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by vMUGIv
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おかげまいりとええじゃないか

おかげまいりとは江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣のことで、
60年周期(おかげ年と呼ばれる)で起こった。

もともと伊勢神宮は天皇家の氏神であり、民衆と伊勢神宮の距離は大きかった。
『更科日記』でも、
貴族社会に属する菅原孝標女ですら天照大神が仏なのか神なのかもわからず、
ましてやその神宮の所在地も知らないというくだりがある。
さらに貴族社会の凋落と武家社会の勃興により、伊勢神宮は経済的に困窮し、
20年に一度新築することとなっていた慣例も行えないほど荒廃していた。
そこで江戸時代になって
御師(伊勢神宮の世話役)が各地を回り参詣してもらえるようPRを始めた。
御師がツアーコンダクターとなり手取り足取り世話をしたし、
お参りを済ませた後には京や大坂などの見物を楽しめた。
このような風潮から
一生に一度はお伊勢さんにお参りしたいものだとまで言われるようになる。

おかげまいりの中には、主人に無断でやってきた子供・妻・奉公人などもいた。
これを抜け参りと呼ぶ。
お伊勢参りをしたいと言い出したら主人はこれを止めてはならないとされていた。
神罰があたるからである。
また主人に無断で旅に出ても、
お伊勢参りをしてきた証拠としてお守りやお札などを持ち帰れば
おとがめは受けないことになっていた。

抜け参りは着の身着のまま家を出てきた者が多いので、道中の人々がこれに協力した。
これを施行という。
富裕層から城主・藩主までが、
銭・飯・笠・杖・草鞋・薬などを配り、宿・風呂まで提供した。
しかし、この施行は善意から出たものではなく、
集団が暴徒化するのを防ぐために先手を打っていたにすぎない。
そしていつまでもこのような施行を続けてはいられない。物資も払底してくる。
そこでだいたい2ヶ月経つと金の切れ目が縁の切れ目、
時期を見計らって支配者が施行中止を申渡す。

慶安03年(1650)は江戸時代最初のおかげまいりでは、
人々は白装束を着て組ごとに旗を立てて歩いた。

宝永02年(1705)のおかげまいりは、2ヶ月間に330万~370万人が伊勢神宮に参詣した。

享保08年(1723)の参詣者は、
太鼓・笛・鼓・三味線をかき鳴らし、異様な衣服を身に着けて囃し立てて歩いた。

明和08年(1771)の参詣者は「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃し立てながら歩いた。
集団ごとに旗を立て出身地や参加者を書いていたが、
段々と滑稽なものや卑猥なものを描いたものが増えた。
お囃子も老若男女がそろって卑猥な言葉を言うようになった。

文政13年(1830)の参詣者にはひしゃくを持つのが流行り、
ふんどしまで締めた男装をして囃し歩く女性集団もいた。
門前に捨てられた山と積まれたひしゃくの絵が残っている。

慶応03年(1867)のおかげまいりは最後のおかげまいりで、別名ええじゃないか。
「ええじゃないか、ええじゃないか」と囃しながら、踊り狂った。
明治に変わる前年ですね。

疲れてきたら「ええじゃないか、ええじゃないか」と囃しながら、
草鞋のまま泥足のまま他人の家に上がりこみ、勝手に酒を飲み、食事をし、眠る。

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参加者の証言

■着物でも道具でもなんでも良いものがあったら、
「これ、くれてもええじゃないか」と言ってなんでも取っていった。

■普段嫌いな奴の家へ行って「ええじゃないか、ええじゃないか」と言いながら
畳・建具・道具を壊しまくった。

■米屋に行って「米もらってもええじゃないか」と米を大量に持ち出し、
どんどん炊いて配った。

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こんな状態が1年弱続いたのである。
「ええじゃないか」ではもうお伊勢参りは関係なかったようですね。
地元で騒いでいたようだし。

コアな集団は宗教目的、政治目的などのたくらみを持っていたのだろうが、
ここまでの人数に膨れ上がると
大部分は踊らにゃソンソンとばかりにブームに熱狂しただけであろう。
集団ヒステリーというか集団陶酔というか。

「将軍さんの世になるのか、天子さんの世になるのか、
どっちがどっちかわからなかったからみんながあんなに暴れたんだと思う」

打ちこわしでもなく一揆でもなく革命でもない、ええじゃないか。
鬱積したエネルギーを放出した結果、
幕藩体制から天皇制への移行はスムーズに行われてしまった。
これはたくらんだ連中の思い通りだったのか否か。
そして民衆にとって良いことだったのか否か。



老若男女が、男が女の、女が男の、老婆が娘の格好をしたり、
褌一丁・腰巻一丁の丸裸もあり、グループで忠臣蔵などのコスプレをした者もいるとか。
絵にはキツネのかぶりもの?をした人までいますね。

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# by vMUGIv | 2015-12-01 00:00 | 江戸

大正三美人 柳原白蓮 その5

◆大正11年 37歳 息子香織を生む、龍介の父宮崎滔天51歳没
◆大正12年 38歳 関東大震災を契機に宮崎龍介31歳と再々婚
◆大正14年 40歳 娘蕗苳を生む
◆昭和11年 51歳 継母柳原初子82歳没
◆昭和17年 57歳 龍介の母宮崎鎚子71歳没、北小路資武64歳没
◆昭和20年 60歳 息子香織23歳戦死
◆昭和21年 61歳 娘蕗苳21歳結婚
◆昭和22年 62歳 伊藤伝右衛門86歳没
◆昭和42年 82歳 02月22日白蓮死亡
◆昭和46年 宮崎龍介79歳没 
◆平成01年 息子北小路功光88歳没




■3番目の夫 宮崎龍介 弁護士・社会運動家 夫31歳&妻38歳で再々婚
1892-1971 明治25-昭和46 79歳没


●宮崎との間に息子 香織
●宮崎との間に娘  蕗苳


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■父 宮崎滔天
1871-1922 明治03-大正11 51歳没


■母 宮崎鎚子
1871-1942 明治03-昭和17 71歳没


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白蓮&宮崎龍介の娘 宮崎蕗苳

鎚子は熊本県に豪農の前田案山子の三女として生まれました。
案山子は細川家の槍指南から、
初代衆議院議員として自由民権運動に奔走した素封家、人徳のある人です。
鎚子は熊本にあった英語学舎で学びました。
さらに神戸へ行き、キリスト教の女学校を卒業しています。
イサク・アブラハムを介して滔天と知り合い、大恋愛のすえ周囲の反対を押し切って結ばれました。
晩年近い頃も外国からの来客に英語で対応するなど、カクシャクと言うんでしょうか、
しっかりしたところを見せていたのを覚えています。

孫文はいよいよ革命の計画を本格化させていきます。
滔天もそれに呼応して東西に奔走するようになって、
家族の家計については少しも考えてくれませんでした。
3人の子供を抱え生活に窮して滔天に訴えると、
「革命のための金はできるが、妻子を養う金はない。お前はお前でどうにかしておけ」
といっこうにかえりみてくれないので、
今までお嬢さん育ちであった祖母も慣れない内職をしたそうです。
明治37年には先祖伝来の田畑も売り払い、
すべてを滔天の活動費に注ぎ込まなければならない状態でした。
明治38年には熊本の家をたたんで、滔天のところへ上京しました。

鎚子は気丈な人でした。
のちに白蓮とは嫁姑という立場になりますが非常に和やかな関係で、
育ちが違いすぎていたのがかえって良かったと思います。
また矛盾するようですが似た点もあり、
思ったことを率直に言う竹を割ったようなさっぱりした性格と、
弱きを助けるのが好きなところが共通していました。
私の生まれる3年前に祖父は亡くなっていましたから、
執筆などの活動に忙しい母の代わりに、当時健在だった祖母が家族の世話を担っていました。
母は和裁は得意で私の着るものなどもよく仕立ててくれましたが、
普通の家事って言うんでしょうか、台所仕事やお掃除はできなかったんですよね。
戦時中にかまどに薪で御飯を炊いた時、
「生まれて初めてこういうことをするのよ」と言っていました。
そのあたりは、おひい様育ちがなかなか抜けなかったところです。

父は弁護士の仕事のかたわら社会運動にも参加しており、
母も人のお世話が大変好きな人でしたから、居候って申しますか、
父に共鳴する若い人達や困った境遇の方が、いつも何人も同居していました。
5,6人から10人ぐらいはいたでしょうか。
二人ともそうした暮らしが生きがいの一部だったはずです。
ですので私には、兄や両親・祖母といった家族だけで水入らずで住んだという記憶がありません。
他の家のことは知らないので、それが普通だと思っていました。
母は廃娼運動も支援しました。さながら駆け込み寺といったところです。
有名な出来事としては、
吉原から春駒という花魁が助けて下さいと母を頼って逃げてきたことがあります。
父も一緒になって身の上相談に乗ることもありました。

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白蓮の夫 宮崎龍介

たしか大正09年01月ことでした。
燁子に、私は九州で会ったわけなのです。場所は別府の別荘でした。
この時私は編集者として事務的な話をしただけで、特に印象に残るようなことはありませんでした。
ただ燁子は、初対面の私に向かって
「自分の生活はこうして物を書くだけで、他には何も楽しみがない」
というような簡単な境遇を話したことを記憶しています。
その後この本が発行され芝居になったりしたため、
燁子は何度か東京へ出てくるようになりました。
その度に会っては話をするようになり、だんだん私と懇意になったわけです。

燁子は貴族の生まれなのですが気取ったところは全然なく、
自分の思ったことを誰に対しても遠慮なくズバズバ言う気性の激しさを内に秘めた女でした。
燁子のような女性に会ったのは初めてでした。
個性というか自分の中に一つしっかりとしたものを持っている女性は、
当時としては珍しいことでした。不思議な女でした。
可哀想なものに対する同情、涙もろさを持つ反面、非常に強い自我を持っていました。
反抗心と言ってもいいものでしょう。何であれ自分の自我を押えようとするものに対しては、
徹底的に反発するというタイプの女でした。

私と燁子の文通もだんだん頻繁になっていきました。
そのうち燁子は「もう現在の境遇には耐えられない。
これまで何度自殺しようと思ったかしれない。
今の状態から一刻も早く私を救い出して欲しい」という意味のことを書いてきはじめました。
さすがに私は考え込みました。これは深刻な問題です。
下手すれば姦通罪に引っかかって、二人とも牢屋にぶちこまれる恐れだってある。
考えに考えたすえ、私は踏み切りました。
自分が今やっている政治運動、信奉する社会主義革命とは何か。
虐げられている者を救う運動ではないか。燁子も虐げられ苦しんでいる一人ではないか。
今から考えると、当時の私たちは一種の空想的社会主義者でした。
ロシア革命のニュースに接して、日本でも明日にも革命が起こりそうな気がしていました。
燁子と結婚しようという決心も、そういう時代の雰囲気に大きく影響されていたように思います。

大正10年10月、燁子は九州から最後の上京をしてきました。
表向きは親戚の入江東宮侍従長が殿下のお供をして無事ヨーロッパから帰ってきたので、
そのお祝いに行くということでしたが、
実はこれを最後に伊藤家から姿を消すという打ち合せがしてありました。
私は燁子との問題は家族の者にも一切話さず、
友人の赤松克麿君と朝日新聞にいた早坂二郎君にだけ打ち明けていろいろ相談しました。
彼らは私が燁子と結婚することには大賛成でした。
そして同じやるなら、ひとつ世間に衝撃を与えるようなやり方をした方がいいだろう
ということに三人の意見が一致しました。
それには多くの新聞社に共同発表するよりは
一社の特ダネの方が効果があるという早坂君の意見で、
発表は朝日新聞一社に絞ることに決めました。
朝日新聞社会面は全ページをいわゆる「白蓮事件」で埋め、
予想通り大センセーションを巻き起こしました。燁子の伊藤家に向けた絶縁状も載っていました。
この絶縁状は、燁子と赤松君と私と相談のうえ書いたものです。
この新聞を見て、父はたいそうびっくりしました。「いいのか、お前、こんなことをして」
しかし私の家はもともと自由放任主義でしたから、
別に叱られるというようなこともありませんでした。
父は一言、こんなことを言ったことがあります。
「どうしようもなくなったら、お前たち二人で心中してもいい。線香ぐらいは俺が仏前に立ててやる」

燁子は以降 私との間を断ち切るべく、柳原家の手で方々に監禁されることになったのでした。
半年ぐらい経った頃でしょうか、燁子は京都の尼寺に預けられいることがわかりました。
自分で二人の結婚届を作り、私の家に残していた燁子の実印を持ってその尼寺へ行きました。
お互いの合意の上で正式に結婚届を出してしまえば、燁子の監禁状態が長引いても
あとはゆっくり闘争すればいずれはこちらの勝ちだという気持ちでした。
この結婚届は燁子に大きな精神的安心を与えたようでした。
しかし、これですぐに燁子の監禁が解けたわけではありません。
柳原は今度は東京の中野武営氏の家に燁子を預けました。
私は燁子に子供が生まれているらしいということを風の便りで聞きました。
けれどもその子が男か女かわからないので、
「香織」というどちらにでも通用しそうな名前をつけて出生届を出しました。
この子は後に早稲田の政経学部に入り途中で学徒兵として取られ、
終戦の4日前に鹿児島で戦死しました。

燁子が中野氏の家に預けられている時、あの関東大震災が起こったのです。
目白の私の家は幸い焼け残り、
父の書生をしていた松本という男がまだ煙のくすぶっている町を歩いて見に行ってくれました。
中野邸は焼けてしまい、一家は駒込の松平という家に避難しているとの立札が立っていたと言う。
そこで私はこの際、強引に燁子を我が家に連れてこようと考えたのです。
書生に燁子の着替えと握り飯を持たせて松平邸へ行ってもらいました。
中野さんは「こんな状態になっているのに、柳原の方はうんともすんとも言ってこない。
それにひきかえ、宮崎の方はすぐに着物と食べ物を持って使いを寄こしてくれた。
この際あなた方の方に燁子さんを渡すのが一番いい。
非常事態のことだから、後で柳原からどうこう言われることはあるまい」
とあっさり燁子を私の方へ渡してくれました。
燁子は書生に連れられ、鉄道づたいに私の家まで歩いて帰ってきてくれました。
赤ん坊の香織は、私の母が中野さんの家へ行って連れて来たのでした。
これが大震災の翌日のことで、以来46年ずっと私と一緒に暮らすことができたのでした。

我が家は組合活動家で毎日あふれんばかりでした。
燁子はこれまでとはまるで違った生活にびっくりしたでしょうが、
伊藤家にいた時代とはまるで別世界、自由と言えばこんな自由な空気はない、
社会主義とか民主主義とか労働運動とかいう言葉の渦に巻き込まれて、
精神的には張りのある生活だったようです。
私のところへ来てどれだけ幸福にしてやれたかそれほど自信があるわけではありませんが、
少なくとも伊藤や柳原の人々よりも燁子の個性を理解し援助してやることができたと思っています。
できるかぎりは燁子の個性を伸ばすように手助けしてやることができたと思っています。

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宮崎家は父滔天の時代から、中国からの留学生や食客が大勢いた。
白蓮は社会派弁護士となった龍介と懐の大きい姑鎚子と
大勢の社会運動家たちに囲まれて暮らす。
息子香織が戦死したのをきっかけに熱心な平和運動家にもなった。
一方、美智子皇后が皇太子妃に決まった時には強硬に反対し、
右翼団体まで動かして反対運動をした。


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樺山愛輔伯爵の娘/白洲次郎の妻 白洲正子

*白洲正子の母と白蓮の兄嫁が姉妹という関係である。

柳原白蓮が家出をしたのは大正10年のことだが、
駆け落ちの相手は共産主義者の宮崎龍介で、
柳原家と私の実家とは姻戚関係にあったため、
裁判沙汰が終わるまで白蓮さんを家で預かったりして
調停に立った父は大分苦労したようであった。

そのまま何十年も音沙汰なくすぎるうち、ある夜勢い込んで電話がかかってきた。
「あなた、今度のことどう思う?」
「今度のことってナァーニ?」
「美智子さんですよ。あんた、このままほっとくつもり?」
美智子さんとは現在の皇后陛下のことである。私はしばらく言葉に詰まってしまった。
「どう思うって、全然見たことも会ったこともない方のこと何も言えないわ」
電話の向こう側では怒り心頭に発したらしく、ガチャンと切ってしまった。
ナンダ、白蓮さんは共産党員と意気投合して何十年も経った今日では
骨の髄までマッカッカに染まっていると思ったのに、あれはみんな嘘だったのか。
それが人間というものなのか。

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# by vMUGIv | 2015-02-18 00:00 | 大正

大正三美人 柳原白蓮 その4

◆大正09年 35歳 宮崎龍介と出会う
◆大正10年 36歳 宮崎龍介と駆け落ち、新聞に絶縁状発表、伊藤伝右衛門60歳と離婚


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白蓮から宮崎龍介へのラブレター 大正09年05月30日

どうぞ私を、私の魂をしっかり抱いてて下さいよ。
あなた、決して他の女の唇には手も触れては下さるなよ。女の肉を思っては下さるなよ。
少しの間もおろそかな考えを持って下さるなよ。

それよりももっと恐ろしい事をやるかもしれない。私はあなたを信じてますよ。わかりましたか。
覚悟していらっしゃいまし。こんな恐ろしい女、もう嫌ですか。
嫌なら嫌と早くおっしゃい。さあ、お返事は?

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白蓮が書いた伊藤伝右衛門への絶縁状の元となった原稿 ※抜粋

私は今、貴方の妻として最後の手紙を差し上げるのです。
私がこの手紙を上げるということは突然であるかもしれませんが、
私としてはむしろ当然の結果にほかならないのです。
あるいは驚かれるでしょうが、
静かに私のこれから申し上げることを一通りお聞き下さいましたなら、
私が貴方からして導かれ遂に今日に至ったものだと言うこともよくお解りになるだろうと存じます。

そもそも私と貴方との結婚当時からを顧み、
なぜ私がこの道を取るより他に致し方がなかったかということを
よくお考えになっていただきたいと思います。
御承知の通り私が貴方のところへ嫁したのは、
私にとっては不幸な最初の縁から離れてようよう普通の女としての道をも学び、
今度こそは平和な家庭に本当の愛を受けて生きたいと願っていました。
たまたま縁あって貴方の所へ嫁すことに定まりました時、
私としては年こそは余りに隔てあるものの、
それもかえってこの身を大切にして下さるに相違なく、
学問のないことも聞いたれど、
自分の愛と誠をもって足りない所は補って貴方を少しでも大きくしてあげたいと思っておりました。
言うまでもなく、
貴方はまず誰よりも強く自分を第一に愛していただけるものと信じていたればこそです。

あなたがどのように待遇して下されたかという事を思い出す時、私はいつでも涙ぐむばかりです。
家庭というものに対しても、足らぬながらも主婦としての立場を思い相当考えも持って来ました。
しかるにその期待は全く裏切られて、
そこにはすでに私の入るより以前からいる女サキがほとんど主婦としての実権を握り、
あまつさえ貴方とは普通の主従の関係とはどうしても思えぬ点がありました。
貴方が建設された富を背景としての社会奉仕の理想どころか、
私はまずこの意外な家庭の空気に驚かされてしまいました。
それは貴方が私よりも彼女を愛しておられたからです。
ことあるごとに常に貴方はサキの味方でした。
私という貴方の妻の価値は一人の下女にすら及ばぬのでした。

お別れにのぞんで一言申し上げます。
十年の間、欠点の多いこの私を養ってくだされた御恩を謝します。
この手紙は今更貴方を責めようとして長々しく書いたのではありませんが、
長く胸に畳んでいたる事を一通り申し述べて貴方の最後の御理解を願うのです。
私の無き後の御家庭は、かえって平和であろうと存じます。
さすれば貴方としても御心配が少なくなり、
何事も私の愛する者は憎く私の嫌いな者は可愛いという不思議、
貴方のその一番私に辛かった御心持ちも、
私さえ居なければ家族の者のどんなにか幸福となることでしょう。

女心というものは、真に愛しておやりなさりさえすれば心からお慕い申すようになる事は必定。
なにとぞこれからはもう少し女というものを価値つけて御覧なさるよう、
息子の為にもまた貴方の御為にもお願い申しておきます。

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大阪朝日新聞大正10年(1921)10月22日夕刊に掲載された絶縁状 ※抜粋

*白蓮の原稿を元に、宮崎龍介と仲間たちが書き直したもの

私は今、貴方の妻として最後の手紙を差し上げます。
私がこの手紙を差し上げるということは貴方にとって突然であるかもしれませんが、
私としては当然の結果にほかならないのでございます。

御承知の通り結婚当初から貴方と私との間には全く愛と理解とを欠いていました。
しかし私は愚かにもこの結婚を有意義ならしめ、
でき得る限り愛と力とをこの内に見出していきたいと期待し、かつ努力しようと決心しました。
私がはかない期待を抱いて東京から九州へ参りましてから今はもう十年になりますが、
その間の私の生活はただやるせない涙をもっておおわれ、
私の期待はすべて裏切られ、私の努力はすべて水泡に帰しました。

貴方の家庭は私の全く予期しない複雑なものでありました。
私はここにくどくどしくは申しませんが、貴方に仕えている多くの女性の中には、
貴方との間に単なる主従関係のみが存在するとは思えないものもありました。
貴方の家庭で主婦の実権を全く他の女性に奪われていたこともありました。
それも貴方の御意志であったことは勿論です。
私はこの意外な家庭の空気に驚いたものです。
こういう状態において貴方も私との間に真の愛や理解のありようはずがありません。
私がこれらのことにつきしばしば漏らした不平や反抗に対して、
貴方はあるいは離別するとか里方に預けるとか申されました。
実に冷酷な態度をとられたことをお忘れにはなりますまい。
また、かなり複雑な家庭が生むさまざまな出来事に対しても常に貴方の愛はなく、
したがって妻としての価値をを認められない、
私がどんなに頼り少なく寂しい日を送ったかはよもや御存知ないはずはないと存じます。

私は折々我が身の不幸をはかなんで死を考えたこともありました。
しかし私はでき得る限り苦悩と憂愁とを抑えて今日まで参りました。
その不遇なる運命を慰めるものはただ歌と詩とのみでありました。
愛なき結婚が生んだ不遇とこの不遇から受けた痛手のために、
私の生涯はしょせん暗い暮らしのうちに終わるものとあきらめたこともありました。
しかし幸いにして私には一人の愛する人が与えられ、
そして私はその愛によって今復活しようとしておるのであります。
このままにしておいては貴方に対して罪ならぬ罪を犯すことになることを怖れます。
もはや今日は、
私の良心の命じるままに不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時機に臨みました。
すなわち、虚偽を去り真実につく時が参りました。
よって、
この手紙により私は金力をもって女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の決別を告げます。
私は私の個性の自由と尊貴を守り、かつ、つちかうために貴方の許を離れます。
長い間私を養育下さった御配慮に対しては厚く御礼を申し上げます。

追伸
私の宝石類を書留郵便で返送いたします。
私の実印はお送りいたしませんが、
もし私の名義となっているものがありましたら、
その名義変更の為にはいつでも捺印いたします。

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大阪毎日新聞大正10年(1921)10月25日~28日、
4回に渡って掲載された伊藤伝右衛門の反論文 ※抜粋

※当時の総理大臣の月給は1,000円

燁子!お前が俺に送った絶縁状というものはまだ手にしていないが、
もし新聞に出た通りのものであったら、ずいぶん思い切って侮辱したものだ。
妻から夫へ離縁状を叩きつけたということも初めてなら、
それが本人の手に渡らない先に堂々と新聞紙に現れたというのも不思議なことだ。
俺はこの記事を新聞で見て一時はかなり興奮した。しかし今は少し落ち着いて、
静かに考えるとお前という一異分子を除き去った伊藤一家が
いかに今後円満に一家団欒の実を挙げ得るかということを思って、
かえって俺自身としては将来に非常な心安さを感じている。

お前から送ったと伝えられる絶縁状を見ると、
私としても言い分を何かの機会に言ってしまいたくなってくる。
そもそも、お前との結婚問題からが不自然なものであった。
当時妻を亡くした俺には、
お前より前に京都の某家との結婚問題が起きてそちらがほとんどまとまりかけていた。
そこへふとお前の話が持ち上がり、
京都のあまり裕福でない華族に嫁いでいて、
貧しい生活から逃げるように柳原家へ帰った出戻りの娘であるが、
貧しさには馴れている妾腹の子で母は芸妓だから、
という申し込みで上野の精養軒で見合いをした。
そこで初めてお前というものに会った。
お前はこの日、見合いということを気づかなかったらしい。
それからその晩有楽座へ来てくれということで、その劇場では柳原伯爵夫妻に初めて会った。
追って話を進めることにして九州に帰ってくると、
幸袋の家へ帰りつかぬ前に最初の橋渡しであった得能さんから電報が来ていて、
話がまとまったからすぐ式を挙げたいとあったので、まったく狐を馬に乗せたような気がした。

そして結納の取り交わせを済ませたが、この結婚は最初からあまりいい都合に運ばなかった。
若松にいた某が今度の黄金結婚を東京の新聞が書くと言っていると言って、
その口止め料として相当の金高を要求した。
俺は一も二もなくはねつけたが、その結果この男がいい加減の材料を東京の某新聞社に売って、
そこで燁子の身代金として何万円かを柳原家へ送っただの、
それは義光伯爵の貴族院議員選挙の運動費に使うだの、
伊藤は金子によって権門を買うのだなどと書かれた。
俺はいい気はしなかったので急に嫌気が差しすぐに破談を申し込んだが、
間に入る人々になだめられてとうとう結婚式を挙げた。
今考えるとあの時俺が言い張ったら、十年という長い間の苦しい夢も現れなかったであろう。
柳原家へは俺としてはお前のためにビタ一文送ったことはない。
この風説は柳原さんにお気の毒なことと思っている。

結婚の第一日、一平民の、お前から言うと一賎民の私の頭に不思議に感じたことがあった。
式が終わって自動車で一緒にに旅館へ引きあげてきた時、
お前はどうしたのか部屋の片隅でしくしくと泣いた。
俺は実家を離れる小さい娘心の涙かと思ったが、この涙は自動車に乗る時、
一平民たる俺が華族出の妻を後にして先に乗ったという事がわかって、
実際これは大変な妻をもらったと思った。
家庭というものをまるで知らず、
当然自分は貴族の娘として尊敬されるものとのみ考えていたお前の単純さは、
一平民から血の汗を絞ってやっと今日の地位を得た人間、
世間というものを知り過ぎている俺にとっては、叱ったり諭したりしなければならなかった。
それを叱れば、お前はそれを虐待だと言って泣いた。

俺の家庭の複雑なことは、はじめからお前がよく知っているはずだ。
妹の子供があること、その他家族の模様は、
結婚に先立って逐一柳原家に書札を入れて明らかにしてある。
かえってお前が北小路家で産み落としたという子供のことは俺には何も告げられてなかった。
俺に隠されていた北小路家の子供についても毎月学費を送ってある。
勉強中の当人の意志も尊重したいということで、俺は申し出の30円の仕送りを別に与えていた。
当時小さかった八郎は生れた時から亡くなった妹が始終連れてきては、
よく我が子のように抱いたものだったから俺には一番可愛かった。
家へ引き取って育てることになってからはことに自分の子供のような気がした。
夜なぞその子を一緒に抱いて寝たらと言うと、
お前は平民の子を抱いて寝るということを死ぬよりつらい屈辱だといって声をあげて泣いた。
俺の家はすっかり暗くなった。

お前が俺の家に来てから、第一に起こった大きな出来事は例のおさきの問題だった。
おさきのことも、おさきだけの仕事が立ち働きがお前にできれば少しも差し支えがないのだ。
しかし家庭の主婦として伊藤家のすべてを切り回してやっていくということは、
とてもお前にはできない相談だった。
お前はただ一途に自分を侮辱するものとしてわめいた。
金銭の計算さえ知らず、
伊藤家の財産があり余るものと見ているのか時々子供のようなことを言い出す。
いつか早良郡の箱島に遊びに行ったとて、
その箱島が気に入ったからあの島を買ってくれと頼まれた時には全く二の句が告げなかった。
世間知らず、骨董のように買われた身だ、と言ってお前は歌や文に書くけれど、
飾り物にしておかなければどうにも危険ではないか。
本当に伊藤家のために働き、本当に伊藤家の中心となり家を治めていこうという心持ちが
お前にあるかどうかを、俺は危ぶまずにはおられないではないか。

女中はいくら沢山にいてもいつかは他家へ縁付いてしまうものだから、
一人くらいは生涯家にいて家を死場所とするような忠実な女中が欲しい、
おさきは古くからいて実体な性格もよくわかっているから、
家庭一切のことはなるべくおさきに任していたのだったが、
そのうち妻にぽっくりと死なれて、
それ以来は夜具一枚皿一枚の出し入れもおさきがいなければわからなくなり、
おさきにも一生涯家にいるよう親許へも話して承諾させ、
家の出納係をさせていた原田と娶わせた。
そういう家庭へ乗り込んだお前は、まず第一におさきのすることが気に入らなかった。
良いものにはどこまでも良い、悪いとするとどこまでも悪い、
そういう極端から極端の頑固な性質を持っているお前は、
お姫様育ちで主婦としての何の経験も能力もない自分のことは棚に上げてしまい、
おさきがまめまめしく立ち働き他の女中までがあれを立てるのを見て、
お前はむらむらと例のヒステリーを起こした。
おさきのすること、おさきの顔を見れば腹がたつといって泣いた。
おさきに対する嫉妬的な狂人じみた振舞いはますますさかんになってとめどがなく、
毎日病気と言っては寝てしまい、食事もせずにお前は泣き通していた。
「女中風情が主婦としての私の権力を犯す」
そういうことを一途に考えたお前には何を言っても受け付けられなかった。
それがだんだんと嵩じてとうとう俺も正式に離別問題を持ち上げて、
その結果お前はしばらく柳原家に帰った。
しかし柳原家からの懇々とした頼みもあり、それではこちらも何とかしようというので、
おさき夫婦は別に原田を大正鉱業の社員として家から出すこととし、改めてお前を迎えた。
お前の立場を明らかにしてやった。

一ヶ月に500円、年に5000円までは小遣いとして使ってよいということに許してあった。
家内中みな月給制度で、
現に俺の入用もお前と同様月500円までと定めてあることも知っているはずだ。
その他にあの本が欲しい、短冊が買いたい、誰とかに丸帯、誰とかに指輪、
そんなことでいつもこの金高を越した。
東京・京都・大阪を旅行する度ごとにも、お前は決して質素とは言えなかった。
このことにも虐待はしなかったはずだ。
毎日幾十本とお前のところへ来る手紙の中には、
ずいぶん寄付強請のはなはだしいものもあった。
学校教育に幾千円を寄付してくれの、今500円あれば女一人の一生を救うことができるの、
奥さまの力で生きたいのと、それは限りがなかった。
お前は少し感傷的に持ち込まれるとすぐ同情し、
これらのあらゆる無心にことごとく応じたいという心持ちを持った。
そんなことをいちいち取り上げていたら、伊藤家の財産が幾億万円あっても足りるものではない。
出してはやらぬと言うと、無情だの冷酷だのと言って泣いた。
少し叱ると、お前はすぐ頭痛がしためまいがした、そしてしくしくと泣いては二日でも三日でも寝た。

金次の嫁〔艶子〕のことも、ただお前は理由なしに艶子の顔さえ見れば憎いと言う。
俺の目から見てあのくらい温順なやさしい嫁はないと思っている。
別家をして、年に一度か二度しか顔を見せない嫁が、どうしてあれほど憎いのか俺には解らぬ。
お前はこうなるとまるで子供のように手もつけられず、すべてのものを焼き尽くそうとした。
正月と盆、毎年伊藤家では一家親族が寄り集まって楽しい顔合わせをする例となっているのが、
お前ゆえにこの一門の集合はなんだか一年の厄日のごとくなってしまった。
遠い九州へ来て誰も味方がなくてはいつまでも寂しかろう、
どうすればお前の心持ちを自分の家にしっくり合うようにすることができるかと、
これにはかなり心を砕いた。
そしてお前には、妹や娘達の養子を探させた。
お前の眼鏡にかなってお前の味方となるような養子を入れたら良いと思ったからだ。
その結果、初枝には鉄五郎を、静子には秀三郎を、いずれもお前が探してきて、
俺はそれに一も二もなく賛成して家に入れることになったのではないか。

お前のヒステリーは、
お前の趣味性を満足させられるだけの話相手のない幸袋の家で最も多く起った。
その点博多にはお友達も多いしいくらか気が紛れてよかろうと思って、
あの天神町の家を建築してそれに移そうと考えたのだ。
お前が浄めの間が欲しいと言うから、立派な祭壇もこしらえてやった。
そしてこの建物もお前の気の済むよう、
お前の好きなお前の眼鏡にかなって家へ来た静子の養子秀三郎の名義にしてやった。
それからなおお前は京都にも一軒家が欲しいと言うから、
今お里のやっている伊里の建物をお前の名義にしてやったではないか。

お前が寂しがるから、お前の入れてくれという女中はたいがい家に入れた。
それもみなお前のヒステリーを起こさないために、
努めて俺はそういうことには極めて温順であった。
死んだゆうのことも、元を言えばお前の勧めから家へ入れることになったのだ。
亡くなったおゆうのことも、はじめはお前が寂しいと言うからお前の侍女として家へ入れた。
おゆうが来てからは少しはお前のヒステリーも治ったようだった。
歳は若いけれどおゆうは怜悧な女で、よくお前と俺との間の調和を取ってくれた。
お前に代ってよく俺にかしづく一方、お前のためにもよい女房であったに違いない。
おゆうのためにどのぐらい家庭が円滑に行ったことかしれない。
お前の極端な好悪の激しい性格、そして物を信じやすい情に弱い危険な性分、
おゆうはそこをよく飲み込んでいた。

俺は決して品行方正であるとは言わない。
しかし何等の愛情が無く自分を自分から人形だという看板を上げている病的な妻のみを擁して、
家庭の満足ということは得られるものではない。
そしてお前はまた俺にそういう所業を当然のことのようにして絶えず勧めたではないか。
今の舟子のことなども、もう止したらと言うのを、
おゆうもいないしどうか私の話相手にしてと頼むから、
お前の良いようにさせたのだ。
お前はそれを金力を持って女を虐げるものだと言っている。
俺自身の考えではない、お前こそ一人の女を犠牲にして虐げ泣かせ、
心にもない跪きをさせているのではないか。

俺はお前が来てこの年まで、お前のわがままやヒステリーには困りながら、
世間に向かってお前のことを爪の先ほども悪く吹聴したことはない。
それだのにお前は、世間のどの人よりも俺を罵り、
どの人よりも悪い仇敵として呪っていたではないか。
お前の雅号にしている白蓮!
お前はある人に、伊藤のような石炭掘りの妻にこそなれ、伊藤の家のような泥田の中におれ、
我こそは濁りに染まぬ白蓮という意味でつけたのだといったという、その自尊心。
そういう結婚式の第一日に見せられた自尊心ないし持病のヒステリーは
この十年間どのくらい俺を苦しめたことと思う!

お前は自分の歌集を出したいと言って俺に頼んだ。その時すぐ俺は出版費として600円やった。
夫に泣きついてやっと出してもらった書籍の内容を、俺は今ここに言いたくない。
夫として罵られながら呪われながらなお、お前の好きなことだお前が偉くなることだ、
そう思ってじっと堪えた事も一度や二度ではない。
俺はお前の好きな文学についての仕事にはまるで無干渉であった。
どれだけ時間を費やそうとどんなことをしようと、少しもかまわず放任主義を取っていた。
もとより趣味が違うのだから、干渉したところで解ろうはずがないとも思ったからだ。
俺が自分の今までの不品行であったことを自覚すればこそ、
お前が絶えず若い男と交際し、時には世間を憚るような所業までも黙って傍らから眺めていた。

お前は虚偽の生活を去って真実に就く時が来たというが、
十年!十年!と一口にいうけれど十年間の夫婦生活が虚偽のみで送られるものでもあるまい。
長い年月は虚偽もまた真実と同様になるものだ。
嫌なものなら、一月にしても去ることができる。
何のために十年という長い忍従が必要だったか。
お前は立派そうに「罪ならぬ罪を犯すことを怖れる」というが、
そういう罪を俺に対して怖れるほどの真純な心がお前にあったかどうか。
俺はどうかして何とかして、お前のひねくれた心を真実の心持ちに目覚めさせたい、
お前の持っていた無邪気さを生き生きとさせてやりたいと今日まで努力したが、
それもみな水泡に帰した。

十年間は夢であった。この十年間は俺にとって一生涯の一番辛いものだった。
お前は八郎に柳原家の妾腹の娘を入れて家の相続をさせようと建議したが、
俺がこれを聞かなかったことにもかなりな不平を持っている。
しかしその時俺の腹には、
もうどんなことがあっても平民の子に華族の嫁はもらわないという決心がついていたのだ。

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*事件から10日後の11月01日午後7時、両家の親族会議が開かれた。

仲介は奥平昌恭伯爵 継母柳原初子の甥

柳原家側は、
柳原義光伯爵 白蓮の兄
柳原博光    義光の娘福子の婿養子
入江為守子爵 姉信子の夫
三室戸子爵

伊藤家側は、
伊藤鉄五郎 伝右衛門の妹初枝の夫
斯波与七郎 伝右衛門の娘静子の夫秀三郎の叔父
赤間嘉之助 伊藤家支配人
麻生太吉  炭鉱王・伝右衛門の友人

決定事項は以下の3点
●離婚
●伊藤家に置いてきた白蓮の宝石・衣類・書籍その他一切の調度品は、
柳原家に託して白蓮本人に送ること。
●白蓮名義の土地・建物・株券などは、全部名義を変更して伊藤家に返還すること。


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白蓮&宮崎龍介の娘 宮崎蕗苳

母は伊藤さんの家を出る時、嫁入り道具はすべて置いてきました。
でも後で伊藤さんから、宝石や貴金属・着物・家具・生活用品などたくさん送ってきました。
宝石・貴金属はお返ししましたが、
嫁ぐ際に持参したタンスや長持ち・鏡台や書籍類・人形などは戻していただくようにしました。
特にタンスは春夏秋冬の柄行で、ずっと愛用していた物でした。
長持ち2棹は材質が良かったのでこちらで洋服箪笥に作り替え、まだ使っております。
また、手あぶりは今も座敷にあります。

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# by vMUGIv | 2015-02-17 00:00 | 大正

大正三美人 柳原白蓮 その3

◆明治41年 23歳 東洋英和女学校入学
◆明治44年 26歳 伊藤伝右衛門50歳と再婚、福岡県へ
◆大正04年 30歳 別府別邸竣工、サロンの女王となる




■2番目の夫 伊藤伝右衛門 炭鉱王 夫50歳&妻26歳で再婚・夫60歳&妻36歳で離婚
1861-1947 万延01-昭和22 86歳没

●伊藤伝右衛門との間に子供ナシ
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■前妻 士族辻徳八の娘 ハル 夫29歳&妻24歳で結婚・夫50歳&妻45歳で死別・子供ナシ
(年齢順)
■養子  金次 伝右衛門の甥/妹キタの三男 深川製磁社長の娘艶子と結婚 
■異母妹 初枝 伝右衛門の父伝六&ユキとの庶子 山沢男爵の子鉄五郎と結婚
■庶子  静子 伝右衛門&キヨとの庶子 堀井秀三郎と結婚
■養子  八郎 伝右衛門の妹/妹キタの八男 冷泉蓮子と結婚


★幸袋本邸

★天神別邸 敷地3000坪 建物500坪 通称:あかがね御殿

★別府別荘 敷地3540坪 建物6棟300坪


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伝右衛門の養子 伊藤八郎

伝右衛門は抜群の記憶力の人でした。
メモをしなくても頭の中にすべて記されていて、判断は慎重そのものでしたね。
よく豪快で果断といった評価がされているようですが、
慎重に見通しをつけて次々に手を打つ、実務肌の父です。
学校に行かずとも、生活の資を得る日常そのものが学問だったようです。
その点 母の燁子の文学の世界は、父には到底理解できぬことだったように思われます。

明治44年03月、当時私は小学校1年の終わり頃である。
継母〔燁子〕が父に連れられて幸袋に初めて来た日のことを記憶している。
私は誰かに連れられて直方まで迎えに行った。
久留米絣の着物に小倉の袴、これは当時男の子の礼服であった。
父が「これが八郎」と言ったようだったが、
継母は口の中で「そう」とかいうようなつぶやきだけで表情も崩さず何も声もかけてくれなかった。
私も無愛想な顔で、じっと新しい継母となる人の顔を見ていたようである。

家族間の呼び方はそれまでと一変させられた。
「おとっちゃん」「おっかしゃん」は「お父さん」「お母さん」に、
「あんちゃん」「あねしゃん」は「兄さん」「姉さん」に。
言葉遣いは使用人に対しては大変厳しかった。
父母をはじめ家族のことは「お上」で、使用人は「お下」というように厳しくしつけられ、
女中は父母が寝室に入ると正座してフスマを閉め、
「おやすみあそばせ」と額を畳につくぐらいに下げて言っていた。

父が胃潰瘍で天神町の別邸で療養していたのは、その翌年の春か夏であったろう。
私の勝手な想像を加えると、継母と結婚して一年前後の頃にあたる。
継母は継母なりにまったく異質の地域と家庭に一人で嫁して大変な苦心があったであろうし、
父は父として外見的には華やかな結婚をしたものの、
継母と家庭、また家庭を取り巻く周囲との間で大変な心労をしたのであろう。
顔に出す者はいなかったであろうが、
周囲の人々は一人としてこの結婚を内心祝福してはいなかったと思う。
若い頃の父は表面に優しさを出すようなところはなかったが、
内心はナイーブなところがあって、このことでも心労していたことと思う。

〔その後伝右衛門は〕結婚することはなかった。
口には出さない人だったが、白蓮事件で懲りたのかもしれない。
京都の野口さととの関係は終生続いたが、それはいわゆる妾として終わった。

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伊藤伝右衛門の母方のイトコ 桑原源次郎

白蓮さんの家出に対して、白蓮さんの手記に
「10年に渡ってついに心からの味方を得られなかったその第一が夫からの愛情」
とあったそうだが、それは白蓮さんに大きな責任があった。
というのが、白蓮さんが勧められて京都の野口おゆうさんと里子さんを伊藤家に呼び寄せ、
自分が夫に充分尽くし得ない夜の務めを公然と任せてしまってあった。
白蓮さんをしてこんなはめに陥れたものは何であったか。
それは短歌そのものではなかったかと思う。
白蓮さんの自記に「私は飾りものか」「主人は味方と思っていたのに」とあるも、
主人より何より歌作りが一番可愛かったもので、「悲しき妻の座」とも言われているが、
実はそれが自慢であり、身上であり、詩作上の一枚看板ではなかったかと思う。

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大阪毎日新聞 福岡支局 新聞記者 北尾鐐之助

*北尾夫妻は福岡市内のあかがね御殿のすぐ近所に住んでいて、
白蓮は本邸から福岡へ出てくるとまず北尾の家に立ち寄るのが習慣だった。

彼女の周囲には絶えず何者かの異性がいた。
甘い手紙が絶えず彼女の空虚な心に軽い満足を与えた。
彼女はそれをまた、そういう男達の手紙を平気で人に見せた。
私など、ずいぶんだと思われる物をしばしば見せつけられた。
中には知名の人がたくさんあった。
今度の宮崎氏のものも実はその一つであった。
「今の若い人達には困ってしまう」と、思い上がったようにつぶやいたことを私は記憶している。

彼女を取り巻く異性も始終変わっていた。ほとんど枚挙にいとまがなかった。
「あまり多くてどれがどれやらわからぬから、結局良いじゃないの」
こんなことも、ある時 放言していた。
年来の激しい復讐心、悪魔のような残虐性をいらだたせている一方では、
すべてのものに愛を及ぼそうという慈悲心、
女性らしい優しい心持ちとが始終あふれている人であった。

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*筑紫の女王と呼ばれた白蓮は、取り巻きと恋愛遊戯を繰り広げた。
医学博士の久保猪之吉、白蓮は彼に恋文を送り続けるが、
妻のいる久保は結局白蓮と駆け落ちはしなかった。
陸軍中尉の藤井民助、白蓮は彼に恋文を送り続けるが、
婚約者がいる上に姦通罪を恐れた藤井は結局白蓮と駆け落ちはしなかった。


★野田茂重 夫は福岡鉱務署野田勇


★久保より江 夫は九州帝大耳鼻咽喉科教授久保猪之吉
松山生まれ。伯母の家に下宿していた夏目漱石に可愛がられ、正岡子規にも紹介される。
上京してからは泉鏡花とも交流があった。夫猪之吉は歌人としても有名であった。


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大久保猪之吉の弟子 日本医科大学名誉教授 大藤敏三
 
久保先生のお宅が、仏壇のローソクの火を猫が倒したことが原因で全焼した時がありましてね。
私はすぐに焼け跡に駆けつけたのです。
その折、半分黒コゲになった手紙の束を発見しました。
相当に分厚い束で、久保先生の紛れもない筆跡、それも白蓮さんからの手紙に応えたものです。
ほどけばボロボロになってしまいそうな紙ですから大事に保存してありますが、
公表はできないのです。

その書簡、久保先生の文面から察しますと、
切々とした白蓮さんからの手紙が寄せられていて、
それに対して先生の香りある筆で淡々と抑えた返事が記されておりましてね。
その間の心のやりとりは、確かにうかがえるような気がいたします。

宮崎さんとのことが起こって白蓮さんが身辺を整理された時に、
ひとまとめにお返しになられた書簡ではないでしょうか。

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伝右衛門の孫/静子の子 伊藤伝之祐

白蓮が去ってからも、白蓮が女中らにしつけた「こんばんは」「おはよう」「ごきげんよう」
という公家言葉はずっと残っていました。
食事の洋食、オートミール・トースト・紅茶などもそうでしたね。

伝右衛門の趣味といえば義太夫でしたから、相当な域に達していたと思います。
昭和のはじめにNHK福岡放送局のラジオ放送が開局しますが、
伝右衛門はその記念放送に義太夫で出演したことがあります。
自分で字を書かないし読めもしないということで世間に通していましたが、
義太夫の台本は読んでいましたね。

野口さとは伝右衛門唯一の女性と言えるでしょう。
女優の太地喜和子に似たふくよかな京美人で、伝右衛門とは肝胆相照らす仲だったようです。
結果から見れば、燁子・伝右衛門双方に良かったと思います。

金次さん・八郎さんは炭鉱一筋で大正鉱業、父の秀三郎と私は幸袋工作所ということで、
伝右衛門はそれぞれの性格をよく見抜いていたようです。
炭鉱は掘ってしまえばいつまであるかわからん、
工作所はコツコツやればずっとあると言っていましたが、
炭鉱の行く末を見ていたのでしょうか。

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# by vMUGIv | 2015-02-16 00:00 | 大正

大正三美人 柳原白蓮 その2

◆明治18年 10月15日白蓮誕生
◆明治27年 09歳 実父柳原前光44歳没
◆明治31年 13歳 学習院入学
◆明治33年 15歳 北小路資武子爵22歳と結婚
◆明治34年 16歳 息子功光を生む、北小路家が京都へ移住
◆明治38年 20歳 北小路資武子爵27歳と離婚


■最初の夫 北小路資武子爵 夫22歳&妻15歳で結婚・夫27歳&妻20歳で離婚
1878-1942 明治11-昭和17 64歳没

●北小路との間に息子功光


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白蓮&北小路資武子爵の息子 北小路功光

柳原の家は初子〔白蓮の父柳原前光の本妻〕でもっていたようなものだ。
初子の実家は宇和島の伊達家で、大変な金持ちだ。
公卿が貧乏だから伊藤伝右衛門と燁子の結婚があったように言うけど、ありゃ嘘だね。
柳原は豊かだったよ。金に困るようなことは何もなかった。

まだ子供みたいな母親だから育てられるわけがないさ。
燁子は文学少女で、わがままで、亭主が気に入らないときている。
5歳の私を婚家に置いてサッサと実家へ戻ってしまった。

中学に行くようになって、私は柳原の家から学習院に通った。
別れっぱなしに母子を会わせようと義光夫妻〔白蓮の兄夫婦〕が心を砕いてくれて。
あの頃はもう燁子は伊藤家の人になっていたからやっとお膳立てができて、
やっと親子対面の感動の場面があったかと言うと、まるでなかった。
冷めてた。実に冷たかった。

出奔の頃、燁子の小遣いが少ないとかいうミミッチイ話が噂されただろ。
伝右衛門と一緒の暮らしでは、現金なんか一文も要らないやね。
全部ツケでいいのさ。車で乗りつけて、物を買って、ツケてくりゃいいんだよ。

あの女、始終ボーイフレンドがいたなあ。
文士の出入りが華やかで、取り巻きも大勢いたし。
龍介さんとの間の恋文運びを、息子の私にやらせたこともある。
天衣無縫というか、誰でも簡単に好きになり惚れ込んでしまう女だ。
妊娠しちまったから決心もついたんじゃないか。
とにかく逃げたかった、脱け出したかった、誰でもよかった。
あれで子供が出来てなかったら、また浮気で済んだかもしれないさ。
それが済まなくなったから居直った、と私は解釈している。

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# by vMUGIv | 2015-02-15 00:00 | 大正


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