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by vMUGIv
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谷崎潤一郎 その15

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谷崎家の義理の嫁 渡辺千萬子 『瘋癲老人日記』の颯子のモデル

松子夫人の連れ子清治→松子夫人の妹渡辺重子の養子になる
→高折千萬子と結婚→渡辺千萬子

初めて谷崎に会ったのは、私が19歳で大学へ入ったばかりの頃でした。
松子夫人は自邸でフランスのピアニストの日本風のもてなしを頼まれました。
お茶はまったく出来ないと言われる松子夫人に代って、
知り合いの母がお接待を引き受けて来たのです。お点前は私がすることになりました。
一言の相談もなしにこんなことを承知してきた母に腹を立てていました。
機嫌の悪いままニコリともしないでお点前をしました。
谷崎はその時の印象を「意地の悪そうな娘だと思った」と面白そうに笑っていましたが、
意地悪そうなというのがあるいは谷崎好みであったのでしょうか。
それから2年後にその家の人になるなど、
私はもちろん谷崎さえも夢にも思ってはいなかったでしょう。そんなことがあってから、
松子夫人の長男清治は我が家にも毎日のように遊びに来ていました。
その頃家には父が面倒をみていた医学部の学生が幾人も遊びに来ていて、
私はいずれその中からしかるべき人を養子に迎えて病院の跡をとる
という路線が敷かれているのを察していました。
なんとかしてそれからは逃れたいと思っていましたので、
医者でない唯一の彼は格好の人でした。
やがて結婚という話になって両親はなかなか承知しませんでしたが、
なんといっても後ろに谷崎という強力な人がいたお蔭でこの話は成立しました。
私にとっては結婚に名を借りた家出のようなもので、
この点は今でも清治には少し負い目を感じています。
昭和26年、私たちは結婚しました。私は21歳、まだ大学に在学中でした。

谷崎は3度結婚しています。
3度目の夫人が松子で、政治と恵美子の2人の子供がありました。
私の夫はその清治で、本来ならば谷崎は義理の父つまり舅に当たります。
その時、松子の妹渡辺重子の夫明は他界していて未亡人でした。
子供がなかったので、我々が夫婦養子に入りました。
それで私どもは渡辺姓を名乗ることになったのです。
戸籍上は谷崎は伯父に当たることになりました。
谷崎のことを伯父様、松子を伯母様、重子をお姑様、
恵美子を<恵美ちゃん>と呼んでいました。
私は誰からも<千萬ちゃん>と呼ばれました。お手伝いさんたちは若奥様でした。
娘たをりが生まれてからは、谷崎のことをおじいちゃん、
松子を<おっきいばぁば>、重子を<ちっちゃいばぁば>と呼んでいました。

根津清太郎は松子の前夫、つまり清治の実父です。
私たちが北白川に家を持ってから清太郎は時々来て2、3日泊まっていくようになりました。
それまでは行き来はありませんでしたが、清治が知らせたのでしょうか。
谷崎は清太郎が北白川へ来ることを嫌っていました。
<根津清>といえば船場の大問屋で、満州一円に木綿を商っていました。
やがて不況とまったく商売をかえりみないで
連日大尽遊びをしていた清太郎の商才のなさが元で倒産してしまいました。
そんなに良い物を着ているわけでもなく、
そうかといってみすぼらしい風でもありませんでした。
谷崎はそのような落ちぶれた姿を平気で見せるような
プライドのなさが嫌だったのだと思います。
清太郎はおっとりと鷹揚な態度の人でした。年は取っているもののなかなかの美男子で、
形の良い薄い唇をしていて、若い頃には和製ヴァレンチノと騒がれたのもうなずけます。
その時の妻は息子の清治と同じ年ぐらいの人でした。
その若い奥さんはヤキモチを焼いて、朝7時と夜12時に、
つまり外泊をしていないかを確かめるために毎日電話をかけてきました。
清太郎はそのたびに「こんな時間に電話したら、迷惑かけるやろ」
と柔らかにたしなめていました。

谷崎と松子、恵美子<松子の娘>、渡辺重子<松子の妹>、清治と、
6、7人のお手伝いさんが住んでいました。
その中に突然飛び込んで行ったのですから、なかなか厳しい環境であったと言えます。
一日は母屋へ行くことから始まりました。三度の食事はいつも母屋に通っていたのです。
他の家族は朝が遅くて10時過ぎまで起きてきませんが、
早くから書斎で仕事をしていた谷崎は7時頃から一人で食事をしていたのです。
自然に朝御飯は谷崎と食べることになってしまいました。

朝10時過ぎ頃、姑たちが起き出して朝食がぽつぽつ始まります。
すべての時間が信じられないほどゆっくる進みます。
その日の予定を話したりしているうちに、谷崎や私の早起き組の昼食になるのが常でした。
茶の間には一日中食事が出ていたように思います。
食べることには何よりも熱心は人ですから、主菜は必ず谷崎自身が決めていました。
それに合わせて他の物を決めるのは重子でした。
作るのはお手伝いさんで、ベテランの料理の上手い人が何人かいました。

夕食だけは必ず6時半と決まっていて、
全員が揃っていないと谷崎はご機嫌が悪いのでした。
洋服・着物をちょっと着替えて化粧も直して出なくてはなりません。
谷崎以外は全員女なのですが<夫はまだ帰っていません>、
谷崎は皆に取り巻かれて、食べ物もうんざりするぐらいたくさん出ているとご機嫌でした。

姑たちは映画や買い物には出かけましたが、
掃除・洗濯・料理は全部お手伝いさんがしました。
新聞を読むわけでもなく本を読むこともなく特に趣味もなくて、
来客があったり、たまにお華や漢文とかの先生が来るぐらいでした。
もう一つ不思議なのはお風呂です。「今日はしんどいし、止めとくわ」とよく言って、
2日か3日おきぐらいにしか入りませんでした。

こんな風に昼間はそれぞれの都合で
好きなように買い物に行ったり映画を観に行ったりしていました。
それはいつも松子・重子・恵美子の3人で、時には私もお供しました。
他に実際的なことをする人はいませんでしたから、
私の役目は荷物を持ったりタクシーと止めたりと
普段はお手伝いさんがしているようなことで、なかなか忙しいものでした。
「あのセーター、恵美ちゃんに似合いますよ」などと何気なく言ったこともありましたが、
松子も重子も「そうね」という一言で終わってしまいました。
2、3日すると恵美ちゃんがそれを着ているのを見て、ああ、私と一緒の時に買うと、
私の分も買わなくてはならないから避けたのだとすぐ察しました。
黙ってすっと引き返してそれを買ってくるのは重子です。

会合やご招待の席に行く時の着物や洋服について
「どんな物を着ればいいですか」と尋ねても、全然教えてもらえなくて困りました。
自分たちは着々と新しい着物を誂えているのは人の出入りでわかりました。
私は恥をかかないように全神経を集中していつも気をつけていました。
実家は理想的な家庭でもありませんでしたが、
こんな風に企んで意地悪をされることはなく、初めての経験で一つ一つが驚きでした。
私には姑が、それも性格の非常に違う人が2人いたので、
単純に2倍ではなくて4倍くらいはあったでしょう。

松子と重子、私には姑が2人わけで、松子は賢いしたたかな女性ですが、
どちらがつきあいやすかったかと言えば、日常的には松子の方が楽でした。
例えば食事の時でも「千萬ちゃん、それ取って」と言われます。
「はい」と言って取ればいいわけですが、
重子は黙ってスッと回ってきて取るという風でしたので、
表情に出さない人でしたから意向を察知するのは難しかったです。
重子の絶対的なプライドは『細雪』の雪子のモデルであるということです。
『鍵』の妻も、あの酔っぱらいの様子、酔態は重子です。重子はよくお酒を飲んでいました。
その酔態が『鍵』に書かれているのですが、
もう北白川の頃にはアルコール依存症と言えるほどの状態でした。
朝から台所で見つからないようにコップ酒を飲んでいました。
お酒がなくて料理酒を飲んだという話もあります。
あると思っていたお酒・ビール・ワイン・ブランデーが
いつの間にかなくなっていて足らないのは困りました。
お酒が肝臓に悪かったのでしょう。肝硬変で66歳で亡くなってしまいました。
東京に遺体を安置するところがなく、恵美ちゃんはマンションに入れたくないと言いました。
私が湯河原の家まで送ることになったのです。
すぐに寝台車に乗せられて東名を吉浜へ向かって走りました。
恵美ちゃんを母親代わりに可愛がって育てたのですから
恵美ちゃんについていてほしかったに違いないとか、
あるいは生涯離れることなく暮らした松子に乗ってもらいたかったのでは
とずっと考え続けていました。最後の最後まで心を開くことのなかった嫁に
付き添われての帰宅は、この人の孤独な人生を見るようで胸が痛みました。

『細雪』のヒロイン雪子のモデルだというプライドと、
谷崎に大切にされて愛されているという自信はあっても、表に出ることはかなわず、
いつも松子の陰の第二夫人に甘んじなくてはならなかったのです。
雪子の綺麗で清純なイメージを終生守ることにも必死に頑張っていなくてはならなくて、
そんな抑圧された神経が耐えられずに飲酒が逃げ道になったのではないかと思います。
また、夫渡辺明は松平家の華族の出で、家紋が葵であることもご自慢であったのです。
昭和16年、明43歳、重子33歳の時に結婚しましたが、
昭和24年には明はガンで亡くなりましたから、
離れ離れで暮らすことが多かった結婚生活は短いものだったのです。
谷崎の家は松子と重子がいて、陽と陰、車の両輪のようにして回っていましたから、
重子が亡くなってからは家はもうバラバラ・ガタガタになってしまいました。

谷崎は松子が人妻であったため、
彼女をあきらめて重子と結婚することを考えていたのは事実だと思います。
最初の結婚の時には、気に入っていた姉初子の代りに妹千代と一緒になっています。
自分の愛した人の代りにその縁の人と結ばれるというパターンは、
作品にもよく使われています。
夫婦の部屋の隣に襖一枚へだてて寝るというのは、
それも結婚してからも生涯に渡ってずっとですから、どういう神経かと思うのです。
重子は結婚してからもほとんど谷崎のもとにいて、
夫が北海道へ赴任した時にもついては行きませんでした。
渡辺明、私には舅ですが、アメリカ生活が長く英語も堪能で
料理なども上手であったらしく多趣味多才の人のようでした。
『細雪』の雪子の夫御牧に当たるわけで、松平家の一族の華族でした。
重子にはこうした家柄も大切なことであったのです。
谷崎は重子には非常に気を使って接していました。
いつも3人一緒でしたから「たまには谷崎と2人だけになりたい」などと
松子の愚痴を聞いたこともあります。
逆に重子の方は自分を排除しようとしていると言っていましたから、
2人は反目しているのかと思っていると、
こと私に対しては強力な共同戦線を張っていました。

「千萬子に谷崎の愛を奪われた」と松子が叫ばれたということを、
当時谷崎家に出入りしていた中央公論社の小滝穆氏から聞きました。
それは大変な見当違いで、私はこの次元の低い争いごとにはもううんざりで、
どれに関しても最初から同じ土俵の上にはいませんでした。
小滝氏という方は頭のいい鋭い人でしたが、
ちょっと世の中を斜に見るようなシニカルな性格の持ち主でありました。
自称反松子派で、松子のことを<お松の方>と呼んでいました。
夜中に京都の私のところへよく電話がかかってきました。
谷崎家内部の情報をいろいろ細かく知らせて来ました。
30そこそこの孤立無援の私には唯一の味方であり、有難い情報でした。
松子にしてみれば、重子だけでも『細雪』のモデルということが絶対で
ずっと一緒に暮らさなくてはならない状況は不本意ながらも納得できたでしょう。
そこへまた千萬子という者が現れたのですから、
心底憎らしいと思っても無理からぬことだと思います。
「嫁と姑」「男と女」加えて「モデル」と3つのことが絡み合っているのです。
松子はそれぞれの人にいつも一番良い言葉をかけ、一番良い顔を見せていました。
涙を流すことも止めることも自由自在でした。
その時その時ではそれは嘘ではなく、彼女にしてみれば本気なのです。

『往復書簡』が出版できたのは、私の手元に谷崎に宛てた私の手紙があったからです。
昭和37年頃、谷崎から「君の手紙がこっちにあっては困るだろうから送ります」
と電話がありました。
やがて谷崎自身が人手を借りずに作ったと思われる不細工な小包が送られてきました。
非凡な人は自分の死期を察知して、覚悟の上で
それなりの身仕舞をきちんとするものなのかと改めて身の引き締まる感が致します。
私の手紙が谷崎の手によって秘かに返送されていたことは誰にも言わずにいましたから、
書斎から無くなっていることに気づいた松子と重子は
「千萬子がお通夜の間に書斎から盗み出した」と言っていると、
やはり小滝氏から告げられました。
谷崎の手紙はいつも速達でした。私にも速達にするように言っていました。
速達の手紙は誰にも知られずに
すぐお手伝いさんが書斎に持っていくので都合が良かったのでした。

昭和38年8月21日の手紙に『あなたの仏足石をいただくことが出来ました』とあります。
それは話をしている最中に、突然五体投地のように目の前にバタッとひれ伏して、
頭を踏んでくれと言われた時のことです。
この時の頭と足の裏だけが、谷崎と私が肉体的に接触した初めての、
そして最後の経験でした。
言われるままに踏んだのですが、私は非常に醒めていて冷静であったということです。
片足で立った不安定な姿勢でグラグラしながら、
もしバランスを崩したら大変なことになるなどと心配していました。

私はいろいろおねだりを、ハンドバッグが欲しいとか、誰それの本が欲しいとか、
パールだとかミンクだとかスキーの道具だとか、いろいろ言ってはいますが、
私の頭で考えられる範囲でなるべく谷崎の知らないこと、知らない世界を選んだつもりです。
これに対して、『私はあなたを少しでも余計美しくするのが唯一の生きがいです』
などとまたいつものオーバーな返事であったり、
『僕は君のためならどんな高価な物でも高価とは思いません。
そんな御遠慮は御無用です』と、これまた谷崎らしい表現の書簡があります。

三島へ取材のために同行した時、
ポツンと「いま僕に2億円あったら、全部渡して一人になりたい」と言ったのです。
「一人になって、若い愛人と暮らして、その若い女が男と愛し合うのを見たい」
という話でした。

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[PR]
by vMUGIv | 2011-04-15 00:00 | 大正
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