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by vMUGIv
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森鴎外の子供たち その1

◆長男 森於菟
1890-1967 明治23-昭和42 77歳没

*ドイツに留学


■前妻 林美代 大正05年結婚 短期間で離婚


■後妻 医者原平蔵の娘 富貴 大正07年再婚
1899-1982 明治32-昭和57 83歳没


●真章(マックス) 医者
●富(トム)    医者
●礼於(レオ)   工学者
●樊須(ハンス)  動物学者
●常治(ジョージ) 英文学者


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鴎外の娘 小堀杏奴

大正5年11月12日には兄の最初の妻との見合いがあって、
一同富貴亭へ行ったことが〔鴎外日記に〕記されている。
兄は私が饒舌で行儀が悪いので、
茉莉を連れて行くのはいいが杏奴は困ると言ったそうだが、
父がかわいそうだと言うので連れて行くことになったらしい。
悪戯な子供時代の自分を思い出しておかしかった。

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鴎外の息子 森類

兄は大正5年11月に林美代と結婚したが、まもなく離婚になった。
美代に精神異常の兆しが見えたからである。
茉莉や杏奴が「覚えているでしょう、美代義姉さん。頬も手もふっくらした白い人」
そう言われると派手な布団をかけたコタツに兄と向き合っている人が浮かぶが、
はっきり覚えていない。もちろん披露の宴も知らない。
僕の知っているのは次のお嫁さんが来た時の結婚式である。
宴会は上野精養軒で、子供は杏奴と僕だけであった。
顔にも姿にも余裕がないような狭い感じのする、色白の人であった。

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鴎外の息子 森於菟

家の興隆ということを目当てにして一途に進んできた祖母は、
家の中心となるものは長男であるという信念から
次代の建設を新たに志して私の世話一切を人手にかけず、
読書算術などを幼い時から教え込もうとしいた。
祖母の早教育のおかげで数え年7歳になった私は、
すでに小学1年の過程をおおかた家で済ませていた。
誠之小学校の尋常2年の編入試験を受け及第した。
祖母は毎日私をつれて誠之小学校に通い、
課業中は廊下に立って先生の教えることを見ておき帰ってくると私に復習させた。
私の課業が進んで算術では四則雑題から分数・小数・比例などになり、
また歴史・地理・理科などが出てくると、新しい学問をしない祖母は漸次困難を感じてきた。
しかしそんなことにひるむ祖母ではなく、
私が「お祖母さん、みっともないたらありゃしない」と抗議しても聞かずに、
教室に来ては先生の許しを得て廊下に立ち窓ガラスごしに黒板を見つめていた。
同級生が皆その方へ目をやるので、私は身体を縮ませて恥ずかしがった。

医科大学を卒業した同窓のうち、開業免状をもらってこなかった者は私一人である。
これは父が家の事情のために研究室で仕事の継続することをやめねばならなかったのが
非常に残念であったらしい。そこで彼は自然科学の門に入るように命じたのである。
しかしそれは人並み以上にぼんやりした私にとってはまことにありがた迷惑な命であった。
功名心に燃えている祖母に父の名に恥じぬようにとやたら無性に尻を引っぱたかれて、
学校入学の年齢の規定が現今ほど厳重でなかったのを幸い、
いきなり2年入学、高等小学2年から中学2年というふうに躍進せしめられてきた私は、
最年少者として大学を出た時、やれやれこれで安心とあたかも長年あくせくと
生活のために働いた凡人がようやく小金を貯めて楽隠居になって盆栽か骨董でも
いじくろうかなと思うのとたいした違いのない安易な気持ちに浸っていたところへ、
途方もない大きな仕事を押しつけられるように感じたのである。
しかしこの哀れむべき青年は一言もその父に言い返すことができなかった。
医科を出たのだから医者になるべきだというくらいの考えの精神薄弱者で、
内科はいいが俺の成績ではA内科はもちろんB内科にもC内科にも入局できないから、
X外科くらいのところにしておこうかなくらいで信念ももとよりない。
が、綸言汗の如しでなんとも致し方なく、
開業免状は内務省に金若千円納入すれば否応なしに下付されるが、
いつ使うのかも分からぬものなら面倒臭いや
という投げやりの気持ちで理科大学に入ったのである。
こんな覚悟の人間が最高の純正科学の門に入ったのだから結果は当然みじめなもので、
先生や同窓にも迷惑をかけてさんざん志望を変えてまごついた末、
よくやく動物学科を這い出して医科に帰り解剖学教室の助手に入り、
ようやく自分にも自然科学の仕事ができるという自信を得たので、
初めて落ち着いて学問に精進することを得たのである。

私は明治41年東京帝大の医科大学に入り大正2年最年少者としてこれを卒えたが、
父の意見に従ってすぐ理科大学化学科に入り、
大正3年動物学科に転じ、一年の末に休学したため大正7年にようやくこれを卒業した。
この閲歴の不自然を作る原因はすでに古く、
幼時から祖母は私に望みを嘱して父をお手本に激励して学級をどんどん早く進行させた。
しかし伯楽にも目ちがいがあり父とは異なり私の場合は駑馬に鞭打つようなもので、
もとから元気に乏しい青年がますます疲れてきたのである。
それで私は自分の頭脳に対する不信用から学問を廃そうとし、
一時は生き続ける甲斐もないとまで考えて父に非常な心配をかけた。
医科大学を卒業するまで真面目であった私が、
学業の不成績から自暴自棄に陥って不身持になり、
軽々しい動機からある婦人と無責任な生活をしたことがあった。
そのご間もなく訳があって合意で別れたが、
まだ話のつかぬ期間にその婦人が私のいない時に父の家を訪ねたことがあり、
父はこれをつれて桜の咲く上野公園を散歩した。
折り目正しい母がそれを不都合だと責めたら、
「倅と関係がなくなっても、俺には昔の友人の娘だ。
かわいそうなのでつれて歩いたのが何が悪い」と言ったとのことで、
いかにも父らしい言葉だと思った。

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於菟の妻 森富貴

私どもが結婚したのは大正7年の春、
二人ともまだ学生で於菟は理学部動物学科の在学中でした。
家の事情もあり父たちの住む観潮楼に続く平屋に一人暮らしで、
食事や掃除の世話は八十八じいやがしておりました。
私は卒業も間近いので挙式はその後にと思っておりましたが、
いかにしてもお許しが得られず片づいてしまったのです。
私はごく平凡な家庭に育ったのですべて異なった家風になかなかなじみにくく、
また於菟はお祖母さん子のためかそれとも恥ずかしがり屋なのか
自分から進んであれこれ指図することもなく、
世間でいう亭主関白など薬にしたくもありませんでした。
私も世間慣れぬ田舎娘でお互い面白おかしく話し合うことなどなく、
帰ってくるとつい顕微鏡とプレパラートを机の上に揃えてしまうという調子でした。
小金井の叔母に「まるで家庭教師のような女房だ」とこぼしたとか聞きましたが、
次第に調子も打ち解けて面白いお友たちの真似などをして笑うこともありました。
小金井の叔父の勧めもあり、卒業後は解剖学教室へ助手として勤務することになりました。
ここで於菟の生涯の方針も定まり心持ちも安定したのか、
今まで見られなかった明るい性格となって
随筆などにも飾らない自分の人柄がそのまま出るようになりました。
でも世間では鴎外の息子という目で見られ教室では小金井教授の甥と、
いつもなにか頭に覆いかぶさっているという悩みがあり、
一人前の男として認めてもらえぬ僻みがなかったとは申されませんでした。
随筆にもあるように千駄木を出てから西大久保・谷中と渡り歩き、
とうとう埼玉県大宮公園裏へ私どもの設計で住居を作り落ち着くことになりました。
男ばかりの子供5人が加わり、空気も良く地元の人とも馴染んで5年、
再びここを去らねばならぬことになったのです。
台北大学に医学部が新設されることになり、
解剖学の主任教授にぜひというお薦めをいただいたのです。
まだ新しい家も惜しげなく捨て、昭和11年2月東京駅を出発しました。
万歳万歳の声が遠く消えた時、私どもは思わず顔を見合わせて
申し合わせたようにホッとため息をついたのです。
「ああ、これですべてから逃れることができたのだ」と。
於菟は天駆ける翼を得た鳥のように荒野に初めて鍬を入れる農夫のように、
新しい天地へ新しい学部へ
自分の思い通りの教室を新設しようという希望に燃えたのでした。
私どもは台北に骨を埋める覚悟で、
官舎には入らず住居も自分のものを手に入れたのでした。
ここもまた10年、敗戦となりてすべてを捨てて東京へ引き揚げることになりました。
於菟は表面柔和な性格のように見えてもどこかに一本筋金が通っていたのでしょう、
ここから先は一歩も譲らぬという頑固さがありました。
子供たちにも大きな声で叱ったことはなかったようでしたが、
父親に対してはどの子供も決してわがままを言うことなどできなかったようです。
もちろん私のわがままなど許してくれそうにもありませんでした。

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左から 類 杏奴 茉莉 於菟
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於菟と杏奴
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by vMUGIv | 2013-12-01 00:00 | 明治
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