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by vMUGIv
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太宰治 その2

●タマ  平山良太郎を婿養子に迎えるが、本人死別
●トシ  津島市太郎夫人 
●文治  早稲田大学卒業 岡崎レイと結婚
●英治  東京の商業学校卒業 タカと結婚
●圭治  東京美術学校卒業後病死
●アイ  津島正雄夫人
●キョウ 小館貞一夫人 貞一の弟に小館保、小館善四郎がいる
●修治  太宰治
●礼治  中学時代に病死




●タマ  平山良太郎を婿養子に迎えるが、本人死別
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●トシ  津島市太郎夫人 
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●文治  早稲田大学卒業 岡崎レイと結婚
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●英治  東京の商業学校卒業 タカと結婚
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●圭治  東京美術学校卒業後病死
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●アイ  津島正雄夫人
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●キョウ 小館貞一夫人 貞一の弟に小館保、小館善四郎がいる
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立つ2人左から 父 タマの夫良太郎
座る4人左から トシ 母 叔母キエ タマ 
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左から アイ 太宰 いとこ キョウ 甥 礼治
手前 トシ
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左から 圭治 文治 父 英治
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左から アイ 太宰 キョウ 礼治 圭治
手前 母
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左から 圭治 礼治 文治 太宰 英治
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立つ左から いとこ 甥 礼治 文治 英治 太宰
椅子左から キョウ 不明 叔母キエ 祖母イシ 母 トシ 文治夫人レイ
床 左端は英治夫人タカ 右端はアイ
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津島家の元下男 小林与助

その夜、弔問客の波が引いた津島家の大広間には、
文治と年老いた与助の二人だけが残った。棺の前で二人はしばらく黙っていた。
やがて文治の肩が震え出し、与助の膝に突っ伏した。
「どど〔爺や〕、これからどうして持って行ったらいいだべな」
無理もない。文治はまだ大学を卒業したばかりなのだから。
「文治さんが泣いたのは初めて見たじゃ。その後だば、なんも見たことあない」
「ワ〔自分〕は親から預かったこれだけの財産をどうやって保つかが苦労でならん」
と家人によくもらしたという。

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青森中学時代の友人 外崎美智雄

地元ではヤマゲン〔津島家の屋号〕は権威の権化。
私らは理屈抜きにおっかなくて、あの家には近寄れなかった。
文治さんはその権威を守るのに精いっぱいだったでしょうね。
修ちゃんも窮屈で仕方がなかった。けれどその気持ちを真っ直ぐには表現できない。
目が届かない外では、欲求不満が爆発してハメをはずしたのではないかと
私はそう思っているんですよ。

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津島家から依頼を受けた太宰の御目付役は2人いた。
青森県在住の出入りの呉服屋中畑慶吉と東京在住の出入りの洋服屋北芳四郎である。
2人は連携して太宰が亡くなるまで尻拭いに奔走した。

青森在住の太宰の御目付役 中畑慶吉

私は太宰の御両親に大きな恩恵を受けております。
津島家に出入りし始めたのは18、9の頃だったでしょう。
その恩の何分の一でも返せたらと思って、
また身内の方が表立って太宰の世話を焼いてやれない苦しい立場を慮って、
あれこれとなく相談に乗ってやり忠告していたのです。

北さんだってそうです。北芳四郎さんという方は、
文治さんが早稲田におられた頃洋服屋をやっていた人で大変面倒見がいい人です。
やはり父源右衛門さんがその性格を見込んで、
この人なら東京遊学中の子弟たちの相談に乗ってもらえそうだということから
津島家のために奔走してくれるようになったのです。江戸っ子と言うんでしょうか、
頑固でへそ曲りでしみったれたことが大嫌いな、それはそれは気持ちのいい方です。
そうでなければ、私もウマが合わなかったでしょう。

文治さんが太宰に対して冷たいのではないかと考えている人に
誤解のないよう特記しておきます。当時文治さんは太宰に対して厳格でありました。
文治さんはすべてのことを呑み込んでおりました。
太宰のことだって、ああもしてやりたいこうもしてやりたいと思っていたのでしょう。
しかし田舎というもの、特にヤマゲン〔津島家の屋号〕という家は、
それを表立ってやれる立場の家ではなかった。
だから私に「なんでも中畑君が気の済むように解決してやってくれ」
と常々言われていたんです。

太宰が戦災に遭って郷里に疎開した時、
彼としてはいくら生家とはいえ過去を考えると気兼ねがあったのでしょう。
しかし津島家の人たちは太宰や太宰の家族に対して愛情を秘めた態度で接しておりました。
例えば物資不足の折にもかかわらず、
文治さんの奥さんは太宰が酒やタバコを切らさないように気を配っておられました。
文治さん御夫妻は本来文芸に対する理解がある方です。
そうでなければ一人息子の康一さんが役者になるというのも許すはずもないし、
康一さんの青森公演の折には二人でいらして舞台を見やるということもないはずです。

津島一家のご兄弟たちは皆さん芸術好きで、文治さんにしたところで
早稲田の学生の頃は素人芝居をやったり創作をやったりした文学青年なんです。
これは源右衛門様の出られた松木さん〔婿養子だった父源右衛門の実家〕の家の
家風というか遺伝のようなものなんです。この松木家の影響というものを
太宰の研究家の先生方は案外見落としていらっしゃるんじゃないでしょうか。

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太宰の兄 津島文治

太宰が死んでからもう25年にもなりますか。
本当に世間にご迷惑をかけて申し訳ないというのが私の偽らざる気持ちです。
とにかくああいう大将が一家から出ますと、一族の者は弱ってしまいます。
『右大臣実朝』にはいくらなんでも家のことや私のことは出てこないだろうと
思って読んだのですが、やっぱり出てきたので閉口した記憶があります。
家のことに触れている箇所にくると「あっ、またここで修治のヤツに一発やられている」
などと思ったものです。

修治とても最初から不良だったわけではありません。
正直わしら5人の兄弟の中で学業は一番できました。
ですから親にしてみれば憎かろうはずがなく、
特に父は修治、修治と言って可愛がっておりました。
小学校は無欠席・優等で通し青森中学でも良い成績を残して弘前高校へ進んだのですが、
弘高で不良性が芽生え、左翼運動に走ったり<桃色>に狂ったりしたのです。
しかし大学に入るまでは身体は丈夫でした。
本格的な不良ぶりを発揮するようになってから、胸の病気、
俗に言うところの<親不孝病>になったわけです。

自分の生家のことを大仰に言うつもりはありませんが、
地方でかなり名の知れた家から極道者が出るということは本当につらいことでした。
これでも当時の家長としてはかなりの理解を持っていたつもりです。
ところが修治は、その理解をはるかに超えたところで行動し事件を起こし続けてきたのです。
高校時代の修治は人並みに左翼思想にかぶれ茶屋酒の味を覚え
戯作の世界にのめりこんでいたとはいえ、とにかく卒業してくれました。
そんな修治でも、東京へ出たら自分で自己を修正し
真面目に文学なら文学を勉強してくれると考えていました。
結果は皆さんよくご存じの体たらくで、まことに若い家長の手に余る存在でございました。

修治のことで中畑慶吉君〔青森在住の御目付役〕に厄介をかけるようになったきっかけは、
いわゆる鎌倉事件です。
とにかく何でも相談に乗ってくれたものです。困ったことはよく慶吉さんに頼んだなあ。
鎌倉で一件を処理して帰ってきた中畑君の話では、
どんな男が出てくるのかヒヤヒヤしていたということです。
つまりこちらは先方の身内を殺しているわけですから、
「この始末どうしてくれる!」とすごまれてもどうしようもなかったのです。
修治のヤツすったもんだやった挙句、初代と一緒にすることに決めたのに、
また事件をやったわけです。初代には本当に気の毒しました。

修治が初代と一緒になってからしばらくして、彼がうまくやってくれて
無事に大学を終えてくれたらいいと考えていたものですから、
身柄を郷土出身の飛鳥定城様〔当時東京日日新聞記者〕の所へ預けました。
2階へ置いてもらって監督していただけたらと思ったのです。
ところがついに定城様も「ハァー、俺の手には負えない」とおっしゃいました。
定城様ほどのお方の手に負えないならば、もう施しようがないと思いましたなあ。

左翼運動のことといい、初代のことといい、鎌倉の情死騒ぎといい、
心配をかけっぱなしの太宰ですが、何といっても一番驚かされたのは麻薬の時でした。
驚天したなあ、あの時は。
修治の入院の際に初めて脳病院という所に行って、
その悲惨な患者たちを見て大変なことになったと慌てました。
修治は結局、畳の上では往生しないと思うようになりました。
彼が玉川上水に入水して行方不明になったと聞いた時、私はかねて覚悟していた
畳以外での往生がいよいよになるんだと感慨ひとしおでございました。

疎開中のことで鮮明に覚えているのは、よく印刷物が来ていたことかな。
ファンの方とか本とか雑誌社からの連絡とか、毎日驚くほど舞い込んでまいりましたな。
修治はえらくもててるんだなあと思いましたよ。
彼の部屋とは離れていましたし、メシの時ぐらいしか顔を合わせませんでした。
もちろん太宰の部屋に入ったこともありません。かと言って喧嘩をしたこともありません。
彼に向って口汚く罵ったり、バカヤローなんて言ったことないなあ。
姉のキョウが嫁に行った先は、私の家と4、5軒しか離れていません。
修治はここへよく行っていたようですよ。
私の家で一杯ひっかけて出かけて行き、笑いながら話してくるらしいのです。
ご機嫌になった修治は何か書くものを借りて字を書くらしいんです。
「あと20年も経てば大変な値を呼ぶから大事にしまっておけ」なんてホラをふくそうです。
「昨日は<修ちゃ>が来て、大ボラふいて、えらい機嫌でありました」
なんて彼女はよく話していましたっけ。
太宰はキョウにはよく便りをしていたようです。。
彼の手紙というのは「反省している」とか「立派にやっている」とか、
まるで聖人君主になったような文句が多いのです。
「修ちゃの手紙は手紙ではなくて、まるで小説だ」とキョウと中畑君と私の3人が集まって
彼の手紙を読んでよく笑い合ったものです。

太宰の遺児の教育等について、美知子から相談というものは特にありませんでした。
下の里子は、早く亡くなったわしらの弟の礼治によく似とります。
上の園子は私に似ておりますな。みんな一目見ればすぐわかります。
太田治子も、わしら兄弟にそっくりです。

話を終わらせていただくにあたって、
改めて修治が世間様に与えた御迷惑をお詫びさせていただくとともに、
御世話になった幾多の方々へ厚く深く御礼を述べさせていただきます。

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by vMUGIv | 2011-05-02 00:00 | 昭和戦前
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