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by vMUGIv
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三島由紀夫 その7

◆29歳~32歳 熱愛時代

★豊田貞子 赤坂の高級料亭<若林>の娘 『沈める滝』の顕子のモデル

*昭和29年7月、
三島は歌舞伎座の中村歌右衛門の楽屋にて挨拶に来ていた貞子を見初める。

*三島と離別後、財閥系御曹司で放送局勤務の後藤氏と結婚。


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最初で最後の恋人 豊田貞子

公威さんに会った時、わたくしは19歳でした。戦後間もない頃ですから、
学校を卒業した娘がどこかに就職するなんてことは
わたくしたちの周囲では珍しいことでしたから、
花嫁修業という形で同級生のお友達と毎日遊んでばかりいました。

実家にいた頃は、毎日のように出入りの呉服屋が二軒、
お互いに重ならないようにわたくしの部屋へ来るわけですよ。
それに着物や帯だけというわけにはいきませんからね。
襦袢に衿、帯揚げ、腰紐もありますから、そういったものは京都で誂えるんですが、
その東京の番頭を呼んで綸子の色や柄、絞りの具合なんかを
細かくいわなくちゃならないし、お昼頃には髪結いさんに行かなければならないから、
それまでに呉服屋とのやりとりを済ませなければならないわけです。
日課ですね、ほとんど(笑)

公威さんに言われるままに日ごとに会いに出かけたのも、
恋を知り染めた若い女らしい情熱なんかではなく、
小学生が朝になれば顔を洗って歯を磨いて鞄を提げて学校に通うのと同じように、
昼になれば髪結いさんへ行って、着物を着て、車を呼んで、
指定された待ち合せの場所へ出かけていた気がしてならないんですの。

当時のわたくしは世間知らずで殿方といえば
ウチの御客様のような方々の他は知りませんし、10歳も離れておりますから
わたくしの目からはもう立派なおじさんにしか見えませんでしたから、
まさか彼が御勘定を気にしながら遊んでいるとは思いもよらぬことで。
公威さんの名前だってすでに世の中では知られておりましたから、
その程度の御小遣いにも事欠くような境遇にあったとはまるで気が付かなかったのです。
あの頃の公威さんに、わたくしに会うために無理をさせて本当に気の毒なことをしました。

公威さんからの贈り物ですか? いつも<和光>かなにかで、
他に良い物もあるのによりによってわたくしが絶対に持たないような、
変な色のコンパクトとかをくれるので内心では迷惑していました(笑)
次に会う時に持って行かないんですから気づいてくれてもいいはずなのに、
そのあたりは男ですね、懲りずに同じような調子の物を買って来るんですから。

とにかく公威さんは元気で、この人いつ寝てるのかしらと不思議に思うほどでした。
ボディビルの稽古を始めたのもこの頃でしたよ。筋張った身体なんかになるよりも、
女のわたくしから見て公威さんの容貌で良かったところは
澄んだ目としなやかで形の良い指でしたのに、馬鹿よねえ・・・。
よせばいいのに当人はなんだか大変に張り切っていました。もちろんお仕事もですよ。
「おもしろいほど、書けて書けて、仕方がないんだ」
って言うのが当時の公威さんの口癖でしたもの。

窓越しに賑やかな太鼓が聞こえ始め、様子の変わった船が行き交うのが見えますので、
お店の人に聞きましたの。そうしましたらお施餓鬼の舟だと言うでしょう。
公威さんもめずらしそうにみていました。それからホテルに帰って
公威さんは朝まで書いていました。それがあの『施餓鬼舟』という小説です。
あれくらいの分量のものは本当に一晩で書き上げてましたね。

わたくしの着物が彼にはよほどめずらしいらしく、
柄やら生地についてまるで子供が聞くようなことを問われました。
その後も始終、帯だの紐だの下着のことまで細かく質問されました。
その日に着ているものについて、それはなんて色なの?生地はなんなの?その模様は、
なんてことをちょいちょい聞いてくるんです。

公威さんから初めて小説のことで相談がありました。
公威さんから尋ねられるまですっかり忘れていたのですが、当時ウチにいた女中から聞いた
大阪の願掛けの話をあの人にしゃべったことがあったらしいんですね。
その話を覚えていて、短い小説にしたいんだけど、どうかなって聞かれたわけです。
公威さんの心づもりでは、大阪ではなく赤坂を舞台にしようと思っていたらしいんですね。
ですから「赤坂は坂道ばかりで橋といっても弁慶橋ぐらいしかありませんからだめですよ。
同じことなら新橋の花柳界になさったら」って教えてあげましたの。
でもこの時にやっと気づいたことは、
これまでだってわたくしがなんのつもりもなく話していることを
小説家の興味を持って聞いていたこともあったかもしれない、
これから気をつけなければとおそまきながら思うようになりましたね。

公威さんとのことがわたくしの心の中で重荷になり始めたのは、
この頃からだと思うんですが。わたくしの身のまわりのことも、
いつの間にかすぐ小説になったりしますしね。迂闊なことは言えないと思うようにもなるし。
夫婦約束をしたわけでもないのに、その頃から公威さんの仕事に関係するような場所にも
引っぱり出されるようなことも増えてきたんです。
出会ってから3年が経ち、わたくしも22歳になっていましたから、
いかにわがまま娘でもそろそろ結婚することを考えなければなりませんしね。

公威さんからのプロポーズですか?結婚してくれと正面から言われたことはありませんが、
お付き合いをし始めて間もない頃に、子供を産んでほしいとは言われました。
わたくしの返事ですか? いやあよ、と申しました。
それで、その日からしばらくして「君、家が欲しくないか?」って言うのよ(笑)
「家なんて欲しかありません」って返しましたけど。それから、またしばらくして
「ねえ、二人でポルトガルに行って暮らさないか?」なんて真顔で言うんですよ。
「日本を離れるなんてまっぴら」って断りましたけどね。
でも今から思うと、まんざら冗談でもないような気もするんですよ。
あの頃の公威さん、よっぽど何かから逃れたかったのかなあなんて思うようになりましたね。

だってまだ19歳で、わたくし自身がまるで子供みたいなものですもの(笑)
あとさきなしに片付いたりしたら、お米のひとつも研がなければならないでしょうし、
アイロンだって掛けなければならないでしょう。
子供の頃から日々の暮らしのこまごましたことは何もかも女中がやってくれて、
自分ですることといったら歯を磨くか息をすることぐらいでしたもの。
そうした生活が当たり前だと思っていたし、満足していたわけですよ。
当時のわたくしは自由な身の上で毎日遊んでいたわけですから、
公威さんに限らずすぐ結婚するなんてこと思ってもおりませんでした。
とりわけ公威さんの場合は、
あちらのお母様との深い繋がりをわたくしも薄々は感じておりましたからね。
それやこれやで公威さんと結婚することなど、まったく考えてはおりませんでした。

当時の三田(慶応)や学習院の学生の中には生意気なのがいて、「親父につけておいてよ」
とかなんとかで稼ぐ前から若い芸者衆を呼んでは遊んでいましたよ。
のちに夫になる人も、そうした慶応の息子株の一人でした。
わたくしが慶応の女子高に通っていた頃、主人は大学生でテニスの選手でした。
彼も親がかりの身でありながらお友達を連れてウチへも遊びに来ましてね。
そうしては、御座敷から廊下伝いに奥へ通りわたくしの部屋に来るんです。
そうは言ってもわたしくは高校生ですから、
大学生のお兄さんたちとトランプをする程度の他愛のなさではありました。

そんな風なことでお付き合いが始まりますと、公威さんの時と違って
お互いの家のことも分かっておりますし、両方の親達も歓迎したのでしょうね、
周囲に勧められるまま夫婦約束をする運びとなったわけです。

はっきりと覚えています、わたくしたちの結婚式のほんの数日前でしたから。
3年前に別れたきりの公威さんと偶然街なかで再会しましたのよ。
しかも婚約者と一緒のところへ。公威さんはつかつかとこちらへ向かって歩いて来て、
わたくしの前に立ちはだかったかと思うとなんの挨拶もなしにいきなり「僕と一緒に行こうよ」
とたった一言投げつけたきり何も言わず、じっとわたくしを見つめましてね。
これが今のわたくしでしたら、婚約者にさとられないように公威さんに囁いて
後で待ち合せることなど容易いことですが(笑) 当時はわたくしも若いんですもの、
そんな手管の出せるはずもありません。ただその場に立ちすくむばかりでした。
それなのに公威さんは無言のままその場を動こうとしません。
婚約者がすぐ後ろに立っていました。彼も無言のままその場を動かず、
事の成り行きを見つめている様子でした。「御結婚なさいましたそうで
おめでとうございました。それでは、ごきげんよう」と切り口上の御挨拶も早々に
婚約者をうながして後を振り返らずそのままお店をあとにしました。

その数日後、祝言の盃を交わした主人は、その時も、そのあとも、
この日のことについて一切触れずに過ぎました。うちの主人も心得た人でしたから、
亡くなるまでわたくしの前で三島由紀夫という名前を口にすることはありませんでした。

わたくしの方はおかげさまで結婚しましてからも幸せに過ぎましたので
自分に関して思い残すことは何ひとつありませんが、あのとき見た公威さんの
思い詰めた表情とあのせつない言葉に応じてあげることができなかったことだけが、
わたくしの一生の重荷と申しますか、心残りになりました。別れて3年の間に
すっかり変わり果てた顔を見せられたのですから、思い出しても胸が痛みます。
またその顔が、わたくしが今生で見た公威さんの最後の顔であったことが、
実に痛ましいようなせつない思い出となりましたので。

あれからもう50年も経ちますし、わたくしも寄る年波のせいでしょうか、
あの時の公威さんはいったいわたくしに何を言いたかったのかしら、
それほど何かの事情を抱えて切羽詰っていたのであれば、
後日連絡を取ってちゃんと話を聞いてあげればよかった、
などといまさら悔いても及びませんが、あの時の公威さんの目を思い出すにつけ、
可哀想に思われて仕方がないんです。

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三島の唯一の女友達 湯浅あつ子 『鏡子の家』の鏡子のモデル 

※金額は昭和30年代当時

A 公ちゃんが申しますには、毎日のように会っていても3年の間
だこさんが同じ着物を着ているのを見たことがないと感心していましたよ。
それこそ帯から何からお金のかかった凝ったものばかり。
たった今しつけの糸を取ったばかり、といった様子で公ちゃんの前に現れたそうですよ。
ああ、それから日髪って御存知?
Q 毎日髪を結わせることですね。
A そうそう。女の贅沢の極みですが、だこさんは娘の頃からの習慣なんだそうです。
そしたことが当たり前の育ち方をしてきたんでしょうね。
女の好みにはちょっと難しいところのある公ちゃんもさすがに見惚れたのでしょう。
それからは片時もも離さず、ほうぼう連れて歩きたがったというわけですよ。
だこさんという人は男たちに人気がありましたもの。
言い寄ったのは公ちゃんばかりではありませんよ。
ですから、公ちゃんとしては他の男に誘われて彼女がそっちになびかないように、
毎晩会うことで自分に縛りつけておこうとしたわけです。

どこに行くにもだこさんが好きそうな場所を一生懸命選んでは連れて行くわけです。
ですから、お金はいつも足りない(笑) ええ、持ってないんですよ、お金は。
だって、文士の稿料なんて知れておりますわねえ。
そのうえ当時すでに平岡のおじさまは現在でいうところの年金生活者ですから、
長男である公ちゃんが両親や弟を助けなければなりませんもの。
Q そこで湯浅さんが立て替えたわけですね。
A 借りに来るのはいつも7万円と決まっているんですが、
1週間後にはどう工面してくるのか必ず返しにくるんです。
そうして改めて今週分の7万円を持って行くという繰り返しでした。
Q 1週間のデート代が7万円かかったわけですね。
A だってね、あれはいつだったかしら、公ちゃんから電話がかかってきましてね。
「あっちゃん、大変だよ。だこの財布には10万円、
それも手の切れそうな新札がびっしり入ってんだぞ」なんて言ったことがあるんです。
だこさんの御実家では、毎朝お母様が娘さんの御財布を点検なさって、
外出先で何があっても困らないように10万円の新札をお入れになっていたそうなんです。
そんな風な御家で育ったわけですから、
若い頃からだこさんは何の気なしにお金をパッパッパッと使っても平気なわけですよ。
公ちゃんの方は中ぐらいの官吏の家に生まれて慎ましく育ってきたんですから、
今まで見たこともない贅沢をするだこさんが大変に魅力的に見えたんでしょうね。
珍しいどころか、なにもかも初めての体験でしたの。
というのもね、平岡の家庭には色彩というものが乏しかったんです。
おばさまの着物も草木染の地味なものばかりでしょう。それに妹も早く亡くなりましたから、
公ちゃんの周囲には華やかな色合いのものがないわけですよ。
ですから、若くて艶やかなだこさんの存在は、平岡公威のみならず
作家としての三島由紀夫にもそれまでにない興味と悦びをもたらしたわけです。

だって、だこさんのように慶応女子を出ていながら
花柳界の感覚を持ったお嬢さんなんてざらにはありませんものねえ。
いくら華奢でもだこさんは料亭の娘さんであり、本当の芸者ではありませんからね。
公ちゃんと出会うまでは、純潔な19歳の女の子だったんですもの。
それを我が物にしたというのが、当時の公ちゃんの自慢であったわけですよ。
毎日毎晩、豪華な衣装をまとった若い女性を銀座界隈で見せびらかすように
連れて歩くことが、それまで女を知らなかった彼には嬉しくてならなかったんです。

それにね、その3年間だけでなく、
公ちゃんにとっての女というものはだこさん一人だけでした。
これは彼の生涯を通じてそうですよ。彼女と別れた後はすぐにお嫁さんをもらいましたし。
これは断言できます。だこさんの前にも無いし、結婚後は瑤子ちゃんで終わりです。
この二人の他、三島由紀夫に女性との深い交渉はありませんでした。
だいいち、他に女でもあれば楯の会なんて作りません。

だこさんと交際していた頃の三島由紀夫は本当に幸せそうでしたよ。
全身から、こう、オーラが出てましたもの、ハッピーな。
彼の人生の中で一番良かった時期です。
もしあの3年間が無かったら、三島由紀夫の人生はあまりにも寂しいものでした。
だって、それ以前の三島由紀夫には人生の春というものが無かったんですよ。
そして、その3年を過ぎてからは御存知の通りでしょ。
何もかも思い通りにはならなかったわけですからね。気の毒でなりません。
ですからせめて3年間だけでもだこさんのおかげで、
公ちゃんが幸せな思いをしたことはせめてもの慰めなの。

だこさんが良い人で、私、公ちゃんのために、本当に良かったと今でも思いますよ。
公ちゃんにとってだこさんという女性は、文字通り有難い人ですよ。
ずいぶん良くして下さいましたもの。公ちゃんが亡くなった後は、
その年老いた母や、若い長男(威一郎)にも親切にしてくれましたし。
ですからだこさんには、私が弟のように思う公ちゃんに
晴れやかな青春を下さって本当にありがとうと心から御礼申し上げたいですね。

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by vMUGIv | 2011-03-07 00:00 | 昭和戦後
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