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by vMUGIv
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森鴎外の子供たち その3

◆杏奴
1909-1998 明治42-平成10 89歳没
フランスに留学


■夫 画家 小堀四郎
1902-1998 明治35-平成10 96歳没


●鴎一郎 医者
●桃子  作家横光利一の二男横光佑典と結婚


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鴎外の娘 小堀杏奴

父はいつも静かであった。葉巻をふかしながら本を読んでばかりいる。
子供の時私は時々元気な若い父を望んだ。
自分の細かいどんな感情をも無言の中に理解してくれている父を
無条件に好きではあったが、父はいつでも静かだったし
一緒に泳ぐとか走るとかいうことは全然なかった。
ただ自分が遊んでいるそばにいつも落ち着いた父が
葉巻をふかすか本を読むかしてじっとしていてくれると、
父の持つ柔らかな楽しい気分が乗り移ってくるようでとても楽しかった。

母はいやに真面目な女である。
子供にとっての母はいっこうに魅力のないつまらない存在でしかなかった。
母は冗談を嫌ったし、軽薄さの持つほんの片端をも憎むような激しい気性を持っていた。
そのくせ彼女は、
父の持つなにか底のわかない曖昧な魅力のようなものをとても愛していた。
父と母とが仲の良いように感じられた記憶は、私にはほとんど見つからない。
愛情のような雰囲気、それは父が一人で作って
一人であたりの妻や子供、家、本、空気にまで振りまいていただけだ。


毎朝起きると、私と弟は父の部屋へ行って目薬をさしてもらった。
膝の上に頭を乗せて寝転ぶと、父は柔らかい手でそおっと私の瞼を開けて
「象の目、鯨の目」一つずつ言って笑いながら薬をさしてくれた。
私の目が細いのでそう言ったらしい。
そうしておいて、懐から畳んだ塵紙を出して丁寧に目を押さえてくれた。

学校へ行くようになってから、父は私を毎朝学校まで送ってきてくれた。
軍服の父は歩きながら、フランス語の暗誦などをさらってくれる。
単語の一つ一つの発音を強い調子で響かせながら繰り返すので、
通る人がみな振り返って見る。それが私には恥ずかしくて困った。
軍服を来た人が子供を連れているのさえ変わっているのに、
混んだ電車の中でも父は平気でフランス語をさらったり、
「杏奴、こっちへ来い」などと大きな声で私の名前を呼んだりする。
ある時など電車がひどく混んでいたため、私がいつまでも出られないことがあった。
先に降りた父は「そこにいる女の子を出してやって下さい」と大きな声で怒鳴るので、
電車の中の人がみな笑った。

学校から帰ると私は自分の机の前に座って、両手で囲うようにしてじっと時計を見ていた。
4時、4時に役所が退けるのだ。私は飛び上がるように立つと、草履を履いて表に出た。
まっしぐらに団子坂を駆け降りて電車の停留所へ行く。
表で遊んでいた弟も一緒について来た。
弟と私は電車の二つの降口から目を離さず、降りてくる人を調べている。
「パッパだ」 どっちかが叫ぶ。
「パッパァ」 二人は競争して早く父の手につかまろうと焦った。
私はそうして父の腕にすがりつく瞬間、一日中の不安をやっとなくすことができた。
父はいつものように和やかな微笑を浮かべていた。
私は朝父と別れてからの一日中の出来事を全部話した。
父もまた役所でおこったことを一つ一つ話して聞かせた。

弟はよく学校から帰って母が留守だったりすると、自分で踏み台を持ってこさせて、
その上に乗って博物館にいる父に電話をかけて「すぐ帰ってきてくれ」などと言った。
すると父はまた本当にすぐ帰ってきてくれるのであった。

寝る前に私と弟とはよく父の部屋に行って「パッパ、一緒に来てよ」とねだった。
父は一緒に寝どこまでついてきてくれて、
枕元に座って話しているか父の寝床に横になって話していった。
「パッパ、手」 私は父の差し出す手を大切そうに持って寝た。
「パッパ、僕にも手」 どうかすると両方から片方ずつ手をもらって持って寝た。
父は私たちが眠るのを待ってまた書斎へ引き返していくらしかった。

夜中でも父が一番私の気持ちの近いところにいたと感じたのは、
呼ぶとすぐ目を覚まして返事をしてくれるからだ。
「アンヌコや。パッパコ、アンヌコや」
こんなことを呟きながら、父は私の恐怖がわかってくれているようにすぐ電気をつけた。
明るくなって父が微笑している顔や始終着ている茶色っぽいところどころにポツポツ小さく
綿の出ている綿入れの着物が見えると、実に私は嬉しく感じた。
「おしっこか?よしよし」 そうして彼は起きて、長い廊下を便所までついてきてくれる。
暗い廊下にしゃがんで父は私を待っていた。「眠るまで電気つけといてね」
私は父の手を持ち、安心してまた眠ることができる。

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杏奴と類
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杏奴と類
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杏奴と類
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杏奴と中勘助
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杏奴と神父
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杏奴と茉莉
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by vMUGIv | 2013-12-03 00:00 | 明治
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