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by vMUGIv
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谷崎潤一郎 その19

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秘書 伊吹和子

『瘋癲老人日記』で老人は颯子の足の裏の拓本を取る。
実際に先生から足の裏に朱墨を塗られたのはヨシさんであった。
昭和27年頃から谷崎家に来ていたお手伝いさんだが、
至って朗らかな当時二十歳になるかならずの娘さんであった。
今は大阪でデザイナーとして活躍しているヨシさんが語ってくれた回想によれば、
それは彼女が谷崎家に来てまだ日の浅い頃で、
拓本造りは日々飽きもせず繰り返されたということであった。
書斎に着くと先生はまず彼女のソックスを脱がせ、
洗面所の流しで手ずから丁寧に足を洗ってくださり、
指の股までタオルで拭いて高い椅子に腰かけさせ、
自分は時間をかけて硯になみなみと朱墨をお磨りになる。
手伝いましょかと言っても、手出しをするなと言われる。
やがて先生はその足に朱墨を塗りたくって、
色紙を押しつけたり色紙の上を歩かせたりなさった。
「辛抱してたけど、ビチョビチョで気持ち悪いし、触り倒されてこそばいし」
とヨシさんは顔をしかめた。
先生は何度も失敗して、朱墨にまみれた足を洗い直したり拭き取ったりしてくださるが、
「先生はなんぼでも色紙を出してきて次から次へと足の型を押して散らかしはるから、
お座敷中色紙だらけになりました」
先生はしばしば内緒だよと言いながら、
無理矢理何枚かの紙幣をヨシさんの掌にねじ込まれたという。

足の拓本作りに疲れると、先生はうつ伏せになり
「肩と腰をもんでほしい、背中にのってくれないか、ヨシは身体が軽い上に
足のキメがツルツルしていて柔らかでいい気持ちなんだ」とおっしゃった。
仕方なく言われるままに背中に上ると、じっとしていないで足踏みをしておくれと注文される。
足踏みをすると先生は「痛い、痛い、痛いけどいい気持ちだ、
もっと踏んどくれ、もっと踏んどくれ」とおっしゃるので、
ヨシさんは汗をかきながら一生懸命に飛んだり跳ねたりした。
こんなことが毎日続くうちに、なるほど内緒にしておけとおっしゃる通り
朋輩は誰もこんなお相手をしていない様子なのに、
なんで自分だけがこんな目に遭わなければならないのかとくやしくなり、
腹いせの気持ちも込めて先生の背中を踏んだが、余計に先生は嬉しそうになさったと言う。
「そやけど、先生はなんであんなつまらんことして遊びはったんやろね。
上等の色紙やのに、もったいない。あんな足の型なんか、どう考えても使い道あれへんよ」
私は驚いて『瘋癲老人日記』に出てくる大事な場面に
役立ててあるのを読んでいないのかと尋ねると
「ほんま?私、本はもろたけど、初めの方ちょっと覗いただけで、読んでへんねん」

『過酸化マンガン水の夢』の原稿を部分的に筆記したことはよく覚えているという。
映画のお供やその後の食事は楽しかったけれど、書斎でも仕事はイヤで仕方がなかった。
「なんや、こんなややこしいこと。マンガンって何のマジナイや」
と思いながら痺れた足をさすっていましたということであった。
一節書くと、先生の長い沈思のしじまが来る。
「はーい、書きましたよー。次を早う言うて下さいやー」とヨシさんは催促する。
「ええ加減に早うしてください、先生。辛気臭いなあ、もう。私、忙しいのに。
お洗濯かてせんならんし、お風呂場も汚れたあるし」
先生はヨシさんを書斎での格好のペットのように思っておられたらしい。
クリクリして色白の可愛いお転婆さんは、必要以上に緊張することもなく
思うことを遠慮なく口にしたので、かえって楽しいお相手になったのであろう。
「台所の用事をさせないで書斎にずっといさせるのは具合が良くないって
家内が言うもんですからね、どうもそれが困っちまってね」と嘆いておられたが、
ヨシさんは松子夫人から苦情が出て何度か出たり入ったりしていた。
彼女が谷崎家に戻ってくるのは、実家の事情から働かねばならなかったからである。
戻ってくれば元通り、先生はヨシさんをことさら甘えさせて書斎に呼ばれた。
松子夫人にとって愉快であるわけはなかった。

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by vMUGIv | 2011-04-19 00:00 | 大正
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