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by vMUGIv
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澁澤龍彦 その7

◆昭和44年 41歳 前川龍子29歳と再婚。


★後妻 前川龍子 元編集者
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澁澤の後妻 澁澤龍子

私が初めてこの家を訪ねたのは1967年のこと。
大学卒業後2年ほどして新潮社に入り、『芸術新潮』の編集者をしていました。
鎌倉の実家から通勤していたので、
原稿の依頼や受け渡しに出入りするようになったのです。
静かでちょっとノーブルな美形ではあるけれど、
好きなタイプというわけではありませんでした。
私は澁澤のような神経質そうな文学青年は好みではなかったので、
特に尊敬するような態度も取らずにいたところ
「君以外にそんな口の利き方する人はいないよ」と言われたこともありました。
とにかくスポーツ大好き、
車で飛ばしたりヨットに乗ったりするのが一番幸せという湘南育ちでしたから、
文学少女とはおよそ正反対のタイプで、澁澤の文章さえ読んだことがありませんでした。
その頃はまだ矢川澄子さんがお家にいらして御馳走になったこともありました。
私がおしゃべりで騒々しいせいか、
矢川さんは物静かでおとなしい方という印象を受けました。
そのころ彼の身辺にはいろいろ変化があったようですが、
私はそれほど親しくはなかったので個人的な事情は知らないまま、
結婚してから義母や義妹からそのあたりの話を聞かされたのでした。

『芸術新潮』の特集が澁澤と特別に親しくなるきっかけになったようです。
それ以降鎌倉の私の家に「遊びに来ない?」
という電話が頻繁にかかってくるようになりました。
結婚のきっかけは海外旅行でした。
友人がフランスに旅行するというのを聞いて私も行きたくなり、
1ヶ月ほど休ませてほしいと会社の上司に言いました。
「君には給料を払っているだけでも腹が立つんだ。こっちが月謝をもらいたいぐらいだ。
行きたかったら会社を辞めてから行きなさい」と叱られてしまいました。
その話を澁澤に伝えたら
「ああそれなら僕が世界中どんなところへも君を連れて行くから、すぐ会社を辞めちゃえ」
これがプロポーズの言葉だったのかもしれません。
こうして半年ばかりの間に私たちは急速に親しくなり、花の独身生活を楽しみ
結婚など考えもしなかった私がまるで引き寄せられるように結婚することになったのです。

結婚しないかという正式な言葉はその年の10月に聞きました。
彼はその時、自分は結婚しても浮気したりしてきたから、
そんなこともあるかもしれないと言ったので、「私は絶対許さないわ」と強く反発しました。
結婚してから私を裏切ったり約束を守らなかったことは一度もありませんでした。
おかげで彼との生活の中で、嫉妬心とか猜疑心という言葉は私の辞書からなくなりました。

銀座の画廊で展覧会を見る約束をしていましたが、いくら待っても現れません。
怒り心頭に達した私は帰りに澁澤の家に寄りましたところ
「眠かったから寝ていた」とケロッとしています。
「あなたの眠いのと龍子とどっちが大事なのよ!」
「この宇宙は僕を中心に回っているからこれからもずっとそうだよ。
そんなことで怒るのはおかしいよ」とシャアシャアとしているではありませんか。
1日24時間という時間の観念がまるでないのです。
時には寝ていて「おいおい」と私を呼んで「お腹空いていると思う?ぼく」
時計を見ると12時間ぐらい寝ているわけで、「あ、空いてるわよ」
それから慌ててご飯を食べることもありました。

「今日、何を食おうか」 朝目が覚めた時の澁澤の第一声です。
24時間家にいる人ですから毎日の食事はとても楽しみにしておりました。
何品も並べるのではなく、一点豪華主義。
好きな主品を集中的に食べますから、その一点がはずれた時の落胆ぶりは激しく
不機嫌になって原稿が進まなくなることさえありました。
たまに手の込んだ献立に時間がかかると、彼は足踏みしながら
「腹へった、まだなの、まだなの」と後から私を突っつくのでした。

二人が一番使った言葉、それは<バカ>でした。
私は極楽トンボですから「バカな龍子」とは
「龍子って本当にかわいいね」と言っているのだと思っていました。
澁澤はよく「お前がもっと白痴ならいい」と言っておりましたし、
私も子猫のようにかわいがられ時々爪を立てて引っ掻いたりしながら
一生を過ごすのが最高と思っていたのです。
わからないことは家に売るほど辞典類があるのですから引けばいいのですが、
澁澤という生き字引がそばにいるかと思うとつい聞いてしまうのでした。
仕事中の彼にたびたび尋ねるものですから、しまいには怒られてしまいます。
そして何度聞いても忘れてしまうものですから、壁に紙を貼りつけておいて同じことを
教えるたびに彼がその言葉の下に見せしめの正の字を書き記すことにもなりました。
そして『お叱り帖』とか『龍子バカ帖』というメモ帳を作られてしまいました。

●チェーンソー知らない。俺が教える。
(そのうちきっとそんなの前から知ってるって言い出すからここに書いておく)
●「行って来るぞと勇ましく~」 何度言ってもダメ。またダメ。
●柿食えば鐘が鳴る鳴ると言う。(大楠山でまた言った)

私も彼に「あなたってバカね」と言うのが口癖でした。
自動支払機でお金を出すのを見るとびっくりして、
自分もやりたいと何度も何度もボタンを押してお金をどんどん出してしまいます。
やはりちょっとおバカさんだったのではないでしょうか。

澁澤は私にこうなってほしいとか、もう少し利口であってほしいなどとは
決して言いませんでしたが、一つだけ「オバサンにならないでね」とは言っていました。
私の髪形や服装にはけっこううるさく、結婚以来ずっと彼の好きなロングヘアですし、
柔道着みたいで嫌いだというキルティングも着たことがありませんでした。
いつでしたか着やすいジャージのワンピースで出かけたら
「それ、僕の嫌いな服じゃない」と新幹線の車中でずっと怒っていたこともあったほどです。
私が服を買うと彼も喜び、同じようなものをばかり着ていると買い物に行くよう勧めるのです。
「毛皮でも宝石でもどんどん買っておいで」と送り出されるのですが、
やはり経済ということを考えますし適当にして帰ると
「なーんだ、それだけ」とがっかりさせてしまうのです。

ある日玄関のチャイムが鳴り、「宅急便です」という声に扉を開けると、
白い子兎が箱に入れられ置き去りにされていました。
生き物などに興味もなく飼ったこともなかった澁澤ですので、
誰かにもらってもらおうと必死になったのですが、
可愛くて手放せなくなり以降部屋で放し飼いすることになりました。
「ウチャ」と呼んでいました。本を齧るのが大好きで、愛読書はボードレール。
「お前もやっぱりボードレールか」と澁澤も満足そうでした。

1991年には義母が85歳で亡くなりました。
鎌倉彫の先生として現役のまま、一日臥せっただけで見事に生涯を閉じました。
しっかりと自我を持った自立した人で、
私も嫁というよりは対等な女性同士のようにつきあってきました。
私のことは誉めこそすれ間違っても悪口を言って歩くような人ではなかったのに、
こちらはといえば日々言いたいことを言い好きなようにやってましたから、
義母は大変だったかもしれません。
今思えば、もっと優しくかわいらしいお嫁ちゃんでいてあげればよかったかなと思います。

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初めての海外旅行
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最後の旅行写真
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by vMUGIv | 2011-07-07 00:00 | 昭和戦後
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