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by vMUGIv
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谷崎潤一郎 その2

●潤一郎
●1890-1971 精二 英文学者 郁子と結婚死別、富士子と再婚
●1893-1988 得三 小泉得三となる
●1896-1911 園子 早逝
●1899-1994 伊勢 中西周輔と結婚離婚、林貞一と再婚 ブラジルに移民
●1902-?   末子 水間氏と結婚離婚、<張幸>店主河田幸太郎と再婚
●1908-1990 終平


左潤一郎 右精二
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伊勢
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末子
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終平
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谷崎の弟 谷崎終平

谷崎というのは母方の姓で、父方は江沢といった。
江沢は玉川屋という酒屋で、
長兄は藤右衛門・次兄は久兵衛・父は末弟倉五郎で男ばかりの三人兄弟である。
谷崎の祖父には三女四男があり、
女子は長女花・二女半・三女関といい私どもの母は三女の関だ。
久兵衛は花と、倉五郎は関と結婚した。
つまり兄弟二人して谷崎の姉妹の婿養子になったのだ。
なぜ兄弟二人して江沢から婿に来たかというと、
早くに両親に死別、後見人の男に商売をいいようにされ、お定まりの使い込みもされ、
さしもの玉川屋の身代も傾きかけ、谷崎の祖父は玉川屋に金融をしてやっていた関係から
借金のカタのようにして二人して養子に来たらしい。

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谷崎の妹 林伊勢

母は父と一緒になる前の娘の頃、娘番付の大関に座らされたり、
江戸最後の浮世絵師芳年が似顔絵を描いたという噂も伝わっているほどの美人であった
と言われているが、まったくのお嬢さん育ちで御飯も満足に炊けず、
貧乏のどん底に落ちた時でも女中は手放さなかった。

私たちは7人兄妹で、私の母はそれだけの子持ちでありながら一人の子の乳もでなかった。
長兄と次兄の時はまだ豊かであったから
一人ずつ乳母を置いて母の手許で育てることができたが、
三兄が生まれた頃にはもう我が家は傾いていて三兄は大きな薬種屋へ里子に出された。
長姉の方は初めての女の子で珍しくあり手放すにはしのびず、
末弟はまた両親が年取ってからの子であったので
やはり手放すことができなかったのであろう。2人とも母が人工栄養で育て、
真ん中の3人、三兄と私と妹が結局里子に出されたのであった。

私は長兄の庇護をずいぶんと受けてきた。
と同時に次兄からも長兄と同じように庇護を受けてきた。
私は母が美人であったに関わらず母に似ず醜い女であり、
それがコンプレックスになって長兄の好みに合わない私は
自然に長兄から離れるようになっていたのである。
そんなわけで、私は何でもまず次兄に打ち明け相談の相手になってもらった。
ブラジルに来てから後も、
次兄は人知れぬ苦しみを重ねている私に絶えず励ましの手紙をくれ続けていた。
長兄に対して私を日本に呼び戻し、私を兄弟の手に引き取ることを求める手紙も出してくれていた。
長兄が次兄に宛てた手紙からは、
二人の兄達の間で私についてどのような言葉の応酬がなされたかも読み取れた。
とうとう二人は義絶までしていた。
遠いブラジルにいて私はそうしたことは何ひとつ知らなかったのであった。

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谷崎の弟 谷崎終平

井伏鱒二先生が谷崎の兄弟を評して
「精二が一番変わっていて、次にまともなのが潤一郎で、終平が一番まともだ」

母は大変な神経質で怖がりで迷信深かった。
長兄が地震嫌いなのは母の影響と思われる。
若い頃神経衰弱だったのも、母の血をひいた神経症と思われる。
次兄は乗り物恐怖症に長い間悩まされていた。
長兄がなぜ自宅で家人に散髪をしてもらうかと言えば、
若い時に人力車から逆さに落とされたことがあって、
それ以来理髪店の後ろに倒れる椅子が怖くて行かれず自宅散髪になったのだ。

長兄はそそっかしくて不器用でもあった。
万年筆が壊れたというので見ると、ただインクが無くなっていただけだった。
写真機を買ったのはいいが、どうしてもファインダーをのぞくコツが掴めない人で
たまには水平にも保てなかった。
本人は器用な奴は出世しないとうそぶいていた。

私のきょうだいは4人とも初婚はうまくいかなかった。
次兄〔精二〕は母校の教師になる前、新聞社にいて職場結婚だった。
兄嫁〔邦子〕の方は次兄は良家の子弟だし大学の先生だと思って仕えていたと思うが、
次兄は結婚してみて失望したようだ。
速記もできタイピストであった、蒼白というほど色白でソバカスのある
ちょっと日本人離れの面立ちだった兄嫁を叱ったのは、天理教の信者だということなのだ。
無知な人間が信仰するものだと次兄が言えば、兄嫁は大学の先生でも信者がいるという。
繰り返し繰り返しそれについての夫婦の争いを嘆いた。
私はそんなことで暗い次兄の家庭がたまらなかった。
そんなに仲の悪い夫婦なのに、なぜ子供が3人もいるのだと私は思った。
次兄は嫁の母親をひどく嫌った。
ちょっと陰気な人だし、天理教の熱心な信者だったのでなおさら嫌だったのか。
この人がガンで病院で亡くなった時、次兄は家へは引き取らぬと拒絶した。
兄嫁は姉妹二人の長女だから困ったことだろう。
幸い妹はYという洋画家のクリスチャンと結婚して暮らしていた。
決して豊かな暮らしではなかったが、この人たちが引き取ってくれたのだ。
私は兄嫁と二人で牛込から池袋までその遺骸を寝台車で押して行った。
青白いガス燈が一個ほどついているだけだった。あとは真っ暗な夜道である。
不和とは悲しいものだ。この兄嫁も後に早死にした。
その妹も早逝した。けれど優しい夫に愛されただけ妹の方が幸せであった。
次兄はその後、家柄のいい人〔富士子〕と再婚して第二の人生では幸せに暮らした。

私の姉伊勢も前夫の中西と一緒に2人の子供をつれてブラジルに渡った。
伊勢はブラジルで中西と別れてから色々苦労を重ねた挙句に、
林という人と再婚してからはなんとか幸せになった。
次兄と大変ウマがあって、
頭は良いが文学少女で口に唾をためてよく次兄としきりに議論していた。
長兄の方は無口だから、伊勢より身体つきまで似ていた末子の方とウマがあったようだ。
小心な私はいまでもこの姉に不快を感じる。
伊勢のために長兄・次兄の絶交事件が起き、私は学業を放棄する羽目になったのだ。
こっちの都合も考えず、
勝手な時に自分の方はなにかと用事をブラジルから申し込んでくるのだから。
勝手者のところが好きになれない。自分にとって好都合のことばかりしか考えぬ人だ。

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作家 石川達三

昭和30年代、石川達三は和歌山市の旅館に泊まる。

私は旅館を出ようとして玄関で車を待っていた。
そのとき中年の女中がそっと私に囁いた。
「先生、そこの玄関に年寄りの下足番がおりますでしょう。
あの人、谷崎潤一郎の弟ですって。本当でしょうか?」
その玄関にいた下足番の老人は痩せて背丈が高くて少し猫背だった。
潤一郎とは身体つきがまるで違っている。
しかし、谷崎精二先生がフラリとそこに現れたと思うほど似ているのだった。
けれども私は、この老人のためにも谷崎潤一郎氏や精二先生のためにも
証言めいたことは言いたくなかった。
「さあ、どうだかな。人はいろんなことを言うからね」
私はそんな風に言葉を濁してしまったが、
気味が悪いほど精二先生に似ていたその人の面影だけは覚えている。

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谷崎の妹 林伊勢

石川氏が推察した通りこの老人は潤一郎・精二の本当の弟であり、
私にとっては三番目の兄であった。
実家にもう一人行方不明になっている兄がいるということを聞いたのは、
私が12、3の時であった。
母は「かわいそうにね。
朝鮮に行ったとかいう話も聞いたけれども、今頃はどうしているかしら」
父は父で「なんだなあ、人間はいくら貧乏しても親子兄妹一緒に暮らすに限るなあ」

三兄の養家は養母が亡くなってから養父が酒に身を持ち崩し、
家業も家屋敷もたちまち手放さねばならぬことになった。
三兄は大きな店に奉公に出された。
朋輩の中に悪いのがいて、三兄は誘われるままに朋輩たちと料理屋で一緒に飲食をした。
ところがその遊興費は、一人の悪い朋輩が主家の商品を持ち出して作った金であった。
それが表沙汰になり、一緒に飲食した全部が警察に捕えられた。
まだ15、6でしかなかった三兄も、どれほどかの刑を科せられたのである。
三兄たちが私たちの前から姿を消したのはその時からであった。

三兄が行方不明になってからかれこれ20年近くが過ぎた。父も母ももう亡くなっていた。
私が前夫のところから2人の子供をつれて
長兄のところへ逃げて帰っていた時のことであったが、
いつものように郵便物を選り分けていると、
同名異人でない限り母から聞いていた三兄からの手紙があることに気づいた。
私はそれを手にするとすぐ兄嫁のところへ飛んで行った。朝の遅い長兄はまだ寝ていた。

「お伊勢ちゃん、やっぱりそうだってよ。2、3日うちにここに来るそうよ」
兄嫁も自分のことのように目を輝かせて私に言ってくれた。
その人は、鉄無地の夏羽織に同じような色の細い縞の単衣を着て角帯を締めていた。
ちょうど妹も弟もいた時で、一人一人長兄から引き合わされた。
兄嫁が「お父さんそっくり」とひとこと言った。兄弟中で三兄は一番亡くなった父に似ていた。
ちょっと照れてはにかんだように笑う時の笑顔は父そっくりであった。
私たちが三兄から聞いた話はなんとも痛ましいものであった。
長い20年がただ逃走の明け暮れというより他はなかった。
幸いに本心は実直な人間であったので、職場に困ることはなかったようであった。
転々として40近いその日まで独り身で過ごして来たのであった。

三兄はまた姿を消した。
私が昭和36年に長兄の病気見舞いに日本へ行った時には、
再び消息がわかるようになっていた。
「ああ、あれは今和歌の浦の宿屋にいるよ。
もう年を取って働けないから老人ホームへ入りたいというので入れようと思う。
だがはっきり返事をしないんだ。どうも女がいるらしいんだ。
結婚しているなら夫婦で入ればいいんだが、
あいつが小金を貯めているんでそれが目当てなんじゃないかなんていう話もあるし、
なんだかわからない女の面倒をみるのは嫌だからね」
私が日本に滞在している間には結果は出なかった。
ブラジルに帰って1年ばかりが過ぎた時、三兄から便りがあった。
住所を見ると老人ホームの名が書いてあった。
それで長兄との話がついたのだと私にわかった。
生涯の落ち着くところを持つことのできた三兄の幸せを、
私自身の幸せのように嬉しく思った。
晩年の長兄が自分の死を前にして、
そこまで三兄のことを考えてくれたことに私は心から手を合わせた。

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by vMUGIv | 2011-04-02 00:00 | 大正
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