の中に兄は入らないことになるらしい。
残る3人が「変っていらっしゃる」のだ。兄だけ母が違う。

森家は島根県の津和野から上京した町医者で、「林さあ(鴎外)」を偉くするためには、
寒くてもひもじくても結束して事に当たってきた一族である。
すべて「感心」の二字から出来上がっている。
祖父母をはじめ、みな修身の読本からこんにちはと言って
顔を出してもよい人物で構成されている。
母は父のところへ嫁に来て姓は森になったけれども
「感心」の二字からはほど遠い人物なので、一緒に住みながら一人遊離していた。
母が森家の構成外にいたのだから、
自然その子も森家になりきれないところがあるのはやむを得ない。

森家の実権を握っていた祖母の死は、
母にとって父の妻としての短い生涯の始まりであった。
僕の母の名は志げと言う。兄の長兄にあたる伯父荒木虎太郎の話では
茂とつけたのだそうだが、父が志げにしたのだと言う。
素晴らしい美人で、新橋の芸者が娘時代の母の後をつけたら
明舟町の荒木さんへ入ったという昔話がある。
しかし僕の子供の頃の記憶では母はあまり美しくなかった。
よく叱られたからであろうが、肌色の浅黒い目の鋭い恐ろしい母であった。

僕には兄姉が3人いて、長兄は於菟、次が長姉の茉莉、次が次姉の杏奴であって、
観潮楼の母屋には、パッパと母親と茉莉・杏奴・僕の5人がいた。
そのうえ僕が5歳になるまでは祖母もいた。
幼い茉莉が「パッパ」と言い出してから、親戚中の者が鴎外を「パッパ」と呼び習わした。

離れには於菟が住んでいた。
母が違うことを知らずに見る兄さんは、なんとなく変な人であった。
ニヤニヤ笑うけれど、子供が来たから笑っただけで、愛想笑いというのとも違っていた。
フラフラと煙草をふかしながら家の中を歩いていた。
行きたいと思う方へ向かっていないような足取りであった。
庭も家も続いていながら大人の往来がないので、
行ってはいけない家のような気がしていた。
食事にも来ず、風呂にも来ないので、一人何をしていたのであろう。

元旦には兄夫婦が廊下を伝って母屋に来て、床の間を背に両親と並んで座り、
僕ら姉弟と相対して祝いの杯を交わした。
元旦以外にも来ることはあったが、きわめて稀であった。
母屋に来るとき兄は他人の家にでも忍び込むように、用心深く静かに歩いてくる。
誰にも遭遇したくはないのだ。
兄の訪れ方が小学生であった僕にさえ不思議な印象を与えたが、
その原因はその頃まだわからなかった。
兄は僕より21も年上で、どこかのおじさんのようであった。
学校の帰りがけに出会ったりすると、おじさんは
「また会ってしまったね。お前さんと俺とは会ってもあまり具合のよい仲ではないのだ」
と隠れる場所でも欲しそうに下を向いてから上目遣いにこちらを一瞥し、
微笑したつもりが歪んだ笑いに見えた。
後年腹違いという事情を知ってからその様子を思い浮かべると、
よろけながら逃げ去るような兄のすれ違い方の中に、ありありとその心が読めるのである。
お前は俺の弟じゃない、
俺にとってお前は無理に母と思わなくてはならない難しい関係の女性の子なのだ、
だからお前との間もその難しさが氷解することはないのだ、と言っていたように思われた。

兄は森家の長男として、将来の森家の代表者として、森家の人々に取り巻かれて育った。
兄の心には父を中心に昔を懐かしく偲ぶ面と思い出すのも嫌な面とがあって、
はっきりした線によって区分されている。
懐かしく偲ぶ面の彼方にいる人物は、祖母峰・叔父篤次郎・叔父潤三郎・叔母喜美子、
それと彼らの配偶者である。
もっとも心魅かれる人物は、記憶もおぼろな生母登志子であることは言うまでもない。
思い出すのが嫌な面の此方に、僕の母である継母志げがある。
志げを連想せずに見ることのできない異母妹弟がある。
兄を訪ねて対座しても、円滑な会話が続かないのはそのためである。
双方努力しても、努力の及ばない線があることを知っている。

茉莉は最初に生まれた女の子であるから、家では特別な待遇を受けていた。
学校への往復は俥で、帰ってくるとフランス語とピアノの家庭教師が来ていた。
女学校の3、4年になっていたのに、朝の髪は母に結ってもらっていたし、
洗面の湯は女中が運んでいた。腎臓が悪いので牛乳やサイダーを飲んでいた。
茉莉は良く言うとおっとりとしていて、悪く言うとぼんやりしていたのだが、
僕にはおっとりとしているようにしか見えなかった。

子供の時の杏奴は背が高い方で、丈夫そうな丸い顔も華奢な細長い手も黒かった。
少し野性味があって、敏捷に飛び回っていた。
言うことも振る舞いも、奇抜で可愛らしい鬼の子供という感じがした。
2つしか違わないが、頭脳の点でも体力の点でもだんぜん引き離すものがあって、
遊ぶというより見捨てられまいと追いかけ回していた。
杏奴は自分よりも劣っている弟を可愛がり優しくいたわり力づけながら、
時々ちょっぴりいじめるという風であった。

僕は家で坊ちゃまと呼ばれるので、男の子はみな坊ちゃまだと思っていた。
森さんの坊ちゃんとして、別世界の人間として、子供は相手にしてくれなかった。
第一言葉が違う、持っている遊び道具が違う。腰巻なんぞ、している子はいない。
男の子も女の子もパンツなしで、自由にしたいところへ小便をしていた。
楽しそうだなあと思っていると、女中が危ないと言って呼びに来る。

僕は父に連れられて小学校へ通った。
下駄箱は決められていたが、いきなり突き飛ばす子供がいたし、
高く掲げられた履物の下をくぐって履き替えをすることが僕には恐ろしかった。
柔らかい父の手につかまって別れを惜しんでいると、
先生が出てきて笑いながら父と僕を引き奈々した。
父に対しては僕を丁寧に扱わなければならず、
丁寧に扱っていてはなかなか離れないので、初めから困らせる存在であった。
それは生存競争の第一歩で、僕の嫌いな学校生活の始まりであった。
「頭に病気がある子が2人いますが、病気がない子では類さんが一番できません」
学校の先生が母に言った。父が偉いのでそれがすごい勢いで広まる。
母がひどく嘆いて、頭に病気があったらどんなに肩身が広いだろう、
病気でありますようにと念じながら医者に連れて行った。
2つの病院へ行ったが医者は病気がないと言ったので、
母は極度の失望から「死なないかなあ、苦しまずに死なないかなあ」と言った。
受持ちの先生が
「類さんのできないのは、あまりにお父様が可愛がるからではないでしょうか」と言った。
「類ができないのは類が怠けるからで、俺が可愛がるからではではない。
小学校の教師に何がわかるものか」と怒っていた。
父は人間に生まれて学問をしないということは、
男女を問わず生きている目的がないも同然に思っていた。
子供のうちはいいがいつかは大人になって酒か女になると言い、
自分の死後の類の将来、またそれを女手一つで育ててゆかなければならない妻のこと
など思うと父の不安は募る一方であった。父がもっと生きていたら、
無理にでも押さえられ何か一つの学問に打ち込むように仕向けられていたが、
それに反抗してまったく絶縁の状態になったか、それはわからない。

ある日玄関先に軍服の上から将校の指揮刀をつった近衛の特務曹長が颯爽と現れた。
子供の目にも細面の美男子で、三角形のきつい目を三角の眉がやわらげていた。
鼻は高く、中ほどの盛り上がった額は立派で涼しげであった。
軍装が頑丈な体格を凛々しくしていた。

パッパの前で食パンを4枚たいらげたとのことでパッパが愉快がったと聞いている。
茉莉のところへ料理の先生が来るようになったのはその頃であった。
この人が茉莉の花婿になる山田珠樹だとはその時はまだ知らなかったが、
よく来ると思った。しばらくすると山田さんの親類という軍人が馬に乗って来た。
それから急に結婚式になった。披露宴は築地の精養軒であった。
官吏で軍人で芸術家である父の全盛と実業家としての山田家の全盛が合して、
金の力で及ばない絢爛が宴を覆っていた。
全部が着席した後から新郎新婦が入ってきて一番前の席に着いた。
お婿さんが颯爽としていて、場内に人気のようなものが溢れていた。
茉莉は優しくおっとりとしたまま父の好みの花嫁衣装を着て、
言われるままに座ったり言われるままに立つうちに宴が進んで、
女学校を出たばかりの17で嫁入りをした。花婿を珠樹義兄さんと言うようになった。
義兄は茉莉と一緒に家に来たし、また招かれて僕たちも山田家へ行った。
向こうへ行ったらむやみに立派だと連発してはいけないと言い含められていたが、
なるほど立派であった。
お父様と言われる暘朔さんはどじょう髭に金縁眼鏡をかけた禿げ頭の人で、
ニコニコしてはいないが一代で財を築いたよくできた人で優しい人に見えた。
普通の奥さんと様子の違うお芳さんという人がいた。
それが暘朔さんの妾で、妻ではなかった。
おっとりとしている茉莉が一つ家の中にいることそのものが、
不調和を通り越した特別な感じを与えていた。
そういう雰囲気の中で茉莉はおとなしくしていたが、
義理の弟や妹から尊重されるというか、当然茉莉の方で持っていなければならない
はずの威厳のようなものをその頃すでに欠いていたようであった。

父の死の間際に「パッパ、死んでは嫌です。死んでは嫌です」と母が嘆き悲しんでいると、
横から賀古鶴所さんが「お黙りなさい」と大喝したという。
あまりの豹変ぶりに返す言葉もなく、
腰が抜けたようになったという母の話を杏奴から聞いた。
観潮楼とその離れとは、たちまち弔問客で混雑した。
於菟と山田の義兄夫婦が洋行中であったから、
弔問客の応接その他いっさいは身内では小金井の叔父と叔母、
他人では賀古鶴所さんが主体となって取り仕切った。
「於菟さんがお帰りになってから相談の上で」という声がしばしばしていた。
父の死の直前までその存在も明らかでなかった兄が、
いないうちから登場して母はただの未亡人になったのである。

〔関東大震災は〕山田の義兄夫婦が帰朝して間もなくのことだったので、
義兄は甥を1人連れて自動車で見舞いに来た。
「森へ行ったら、母さんが子供2人連れてパッパの石像の下に縮こまっていたじゃんか。
あんな危ないところに」と家に帰って話したという。

男の子に屑ができた以上、杏奴に何か仕込んで一人前になってもらわなければ、
死んでも死にきれない。また将来何をするようになっても本物のことを覚えておけば、
決して無駄にならないというのが母の気持であった。
杏奴は美人ではないが感じが良く人に好かれるたちであったから、
縁遠いという種類の女ではない。
料理と裁縫の稽古に通わせて嫁に行くために生きているような方針で暮らしていたら、
10代で片づいていたかもしれなかった。
何か本物のことを仕込みたいという方針が母の趣味に偏したので、
踊りを習うかと思うと油絵の勉強をするという、
常識のある人から見ると脱線して見える結果となった。

日舞の他に太鼓と鼓の稽古も始めた。
帰ってくるとフランス語の家庭教師が待っていた。
杏奴が疲れを見せたのはその頃である。
これではいけない、漠然と杏奴はそう思っていた。
自分が日舞を習っていることに何か根本的な不調和を感じていた。
嫌だとかやめるとか言い出すほどハッキリしたものではない。
もっとも嫌だと言い出した場合の期待を裏切られた母の恐ろしい失望を思うと、
何かが杏奴の唇を閉じてしまった。

ある秋の夜であった。ふと見ると隣に寝ているはずの母と杏奴がいない。
起き上がると、母と杏奴が並んで父のデスマスクに合掌している。
近頃踊りの師匠が杏奴に意地悪をする、杏奴がそれを苦にして衰弱してきた、
考えても理由らしいものが見出されないので、ヒステリーではないかと母が言っている。
しかしせっかくここまで稽古をつけていただいたのだから、
こちらから稽古を断って別の師匠につくことはしたくない、
何とかして師匠のヒステリーが直り、
杏奴が再び稽古に身を入れるようにならないものだろうか。
悩みに悩んだ挙句、
「パッパ、どうぞ師匠のヒステリーが直りますように」と祈っているのであった。
思わず笑うと母がキッとなって、「なんて嫌な子だろう」と言った。
鴎外のデスマスクと踊りの師匠の対照を笑っていけないというのは無理だと思った。

当時二つの心配ごとが母を悩ましていた。
一つは泥棒が入って杏奴が強姦されはしないかということである。
大工を呼び、階段に厚い板で蓋をつけてもらって、階下から二階へは登れないようにした。
もう一つは類に色気が出て女の問題を引き起こしはしないかということであった。
類の顔は実に嫌な顔だが、本当の美男子を知らない女が好く顔である。
通俗的な美男子であるというのが母の見方であった。女中や看護婦に用心していた。
向こうから好かれる気遣いはないが、
類の方から惚れておだてられるとかわいそうだと言うのだ。
「お前、ぐれるんなら西洋でおぐれ」などと言った。

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by vMUGIv | 2013-12-07 00:00 | 明治
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