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by vMUGIv
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澁澤龍彦 その5

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澁澤の前妻 矢川澄子

戦災に焼け出され、稼ぎ手である父を失い、
自身は肺疾を病むといった重ね重ねのマイナスの接点に少年はいた。
そのような劣悪な条件の中で、少年はよけい美しく光り輝いて見えた。
その光にひとたび魅せられた以上、彼の求めを拒むいわれが少しでもあったろうか。
さしあたって嫌なのは産婦人科の門をくぐることだけだった。
それさえ目をつむってしまえば、二人はまたもとの楽しい蜜月に戻れるのだった。
彼が付き添ってくれる限り、この手術台までの道行きはものの数でもなかった。
彼は決まってその場に居合わせてくれた。麻酔切れの目覚めのたびに、
彼女がまず仰いだものは彼の顔であり、耳にしたのは彼の声であった。
「気がついた? ああ、よかった」というその声。ほっとしたそのまなざし。
「ごめんね」
とまたしても彼女をそんな目に遭わせなくてはならなくなるたびに彼は言うのだった。
それだけでもう充分だった。

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澁澤の前妻 矢川澄子

Q 澁澤さんが矢川さんに何度も中絶させているのが納得できないんですが。

A 自分の中で結婚時代にいろいろ疑問に感じてたことがワッと言葉になったんだけど、
目の前に彼がいたら全然ダメなんですよ。考える暇もないというか。
向こうの笛に踊らされてるだけで、楽しくってしようがなくて。
でもちょっとこのままでは、やっぱり何かちょっとおかしいなと思って。

Q 事前に避妊するというのをお互いにしなかったんですか?

A だって二人がいつそういう気分に陥るかというのは、まったく交通事故みたいなもので、
神のみぞ知ることでしょ。だからそのために前もって準備をしておくなんていうのは、
その方がよっぽど猥褻だと思って。

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矢川澄子の東京女子大時代からの友人・詩人・翻訳家 多田智満子

書くこと、表現することは、彼女にとってひとつの救い、解放だったでしょう。
澁澤さんと結婚している間は支え役に回って自分の仕事はできなかったし、
素晴らしい文学修業にはなったはずだけれど、
あれだけ尽くしたのにという思いはあるでしょう。
女として忍びないことを何回もしていてそれも非常につらかったと思うし、
そんなことをしないで済むように手が打てなかったかと思うけどそれをしなかった。
一度だけハッとするようなことを言ったことがあります。
「女に子供を産むことを許さないのなら、男は射精すべきではないわよ」
これは痛烈な本音でした。
やはり子供が欲しかったのだと思いますし、実際に養子縁組も考えてきたようです。

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澁澤の前妻 矢川澄子

最近も当時の知人が、夫と私のことを一卵性双生児のようだったと評してくれたが、
それほどの相手となぜ別れる気になったか。
疑問を口にできなかった自分の優柔不断のためと言ってよい。
二十代半ばから四十直前まで続いたこの生活で、
最大の皮肉は二人が親にならなかったことだった。

新居の書斎で彼は雑誌のインタビューに応じていた。
「タテの関係は一切ごめんというのが僕の主義なんだ。
子供はかすがいだなんて、そんなもの無い方がいい。精神の絆の方がよっぽど強い」
半月ほどしてその記事が活字になった時、そこにはこんなコメントが添えられていた。
<彼らは意志の力で子供を作らずにいる。まれに見る理想的なカップルである・・・>
彼女はそれを見た時、あ、この人ずるいなと、秘かにしかしはっきりと思ったのだ。
子供を持たずに済んでいるのは断じて意志の力ゆえではなかった。
彼女がその後始末を引き受けない限りタテの関係は発生していたはずであり、
主義の貫徹のために血を流すのは一方的に彼女の側だったのだ。

彼女はこの時感じた疑問を彼にはついに言わなかった。
言わなかったというより言えなかった。
彼ら夫婦のありようを根底から揺るがしかねない大問題であったからだ。
しかし、この疑問をわざと避けて通っているという忸怩たる思いは、
いつまでも解けやらずに彼女の胸に残った。かけがえのない伴侶であるはずの彼と、
こんなに大事な問題を語り合うことを自分は忌避しているのだ。
それもただただ、目の前の毎日が明るく翳りなく快く過ごせればという卑小な目的のために。
自分はいつからこんなところで浅ましくも満足するように成り果てたのか。

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澁澤の前妻 矢川澄子

彼は自分の好きな物のことを彼女に話すのが好きで、
その時々の彼の心を魅きつけてやまない物のことを熱っぽく語った。
好き勝手の及ぶ範囲はやがて女性にまで拡がってゆき、
一時はある人にかなりうつつを抜かしたりもしていた。
お前のところに戻ってこなくては意味がない、
僕の体験はお前に報告して初めて完結したものになるんだよ。
聞いて、ねえ聞いてよ。子供が外で見聞きしてきたことを、
帰るなり母親に逐一披露しなくては気が済まないのにも似ていた。
彼女は、もうじき飽きて終わるんだからという彼の言葉を信じ、
どこにも行っちゃ嫌だよという彼の頼みに従い、
同居の母の目をくらますことに加担したりもしていたのだ。

彼が初めて彼女以外の女に手を触れた時のこと。
ほとんど死にも匹敵するあの悲しみを、なぜ正直に悲しまなかったのか。
姑に心配をかけまいというだけで必死に平気を装うしかなかったのだ。
そこへいくと彼ははるかに真当で正直だった。
彼女が彼以外の男に救いを求めたというだけで、彼は混乱と同様の極みに達し、
あられもなく号泣することで、母親に一生一代の心痛をもたらす結果となったのだから。

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作家 高橋たか子

1968年の春だったと思うが、
澄子さんが突然不意打ちに澁澤家を出ていかれ、私はびっくり仰天した。
澁澤龍彦はびっくり仰天というより、ショックで大声を立てて泣いた。
「澄子がいなくなった」と。

澄子さんは谷川雁と結婚するのだと幸せな顔だった。
子供が産みたいと言っておられた澄子さんは、
谷川の子供を産むことを楽しみにしておられた。
二人は結婚なさったのだとずっと私は思い込んでいた。
東京から黒姫山へ移ったとの通知状が来た時も、そこが二人の新居だろうと思った。
通知状に書かれている電話番号に電話し、
結婚とか新居とか話題にしたが澄子さんの声は曖昧だった。
結婚せず、同棲でもなかった。なぜそんなふうな成り行きになったのか。

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澁澤の前妻 矢川澄子

自分の心にそれほどの隙間がいつの間にか生じていようとは
彼女自身もまったく思いもよらなかった。
彼と一緒に暮らすようになって10年、病気ともオサラバでき、
子供を作らなかった代りに念願の家を建て、ようやく巡ってきたゆとりの季節に、
今度は二人して計画した初めてのヨーロッパ行きというお楽しみが目前に控えていた。
すべてが順調に整ってきたかに見えたこの夫婦に、いったい何が起こったのだろう。
彼女はただ懐かしいものに図らずも巡り逢ってしまっただけだ。
それは響きであり、声であった。

父親のそれとそっくり同じ訛りを持つ男の声。
声音がそっくりならば、言うことも父親とそっくりだった。
なぜならその男は、彼女が今まで無理をして子供を持たずにきたことを知ると
たちどころに眉根を曇らせて言い出したのだ。
「そんなのおかしいよ、やめなさい。俺といっしょに赤ん坊作ろうよ」
夫のそれとはまるで異なる高みから響く声であった。

「よく来たね」 その一言が番狂わせの始まりでした。
「もう帰さない。たとえ10年がかりであろうと、最終的に一緒に暮らせる態勢へ持っていく」

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by vMUGIv | 2011-07-05 00:00 | 昭和戦後
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